タイトル:渦潮
作家 :牟田 陽日
展示会 :日本の美術工芸を世界へ 特別展「工芸的美しさの行方-うつわ・包み・装飾」
会場 :TERRADA ART COMPLEX Ⅱ
画廊 :BONDED GALLERY
購入日 :2024年7月3日
種別 :磁器
サイズ :17×68×53cm
タイトル:渦潮
作家 :牟田 陽日
展示会 :日本の美術工芸を世界へ 特別展「工芸的美しさの行方-うつわ・包み・装飾」
会場 :TERRADA ART COMPLEX Ⅱ
画廊 :BONDED GALLERY
購入日 :2024年7月3日
種別 :磁器
サイズ :17×68×53cm
渦潮と言えば鳴門が有名であるが、そもそも渦潮はどのようにして発生するのだろうか。その原理は潮の満ち引きが影響している。地球の自転による遠心力と月の引力によって潮の満ち引きが発生する。海水は「潮」という大きな塊となり地表を揺らめいている。そして、満潮と干潮の流れがぶつかり合う等の条件を満たすと渦潮は発生する。もっとも大きな渦潮が発生する地形の条件を満たすのは珍しい。鳴門で大きな渦潮が発生するメカニズムは次のとおりである。太平洋側が満潮になると海水は四国と淡路が障壁となるため大阪湾に流れ込む。瀬戸内海が満潮になる頃には太平洋側は干潮となり、播磨灘に溜まった海水は狭い鳴門海峡を一気に通過し太平洋側に押し寄せる。鳴門海峡の海面の高低差は1.5メートルにもなるという。さらに鳴門海峡はV字型に深く窪んでいることから、海峡の中心はより速く、反対に浅瀬に近いところの流れは緩やかになる。その速度差が回転力となり渦潮が発生するのだ。そのため渦潮は常に発生しているわけではない。満潮と干潮は6時間ごとに繰り返すのでその刻限に見ることができる。しかも春と秋の大潮の頃により大きな渦潮が生まれる。
夕日と波
私がこの作品《渦潮》を見たとき、自然現象を超えた神秘的なエネルギーを感じた。渦に吸い込まれるのではなく、何かが沸き立ち生まれいずる感覚。それは国生み神話にも喩えられよう。古事記のイザナキとイザナミによりオノゴロ島が誕生する神話から私はこの作品の銘を《大八島》と名付けたい。古代の日本人も渦潮を見たときに同じような神秘的なエネルギーを感じたのではなかろうか。特定の刻限に発生する渦、その中でもより大きな渦潮が大地を押し上げ、幾つもの島を生み出したと想像しても不思議ではない。日本人が思う豊饒の海とは、魚介類等の海の幸だけではなく、万物の源が海に由来するという根源的なものと思える。それは万物の終わりは海に還るという思想にも繋がる。西洋の崇高という概念における理性に対する恐怖や畏怖という感情とも趣を異にする。海は始まりと終わりを象徴し、その意味では神の概念に近い。
それではこの作品を構造的に観察してみよう。まずは色彩である。濃紺、青、水色と主には三つのブルーに分けられる。もっとも明確な線引きされるわけではなく、連続的かつ段階的に変化している。白い波に挟まれれば色の見え方も変わり、釉薬による光の反射も色彩に影響を及ぼす。そのため一様に色彩を表現するのは難しく、本物の波を眺めるような色彩美がこの作品の魅力である。ところで、実際の渦潮を調べると、渦の中心は激しく回転するため白い波に覆われており、渦の周辺は水色に輝き、渦から離れるほど濃い青色をしていることが分かった。奥村土牛の《鳴門》、川端龍子《鳴門》とも渦潮それ自体は胡粉を用いた白を基調としている。一方、牟田陽日さんの《渦潮》では渦の中心に近いほど濃い青であり、周辺を淡い水色で描き、白い泡と波が渦を取り巻く構成になっている。つまり色彩は反転していることになる。しかし、この作品を見て違和感を持つ人はいないだろう。むしろ自然な印象を受けるのは、一般的には薄い色ほど軽く、濃い色ほど重いイメージが与えられるためである。では何故そもそも反転させたのであろうか。積極的な理由があるはずである。私が思うには、焼き物における「青の美しさ」を最大限に引き出すためということである。焼き物は絵画と違って色彩を自在にコントロールするのが難しい。テストピースを作成しても絵画のように描きながら色彩を調整することはできない。私が見てきた限り、焼き物において最も完成された色彩は青のように思う。その青の美しさにもっとも相応しい自然の姿は海である。すなわちこの作品は「青の美しさ」が海に仮託されていると思う。そして、渦潮という自然現象によって、人間の美に対する荒ぶる感情が頂点に達するのだ。
様々な青
もう一つ色彩で注目したいのは、もっとも濃い青はどこにあるのか、ということである。先に述べた色彩の観点からすれば、渦の中心がもっとも濃くなりそうである。しかし、写真の眺めでは中心からやや左側の場所がもっとも濃いように思う。仮に同じ色を配置しても、渦の中心は波が細かになるため、周囲の白によって色彩が薄く補正されるのかもしれない。左側は波の間隙を突くように群青が広がっている。意図したものかは不明であるが、これが面白い効果を生んでいる。もし渦の中心がもっとも濃い場合、鑑賞者の視線はあたかも渦に飲み込まれてしまう如くそこで完結してしまう。この作品の醍醐味である波の表現や周縁部の泡に目が届きにくい。渦の中心とは別に色彩の重みを与えることで、一旦吸い込まれた鑑賞者の視線は弾けるようにそこに向かって飛び出す。渦の中心と色彩の重みが架け橋となり、再び波の周辺を鑑賞するという流れが生み出される。また、回転する独楽が揺れ動くような緊張感をもたらす。ぶれることなく回転する独楽は静止しているのと同じに見えるが、少し指で触れると激しく揺らめいて回転する。回転と色彩という二つの中心によって、渦潮のエネルギーがより増幅して感じられる仕掛けになっている。
ギュスターヴ・クールベ《波》(島根県立美術館)にて2022年に撮影。西洋画を代表する波の表現
次に、波の表現を観察してみよう。おそらく多くの人はこの作品の波を装飾的でありながら写実的であると感じるに違いない。作者に尋ねたところ波の表現は葛飾北斎、曽我蕭白を参考にしているということであった。葛飾北斎の代表作である富嶽三十六景の一つである《神奈川沖浪裏》、小布施の北斎館にある上町祭屋台に描かれた《男浪図》《女浪図》、曽我蕭白では《群仙図屏風》や《波濤群鶴図》が参考になろう。なお、北斎は1760年生まれ、蕭白は1730年生まれであるから、波の系譜としては蕭白の方が先輩にあたる。両者の波を見比べると、くるりと湾曲した装飾的な線描という点は共通しているが、違いも目立つ。蕭白の波は植物のゼンマイ(薇)に似た形をしており、かなり攻めた表現である。一方、北斎の波は、手の指又は細胞の襞(ひだ)が何かを掴むような形をしている。江戸時代の小舟では転覆事故が頻繫に発生したはずであり、波の怖さを飛沫によって的確に表現したようにも思う。《神奈川沖浪裏》の船に乗る人たちは振り落とされないよう必死にしがみついている。意外にも北斎より蕭白の方が波をイメージとして捉え、大胆に意匠化しているのが興味深い。牟田陽日さんの《渦潮》をつぶさに観察するとゼンマイのような形と襞のような形がミックスされている。ゼンマイのような形をした波は渦に勢いをもたらす。そのエネルギーによって随所に飛沫が迸る。獲物を探すような襞の形に見る者は恐れ、立ちすくむ。飛沫は空を舞い、大きな波の泡とともに再び渦に吸い込まれていく。また、作品に近づくと単純に青く塗りつぶされているのではなく、黒い線が引かれていることに気づいた。水色に対しては線を灰色にして薄めている。遠目からでは判別し難いが、この細い線によって、渦潮の流れが補完されている。これは日本画における線の表現に類するものと考えられよう。
葛飾北斎《神奈川沖浪裏》 サントリー美術館「大英博物館 北斎」展にて2022年に撮影
葛飾北斎 上町祭屋台天井絵「怒濤図」《男浪》《女浪》信州小布施 北斎館にて2024年に撮影
では、波の写実性はどこにあるのか。その答えの一つは焼き物ならではの釉薬と炎により生まれる表現にある。波の泡や飛沫が円形に押しつぶれたようになっている箇所がある(写真参照)。これは描いたというより、燃焼の過程のよって陥没したように思われる。ある程度は意図しているにしても完全に再現することは困難であり、自然現象を巧みに作品に取り込んでいる。人間が波を完全に支配することはできない。写実性の本質は目に見えることではなく、人為を超えた先にある。化学反応が生み出す偶然性を作品に結びつけることで写実性が高まるのは何とも面白い。この作品における飛沫や泡は人間の意思が入りすぎてしまう絵画では表現し難い。絵画と焼き物の良さを融合させることで、装飾的でありながら写実的な表現に辿り着いている。
波は海と空の境界線を曖昧にする。黒い粒子は海底から巻き上げられた砂塵であろうか。白い海の泡とともに攪拌の凄まじさを物語っている。単純な美しさにとどまらないのも写実性を高める要因と言えよう。水墨の山水画のような空気感も面白い。また、写真の位置からすると、上部は白い波と泡が大半を占めている。全体の形は茶碗のように湾曲しているため、砂塵は視界に入りにくい。最初は渦潮の青に吸い込まれ、その後、作品の周囲をゆっくり回ると、突如として黒い砂塵が出現するのである。海の新たなる一面を感じさせる素晴らしいアクセントである。
作品の形についてさらに考察を深めてみよう。上から見ると完全な円ではなく楕円、しかも牡蠣の殻のような形をしている。渦潮であればより円に近い形が思い浮かびそうであるが、あえて形を崩していくことで、海の広がりや人間には制御できない力を感じやすくなる。もっとも窯に入るサイズでできるだけ大きくした可能性も考えられる。その場合でも一方をすぼめる形になっているのが何故か心地良い。やはりこの形は海の生き物である貝を連想させる。貝は装飾品としてだけでなく、古代は貨幣としても用いられることがあった。人類は栄養価の高い貝を食料源とすることで命を繋いできたという説もある。貝は豊かさの象徴として古来より人々を魅了してきた。この作品は荒々しさの中にどこか安心、安寧を感じさせてくれる。
水墨画のような水煙
次は横からみた形になるのだが、形を論じる前に無釉であることに誰もが驚くであろう。波の一部は裏側にまで飛び出し、白い釉薬が流れ落ちているものの殆どは磁土が露出している。成形の跡と思われる凹凸もくっきりと判別できる。裏面に釉薬を施すことはできなくない。なぜ裏面は無釉としたのだろうか。その意図を探ってみよう。まずは表と裏のギャップにより驚きと新鮮さを与える意図が考えられる。激しい波に覆われる表面に対して、裏面の泰然たる姿は意表を突く。意外性という観点ではこれ以上ない仕掛けである。成形の跡は海底の凹凸に見立てることもできよう。海の表面とは反転した海底の静寂に包まれた世界という解釈である。ただし、海底は無音というイメージを抱いていたが、シャチやクジラなどの海洋生物は多くの音を発信し、海流や海底地震等の自然現象がもたらす様々な音が飛び交う騒々しい世界のようである。人間が作り出した大型船のスクリュー音も響くであろう。ならばいっそ裏面は空をイメージしても面白いように思えた。自分が魚となってその渦潮に巻き込まれ、波の飛沫とともに放り投げられる。生きた心地はしないであろうが、上下の感覚が失われた爽快感。見たこともない空を目の当たりにして再び海に吸い込まれる。反転というキーワードから解釈を広げていくことができるのは面白い。
裏面は磁土そのもの。作者のサインも!
裏面を無釉としたもう一つの理由は「焼き物」であることのこだわりとも考えられる。現代では化学やバイオ技術によって様々な素材が日常に溢れており、アートや芸術の分野においても作品の素材を直ぐに見分けるのは難しい。ミクストメディアでない方が珍しいと言っても過言ではないかもしれない。それはともすると作品が生まれる前の「物」に対する感動を希薄化させてしまう。そして作品は制作過程と切り離され、あたかもAとBを組み合わせることでいとも簡単に作品Cが出現したような錯覚に陥ってしまう。焼き物の素地を直接に見せることで、鑑賞者は作品の本質に迫ることができる。表面はガラス質の釉薬に覆われているが、この作品の基盤はあくまで土である。最初から完成品を目にする鑑賞者と長い制作過程を経た作家とは、作品に対するイメージは必然的に乖離してしまう。裏面の素地は鑑賞者と作者にある隔たりを埋めてくれる。また、露わになった磁土、海面と海底の関係に置き換えることができる。すなわち裏面はもう一つの海の姿を表現している。
形の考察に戻ろう。幅は68×53cmという大きさに17cmの高低差をつけるのは難しく思える。高さのある壺と違い横に広がると土がへたれやすくなるのではないか。焼成による土の収縮も考慮しなければならない。すり鉢のように高さをつけすぎると海の広がりは消えてしまい、反対に皿のように平らになると渦潮の迫力が失われてしまう。技術的な課題をクリアし、雄大な海原と渦潮を表現するに絶妙な形を捉えている。また、真横から眺めると縁は均一の高さではなく、縁自体が波の形を具現化していることが分かる。視線の位置を水平に近づけるほど波が自分に迫ってくるように感じられるのだ。喫水線の低い船に乗ったような心地である。小舟に乗った鑑賞者は荒波の隙間から、泡立つ波と飛沫、エメラルドグリーンに輝く海面に目を奪われる。そして、波に持ち上げられた小舟の眼下には群青の渦が広がっている。その臨場感に誰もが息を呑む。
形を考えるうえで浮遊感も重要なポイントである。以前に紹介した《双えびす大壺》も底がべったりと地に接するのではなく、山の裾が浮いているような形をしている。海中から浮上するクジラをダイナミックに表現したものであろう。《渦潮》も見える形をそのまま表したとも考えることができるが、むしろ渦潮の回転するエネルギーを浮遊感に変換しているように感じた。本来、浮かぶはずのない海原を浮かびせり上がることで、迫力は倍加する。浮上感という重力に相対する概念は人間を虜にしてしまう。池田晃将さん《百千金字塔香合》も巨大なピラミッドが浮遊するイメージを持つことを思い出した。
陶磁器は触れることで新たな感覚が呼び覚まされ、作品の姿に迫ることができる。これは絵画では生まれえない感覚であり、陶磁器の醍醐味と言ってよい。実際に《渦潮》に触れて見ると、想像以上に凹凸を感じることができた。丁寧に観察すると視覚的にも渦潮によって岩石の断片が幾つか舞い上がっていることがわかるであろう。金彩が施された岩石もある。視覚は表面的な感覚に偏りがちであるが、触れることによって作品の内部にまで感性を働かせることができる。また、作品の重みも大切である。もちろんこの作品の大きさからある程度の重みがあることは想像に難くない。安定感もある。しかし、地面に接する部分は限らており、重量からすれば思いのほか揺れるということも分かった。海を持ち上げると言えば大袈裟であるが、重いのか軽いのか分からなくなってくる。海そのものである。さらに指の爪の甲で優しくほんの少し叩いてみると鐘のような高い音が鳴る。同じ磁器でもかなり甲高いように思う。大きさや無釉であることが要因なのかもしれない。厳かな音が私の体をすり抜けていく。
渦潮は吸い込むものであるが、冒頭で何かが沸き立ち生まれいずる感覚と述べたようにこの作品からは吹き上がるイメージがする。実は渦潮は吸い込む力と吹き上げる力が相互に作用するらしい。上昇する感覚はあながち間違いではないことになる。しかし、この作品《渦潮》から生じる感情の高ぶりは「沸騰」という言葉こそ相応しい。白い波の泡は水蒸気の塊にさえ見えてくる。群青の渦潮は冷たさよりも熱さが勝っている。渦潮は次第に海の坩堝と化す。それはこの作品の本質が焼き物という炎が生み出す芸術であるということに起因するのかもしれない。(2024年12月30日)
■渦潮について知りたいときは
・渦の道 https://www.uzunomichi.jp/attraction-of-naruto-whirlpools/
・鳴門市うずしお観光協会 https://www.naruto-kankou.jp/uzu/