↑鵜図(財団法人永青文庫蔵)
↑鵜図(財団法人永青文庫蔵)
「武蔵円明流の歴史 概要」
武蔵円明流は神明武蔵政名流〈しんめいむさしまさなりゅう〉とも言う(江戸時代は「武藏圓明流」と書く)。円明流の円とは法輪のことで絶対空の無限界、明とは日輪と月を象徴し、円満完全な兵法を具現する。起源は円明流流祖・俊乗房重源〈しゅんじょうぼうちょうげん〉(俗名/紀刑部左衛門尉重定、1121~1206年、醍醐で出家し高野山で修行に励んだ聖「入唐三度上人」、61歳から後半生を奈良東大寺再建に捧げた)である。
平安時代末期、京都・鞍馬にて、源義経は鞍馬天狗大僧正(一演僧正)を師として鞍馬流を修業し、鞍馬山に封ずる所の兵書数巻を得、後に義経流を創流した。重源もまた鞍馬天狗大僧正(一演僧正)の弟子で技芸の達人であり、義経より鞍馬流(義経流)を極意伝承された。重源は義経が亡びた後、源頼朝を憚り、義経流を陰流に改めた陰流の流祖でもある(門弟の愛洲移香斎久忠は愛洲陰流を創流)。
重源が創流した円明流は門弟の八尾別当顕幸が印可を受けた。顕幸の門弟・岡本三河房は円明流の印可を受けたのち、岡本円明流を創流した。
↑瓢箪鯰透鍔
(熊本県立美術館蔵)
原祖は剣聖・宮本武蔵玄信である。武蔵は青年時代(通説22歳・推定33歳)に当理流(養父・宮本無二之助、円明流から分派)から独立して二刀兵法の兵道鏡円明流を創流した(晩年、二天一流創流)。
「兵道鏡」の極意は「真通之位〈じきつうのくらい〉」(「兵道鏡36箇条」では真道之位)であり、これは当理流には無く、武蔵自身が得た剣理である。「真通之位」は定まった型があるのではなく、自分が思ったとおりに戦いを展開し勝つ境地のことである。
流祖は宮本武蔵政名(岡本馬之助祐実/改名)である。政名は兄・宮本武蔵義貞(岡本小四郎政名/改名)とともに、師・宮本武蔵玄信より兵道鏡円明流の極意を伝授した。
兄・義貞は武蔵流を創流、父・岡本新右衛門義次(備中蘆森城主、岡本円明流)より伝わる十手刀術は『常用の器にあらず。太刀は常用の具なる』をもって、この十手鍛錬修業の極意を太刀打ちの道にうつし、武蔵流の兵法とした。
政名は後に父兄の岡本円明流、武蔵流の流意を相続して、慶長15年(1610年)武蔵円明流を創流した。武蔵円明流は宮本武蔵玄信の青年時代の心身に対する濃やかな心配りと観察眼、そして己が取り組んでいる兵法に対する誠実さと具体的な型が伝えられている。また、政名は師の宮本武蔵玄信と同じく文武両道で(著書は20数冊)、江戸時代中期は武蔵玄信より武蔵政名の方が有名であった。
↑正面達磨図(財団法人永青文庫蔵)
初世宗家師範は宮本武蔵政名6代目孫の岡本勘兵衛正諠〈おかもとかんべえまさよし〉である。父祖伝来の岡本円明流とともに岡本流体術・二刀剣法を合わせて武蔵円明流を大成させ、「三学の巻伝授の義理(大義)」「修業目録」「極意の大義」「当流相続の義理(大義)」を確立した。
武蔵円明流は正諠により鳥取地方に元文・寛保(1736~1743年)頃伝えらえた。後に鳥取藩の剣術指南になり、正諠の門人中、鱸武允時維・松井源太夫満雄・井尻武左衛門孟雅・藤田順蔵・広沢清蔵・井村九郎三郎・寺島金左衛門・小谷十左衛門成福を「岡門の八士」と呼び、特に傑出していた。
現在まで武蔵円明流は初世宗家師範・岡本勘兵衛正諠―2世宗家師範・鱸文之丞時敬の系統が継承しており、13世宗家師範・谷口覓より荒川公延が15世宗家師範を継承している。
平成21年(2009年)に武蔵円明流は創流400周年を迎えた。
■兵書に絵文字の歴史をみる 江戸時代
当流の『剣術秘伝書』文化8年(1812年)内、小太刀之部・太刀之部の文中に、『太刀を持ったちょんまげ姿の人物』や『二刀』の絵文字が使われています。