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# **依田 純(よだ じゅん)**
> *毎年来巣展は予め決まっているのに、制作の方は毎回見切り発車の連続で、*
> *いつの間にか二十周年を迎えました。*
>
> *来巣会二十周年記念誌『来巣20th』(1992年発行)
> 依田 純「多くの出会いに恵まれて」より*
> **お断り**
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依田純(よだ じゅん、1936年5月29日-2006年1月26日)は、東京都八王子市を拠点に活動した洋画家。長野県に生まれ、都立国立高等学校在学中に吉田公(よしだ ただし)に、のちに東芝府中工場美術部にて久保田九一(くぼた きゅういち)に師事した。1976年より美術グループ「来巣会」に参加し、来巣会二十周年記念誌の編集を務めたほか、両恩師それぞれの節目に寄稿文・追悼文を執筆している。晩年の作品は美術評論家3名によりそれぞれ専門誌上で作品評を得ている[1][9][10][11]。
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## 概要
依田純は、高校時代の師・吉田公と、社会人になってから師事した久保田九一という二人の師のもとで画業を積んだ。この二重の師系は、依田純を来巣会(吉田系)と東芝府中の美術サークル(久保田系)という2つの世界をつなぐ存在にしていたとみられる[1][2][4]。
両恩師との関係の深さは、それぞれの節目に依田純自身が寄稿した文章にも表れている。1993年、久保田九一の画業60周年を記念する会報特集号「ら・せぞん」に「久保田先生の画業60周年によせて」を寄せ、2001年には吉田公の逝去に際して国立高校同窓会報「たちばな」に追悼文「吉田公先生を偲ぶ」を寄稿した。このうち吉田への追悼文は、来巣会の創設事情を伝えるほぼ唯一の一次資料となっており、依田純自身が両方の美術サークルの記録者としての役割を担っていたことがうかがえる[3][7]。
来巣会においては単なる一会員にとどまらず、二十周年記念誌『来巣20th』(1992年)の編集責任者を務めた[6]。
1990年代以降、依田純個人の作品は美術専門誌『アートマインド』(ジャパンアート社)で3度にわたり評論家による作品評を得ている。これは来巣会という団体には確認されていない、依田純個人に対する独立した第三者言及にあたる[9][10][11]。これに加えて、国立高校同窓会報(1984年)や勤務先・東芝の取材を受けた業界誌記事(1989年)にも、依田純の絵画活動を裏付ける独立した記述が確認できる[12][13]。
また、1997年からの約3~4年間は喉頭癌の治療のため長期入院を経験し、声と通常の摂食機能を失うという厳しい闘病を経ている。それでも病床で絵を描き続け、退院を待たず院内で絵画展を開くに至った経緯は、本人が同病の仲間に宛てた手紙に詳しい[14]。
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## 経歴
| **年** | **出来事** |
|---|---|
| 1936年(昭和11年) | 5月29日、長野県にて出生(年金事務所の職歴原簿による)[16]。 |
| 1952年(昭和27年) | 都立国立高校美術部にて吉田公に師事[1][8]。 |
| 1955年(昭和30年) | 国立高校卒業[1][7]。 |
| 1956年(昭和31年) | 12月7日、東芝府中工場入社(職歴原簿による)[16]。 |
| 1960年(昭和35年) | 東芝府中工場美術部にて久保田九一に師事[1][4]。 |
| 1968年(昭和43年) | 『第21回創造展』に「山塊」を出品、新人賞・クサカベ賞受賞。恩師・久保田九一も同展に「群」を出品し会員賞を受賞しており、師弟そろっての入賞であった[1][5]。 |
| 1976年(昭和51年)~1998年 | 恩師・吉田公が立ち上げに関わった美術グループ「来巣会」に参加[1][6](美術年鑑掲載では1976~1987年活動分まで確認、家族記録では1998年まで在籍)。 |
| 1984年(昭和59年) | 国立高校同窓会会報「たちばな」臨時号(12月5日発行)の同期近況欄(E組)に、同年5月に銀座で来巣展に出品したことを記す[12]。 |
| 1985年(昭和60年)~1994年 | 主に来巣会メンバーによる「五人展」に参加[1]。 |
| 1989年(平成元年) | 東芝青梅工場のOT-CIM(統合生産システム)プロジェクトメンバーとして、情報処理・制御システム生産管理部長付の肩書きで『日経コンピュータ』誌(5月8日号)の取材記事に登場。「若い頃から絵が好きで、本当は芸大に行きたかった」との談話も掲載[13]。 |
| 1991年(平成3年)4月1日 | 東芝本社退職。同日付で東芝エンジニアリング株式会社へ入社(職歴原簿による)[16]。 |
| 1992年(平成4年) | 来巣会二十周年記念誌『来巣20th』の編集責任者を務める[6]。 |
| 1993年(平成5年)12月 | 東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」特集号(久保田九一画業60周年個展記念号)に「久保田先生の画業60周年によせて」を寄稿[3]。 |
| 1995年(平成7年) | 「幹の会」に参加。以後、個展も開催[1]。 |
| 1996年(平成8年)6月1日 | 東芝エンジニアリング株式会社を退職(職歴原簿による)[16]。 |
| 1997年(平成9年)6月~2000年頃 | 定年退職の直後、喉頭癌の診断を受け即入院。以後、放射線治療20回・手術13回に及ぶ治療が続いた(本人は2001年の追悼文の中で「定年直後に4年越しの入院生活」と振り返っている)。1998年10月23日~12月6日を第1期、12月7日~12月31日を第2期とし、作品を入れ替えながら立川病院2階の廊下(浴室前の広いスペース)にて本人の絵画展(約30点)を開催[7][14][17]。 |
| 2001年(平成13年) | 6月20~24日開催の第6回国立高校OB美術展(三鷹市美術ギャラリー、4月に逝去した吉田公の遺作も展示された回)に出品[15]。同展にて恩師・吉田公への追悼文「吉田公先生を偲ぶ」を発表(国立高校同窓会報「たちばな」第42号、9月5日発行に掲載)[7]。12月17日、心夢会(同病の仲間の会)宛てに闘病を振り返る文書を執筆[14]。 |
| 2005年(平成17年) | 恩師・久保田九一の弟子たちによる「ら・せぞん展」に参加[1]。 |
| 2006年(平成18年) | 1月26日、逝去[1][6]。 |
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## 師系・人脈
| **師** | **時期・場** | **略歴** |
|---|---|---|
| 吉田 公(よしだ ただし) | 1952年~/都立国立高校美術部 | 大正8年(1919)生(2026年7月のご親族への聞き取りで確認。『美術年鑑』には大正9年〈1920〉生と記載)。東京美術学校卒(昭和17年9月・戦時繰り上げ卒業。卒業者名簿上は図案部だが、以後の活動記録はすべて洋画家としてのもので、この食い違いは未解明)。独立美術協会・モダンアート協会を経て、松井宏と共同で来巣会を創設・主宰(2026年9月、ご親族からの情報提供で確認。松井も同じく鋳金部卒〈昭和17年9月〉で同様の食い違いがある)。国立高校美術科教諭(昭和21~55年)。2001年4月29日逝去。詳細は「吉田公」ページ参照[2][8][18]。 |
| 久保田九一(くぼた きゅういち) | 1960年~/東芝府中工場美術部 | 明治44年(1911)茨城生まれ。没年は府中市美術館の記録では1994年、美術部関係の案内状は1995年を示唆しており確定していない。川端画学校卒。独立美術協会を経て自由美術会員。府中市美術館に所蔵作品4点あり。東芝府中工場美術部の顧問を務めた経緯は資料が乏しく不明な点が多い。詳細は「久保田九一」ページ参照[2][4]。 |
高校時代の師である吉田公は東京美術学校を卒業し(昭和17年9月、戦時下の修業年限短縮による繰り上げ卒業)、独立美術協会・モダンアート協会を経て来巣会を主宰した。専攻分野(洋画・図案いずれか)は名簿類だけでは確定できておらず、今後の調査課題である[2][8]。
社会人になってから師事した久保田九一は、独立美術協会展に出品を重ねたのち自由美術会員となった画家で、府中市美術館に所蔵作品4点がある。東芝府中工場の社内美術部にどのような経緯で招かれ、どのように活動していたかは、東芝側にも記録が残っておらず、多くが不明のままである[2][4]。
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## 来巣会における役割
依田純は1976年に来巣会へ参加して以降、長期にわたり出品を続けた(美術年鑑では1976~1987年活動分まで確認済、家族記録により1998年までの在籍が確認)。1992年の二十周年記念誌『来巣20th』では編集責任者を務め、会員それぞれの寄稿を取りまとめた[6]。
2001年、来巣会創設者の吉田公が逝去した際には、国立高校同窓会報「たちばな」第42号に追悼文「吉田公先生を偲ぶ」を寄稿した。この文章は、来巣会が「芸術大学時代の友人と二人が中心になって」発足したことを伝える現存する数少ない記述であり、来巣会の成立事情に関する重要な一次資料となっている[7]。
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## 闘病と晩年
1997年6月、依田純は毎年欠かさず受けていた人間ドックで異常が見つからなかった直後に、喉頭癌の診断を受けて即入院した。以後、放射線治療20回、手術13回という厳しい治療が続いた。2001年の追悼文の中で、依田純自身はこの時期を「定年直後に4年越しの入院生活」と振り返っており、勤めていた会社の定年退職とほぼ同時期の発病だったことがうかがえる[7]。当時の様子を、本人は同病の仲間たちに宛てた手紙にこう記している。
> *「頸動脈から多量の出血をした時はもうダメかとも思われたようです」*
治療の結果、声と、食べ物を通常の形で摂る機能を失った。それでも「話しは出来なくても絵は描けるだろう」という周囲の励ましを受け、点滴を受けながら病床で花や風景をスケッチし続けた。婦長と家族の協力を得て、立川病院として初めての試みとなる絵画展を院内で開催。1998年10月23日~12月6日を第1期、12月7日~12月31日を第2期とし、作品を入れ替えながら2階の廊下(浴室前の広いスペース)で約30点を展示した。患者や病院関係者から喜ばれ、大きな励みになったという[14][17]。
同じ病で同時期に入院していた仲間3人のうち、退院後に2人の訃報を知ったときは深いショックを受けたことも記している。2001年12月の時点では、自宅周辺の散歩は一人でできるまでに回復しており、東芝時代にOT-CIMプロジェクトで培った経験を活かし、声を出せない中でもEメールで家族や知人との連絡を絶やさなかった。手紙は次の言葉で結ばれている。
> *「21世紀に何とか生き延びたので、来年からは油絵のキャンバスにも向かう時間も多くとりたいと考えています」*
2001年は依田純にとって恩師・吉田公との別れの年でもあった。4月に吉田が逝去し、6月の第6回国立高校OB美術展で吉田の遺作展示が行われると、依田は闘病の渦中であったが出品し、恩師への追悼文を発表。追悼文は9月発行のたちばな42号に掲載された。[7][14][15]。
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## 出品歴・所属団体
- 自由美術・創造美術(出品)
- 来巣会(1976年~1998年)
- 五人展(1985年~1994年)
- 幹の会(1995年~)
- ら・せぞん(1993年、久保田九一画業60周年記念号に寄稿/2005年、ら・せぞん展に参加)
- 国立高校OB美術展(吉田公を中心に1995年発足。第1回〈1995年〉、第4回〈1999年〉、第5回〈2000年〉、第6回展〈2001年〉に出品)
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## 評論・批評
依田純の作品は、美術専門誌『アートマインド』(ジャパンアート社)に1990年代から2000年代にかけて3度、評論家による個別の作品評として取り上げられている。評者はいずれも美術年鑑の評論家連盟欄等に経歴が確認できる専門家である(ばんのなおこについては経歴の裏付けが未確認)。以下に掲載順を示す。
| **評者** | **掲載** | **評された作品/内容** |
|---|---|---|
| 鈴木仁一 | アートマインド(ジャパンアート社)1992年3月 No.60「作家展望」 | 第19回来巣展出品作「安曇野快晴」(F50)を評。望郷をテーマとした画面構成に言及[9]。 |
| ばんのなおこ | アートマインド 1995年11月 No.82「自然へのメッセージ」 | 欧州・中国取材作品群(「ロバのいる街角」「木陰」「教会のある港町」「カペル橋」「安曇野の春」)を評。あわせて依田純の略歴を掲載[10]。 |
| 長谷川栄 | アートマインド 2004年5月 No.133「2004・ベストアーティスト」 | 「コート・ダジュール眺望(南仏・エズ)」(F30)を評[11]。 |
これら3本の評は、団体としての来巣会には確認されていない、依田純個人に対する独立した第三者による有意な言及にあたる。掲載作品はいずれも国内外の風景・旅先スケッチを主題としており、望郷・自然への眼差しといった評者間で共通するテーマが見出せる[9][10][11]。
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## 同窓会報・社内報での言及
依田純の絵画活動は、来巣会関連の一次資料以外にも、複数の独立した記録によって裏付けられている。国立高校同窓会会報「たちばな」臨時号(1984年12月5日発行)の同期近況欄では、依田自身が「ビジネスに追はれている毎日ですが、美術の吉田先生を中心にした『来巣展』には参加しています。先五月には銀座に絵を並べました」と記しており、来巣会と吉田公との師弟関係を、依田純本人の言葉で1984年の時点ですでに確認できる[12]。
また、本業であった東芝でのキャリアを伝える資料として、『日経コンピュータ』1989年5月8日号の特集記事がある。同記事は東芝青梅工場のOT-CIM(統合生産システム)プロジェクトを取材したもので、依田は情報処理・制御システム生産管理部長付として紹介され、「受注の見込み違いをなくすには、これまでの業務体制を変革する必要がある」との発言が引用されている。あわせて写真付きの談話欄では「若い頃から絵が好きで、本当は芸大に行きたかったんです。今でもグループ展を開いたりしています」との言葉が掲載されており、本業の傍らでの絵画活動が、家族以外の独立した第三者取材によって裏付けられている[13]。
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## 作品
依田純の作品の著作権はネルペディア運営者(依田純の子)が相続・保有しており、他の会員作品と異なり自由に掲載できる。代表作の画像は今後このセクションに追加予定。
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## 資料:依田純「心夢会」宛書簡(全文)
「闘病と晩年」で触れた書簡の全文。心夢会(同じ病で入院した仲間たちの会)の再会の場に宛てて、依田純が3年越しの入院生活を振り返って綴ったもので、闘病の経緯だけでなく、院内絵画展の開催や、退院後の暮らしぶりまでが本人の言葉で詳細に記されている貴重な一次資料である[14]。※文中の会員名は伏字にしている。
> 心夢会 各位殿
> 本日は幹事のYさんのご配慮のお陰で、思いがけず皆さんとの再会の機会を与えて頂き感激しております。
> 私は97年6月に入院する迄は毎年人間ドックの健診で異常なしだったので健康には自信があったのでのですが、まさか喉の癌の診察で即入院となり生死の境をさまよう3年越しの非常に苦しい入院生活になるとは思いませんでした。担当医師に人間ドックの話しをしたら、喉の癌検査はオプションとのことで、通常の人間ドックだけでは安心できないことを知らされ、折しも勝新太郎が同病で亡くなったばかりで大変ショックでした。
> この為、放射線治療を20回、手術を13回を重ねた結果なんとか生きて退院できましたが、その間、頸動脈から多量の出血をした時はもうダメかとも思われたようです。声は失い食道は狭くなり、流動食と手術の後遺症で身体のバランスも崩れ体力不足のため、皆さんとの再会は諦めていました。
> 頸動脈の止血手術の時には医師から半身不随の可能性を予告されていましたが、幸いリハビリで手足は動かせるようになりました。
> 話しは出来なくても絵は描けるだろうと励まされ、病院の中で点滴をしながら花や風景をスケッチ等して気を紛らわしていましたが、とくに婦長さんと家内の絶大な協力を得て立川病院としても初めて約30点の絵画展を2ヶ月間開催でき、患者さんや病院関係者からも喜ばれたことはすごく励みになりました。しかし、同じ病気で同じ時期に3人が入院していてお互いに励ましあっててきたのですが、私が退院後お二人の訃報を聞いた時は本当にショックでした。
> 退院して約2年経ちますが自宅周辺の散歩は一人で出来るようになりましたが、電車での遠距離は家内からまだ許可されません。駅や歩道橋のエスカレータやエレベータの有り難さを痛感しています。
> また、自宅ではOT-CIMの経験のお陰でインターネットのE-メールが随分役立っています。声が出せないので電話も使えず、子供達や知人との連絡には欠かせません。願わくばこの自分の文章などを音声に転換してくれる携帯端末があるととても助かるので、青梅工場からでも格安で早く出ないかな、と願っている此頃です。
> 21世紀に何とか生き延びたので、来年からは油絵のキャンバスにも向かう時間も多くとりたいと考えています。
> 兎に角、自由に動け、話せ、食べられる健康の重要さを痛感し、とくに声が出せなくご迷惑をおかけしますが今後ともよろしくお願いいたします。
>
> 2001年12月17日
> 依田 純
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## 今も分かっていないこと(調査中の論点)
### 1. 恩師 吉田公の画業根拠
東京美術学校における卒業者名簿上の専攻分野は「図案部」となっており、洋画家としての活動記録との整合が取れていない。2026年9月、来巣会共同創設者の松井宏も同じく卒業名簿上は鋳金部でありながら洋画家として活動していたことが判明し、同じ構造の齟齬が二人に共通することが分かった。美術年鑑に記載しているモダンアート協会での活動記録が見つかっていない。詳細は「吉田公」ページ参照。
### 2. 評論家ばんのなおこの経歴・身元
美術年鑑1995年版の評論家欄には名前が見当たらず、経歴の裏付けが取れていない。
### 3. 恩師 久保田九一の没年と東芝府中工場美術部の活動実態
久保田九一の没年は1994年(府中市美術館)とする資料と1995年を示唆する資料(美術部関係の案内状)とがあり、確定していない。また久保田がいつ、どのような経緯で東芝府中工場美術部の顧問となったのかも、東芝側に記録が残っておらず不明のままである。詳細は「久保田九一」ページ・「東芝府中工場美術部」ページ参照。
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## 関連項目
- 来巣会(依田純が長年参加し、20年文集編集も務め、創設者・吉田公への追悼文も執筆した美術グループ)
- 吉田公(国立高校時代の師、来巣会創設者、追悼文の執筆対象)
- 久保田九一(東芝府中工場美術部での師、画業60周年記念文集への寄稿対象)
- 東芝府中工場美術部(久保田九一のもとで画業を積んだ場)
- 国立高校OB美術展(第6回展〈2001年〉に出品)
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## 参考資料
1. 依田純 経歴資料(ネルペディア内部資料、依田家所蔵)
2. 『多摩の作家250人:たましんギャラリーの10年を彩った芸術家』たましんギャラリー、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション)
3. 東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」1993年12月特集号(久保田九一画業60周年個展記念号)、依田純「久保田先生の画業60周年によせて」
4. 府中市美術館収蔵作品データベース(久保田九一)
5. 『美術年鑑』1969年版、美術年鑑社/東京文化財研究所所蔵 第21回創造展図録(1968年)/創造美術会発行 新人賞(クサカベ賞)賞状(依田純宛、昭和43年6月30日付、依田家所蔵)
6. 『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)、1992年5月20日発行
7. 国立高校同窓会会報「たちばな」第42号、2001年9月5日発行、依田純「吉田公先生を偲ぶ」
8. 東京美術学校・東京藝術大学美術部卒業者名簿(在籍者一覧データベース)、および2026年7月・吉田公先生ご親族への聞き取り
9. アートマインド(ジャパンアート社)1992年3月 No.60、鈴木仁一「作家展望」
10. アートマインド 1995年11月 No.82、ばんのなおこ「自然へのメッセージ」
11. アートマインド 2004年5月 No.133、長谷川栄「2004・ベストアーティスト」
12. 国立高校同窓会会報「たちばな」臨時号、昭和59年(1984年)12月5日発行、同期近況欄(E組)※この号は国高同窓会事務局では保管されていない資料であることを2026年9月に確認済み(依田家所蔵の現物による)[18]
13. 「部門間の対立を乗り越えて 市場と工場を太く短く結びつける」(東芝・青梅工場のOT(青梅トータル)-CIMのプロジェクト・メンバー)、『日経コンピュータ』1989年5月8日号、pp.156-157、加古川群司
14. 依田純「心夢会」宛書簡、2001年12月17日付(ネルペディア内部資料、依田家所蔵)
15. 「国立高校OB美術展の足跡」(掲示パネル・年表)、第30回国立高校OB美術展、2026年、および「依田純 参加展覧会年表」(依田家所蔵資料、未公表・ネルペディア内部資料)
16. 依田純 職歴原簿(年金事務所問合せ)、ご親族による確認情報、2026年9月(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
17. 立川病院絵画展の会期・会場に関するご親族の確認情報、2026年9月(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
18. 国高同窓会事務局からの回答(佐久間清俊事務局長)、2026年9月18日(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
*※このページは調査の進行にあわせて随時更新されます。誤りのご指摘、資料のご提供など大歓迎です。*