タイトル:双えびす大壺
作家 :牟田 陽日
会場 :日本橋三越
展示会 :牟田陽日展「絵の器」
購入日 :2022年3月2日
サイズ :32×35×高さ27.4cm
種別 :磁器
革新的な波濤の表現に目を奪われた。絵画として鑑賞できる陶磁器がついに出現したのである。波と言えば葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」であろう。触手のように延びる波頭が印象的である。富士山を包むような構図は素晴らしいが、版画においては、飛沫や水煙、長短のうねり、海面及び海中といった部分に応じて質感を変えるのは難しい。「双えびす大壺」の波濤は複雑である。特筆すべきは鯨によってもたらされた波の飛沫である。盛り上がった飛沫は触手のように縦横無尽に伸び、宙を舞う。表面を漂う泡は荒れた海の特徴を適確に捉えている。「波の花」とも呼ばれるが、岩場に打ち付けられる波の花を眺めると美しさよりも怖さが先立つ。そもそも絵画でこの泡を描くのは珍しい。この作品の波の花は見所の一つである。海の色彩に注目してみよう。黄金に輝く鯨の近くは、海水が攪拌され灰色を少し混ぜた薄い青緑の深川鼠と呼ばれる色に近い。近寄って観察すると波は細い線が引かれ、流れを補完していることがわかる。過度に線を用いるのではなく、釉薬の照りを意識しながら、仄かに目に映る程度に抑えるのは巧みである。手前に突き出した部分は濃紺の海である。深海から湧き上がってきたのだろうか、色彩の対比によって雄大に広がる海を想像させる。さらに臨場感を高めているのが水煙である。水墨画のような雰囲気ながら、黒や灰色の粒子で描かれており、大気中の砂や塵、埃はリアリズムの追求に他ならない。色彩の調和という点でも水煙は効果的である。黒・灰色を散らすことによって白い飛沫が誇張されるとともに、空に深みが出てくる。飛沫、波の花、海面、水煙のマチエールはそれぞれ特徴を持ち、かつ一体となって類を見ない波濤が表現されている。
この作品は両面に鯨と波濤が描かれており、両者の波を比較するとどうなるか。金鯨(表面とする)は浮上した場面であるのに対し、黒鯨(裏面とする)はブリーチングと呼ばれるジャンプをした瞬間である。そのため、大胆に高く飛沫が散っている。表面の波は横揺れが強く、海面が揺さぶられている。一方、裏面の波は高く荒れ、より泡立っている。泡は細かい線で輪郭が強調されている部分があることにも気づいた。この泡の流れは、ブリーチングする鯨の胸びれの動きに呼応しており、ジャンプする前の時間の流れを感じさせる。また、表面は海が濃紺の部分があるが、裏面は鯨のうねりによって、薄い灰色が混じったくすんだ色が大半を占めている。
次に主役である鯨に注目してみよう。種別は意識しているかは不明であるが、体型からすればザトウクジラに近い。ザトウクジラは日本では小笠原諸島や南西諸島で見られ、胸びれが長く、ブリーチングをよく行う習性を持つ。もちろん金色の鯨は存在せず、太陽により濡れた体表が輝いているのだろう。ただ、黄金に輝く鯨に違和感はない。古来、この作品のタイトルのように鯨は「えびす」とも呼ばれ神様として崇められていた。大海原に生きる巨大な鯨は、誰もが畏怖せざるを得ない反面、豊穣の海を象徴する存在でもある。ならば黄金に輝くことはむしろ自然の成り行きかもしれない。さて、この鯨の描き方で注目すべきは凹凸のある体表である。実際の鯨の体表はフジツボが付着し、口の周りには毛が硬化した小瘤が見られ、体全体には多くの傷痕を持つ。この作品では盛り上げの技法により小瘤が表現されているほか、赤い線を効果的に用いている。
また、ザトウクジラを含むヒゲクジラ類は名前のとおりヒゲが特徴である。クジラヒゲはプランクトン等の餌を濾しとるフィルターの役割を果たす。さらに下顎から腹にかけて畝と呼ばれる縦筋を持つ。この畝を伸ばし大量の海水を飲み込んだ後、畝を縮ませ海水を放出する際にヒゲで餌を濾しとるのである。ヒゲと畝の細い線は実に丁寧。ヒゲは上から下に薄い黄色の線を幾本も引く。しかも上顎に近い部分は全体的に濃くなっているのだ。畝は白い線によって立体感が表現されている。写実性を重視した部分であろう。一方、瞳はフィクションを入れることで、感情を持った生き物であることを強調していると思われる。瞳は橙、水色、黒と三つの円で構成されている。その虚空を見上げる視線に鑑賞者の視線も自然に誘導されてしまう。
表面は鯨の背後には、日輪が描かれている。赤というより渋みのある紅に近い。明度が高いとやや稚拙に見える恐れがある。ちょうど壺の形がせせり上がる部分であり、単純な円ではなく「ゆらぎ」が美しい。また、飛沫によって赤が強まる効果もあろう。太陽よりも日輪という言葉が似合う。世間一般のイメージとしては、太陽はより自然科学的な用語である。太陽は白く輝き周囲はぼやけた感じになるはず。日輪は円という形を重視し、自然を象徴的に表現するものである。えびす壺には日輪が相応しい。作者によると僅かにグラデーションを入れているということである。壺の形による明るさの変化もあるため、直ぐには判別しにくいが鯨に近い部分はややオレンジを感じさせる。色の用語としては、真朱と銀朱ということだろうか。
では裏面の鯨に移ろう。黒鯨の肌には無数の傷痕があり、特に目の上の傷は痛々しい。黒い体表であるため、赤と金の縁取りによって傷痕が目立つ。胸びれの近くと顎からやや上あたりに穴が開けられている。ブリーチングの際に、胸びれによって空を穿ったかのようである。また、口先には金色の塊が舞っている。鯨によって海中にある物体が飛び出たのだろうか。質感による感覚的な表現が巧みである。
続いては「形」に着目してみよう。平面である絵画と違い、形と絵を組み合わせて鑑賞するのが陶磁器の醍醐味である。表裏とも全体的としては三角形で富士山を連想させる姿をしている。口、肩、腰がせせりでることで、優美さと雄大さを兼ね備えた佇まいと言えよう。大型の壺を安定させるため、底面が広く取られているが、高台から腰にかけての更なる広がりが特徴である。浮上する鯨によって海面が盛り上がったような印象を与えてくれる。もし底面全体が地に接してしまえば、迫力は半減してしまっただろう。海原に突如として出現した吉祥たる黄金の鯨、その舞台に相応しい形である。
裏面と形に違いはあるのだろうか。基本的には同じ三角形であるが、表面(金鯨)は全体的に抑揚が付けられている。鯨の胸びれの付け根辺りが盛り上がっているのに対し、左の空や鯨の畝の辺りは凹んでいる。少し右に寄って鑑賞すると胴体は陰に隠れてしまう。一方、裏面(黒鯨)は抑揚が抑えられ、ブリーチングする鯨を真正面に捉えることができる。表は凹凸によって光の加減が変わるため、金色の鯨や日輪の輝き方を楽しむ趣向であろう。また、浮上する鯨をよりダイナミックに表現することができる。反対に裏に凹凸をつけすぎると鯨の動きが見えにくくなってしまう。あえて形の抑揚を抑えることで、ブリーチングする鯨の姿と飛び散る飛沫に焦点を当てる試みと思われる。
せせりでた肩は鯨による大気のうねりを感じさせてくれる。また、鑑賞者の視線が多面的に広がることで、飛沫や水煙の迫力が増す。大きく二つに割れた口は、波濤の勢いが天を衝くかのようで爽快である。水煙は黒く輝き、金色の欠片や飛沫が集中することで、思わず中を覗きたくなる。角度によっては僅かに深海を思わせる濃藍の世界が顔を出す。さらに手を入れてみたい衝動に駆られる。ちょうど手が入る大きさである。磁器によって壺の中の空気は冷やされているのか、なんとも心地良い。
上から見下ろすと腰の広がりは思ったより円環であることが分かった。逆にオーバーハングする肩は四角形に近い。極端に言えば○と□を重ねていることになるが、絵を描くための支持体として形作られているのかもしれない。鑑賞の主体は両面の鯨であるが、壺という面積からすると両脇も広いことになる。いわば日本画の余白のような両脇をどのように活かすがポイントになる。側面の一方は水煙が水墨画のように立ち上がり、やや静けさが感じられる。もう片方は一つの波が大きく、空に群青の点が散っているのが特徴である。表と裏を上手く繋いでいる。また、側面の肩は金鯨から黒鯨にかけて傾斜が付けられていることが分かった。波浪の勢いを感じさせるとともに、一様には捉えきれない海の広がりに圧倒されてしまう。表面と裏面から構成されるが一連の循環が生み出されている。富士山のような安定した整った美をベースとしながら、肩や口の激しい抑揚によってその形を崩すことで、変わりゆく自然の雄大さを表現しているのかもしれない。
ところで、絵画は構図から鑑賞していくと理解しやすい。構図という点でこの「絵画」をあらためて鑑賞してみよう。鯨の向きと壺の高く飛び出た口が対になっている、つまり、ジグザグを描くように構成されている。さらに金鯨の波の向きもこのジグザグに繋がっている。黒鯨も壺の口の向きとジグザグの関係にある。また、このライン上に穴が穿たれていることもわかる。偶然かもしれないが、絶妙な位置と言えよう。表面と異なり、裏面の波が上向きなのは高さを強調している。
最後に、この作品は金鯨がハレ(祝祭)、黒鯨はケ(日常)を意味しているということである。優劣はなく、どちらも眺めていて飽きることがない。最後に、従来の焼き物の絵は、民藝の素朴さ、鍋島に代表される装飾性、赤絵の繊細な文様が主流であった。マイセンやデルフトのポーセリンペインティングは水彩画のように鮮やかであるが、華美である一方で絵画が持つ人間的な感情性には乏しいように感じられる。この作品からは磁器と絵柄の美しさに圧倒されるだけでなく、陶酔を超えた先にある畏怖や神秘性といった藝術が持つ根源的な力を放っている。(2022年5月15日)