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# **吉田 公(よしだ ただし)**
> *「継続は力なり」*
> *国立高校美術科教諭を34年間務め*
> *来巣会・幹の会を主宰した洋画家。*
> *教え子であり来巣会後輩でもある依田 純が*
> *生前繰り返し伝えられた言葉。*
> **お断り**
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吉田 公(よしだ ただし、生年は公刊資料である『美術年鑑』に大正9年〈1920年〉生と記載[4][11]されているが、ご親族の確認で大正8年〈1919年〉生と判明[12])は、日本の洋画家・美術教育者。東京都立国立高等学校(通称・国高)に昭和21年(1946年)から昭和55年(1980年)までの34年間美術科教諭として勤務するかたわら、昭和48年(1973年)に美術グループ「来巣会」を創設・主宰した。会員有志による「五人展」(のちの「幹の会」)にも名を連ね、平成7年(1995年)には教え子たちの「国立高校OB美術展」発足の中心人物ともなった。平成13年(2001年)4月29日逝去。
## **概要**
吉田は東京美術学校(現・東京藝術大学)在学中から独立美術協会に出品しており、第12回展(昭和17年)「仁王」、第13回展(昭和18年)「ひまはり」の出品が確認できる[14]。卒業後は独立美術協会・モダンアート協会に所属して洋画家として活動する一方、昭和21年(1946年)10月、復員後の職探しの中で偶然の縁から都立国立中学校(後の国立高等学校)の美術教師となった[2]。教育者としては34年間にわたり国高で美術を教え、面倒見のよさと人望から多くの教え子に慕われた「名物先生」として記憶されている。
画家としては、東京美術学校時代の友人と二人を中心に美術グループ「来巣会」を昭和48年(1973年)に創設し、銀座など東京都心での展覧会活動を展開した[1]。この来巣会の活動から派生した「五人展」(のち「幹の会」)にも継続して参加し、また国高OB美術展の礎も築くなど、教育者としての顔と画家としての顔が晩年にかけて一つの場所に収斂していったことが特徴的である。なお、来巣会と国立高校OB美術展は、会員・出品者の重なりがほとんどなく別々の系譜として展開しており、両者を直接につなぐのは吉田個人という結節点にほぼ限られる(詳細は「吉田 公が遺した二つの場」参照)。
## **経歴**
| **年** | **出来事** |
|---|---|
| 大正8年(1919年)※『美術年鑑』では大正9年(1920年)生と記載[4][11] | 誕生。生年はご親族より確認[12]。出生地・家族構成など生い立ちの詳細は未確認(後述「今も分かっていないこと」参照)。 |
| 昭和17年(1942年)3月 | 独立美術協会第12回展に「仁王」を出品(第十三室)。東京美術学校在学中の出品にあたる[14]。 |
| 昭和17年(1942年)9月 | 東京美術学校(本科)卒業。卒業者名簿には「図案部」の記載があるが、以後の活動記録はすべて洋画家としてのものであり、この点は未解明の矛盾として残る(後述「今も分かっていないこと」参照)[9]。 |
| 昭和18年(1943年)3月 | 独立美術協会第13回展に「ひまはり」を出品(第十室)。卒業後初めての出品にあたる[14]。 |
| 昭和21年(1946年)10月 | 復員後、中央線の車内で偶然出会った中学生に美術教師の有無を尋ね、都立国立中学校に美術教師として着任。※本人の回想では「十月一日」、『国校五十年史』の記載では「9月30日」と1日の食い違いがある[2][3]。 |
| (着任後) | 独立美術協会・モダンアート協会に所属して洋画家として活動を継続[4]。独立美術協会の具体的な出品歴は上記昭和17・18年の記録のほか、「代表作・現存する作品」を参照。 |
| 昭和48年(1973年) | 東京美術学校時代の友人・松井宏(鋳金部、昭和17年9月卒業)と二人を中心に美術グループ「来巣会」を創設。事務所は松井宏の自宅(神奈川県相模原市)に置かれた[5][17]。 |
| 昭和55年(1980年)3月 | 国立高校を退任。34年間の教員生活を終える。定年後も講師として自転車で通い続けた[3][6]。 |
| 昭和56年(1981年)9月 | 国高同窓会会報「たちばな」創刊号にコラム「国高と共に三分の一世紀」を寄稿[6]。 |
| 昭和59年(1984年) | 『多摩の作家250人』(たましんギャラリー)に経歴が収録される[4]。 |
| 昭和59年(1984年)6月 | 「たちばな」8号にて日本画家・宮本和郎氏(国高30年卒)と対談[7]。 |
| 昭和60年(1985年) | 来巣会会員有志により、国立を会場に「五人展」(のちの「幹の会」)が始まる。多摩地域在住の会員による派生企画とみられる[13]。 |
| 平成4年(1992年) | 来巣会20周年記念展を開催、記念誌『来巣20th』に「二十周年記念に祝杯を!」を寄稿[5]。 |
| 平成7年(1995年) | 「五人展」が10回目を機に「幹の会」に改称[13]。同年、教え子たちによる「国立高校OB美術展」第1回展も、吉田を中心に13名の参加で発足(三鷹市美術ギャラリー)[8]。 |
| 平成9年(1997年) | 健康上の事情などが重なり、来巣会が結成25周年を機に解散。「幹の会」とは数年にわたり並行して活動していた時期がある[1][13]。 |
| 平成13年(2001年)4月 | 逝去。 |
| 平成13年(2001年)9月 | 「たちばな」42号に、教え子であり来巣会後輩でもあった依田 純による追悼文「吉田 公先生を偲ぶ」が掲載される[1]。 |
| 平成13年(2001年) | 第6回国立高校OB美術展にて遺作が展示される[8]。 |
| 平成28年(2016年) | 第20回記念国立高校OB美術展にて遺作コーナーが設けられる(このとき配布されたポストカードにより、独立美術協会出品作「仁王」の現存が推測されている。詳細は「代表作・現存する作品」参照)[10][15]。 |
## **国立高校での34年間**
『国校五十年史』の資料編には、吉田の着任・退任年月日と担当教科(図工)が記録されている[3]。吉田自身が「たちばな」創刊号に寄せたコラム「国高と共に三分の一世紀」には、復員直後の食糧難・就職難の時代に、たまたま中央線で見かけた中学生に「美術の先生は」と尋ねたところ「いない」と返ってきたことが赴任のきっかけだったと綴られている。
同コラムでは、学園紛争期の混乱(校内デモ・放送室占拠・機動隊の巡回)や、その渦中で体調を崩し他界した岩崎校長への追悼、甲子園出場という「夢」の実現、そして自身の教育方針を「ハナピン」(授業への遅刻に対する体罰、男女平等に適用)という言葉で振り返っている。定年退職の翌年(昭和56年)の時点でも、講師として「愛車(ポンコツ自転車)」で通い続けていたことが記されている[6]。
教え子・依田 純の追悼文によれば、美術部の部室は吉田のアトリエでもあり、石膏像に囲まれた空間で生徒たちはデッサンの基本を学ぶと同時に、吉田を慕う卒業生たちが連日訪れて美術談義に興じる場でもあった[1]。依田は在校当時(昭和30年代)の吉田の画風を「力強い輪郭と色調、ルオーを思わせる厚塗りの画肌」と描写している。
## **来巣会の創設と主宰**
昭和48年(1973年)、吉田は東京美術学校時代の友人・松井宏と二人を中心に美術グループ「来巣会」を発足させた[1]。松井は東京美術学校鋳金部、昭和17年9月卒業で、吉田と同期にあたる。事務所は松井宏の自宅(神奈川県相模原市)に置かれ、毎年5月と11月に東京都心での展覧会を積極的に展開、著名なタレントなど多彩な人々との交流も生まれたという[17]。
『美術年鑑』の記録では、吉田の個展回数は昭和49年(1974年)版で8回、昭和51年(1976年)版で10回、昭和52年(1977年)版以降は11回で安定しており、渡欧回数も1回(1974年版)から2回(1975〜1977年版)、3回(1978年版以降)へと推移している[4][11]。1978年から1988年にかけての『美術年鑑』には、来巣会の会員として吉田の名が一貫して掲載されている。
松井宏が平成5年(1993年)に逝去し、その前後から吉田自身も健康上の事情により活動継続が難しくなっていったことなどが重なり、来巣会は平成9年(1997年)、結成25周年を機に解散した[1]。
なお、来巣秋季展が昭和58年(1983年)に第8回で終了すると、会員有志により昭和60年(1985年)、国立を会場とする「五人展」が始まった。平成7年(1995年)第10回展開催を機に「幹の会」へと改称。吉田没後も継続し、平成16年(2004年)の第10回展をもって来巣会員の活動は終了した[13]。幹の会は来巣会からの派生企画であり、来巣会とは別団体の「国立高校OB美術展」とは直接の系譜関係にはない(吉田没後、幹の会に名を連ねた国高関係者は依田 純のみ)。幹の会の詳しい沿革は「来巣会」ページを参照 。
## **国立高校OB美術展との関わり**
平成7年(1995年)、美術部OB会有志の提案により、吉田を中心に美術部に在籍した人たちの作品展として「国立高校OB美術展」第1回展が、吉田を含む13名の参加で三鷹市美術ギャラリーにて開催された[8]。これは来巣会・幹の会とはまた別の系譜にある、国高美術部の教え子たちを主体とした展覧会である。国高OB会の関係者の多くは来巣会の存在自体を知らないとみられ、両者を直接つなぐのは吉田個人という結節点にほぼ限られる。
吉田の逝去(2001年)後も本展は継続し、第6回展(2001年)と第20回記念展(2016年)では吉田の遺作が展示された[8][10]。2016年の第20回記念展を紹介する文章では、「現在の出品者のほぼ全員が吉田先生の教え子で構成されており、まさに國高芸術の継承者なのです」と評されている。本展の詳細な沿革は「国高OB美術展」ページを参照。
## **代表作・現存する作品**
### **独立美術協会 出品歴**
経歴資料(『多摩の作家250人』)には「独立美術協会・モダンアート協会を経て」としか記載がなく、時期・回数・作品名は長らく不明であった。東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』(中央公論美術出版、2006年)の索引・本文により、以下の出品歴が確認できた[14]。
| **回** | **年** | **出品作** | **室** |
|---|---|---|---|
| 第12回 | 昭和17年(1942年) | 仁王 | 第十三室 |
| 第13回 | 昭和18年(1943年) | ひまはり | 第十室 |
### **「仁王」の現存確認**
内部資料として保管している国立高校OB美術展第20回記念展(2016年5月25〜29日、三鷹市芸術文化センター)の遺作コーナー展示作品ポストカードには「国分寺 仁王 1942年 吉田公」の記載がある[15]。制作年(1942年=昭和17年)が独立美術協会第12回展の出品年と一致することから、**同一作品と考えられる**。
ポストカードは2016年の同記念展にあわせてご親族が制作・配布したものと伺った。2026年9月、ご親族からの情報提供により、「仁王」の所在が明らかになった[17]。制作の経緯(どのお寺の仁王像を描いたものか、在学中の課題か個人制作か)についてはなお未確認である(「今も分かっていないこと」参照)。
一方、同じくご親族からの情報提供により、「ひまはり」(第13回展出品、昭和18年)は所在不明であることが確認された[17]。
- どのお寺の仁王像を描いたものか(武蔵国分寺の仁王門か、別の寺院か)
- 制作の経緯(在学中の課題か、個人制作か)
- 「ひまはり」の所在
- 2016年の遺作コーナーで展示された戦前期作品の内訳
### **自己申告と一次資料の食い違いについて**
独立美術展の第12・13回以外の出品・モダンアート協会での活動実態については、同書の収録範囲(戦前篇、昭和6〜19年)を超える戦後の活動も含め、引き続き調査中である。
## **人物像・エピソード**
### **芸術観**
「たちばな」8号に掲載された宮本和郎氏(日本画家、国高30年卒)との対談では、「絵かきには二つの相反する気持がある」として、世に売れたい・有名になりたいという気持ちと、「俺はオレの道を行く」という気持ちの両方があるとした上で、自身は後者だと語っている[7]。また「結局はその絵の芸術性の価値評価は、歴史が決めるんだと思う」とも述べている。
### **画風の変化**
依田 純の追悼文によれば、在校生時代(昭和30年代)の力強い輪郭とルオーを思わせる厚塗りの画風から、近年(晩年)は繊細で柔らかく穏やかな独自の画風へと変化した[1]。散歩好きで、人が見向きもしない流木や落ち葉に興味を持ち、それらを細かく観察して絵に再生することを好んだという。ある芸術大学の教授が落ち葉の絵を見て「身が震える程素晴らしい」と絶賛したというエピソードも記録されている。
### **口癖・人柄**
依田 純は追悼文の中で、吉田からよく言われた「継続は力なり」という言葉を、自身の闘病生活の支えにしたと記している[1]。2016年の国高OB美術展20回記念での紹介文では「面倒見がよく、生徒と一緒にキャンプに行ったり卒業生の仲人を引き受けるなど、とても人気のあった名物先生」と評されている[10]。
### **名前の読み方をめぐる誤解**
「公」という名は本来「ただし」と読むが、この読み方を正しく言い当てられる人はほとんどいなかった。依田純自身も生前「よしだこう先生」と呼んでおり、国高OB会の間でも「コウ先生」「キミ先生」といった呼び方が広まっていたという。この誤読が正されたのは吉田の葬儀の場で、参列者は初めて正式な読みが「ただし」であることを知り、同窓生同士で名前の呼び方について話が盛り上がったと伝えられる[16]。
依田家が所蔵する吉田の油彩画1点には「T. Yoshi」のサインがある。「コウ先生」の読みからは「K. Yoshi」になるはずではと不思議に思った依田純の親族が、2026年5月開催の第30回国立高校OB美術展に足を運んだ際にOB会関係者に尋ねたところ「ただし」であることを知ったという。なお、なぜ吉田自身が生前この誤読を訂正せず、好きなように呼ばれるままにしていたのかは分かっていない。
## **吉田 公が遺した二つの場**
吉田 公という一人の人物は、互いにほとんど交わらない二つの共同体の結節点となっている。これらは吉田没後もそれぞれ独立して継続しており、両者を横断的に知る関係者はごく限られる。
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| **場** | **性格** | **詳細** |
| 国立高校・国立高校OB美術展(教育者として) | 34年間の公的な職務が礎。美術部部室が事実上のアトリエでもあった。教え子主体の展覧会として1995年発足、現在も継続。 | → 「国高OB美術展」ページ参照 |
| 来巣会とその後継「幹の会」(専門画家の主宰として) | 芸大時代の友人を中心に発足。プロ・セミプロの画家が銀座で発表する場。1985年、会員有志による派生企画「五人展」が始まり、1995年「幹の会」に改称、吉田没後も依田 純を中心に継続。 | → 「来巣会」ページ参照 |
## **今も分かっていないこと(調査中の論点)**
### **1. 生年表記のずれの理由**
生年については、2026年7月ご親族訪問時、大正8年(1919年)生であることが確認できた[12]。一方『美術年鑑』には一貫して大正9年(1920年)生と記載しており、同じく公刊された美術関係資料『多摩の作家250人』に記載の大正8年(1920年)生と違っている。なぜ美術年鑑には1年遅い生年が記載されているのか(本人による申告か、編集上の慣行か等)は分かっていない。
### **2. 出生地・生い立ち・従軍経験について**
現時点で判明しているのは生年月日のみで、出生地や家族構成、少年期・青年期の経歴は未確認である。特に、東京美術学校を繰り上げ卒業した昭和17年9月という時期は、多くの同期生が学徒出陣・臨時召集により戦地に赴いた世代にあたる。吉田自身に従軍経験があったかどうかは資料からは分からない。復員後の昭和21年(1946年)に国立高校へ着任した経緯(本人のコラムに詳しい)から、何らかの形で兵役に就いていたと推測されるが、確証はない。この画業の「そもそものはじまり」にあたる部分であり、今後の重点調査課題としたい。
### **3. 東京美術学校卒業学部の矛盾**
東京藝術大学が公開する卒業者名簿には、昭和17年9月本科卒業の「吉田 公」の記載があり、これは図案部に区分されている。しかし吉田の以後の活動記録・所属団体(独立美術協会、モダンアート協会等)はすべて洋画系であり、図案(デザイン)専攻から洋画家への転身がどのような経緯によるものかは分かっていない。
2026年9月、ご親族からの情報提供により、来巣会共同創設者の松井宏も東京美術学校鋳金部・昭和17年9月卒業(吉田と同期)でありながら、実際には洋画家として活動していたことが判明した[17]。東京美術学校の「科」には油画があるが「部」にはなく、吉田・松井とも卒業名簿上は油彩と異なる部に区分されているという、同じ構造の齟齬が二人に共通して見られることになる。当時の学制上「部」と「科」がどう対応していたのか(在学中の転科の可能性、非公式な工房間の出入りなど)は、東京藝術大学への問い合わせも視野に、引き続き調査中である。
### **4. 来巣会共同創設者について(解決)**
共同創設者の一人である松井宏について、2026年9月、ご親族からの情報提供により、東京美術学校鋳金部、昭和17年9月卒業で、吉田と同期であったことが判明した[17]。詳細は「来巣会」ページの該当項目を参照。
### **5. 着任日の1日の食い違い**
本人の回想(たちばな創刊号)では「二十一年十月一日」、『国校五十年史』の資料編では「昭和21年9月30日」と、着任日に1日のずれがある[3][6]。着任辞令の日付と実際の勤務開始日の違いと推測される。
### **6. 「仁王」の原画所在・制作経緯について(一部解決)**
独立美術協会第12回展(昭和17年)出品作「仁王」は、2016年配布のポストカードに記載された「国分寺 仁王」と制作年が一致することから同一作品と推測される[14][15]。2026年9月、ご親族からの情報提供により、所在が明らかになった[17]。どのお寺の仁王像を描いたものか、在学中の課題か個人制作かは、なお未確認である。また同時期の出品作「ひまはり」(昭和18年)は所在不明であることが確認された[17]。
## **関連項目**
> ● 来巣会(吉田が創設・主宰した美術グループ)
>
> ● 国高OB美術展(吉田を中心に発足した国高OB美術展の歴史)
>
> ● 東京都立国立高等学校(吉田が34年間美術科教諭を務めた学校)
>
> ● 依田 純(教え子であり、来巣会会員、追悼文の執筆者)
## **参考資料**
1. 国高同窓会会報「たちばな」第42号、2001年9月5日発行、依田 純「吉田 公先生を偲ぶ」
2. 国高同窓会会報「たちばな」創刊1号、昭和56年9月15日発行、吉田 公「国高と共に三分の一世紀」
3. 『国校五十年史』、1991年3月31日発行(東京都立中央図書館)
4. 『多摩の作家250人:たましんギャラリーの10年を彩った芸術家』たましんギャラリー、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション)
5. 国高同窓会会報「たちばな」第42号(同上)、および『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)1992年5月20日発行、吉田 公「二十周年記念に祝杯を!」
6. 国高同窓会会報「たちばな」創刊1号(同上)
7. 国高同窓会会報「たちばな」第8号、昭和59年6月15日発行、宮本和郎×吉田 公対談
8. 「国立高校OB美術展の足跡」(掲示パネル・年表)、第30回国立高校OB美術展、2026年
9. 東京美術学校・東京藝術大学美術部卒業者名簿(昭和17年9月本科卒業分)、東京藝術大学
10. 「國高芸術2016 第20回記念国立高校OB美術展」吉田先生紹介文、2016年
11. 『美術年鑑』1974〜1988年版、美術年鑑社(各年版、来巣会名簿内記載)
12. ご親族への聞き取り情報、2026年7月(未公表、ネルペディア内部資料として保管)
13. 「依田 純 参加展覧会 年表」(依田家所蔵資料、未公表・ネルペディア内部資料として保管)
14. 東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』、中央公論美術出版、2006年
15. 国立高校OB美術展第20回記念展(2016年5月25〜29日、三鷹市芸術文化センター)遺作コーナー展示作品ポストカード(ご親族制作・配布、未公表・ネルペディア内部資料として保管)
16. ご親族による記録(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
17. ご親族からの情報提供、2026年9月16日(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
*※このページは調査の進行にあわせて随時更新されます。誤りのご指摘、資料のご提供など大歓迎です。*