タイトル:妖怪酒(ぐい吞み)
作家 :牟田 陽日
展示会 :牟田陽日展「海鳴り」
会場 :日本橋三越
購入日 :2025年3月30日
種別 :陶器
サイズ :10.5×10.0×3.2cm
てのひらの百鬼夜行
ここは地獄の片隅か、それとも山奥のあばら家か。私たちが寝静まった後、あやかしたちは密かに宴会に興じているのかもしれません。それにしても1、2、3…いったい幾つの妖怪が描かれているのでしょうか。付喪神に獣と種類はさまざま。しかも寿司を載せた小皿という付喪神を超越したキャラクターまで登場しています。一人(?)ずつ数えてみましょう。
○ザ妖怪:鬼
○道具系(付喪神):とっくり、土鍋、お盆、碗
○動物系:魚、キツネ、鳥、うなぎ、亀(すっぽん)
○食べ物系:うどん、寿司
直径10cm程度の器になんと12体もの妖怪が描かれていました。妖怪といえば鬼。大きな酒甕を自ら持ち、豪快に盃を傾けています。よく見ると足を投げ出し、お盆の付喪神は驚いて両手を上げていますね。お盆は太鼓持ちの役割を担っていると感じました。鬼の隣に座る染付のとっくりはお酌係。扇子を振って音頭を取っています。酒甕が空になったら自らの首を傾けてお酒を注ぐのでしょうか。お酒が尽きることはありません。ちなみに右目は焼きの際に生じた気泡を利用しているようです。ちょっと視点が定まらない目つきが酔いを暗示しているように感じます。鯛やネギなどの野菜が煮立つ鍋にも目があることから付喪神の類。炎に隠れるように描かれている碗(お猪口?)は、遅れてはならぬと宴会に馳せ参じたようです。
寿司やうどんというメニューを妖怪にするのも愉快。百鬼夜行絵巻は幾つもの系統があるものの料理そのものが妖怪になるのは珍しい。熟鮓は平安時代には食されていたようですが、私たちがイメージする寿司の形がいつ頃完成したのかは興味深いです。本作では皿の上に箸が添えられているのも可愛い。うどんに追いかけられているのか、へっぴり腰の鮒寿司がフナに助けを求めているようにも見えてきました。調理されたメニューが材料に助けを求めるのはなんだか滑稽ですね。魚の妖怪はヒゲがないのでコイではなくフナと推測しました。また、近くにキツネがいるだけに鮒寿司ではなく、いなり寿司かもしれません。うどんの妖怪は具沢山ですね。ピンク色の具はかまぼこに見えてきました。
動物系ではフナに加えて、ウナギ、キツネが描かれています。土鍋を載せているのは亀の類と思われますが、金色に輝いているのは炎の力でしょうか。ぐい吞みの中心に金彩を施すことで、豪勢な感じになりますね。すっぽんは地方によっては妖怪視されてきたようです。本作では宴に相応しい吉兆の妖怪という気がしました。鳥は鶴のような姿をしていますが、黄色っぽいです。百鬼夜行絵巻には”よだれかけ”のようなものを首に巻いて飛ぶ可愛らしい妖怪が描かれています。鳥山石燕の「百鬼徒然袋」には《松明丸》という火を携えた怪鳥が登場します。本作では炎がテーマですので相性は良いのですが、淡麗な感じで描かれているので、どちらとも違いそうです。濃いキャラの妖怪や付喪神が集う中、清々しい清涼剤のような役割と感じました。
百鬼夜行に描かれる妖怪[1]
松明丸[2]
絵画として楽しむ
さて、絵画という視点で本作を考える際、ポイントになるのが湾曲した盃という形にあります。絵画は中心から見ていくのが基本になりますが、盃は丸いうえに湾曲しているため、より見込みの中心に視線が引き寄せられます。また、絵画は正面から鑑賞しますが、普通、盃を真上から見ることはしません。斜め上から眺めます。本作では図案から向きも自ずと決まってきます。実際にお酒が注がれた状態をイメージながら鑑賞してみましょう。見込みの中心にいる土鍋と亀を起点に、ボスキャラである鬼が目に飛び込んできます。全体的に赤や茶系であるため、とっくりの白も目立ちますね。お盆の黒も対比として効いていることに気づきました。白と黒の綱引きのようなものです。自然と盃を揺らしてしまうはず。揺らめく酒を眺めながら、鑑賞者(呑み人)は盃の周縁へと視線が移っていくでしょう。
隠れたキャラがいないかと探すように鳥、碗、うどん? 寿司? と予想外のキャラクターに戸惑いながらキツネとうなぎが現れました。キツネの尻尾とウナギがクロスしているのも良いですね。図案に抑揚が生まれます。そしてフナへと進んでいきます。フナの鱗を見てください。実に細やかでグラデーションが美しい。黄色と金色の市松模様はよく見ると朱色の線で縁取られています。足の筋肉も絶妙の描き方で今回登場する妖怪の中でも完成度が高い。しかしながら見込みの上部に描かれているため、意外と目につきにくいのが粋です。この図案を平面に落とし込むと見つける楽しさが失われかねません。絵画のキャンバスでもっとも小さい0号(18×14cm)よりも小さいサイズであるにもかかわらず、広がりを感じさせるのは細やかさだけでなく、盃の形を活かしていることにあります。百鬼夜行の巻き物を捲るように盃の舞台を鑑賞していくのが、この作品の醍醐味です。
だんだんと酔いが回ってきました。こうなると作品の解釈も一つ穿った説を唱えたくなるもの。あらためて構図を分析してみることに。宴会を仕切っているのは鬼であることは間違いありません。とっくりもお盆も鬼のご機嫌を取っているように見えます。鳥や碗も鬼に向かっていますし、フナは鬼を楽しませるように踊っています。亀とウナギも鬼を見つめていますね。しかし一人だけ鬼を見ていないものがいます。そうキツネです! 何故かキツネは後ろを振り向いています。しかもどこか冷めた表情。水玉のほっかむりも怪しい。もしかするとキツネは鬼退治の手引きをしているのでは…。ヤマトタケルがクマソを討ち取るかの如く、ホロフェルネスの首を斬るユディトの如く桃太郎を手引きしているのかもしれません。宴もたけなわ、鬼の運命はいかに…真相は藪の中ですが、酔いを醒まして冷静に観察しますと、振り向くというアクションはリズムを生み、尻尾と呼応させることで、構図を整えるというのが正解のようです。
上絵付とエナメル
少し脱線して、やきののの色彩について考えてみたいと思います。国立西洋美術館では「梶コレクション展 色彩の宝石、エマーユの美」という小企画展が2025年に開催されていました。エマーユはフランス語で、英語ならエナメル、中国では琺瑯、日本なら七宝と呼ばれる技法です。私はエマーユの展示を見て驚嘆しました。豊富な色彩、グラデーションによる陰影は油絵と遜色がないほどリアルな情景を表現しています。柿右衛門様式など日本の陶磁器の上絵付も素晴らしいですが、写実性という点では黒船襲来のようなインパクトがあります。エナメルとは何ものか、辞書には「金属・陶器・ガラス器などの表面に焼きつけるガラス質の塗料」[3] と解説されていました。エナメルの色となる顔料を調べると例えばクロムやマンガン、鉄が出てきます。ここで素朴な疑問。上絵付で用いられる釉薬も顔料は同じような金属を含み、ガラス質を帯びています。ではエナメルと上絵付の釉薬は何が違うのでしょうか、詳しい友人に尋ねてみました。
国立西洋美術館 梶コレクション
柿右衛門様式 戸栗美術館所蔵(古陶磁にあらわれる「人間模様」展)
エナメルも上絵付の釉薬もガラス質で発色に金属を用いる。基本的な成分は同じだが、上絵付は焼成温度を変えて色がぼやけなくしているのに対して、エナメルは釉薬に溶け込ませることでグラデーションを可能にした。上絵付けは、釉薬を塗った上から金属を含むガラス質の成分を筆で塗って焼き付けることで部分的に色を出す技法。上絵具は比較的低い温度で溶けるように調整され、上絵付を焼き付ける温度では下地の釉薬は溶けないので上絵具の色は釉薬に混ざることなく、明瞭な線が引ける。九谷の赤絵線描のような細い線は、下地の釉薬に溶け込んだらぼやけるどころか消えてしまう。一方、エナメルは白いガラスの粉を釉薬のように全面に施して、その上から同じ白いガラスに金属を混ぜたものを塗ることで、部分的に釉薬に溶け込んでグラデーション、すなわち豊富な色調を可能にした。ちなみにエナメルは釉薬としてはフリットと呼ばれるものの一つ。広い意味ではエナメルは釉薬の一種とみなせるし、絵具の一種(溶け込むので上絵の具というよりイングレーズと言う方が正確かも)ともみなせるということでした。
なかなか難しい話ですが、見る側、すなわち作品から考えると、西洋画と日本画の関係に似ている気がしました。キャンバスや板に描かれる油絵は支持体の存在は目立ちません。よく見ると板なのかキャンバスなのかは分かりますし、キャンバスの粗密も違いますが、支持体で魅せるという概念は希薄です。日本画とは何かは頻繁に議論されるテーマで、概ね紙や絹本の支持体、膠という接着剤、岩絵の具という顔料に注目されることが多いのですが、さらに推し進めると、紙や絹本の魅力を損ねていないかが作品の良し悪しを左右する、すなわち紙や絹本という素材そのものが作品それ自体の魅力に直結している特徴があります。この西洋画と日本画の違いは民族的な気質ではなく、材料の性質に由来すると思われます。まず旧来の岩絵の具は混色しにくいという性質があります。そのため、画面全体を塗ると極彩色の派手な色合いになってしまいます。紙はそれ自体に繊細な色と風合いがあります。平安時代は装飾性に優れた唐紙が珍重されていました。紙は美術品として鑑賞の対象になりえると言って過言ではありません。また、絹本を用いるなら上品で優しい素材感を失わないことが大切です。西洋でエナメルが発展したのはエジプト・メソポタミア発祥とされるガラスの技術がヨーロッパで大きく開花したことが理由と思われます。西洋画と日本画と同じように、エナメルと上絵付もそれぞれの魅力があることがわかりました。
国立西洋美術館 梶コレクション
鍋島 東京国立博物館
牟田陽日さん《寿十二支重箱》
宴はまだまだ続きます
今回の作品に戻りましょう。長々と釉薬や日本画の話をしたのは、《妖怪酒》を絵画として鑑賞するとき、「絵画」の魅力の半分は志野焼きの肌にあるということです。これは肌が絵の魅力を引き出しているとも、絵が肌の魅力を引き出しているとも言えます。酒盛りをしていることから、何となく夜を想像させますが、この絵が黒い背景に描かれていたらどうでしょうか。やや興ざめしてしまったかもしれません。本作の基盤となる志野焼きの色合いを観察すると、上の方が濃い茶色をしており、下は薄く砂っぽい印象であることに気づきました。茶色い方が地面らしく見えるので、私なら天地を逆に絵を描いてしまいそうです。右上の焦げた茶色に注目してみましょう。この作品のポイントは炎にあります。炎を引き立たせるなら、背景は濃い茶色の方が相応しい。しかも焼け跡は闇を連想させ、炎をより強く明るく感じさせてくれます。志野焼きの肌の濃淡によって見事に闇と光を表現しているのです。キツネの後ろ足周辺は余白として機能しているのも見逃せません。盃という小さい世界ながら、志野焼きの薄く細やかな肌を見せることで、絵画としての深みが出てくるのです。
個展風景
作者は陶器に絵付けをする自らの技法を「陶地玉彩手」と名付けています。玉彩は玉絵の具。玉はガラスを意味するということでした。私は詳しい技法を理解するに至りませんが、陶の肌に負けないパンチ力のある絵付けであることは確かです。しかも鬼や魚の鱗は微妙なグラデーションがあり、平面的ではないリアリティを感じさせます。キツネの細やかな毛並みも巧みです。すっぽんの金彩によるアクセント。そして炎の表現が素晴らしい。塗るというより盛るに近く、随所に出現した炎が舞っている感覚になります。妖怪や付喪神と炎の表現を変えることで、絵画を超えた臨場感が生まれます。志野焼きの肌による空間が存在し、陶地玉彩手による妖怪や付喪神が描かれ、盛り上がった炎が出現するという三層構造と解釈することができるのではないでしょうか。エナメルの絵画的表現は、エナメルという統一された質感で表現されるのに対し、上絵付の絵画的表現は、焼き物の肌と上絵という多層的な構成になります。私たちが自然の環境で生きているように、この作品の妖怪や付喪神たちは志野焼きの肌を世界とし、自らとは異質な炎を眺め、宴に興じているわけです。なにやら親近感が湧いてきました。
お酒を飲みほしたところで裏側を眺めて見ましょう。妖怪や付喪神は描かれておらず、一つの炎と貝跡がアクセントになっています。貝跡とは焼成時に器の形を安定させるために固定した跡ですが、この作品では制作時の必要性よりも意匠としての側面が強いように思いました。表面に対して裏面をシンプルにしたのは志野焼きの肌をじっくりと鑑賞するためとも推測できます。裏面は地を連想させますが、異界という観点からはむしろ空を表現しているのかもしれません。裏面から異界に入り、表面の宴会に辿り着くと考えるのも面白いですね。ところで、本作品が出品された個展「海鳴り」は抽選方式でした。実は私は《妖怪酒》ではなく、茶碗の《老龍》を上位に応募していたのですが、当選したのは人気が高そうな《妖怪酒》でした。そろそろ年齢的にしっぽりと《老龍》かな...と思ったら、年甲斐もなくはしゃげというのが妖怪たちのお告げのようです!(2025年7月27日)
・[1]『百鬼夜行絵巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2541003 (参照 2025-07-27)
・[2]鳥山石燕豐房 画『百鬼徒然袋 3巻』[2],長野屋勘吉,文化2 [1805]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2551543 (参照 2025-07-27)
・[3]コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%81%88%E3%81%AA%E3%82%81%E3%82%8B-3145165