RAISO-KAI
来巣会(らいそうかい)
会員がそれぞれ自由な創作活動をする場として
昭和四十八年に結成。
〝巣〟は ひそかに個性をはぐくみ育てる巣であり
社会的活動の拠点であり
また飛翔するものたちが誰でも羽を休めることのできる
開かれた巣でもありたい。
来たれ巣へ。
「来巣20th」(1992年発行)扉文
お断り
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来巣会(らいそうかい、片仮名表記「ライソウカイ」)は、1973年(昭和48年)に発足した美術グループ(絵画グループ)。洋画家・吉田公(よしだ ただし)が中心人物の一人として発足に関わったとされるが、発足当初から一貫して事務所を自宅に提供していた松井宏(まつい ひろし)も同格の創立メンバーだった可能性があり、実のところどちらが(あるいは両者が)主導したのかは、まだはっきりしていない[1]。事務所は神奈川県相模原市の会員・松井宏宅に置かれていた。銀座など東京都心で展覧会を行っていたが、1993年(平成5年)の松井の逝去、その前後からの吉田の健康上の事情などが重なり、1997年(平成9年)、結成25周年を機に解散した[1][20]。
来巣会は、東京都国分寺市在住の洋画家・吉田公が、芸術大学時代の友人と二人を中心となって1973年に発足させた美術グループとされる[1]。この「友人」が誰を指すかは一次資料に明記されていないが、発足当初から一貫して事務所を自宅に置いていた松井宏がその人物である可能性が考えられる(未確定)。吉田は東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業後、独立美術協会、モダンアート協会に所属したのち来巣会を主宰した、との記録がある[17]。
会員は無所属(公募系の大型美術団体に属さない)の画家・彫刻家・版画家らを中心に構成され、現時点で確認できている範囲では1974年から1988年にかけて毎年刊行された『美術年鑑』(美術年鑑社)にグループ名と会員一覧が掲載されている[2-16]。なお美術年鑑は毎年1月頃の発行であり、掲載内容は前年の活動状況を反映しているとみられる(下記「主な会員」参照)。事務所所在地は一貫して神奈川県相模原市の会員・松井宏方であった。
年
出来事
1973年(昭和48年)
第1回展、会場「あいびす画廊」。吉田公と芸術大学の友人を中心に発足。美術年鑑の記録では松井宏・吉田公・竹中利夫・竹松泉・露木康雄・清水龍雄の6名が当時の会員として確認できる。[1][2]
1974年(昭和49年)
第2回展、会場「昭和画廊」。豊島シズ枝が新たに確認できる(7名)。[3]
1975年(昭和50年)
第3回展(8月11〜17日)、会場「日産アート・ギャラリー」(銀座8-9-16 長崎センタービル2階)。エッチング作家・吉岡正治が初参加。奥津国道・松尾武夫・伊沢正夫も新たに確認できる一方、清水龍雄が名簿から消える(10名)。[4]
1976年(昭和51年)
第4回展より会場を「日産アートサロン」に変更。依田純が加入。竹松泉・露木康雄・豊島シズ枝は名簿から消える(8名)。[5]
1977年(昭和52年)
小牧あい(初出品)・秋本兼治が新たに確認できる(10名)。展覧会の詳細な記録は未確認。[6]
1978年(昭和53年)
斎藤茂・中川曠人・村田英雄が新たに確認できる(13名)。[7]
1979年(昭和54年)
吉浦タカ子が新たに確認できる(14名)。11月、村田英雄が逝去し遺作展示。多摩地区での特別展「来巣八王子展」を開催(花村京が講師を務める画廊フロイデンにて)。[8]
1980年(昭和55年)
花村京・宍戸忠男が新たに確認できる。村田英雄はこの年を最後に名簿から消える(14名)。来巣会のマーク(ロゴ)が決定、デザインは奥津国道。[9]
1981年(昭和56年)
会員構成に大きな変化なし(14名)。10周年記念展を開催、遠藤実・加山雄三・三沢あけみが賛助出品。[10]
1982年(昭和57年)
早川清・池崇一が新たに確認できる(16名)。[11]
1983年(昭和58年)
宮山美智子が新たに確認できる。松尾武夫・秋本兼治は名簿から消える。[12]
1984年(昭和59年)
竹下あや・鳥越哲夫が新たに確認できる。奥津国道・早川清・池崇一は名簿から消える。[13]
1985年(昭和60年)
来巣会メンバーによる「五人展」が始まる(第1回、以後毎年2月頃開催)。会員構成に大きな変化なし。詳細な展覧会記録は未確認。[14]
1986年(昭和61年)
横林よしみが新たに確認できる一方、吉岡正治(昌治)が名簿から消える。[15]
1987年(昭和62年)
15周年記念パンフレット「来巣会15年の歩み」を配布。津金永が加入。宮山美智子・横林よしみは名簿から消える。[16]
1988年(昭和63年)
第16回展より会場を「田中八重洲画廊」に変更。(この年以降の美術年鑑データは未確認)
1989〜1991年(平成元〜3年)
詳細な活動記録は未確認。
1992年(平成4年)
20周年記念展を開催、記念誌『来巣20th』を発行。[21][22]
1993年(平成5年)
1月、松井宏が逝去し遺作展示。西崎貢が加入。松井が生前主導していた展覧会「明日(あした)の会」の第1回展を11月に開催。[20]
1994年(平成6年)
会員・若松善雄が逝去。松井宏・若松善雄の遺作展を開催。[20]
1995年(平成7年)
第23回展より会場を「鹿友アートサロン」に変更。「五人展」を「幹の会」に改称。読売新聞1995年2月2日付「いべんとガイド」欄に幹の会「5人展」として紹介される。[18][20]
1996年(平成8年)
2月、鳥越哲夫が逝去し遺作展示。[20]
1997年(平成9年)
第25回展(最終回)に池崇一・奥津国道・小牧あい・斎藤茂・竹下あや・中川曠人・花村京ら旧会員が協賛出品。松井宏の逝去(1993年)、吉田公の健康上の事情による活動継続困難などが重なり、結成25周年を機に解散。[1][20][24]
2001年(平成13年)
創設メンバーの一人・吉田公が逝去(4月29日)。[1][19]
※上表の「新たに確認できる/名簿から消える」は美術年鑑掲載データに基づく。美術年鑑は前年の活動を反映して翌年1月頃に発行されるため、掲載年は活動の翌年ではなく実際の活動年に読み替えて配置している(例:「美術年鑑1978年版」の内容は本表では「1977年」の行に反映)。
『美術年鑑』には記載されないが、依田家所蔵の案内状・記録から判明した会場の変遷は次のとおり。
期間
会場
1973年(第1回)
あいびす画廊
1974年(第2回)
昭和画廊
1975年(第3回)
日産アート・ギャラリー(銀座8-9-16 長崎センタービル2階)
1976〜1987年(第4〜15回)
日産アートサロン(銀座4丁目交叉点・日産自動車ショールーム4階)
1988〜1994年(第16〜22回)
田中八重洲画廊
1995〜1997年(第23〜25回)
鹿友アートサロン
なお「日産アート・ギャラリー」と「日産アートサロン」がどのような関係にあったか(改称か、同一施設の名称違いか等)は、まだよく分かっていない(後述「今も分かっていないこと」参照)。
現時点で確認できている美術年鑑(1974〜1988年版)と、依田家所蔵の来巣会関連資料(案内状・記録一覧)をもとにした一覧。「確認できる活動年」は、美術年鑑の掲載年から1年を差し引いた実際の活動年で表記している(美術年鑑は毎年1月頃の発行のため、掲載内容は前年の活動を反映しているとみられる)。初めて活動が確認できる年の順に並べた。
氏名
生年
出身・居住地
学歴・師事等
活動年
備考
松井 宏
(まつい ひろし)
大正10年(1921)生
東京都出身、神奈川県相模原市在住
東京美術学校卒、日本アンデパンダン展出品
1973–1987
[2-16]
来巣会事務所所在地(自宅)。共同創設メンバーであった可能性あり。個展7回→11回。1983年以降は啓蟄・松美・松宏社各展委員。1993年逝去
吉田 公
(よしだ ただし)
大正9年(1920)生
※大正8年(1919)生とする資料も[17]
東京都国分寺市在住
東京美術学校卒、師 児島善三郎、独立美術協会・モダンアート協会を経て主宰
1973–1987
[2-16]
創設メンバーの一人とされる(松井宏との共同創設の可能性あり)・主宰。個展8回→11回、渡欧3回。国立高等学校教諭(図工、昭和21年〜55年)[19]。2001年逝去
竹中利夫
大正7年(1918)生
大阪府出身、千葉県流山市→千葉市在住
(学歴記載なし)、香料研究家
1973–1987
[2-16]
グループ展(啓蟄会)2回→15回出品、渡欧2回・渡米1回
竹松 泉
大正12年(1923)生
神奈川県出身、神奈川県小田原市在住
昭和16年川端画学校卒、師 水野以文
1973–1975
[2-4]
近代美術協会会員。白日会・日本水彩画会・行動美術展等入選。昭和45年以後毎年個展
露木康雄
昭和8年(1933)生
東京都出身、神奈川県足柄上郡在住
独学
1973–1975
[2-4]
元美術文化協会会員、西相美術協会会員。ACC展・米国サンディエゴ展等出品
清水龍雄
昭和8年(1933)生
神奈川県出身、神奈川県相模原市在住
武蔵野美大卒
1973–1974
[2-3]
自由美術・春陽会・モダンアート展等出品。「漠の会」結成
豊島シズ枝
大正12年(1923)生
神奈川県出身、神奈川県小田原市在住
(学歴記載なし)
1974–1975
[3-4]
国画会会友、女流美術家協会会員、西相美術協会会員
奥津国道
昭和7年(1932)生
神奈川県出身、神奈川県相模原市在住
師 宮永岳彦
1975–1983
[4-12]
個展5回→7回、渡欧2回。斎藤茂の入会の仲介役(斎藤自身が奥津に頼み込み入会した、との証言)[21]
松尾武夫
大正14年(1925)生
東京都三鷹市在住
東京理科大卒
1975–1982
[4-11]
個展3回→12回
伊沢正夫
昭和5年(1930)生
東京都杉並区在住
東京芸大卒
1975–1987
[4-16]
個展5回→7回。1987年版より都民美術運営会会員の記載
吉岡正治
(昌治)
昭和5年(1930)生
東京都板橋区在住
(学歴記載なし)
1975–1986
[4-15]
銅版画、個展4回→6回。表記の変遷あり(「今も分かっていないこと」参照)
依田 純
(生年記載なし)
東京都八王子市在住
師 久保田九一
1976–1987[5-16]
(家族記録では1998年まで在籍)
自由美術・創造美術出品。個展4回→6回。国立高校昭和30年卒
小牧あい
昭和10年(1935)生
東京都三鷹市→千葉県市川市在住
お茶の水女子大卒、師 松岡正
1977–1987
[6-16]
1978年版に「来巣会初出品」と明記。1987年版では「写実画壇会員」の記載
秋本兼治
昭和7年(1932)生
東京都武蔵野市在住
東京芸大卒
1977のみ
[6]
銅版画
斎藤 茂
大正11年(1922)生
※大正12年(1923)生とする資料も
東京都小金井市在住
早大卒、師 御正伸
1978–1987
[7-16]
1981年から一陽展出品。雑誌『平凡』編集長時代、同編集部の奥津国道に頼み込み入会(自らの希望による入会、との証言)[21]
中川曠人
(生年記載なし)
東京都小平市在住
国学院大卒
1978–1987
[7-16]
日彫展会友→日本彫刻会会員。日展連続入選→日展入選5回。国立高校教諭(国語、昭和38年〜56年)[19]
村田英雄
昭和5年(1930)生
東京都八王子市在住
東京芸大彫刻科卒
1978–1980
[7-9]
1980年版より師 石井鶴三と明記。1980年逝去、遺作展示
吉浦タカ子
昭和9年(1934)生
岡山県倉敷市→東京都武蔵野市在住
九州大卒
1979–1987
[8-16]
女流展出品
花村 京
(生年記載なし)
東京都小金井市在住
東京芸大日本画科卒、師 山本丘人(1987年版より)
1980–1987
[9-16]
新制作日本画部出品、グループ展8回→20回
宍戸忠男
昭和26年(1951)生
東京都日野市在住
国学院大卒
1980–1987
[9-16]
日本画。創画会出品入選
早川 清
大正11年(1922)生
東京都出身、千葉県市川市在住
青山学院卒、師 松井宏
1982–1983
[11-12]
啓蟄会5回出品
池 崇一
昭和2年(1927)生
福岡県出身、東京都国立市在住
早大卒
1982–1983
[11-12]
木彫、三戯展出品。ご本人の回想(「一九八一、八二年ごろ」)とも近い年代
宮山美智子
昭和5年(1930)生
東京都狛江市在住
(学歴記載なし)
1983–1986
[12-15]
朱葉会出品。竹下あやを来巣展に誘った人物とみられる(竹下あや自身の回想による)[21]
竹下あや
(生年記載なし)
東京都大田区在住
(学歴記載なし)
1984–1987
[13-16]
光風会出品。1987年版では「群炎美術協会会員」の記載
鳥越哲夫
(生年記載なし)
千葉県柏市在住
(学歴記載なし)
1984–1987
[13-16]
日曜画家展出品
横林よしみ
(生年記載なし)
東京都狛江市在住
(学歴記載なし)
1986のみ
[15]
朱葉会7回出品
津金 永
(生年記載なし)
東京都三鷹市在住
東京芸大油絵科卒
1987のみ[16]
(実際は1987年以降も長く在籍)
国立高校美術科教諭(昭和59年〜、吉田の後任)[19]。国高勤務がきっかけで来巣会に出品するようになった経緯を季刊たちばな等で述懐[22]
来巣会の確認できる会員27名のうち、少なくとも9名が東京都立国立高等学校(国高)の卒業生・関係者であり、同校OB会主催の「国高OB美術展」(1995年発足)にも出品している[23]。
● 吉田 公(国高美術科教諭、昭和21〜55年)
● 垣本浩輔
● 伊沢正夫
● 依田 純(国高昭和30年卒)
● 小島和雄
● 津金 永(国高美術科教諭、昭和59年〜。吉田の後任)
● 吉岡正治
● 小林節夫
● 中川曠人(国高国語科教諭、昭和38〜56年)
このうち吉田 公・津金 永は美術科、中川曠人は国語科でそれぞれ国高の教諭を務めており、来巣会と国立高校美術部・同OB会との間には、単なる個人的つながりを超えた人的な連続性が見られる。津金 永は季刊たちばな等で、自身が国高に赴任したことをきっかけに来巣会へ出品するようになった経緯を記しており[22]、国高の美術準備室を制作場所として利用していたことも述べている。
一次資料(季刊たちばな42号、依田純による追悼文)は「芸術大学の友人と二人が中心になって」発足としか記しておらず、共同創設者の氏名を明記していない。事務所が発足当初から一貫して松井宏の自宅に置かれていたことから、松井が共同創設者である可能性は高いと考えられるが、断定はできない。松井宏の経歴・人となりについての追加資料(ご遺族への取材等)が見つかれば確定できるかもしれない。
● 第3回展の案内状(現物・確認済み):会場名は「日産アート・ギャラリー」、住所「東京都中央区銀座8-9-16 長崎センタービル2階」の記載あり。地図・電話番号あり。
● 第4回展以降の案内状:会場名は「日産アートサロン」、住所表記はなく「銀座4丁目交叉点・日産自動車ショールームの4階」とのみ記載。地図・電話番号あり。
同一施設が移転して名称も変わったのか、日産が同時期に2か所の会場を持っていたのかは資料からは判別できない。当該のショールーム(銀座4丁目交差点)では、現在アートサロンは行われていない模様。
ご遺族への聞き取りにより、解散の背景には次の事情があったとの情報がある。
● 松井 宏が第21回展の直前(1993年)に逝去。
● 吉田 公もこの頃から健康上の事情により活動が難しくなっていった。
この情報はご遺族の口述に基づくものであり、詳細は控える。
表記の変遷について、二つの資料群で微妙に異なる時期が示されている。
● 依田家所蔵の案内状によれば、1975〜1977年は「吉岡正治」、1978〜1985年は「吉岡昌治」、空白期間を挟んで1993〜2001年に再び「吉岡正治」の表記に戻るという(依田純の遺族による整理)[24]。
● 一方、美術年鑑では1976年版〜1983年版まで一貫して「吉岡正治」、1984年版〜1987年版(確認できる最後の掲載)では「吉岡昌治」と印字されている[4-6][11-15]。
両資料とも「正→昌」の変化があること自体は一致しているが、切り替わりの時期には数年のズレがある。編集上の表記ゆれなのか、改名か、あるいは同姓同名の別人が入れ替わっているのかは、まだ分かっていない。ご本人・ご遺族に伺えれば確定できる可能性がある。
● 吉田 公(来巣会創設に関わった中心人物の一人)
● 東京都立国立高等学校(吉田 公・中川曠人が教諭を務めた学校。会員9名がOB美術展にも出品)
● 国立高校OB美術展(1995年発足、吉田 公を中心に始まった同校OB会の美術展)
1. 国高同窓会会報「季刊たちばな」第42号、2001年9月5日発行、依田 純「吉田 公先生を偲ぶ」
2. 美術年鑑1974年版、美術年鑑社(1973年活動分。大田区立大田図書館所蔵)
3. 美術年鑑1975年版、美術年鑑社(1974年活動分。同上)
4. 美術年鑑1976年版、美術年鑑社(1975年活動分。同上)
5. 美術年鑑1977年版、美術年鑑社(1976年活動分。同上)
6. 美術年鑑1978年版、美術年鑑社(1977年活動分。国立国会図書館デジタルコレクション)
7. 美術年鑑1979年版、美術年鑑社(1978年活動分。同上)
8. 美術年鑑1980年版、美術年鑑社(1979年活動分。同上)
9. 美術年鑑1981年版、美術年鑑社(1980年活動分。同上)
10. 美術年鑑1982年版、美術年鑑社(1981年活動分。同上)
11. 美術年鑑1983年版、美術年鑑社(1982年活動分。同上)
12. 美術年鑑1984年版、美術年鑑社(1983年活動分。八王子市立図書館所蔵)
13. 美術年鑑1985年版、美術年鑑社(1984年活動分。日野市立図書館所蔵)
14. 美術年鑑1986年版、美術年鑑社(1985年活動分。八王子市立図書館所蔵)
15. 美術年鑑1987年版、美術年鑑社(1986年活動分。日野市立図書館所蔵)
16. 美術年鑑1988年版 現存作家名鑑、美術年鑑社(1987年活動分。日野市立図書館所蔵)
17. 『多摩の作家250人:たましんギャラリーの10年を彩った芸術家』たましんギャラリー、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション)
18. 読売新聞1995年2月2日付朝刊「いべんとガイド」欄
19. 『国高五十年史』、1991年3月31日発行(東京都立中央図書館)
20. 依田 純の遺族による聞き取り情報(未公表、ネルペディア内部資料として保管)
21. 『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)、1992年5月20日発行、斎藤 茂「ありがとう!来巣会」
22. 『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)、1992年5月20日発行、津金 永「来巣会のこと」
23. 「国立高校OB美術展」出品者名簿(各回パンフレット等、依田 純の遺族の調査による)
24. 依田家所蔵資料一式(来巣会関連の案内状・展覧会目録等を整理した年表、未公表・ネルペディア内部資料)
ィア内部資料)
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