夜、今日の事件の報告書がある程度形になり、ハルは休憩がてら食堂へ向かう。フードコートのような席配置で、その中央には受け取り口がある。ルドベキア隊の食堂では隊別の日替わりメニューが用意されている。食堂のおばさんは隊服の色をみて、食事を差し出した。今日は鶏肉とほうれん草の炒め物と味噌汁、デザートは四角いレモンケーキ。悪夢化事件の影響もあり、人数はまばらでいつもは埋まっている人気の席も空いている。せっかくだからとそこに座って食事をとっていると、オレンジ色の髪の少女がハルに話しかけてきた。
「あの、すみません。7番隊のジョーカーさんに4階医務室に行くように伝えてもらうことって出来ますか?」
少女は申し訳なさそうに、食事をとるハルに頭を下げる。どうやらジョーカーに関わることを恐れているようだ。
「え?あぁ……はい」
「わぁ、よかった。7番隊の人って怖い人が多いから、お願いしづらくて……」
ハル自身、不愛想ゆえに見た目で勘違いされることが多いけれど、7番隊の中ではまだ”話しかけやすい人物”のようだ。その感覚がなんとも新鮮でハルは少し嬉しそうな表情を浮かべた。
その少女は「あっ」と何か気が付いたような表情をして、呼び出す理由を慌てて付け足す。
「今日出動した隊員の弱体化に関して……ちょっと身体検査が必要みたいで」
「そうなんすか。俺も一応出動したんすけど……いいんすかね」
「えっ?あっそっか、えっと、じゃあ来てもらった方がいいのかな、どうしよ」
彼女はわたわたと少し狼狽える。ハルがそれをぽかんとして見ていると背後から聞き慣れた声が響いた。
「おっ、ハルくんじゃーーん!おっつかれ~」
それはダンプカーのようにハルにぶつかる。そんなことする人が一体誰なのか、ハルは振り返らなくてもわかった。
「いっ……てぇ……おい、ジョーカー」
ハルが怒った様子を見せるとシレネは楽しそうにハルの頭を撫でる。
「まーまーそんなピリピリしないでよ。俺が楽しくなるだけだよ?」
口でも力でも敵うことのない相手に今更ムキになることもなく、ハルは「あ、そうだ」とあっさり気持ちを切り替えた。
「ジョーカー、なんか4番隊が身体検査受けろって」
ハルの切り替えの早さにつまらなさそうな顔をしたあと、さらに面倒な依頼にシレネは気だるげな表情を浮かべた。
「はぁ?めんどくさ」
「で、結局俺も行った方がいいんすかね?」
「えっとえっと、とりあえず来てもらってもいいですか…?」
彼女は通信用ピアスで確認を取るという手段がすっかり頭から抜けているようで、ハルにも4階の医務室に向かうよう要請した。シレネは「ハルくんが行くなら行こ〜」と楽しそうにハルの肩に手をまわす。わざとらしく体重をかけるシレネに鬱陶しそうに応えながらも、それを振り払うことはしなかった。
4階に到着すると多くの隊員がベッドに横たわっていた。今日の悪夢化事件により負傷した隊員も少なくない。身体検査は別日でもいいのではないかと思うほど、バタバタと忙しそうにしている。中でも知り合いの姿が視界に入り、ハルは足を止めた。
「あ、あれ、一番隊の」
ハルがその先を指差す頃にはシレネはもうそちらへと向かっており、楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「ローズにイキシアじゃん!なになにもしかして死にかけたの!超ウケる!!」
「あーー厄介過ぎるのが来た。頼むから黙ってくれ」
イキシアはベッドの横に腰掛けており、シレネと目が合うとすぐに目を逸らして、シッシと2人を払いのけた。その横のベッドにはいつもは難解な言葉をツラツラと並べ、自信と活気にあふれた様子で話しかけてくるローズが今日はベッドの上で大人しく横たわっていた。
腕には点滴に使用するような針が刺さっていたが、そこからは薬剤を投与されているのではなく、逆に血を抜かれており、献血をしているような状態だった。7番隊隊長、アザレアと同じ体質である「流血の体質」を持つローズは逆に血を流すことで回復力が向上するためだ。できるだけ痛みの少ない方法で彼女の回復力を底上げしている。
「ローズ、どうしたんすか」
「お前らに関係ねーだろ」
イキシアは心配からか非常にピリピリしている様子だった。イキシアが答えない代わりに、近くで別の処置をしていた女性がローズの状態について答えた。
「ローズちゃんとイキシアくんね、特に弱体化の影響が強くって。瀕死状態で5番出口に駆け込んできたのよ。イキシアくんも体質発揮過多になってるんだから、横になってたらって言ってるんだけどね」
「うるせーなぁ……」
「最近はだいぶ丸くなったと思ってたけど、まだまだ口が悪いのね」
イキシアは子ども扱いされ、舌打ちをすると椅子から立ち上がり、隣のベッドへ横になった。
「ローズちゃんはもともと身体が弱いから、大怪我による発熱の方が今は心配なくらい。よっぽど命に関わることはないけどね」
「よかったっすね」
「……」
シレネは何か考え事をしながら、その話を珍しく黙って聞いていたかと思うと、すぐにいつもの飄々とした笑顔に戻ってイキシアに尋ねる。
「お前ら、どこで戦ってたの?」
シレネの問いにイキシアは答えずに黙り込んでいた。元々イキシアはあまりシレネが得意ではない(得意な人などほぼいないが)。ローズを心配する感情や体質発揮過多の影響による倦怠感で機嫌が悪いイキシアはいつにも増してシレネを嫌厭していた。イキシア自身の精神状態が安定しない今、シレネが余計なことを言うに違いないと、彼の言葉に耳を傾けない選択を取った。答えないイキシアに対し、どうしてやろうかとシレネが口角をあげたが、イキシアとは別の方向からシレネの問いの答えが返ってきた。
「ローズたちは……5番出口の側で、経路確保と、ナイトメアが流出しないよう、務めていたぞ」
ぼんやりとした目線はシレネに向いている。アルビノである彼女の頬は通常の人より真っ赤に染まり、より苦しそうに見える。呼吸のペースも早く、目の焦点も合わないが、シレネはそのローズの状態を見て嬉しそうにした。
「おぉ、なんだローズ。元気そうじゃん」
ローズが横たわるベッドに座って、彼女の頬をぺちぺちと叩く。その瞬間、イキシアはバッと起き上がり、激しい警戒心をシレネに向けた。シレネは一瞬驚くと、堰を切ったように笑い出した。
「あっははははっ!そんな警戒すんなよ、ローズを殺すわけないじゃん!やるならもっと楽しみたいよなぁ?なぁ、ローズ」
ローズはゆっくりとイキシアの方へ目を向け、揶揄うようにふっと笑った。
「いきしあ、何を憂惧している……?ローズは達者だぞ」
ローズの言葉を受けて「よく言う…」と、呆れるような、煙たがるような表情を浮かべた。イキシアは自分がシレネに対し激しい嫌悪感を抱いたことで、より倦怠感が増していくのを感じる。ローズとイキシアの治療を担当する4番隊員はシレネにベッドから降りるように指示をして、オレンジ髪の少女に微笑んだ。
「身体検査はあっちの部屋でやってるから。アンズ、よろしくね」
「はいっ」
アンズと呼ばれた少女はやる気に満ちた声で返す。その時初めて彼女の名前を知ったハルは軽く自己紹介をした。
「あっ、そういえば初めましてだったね。私はアンズです。でも7番隊の人たちの名前はみんな知ってるよ」
シレネはベッドから降りるとアンズに目線を合わせて尋ねる。
「へぇ。じゃ、俺の名前も知ってんの?」
アンズはそう聞かれるとぎゅっと身体を強張らせ、半歩下がる。明らかに怖気づいたアンズに助け舟を出すように、ハルはシレネの肩を掴んだ。
「ジョーカー……あんまりいじめるなよ……」
「あっはは、人聞き悪いなぁ。いじめてないよ」
そんな会話をしていると、アンズの先輩はリストを見ながら、「あら?」と不思議そうな声をあげた。
「ハルジオンくんは身体検査対象じゃないみたいよ。今日、14時半以降に出動した隊員は対象外らしいから……7番隊はジョーカーだけね。何か気になる症状は?」
「え、特にないっすね」
「じゃ、帰って構わないよ。ごめんなさいね、アンズが間違えて連れてきちゃったみたい」
先輩は困ったように笑いながら、リストを閉じる。「きちんと確認するのよ」と軽く注意を促されたアンズは、焦ったようにハルに謝罪の言葉を告げ、すっかり落ち込んでしまった。帰ってもいいと言われのでその場から離れようとすると、背中の方でシレネからのブーイングの声が投げられた。気まずそうな表情を浮かべつつも、ハルは一度も振り返らずに自室を目指す。
(……明後日、今日殉職した隊員の葬式やるって言ってたな。………。正直言って、ゾッとする。それがジョーカーとか、グレだったりしたらと思うと)
そんなことを考えながら、改めて自分が置かれている状況について自覚する。少し疲れた様子で歩いていると、突然名前を呼ばれてハルは振り返った。
「あ〜ハルく〜ん!おつかれさま〜!」
「あ、えっとジョーカーの…」
「もーコロンって呼んでって前にも言ったじゃん〜。呼んでくれないの?」
「いや、その……すんません」
スッと名前が浮かばなかったことに対し、ハルは罪悪感を感じながらも、会話を続けた。
「今日は、なんというか……お疲れ様です」
「ほんと!お休み返上だよ〜。お兄ちゃんと居ると碌なことないよねぇ」
「……」
ハルはなんと返すべきかわからずに黙っていると、コロンはにっこりと笑った。
「あ、全然仲悪いとかじゃないよ~?」
「そーなんすか?」
「うん。たまに本気で殺してやろうかと思う時あるけど」
「……」(それは、仲悪いというのでは……?)
ハルはそんな疑問を抱いたが、それ以上は何も言わなかった。兄弟仲について話しているうちに、ハルは夕方の会話を思い出す。
「そういえば俺もちっさいころ、トランプサーカス団見に行ったことがありますよ。その時にはジョーカーたちも出てたんすかね」
コロンはその言葉を聞いた途端、殺気に近い負の感情をハルに向けた。他人の感情に鈍感なハルだが、7番隊に就いてしばらく経ち、いい加減殺気くらいは見抜けるようになってきた。
しかしハルには、何故コロンが突然殺気をむき出しにしてきたのかわからなかった。
「えっ…と…俺なんか悪いこと言いました?」
ハルの申し訳なさそうな表情にハッとなったコロンは、少しむすっとしながら「別に〜」といつもの調子をハルに見せた。わがままでかわいい女の子。それが、ハルから見たコロンへの印象だ。
「お兄ちゃんから聞いたの?」
「まぁ、はい。なんかジョーカーがサーカス時代の知り合いが今日の被害者の中にいた気がするって……」
「は?なにそれ」
結局コロンは不機嫌を全面的に出し、ハルはその様子にぎょっとする。「お兄ちゃん、今どこにいんの」と強い口調で尋ねる。その問いに答えると、ずかずかとエレベーターへと向かっていった。
その後、コロンとシレネがどんな会話をしたのかハルには知る由もないが、それからしばらくシレネの機嫌がよかったことが少し気がかりだった。
事件から数日が経ち、中央市街駅は調査を終え、復旧作業に入っていた。結局、体質弱体化の原因はわからないままだったが、6番隊の調べによると70年ほど前にも何度か同じような現象があったという。当時も原因がわからないままその現象は消えていった。その時は今よりも人口が少なく、悪夢化発生率も低かったために、そこまで大きな事件にはならなかったが、今は毎日のように悪夢化が起きており、体質の弱体化や無効化が毎度起きればルドベキア隊存続の危機である。街が一つ壊滅なんてことも再度起こりうる。
ルドベキア隊の上層部は毎日のようにその会議を行なっていた。一方で先日の悪夢化によって削られた隊員の補填が行われ、各隊に新たな隊員が入隊した。
中央市街駅での事件から丁度2週間が経った日だ。
「あのっ、あの......!ジョーカーですよね!?」
コロンは食堂から3番隊寮へ向かう途中の廊下で、背後から青髪の少女に話しかけられ不機嫌そうに足を止めた。振り返った先には、この間の中央市街駅でコロンが助けた少女がいた。妹ジョーカーだとかジョーカーの兄弟だとか、そんな呼ばれ方をすることはあれど、直接そう呼ばれたのはかなり久しぶりだった。
「あの、私……大ファンで……!」
「……何のことか知らないけど、ジョーカーなら7番隊にいるからそっち行けばぁ?」
コロンは一層冷たい態度を向ける。隣を歩いていたアリウムは表情には出さなくとも、コロンの表情が暗くなっていくのを心配していた。
「えっ……いやえっと、あの、私……白のジョーカーのファンなんです……!」
「!」
それはあのトランプサーカス団についてよく知っている者の呼び方だ。しかもコロンが白ジョーカーであると確信を持った口ぶり。トランプサーカス団が焼失したのは8年前。この少女は見たところ、7番隊のグレビレアやハルジオンより年下のように感じる。当時5〜6歳の少女の記憶なんて、たかが知れていると言いくるめようとしたその時だった。
「泣き虫ジョーカーって呼ばれてても、No.2を譲らないところが私大好きで」
コロンは”泣き虫ジョーカー”という言葉を耳にした瞬間に瞳の色を変え、青髪の少女の隊服を無造作に掴み、強く壁に押しつけた。コロンの瞳に映った少女の顔は驚きと恐怖でみるみるうちに青くなっていく。
「僕と仲良くなりたいなら、ちゃーーんと僕のこと調べておきなよ。仕方ないからひとつ教えてあげるけど、僕その名前が大っ嫌いなの。てゆーか、そう呼ばれて気分良くなるとでも思った?感情を自分勝手に押し付けて、こっちがどんな気分になるか考えなかったんだ?」
「コロン」
感情を露にするコロンをアリウムが制止すると、コロンは掴んでいた少女の隊服をパッと放して暗い表情のまま、少女に背中を向けて歩き出した。アリウムはその様子を心配そうに見送って少し悩んだあと、ズルズルと座り込んでしまった少女に目線を合わせるように座った。
「……大丈夫?……。僕もよく知らないんだけど……コロンはサーカス時代のこと全部なかったことにしたいくらい……好きじゃないみたいで」
感情をあまり表に出さないアリウムだが、少しでも少女の気持ちを落ち着かせようと軽く肩を撫でた。
「ご、ごめんな、さ」
少女は震える声で涙を流しながら、届かない謝罪を口にする。酷く動揺していた少女のことももちろん心配だが、アリウムはコロンの様子がどうしても気がかりだった。
「……コロンの方も心配だから、僕はもう行くけど、立てる?」
「は、はい……あの……一緒に謝りに行ってもいいですか……」
「……いや今は…………やめた方が……」
「そう、ですか……」
酷く落ち込むネモフィラにアリウムは心を痛め、思わずコロンの元へ向かおうとする足を止めた。
「……コロンと仲良くなりたいの?」
「……仲良く……。わか、わかりません。私っ……本当に、大ファンだったんです。サーカスがっ……なくなった後もずっとずっと……サーカスを見に行った日を毎日思い描いて眠るくらい……。この間の事件で、えっと……コ、コロンさんを見かけたとき、また会えたのが、本当にうれしくて……」
ネモフィラは声を震わせしゃくりあげながら、アリウムに事情を説明する。黙って聞いていたアリウムだったが、その言葉を聞いて驚いたように問いかけた。
「……もしかして、それだけでルド隊に入ったの?」
「……ま、周りからは、止められたんですけど……」
アリウムは衝撃と呆れが混じったなんとも言えない感情に苛まれる。「大好きだった人」がルドベキア隊にいたという理由だけで、何の保証もないのに「人殺し隊」だと酷く嫌われている部隊に入隊するなんてどうかしている。それでいて入隊後にあんなことを言われている少女をアリウムは不憫に思った。
「……君、名前は……」
「……あ、えっとネモフィラです」
ネモフィラはまだ名乗り慣れていない入隊後の名前を口にする。
「そう……。僕はアリウム……。3番隊……保護隊って呼ばれる隊でコロンのパートナーをしてる」
お互いに自己紹介をしているうちにネモフィラは少しずつ落ち着きを取り戻していった。その様子を見てアリウムはスッと立ち上がる。
「まぁ……コロンはああ見えて繊細だから……サーカスの話題は避けてくれるかな」
「ハイ……すみません……」
「僕の方からタイミング見て話してあげてって言っておく。……聞いてくれるかはわからないけど」
「!……ありがとうございます」
ネモと話し終えたアリウムは「じゃあ」と小さく会釈をして、小走りでコロン元へと向かった。コロンが去って行った方を辿っていくと、その先に目的である彼の姿を見つける。声を掛けようとしたと同時に、コロンと共にいる人物を見てアリウムは警戒心をむき出しにしながら、その人物とコロンの間に割って入った。
「アリウム、何の用?」
その人物は割って入ってきたアリウムに対してニコニコしながら尋ねる。アリウムは心底機嫌を悪くして、その問いを突っ返した。
「こっちのセリフ」
その人物とはコロンの実の兄でありジョーカーの片割れであるシレネだった。コロンの今の精神状態でシレネと会話させるのは非常に危険だと判断したアリウムは、まるで小熊を守る母熊のようにシレネを睨みつける。明らかな敵意にシレネはニヤニヤと笑いながらアリウムを見下ろした。シレネに対し畏怖や警戒故に関わろうとしない者が多い中、アリウムはコロンからシレネを引きはがそうといつも噛みついてくる。シレネはそんなアリウムを甚く気に入っていた。
シレネと対峙していたコロンはアリウムが来るまでの間、シレネに対してもネモフィラに対してもやりようのない怒りを滲ませていたが、アリウムが自分よりも警戒している様を見て、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
「アリィ、僕は大丈夫……」
コロンがそう言ってアリウムの裾を引っ張る。
「大丈夫大丈夫って言って、サーカス時代もテントに火をつけるまで自分の感情放っておいたのに、よくもまぁ今もそんな顔して“大丈夫”なんて言えるねぇ」
シレネが乾いた笑いを浮かべながらそう口にすると、アリウムは激昂を隠せずにシレネの胸ぐらを掴む。
「大丈夫じゃないってわかってるなら、なんでそんなこと」
「あはっ!あはは!んーなんで?なんでだろーねぇ?」
シレネは胸ぐらを掴んだアリウムの手首を掴んだかと思うと、そのままアリウムを壁へ投げ飛ばした。咄嗟の出来事だったが、なんとか受け身を取ってダメージを最小限に抑える。シレネに掴まれた手首以外はほとんど軽症で済んだが、手首だけは完全に折られておりアリウムは左手だけで身体を起こした。
「アリィ!!」
コロンは急いでアリウムに駆け寄ると、泣きそうな顔をしながらアリウムを抱きかかえ、身体を起こすのを手伝った。アリウムは「大丈夫」と言ったが、コロンはキッとシレネを睨みつけた。
「ほんとありえない、昔から、いつもいつも、ほんと、どうして」
文句を口にすると、コロンは耐えきれなくなってボロボロと涙を流す。
「どうしてって……俺がこんなだってわかっててコロンが俺に付きまとってきてるんじゃん。嫌ならルド隊やめるなり、他支部に異動志願するなりすればいーじゃん。そもそもルド隊向いてないんだしさぁ」
「ッ…るさい…!!うるさい!死ね!!もういい死んでよ!!お願いだから!!!」
過去を揺さぶられた直後に大切な人を傷つけられ、とうに冷静さを失っていたコロンは声を荒げてそんな言葉を放つ。それでもシレネは笑顔を崩さずにゆっくりとコロンに近づき、刃渡り30㎝ほどのナイフを召喚させてそれをコロンに手渡した。
「じゃあコロンが殺してよ」
自分と同じ銀色の瞳に、酷い表情が映る。至って真剣にそう告げるシレネに対し、コロンは改めて実の兄を「異常だ」と感じた。コロンは動揺しながら震える手をナイフへ伸ばした。シレネはコロンのそんな様子を見ると、コロンの手がナイフに届く前にヒョイッとそれを持ち上げる。
「冗談じゃん、そんな顔すんなよ」
そういってニコニコと笑うシレネに対し、コロンは一瞬だけホッとしたが、その直後じわじわと怒りの感情が湧き上がってきた。それは揶揄われていることへの憤りというよりは、自分の本心を見透かされていることに対する嫌悪感だった。シレネはナイフを消滅させるとスッと立ち上がってその場を去っていく。シレネの背中を見送ったあと、コロンはアリウムに抱きついて声を押し殺して涙を流した。
「コロン、大丈夫だよ」
アリウムは余計なことをしてしまった、と少しだけ後悔する。それでもシレネへの怒りは消えないままだった。その感情をなんとかコロンを思う気持ちに切り替えていく。
「でも」
「勝てないことわかってて喧嘩うったのは僕だから……」
アリウムの怪我はゆっくりと治っていく。彼女の「好意の体質」によるものだ。2人は手を繋ぎながら立ち上がり、コロンはアリウムの怪我を心配そうに眺めている。しかし、それと同じくらいアリウムもコロンを心配していた。アリウムはコロンのサーカス時代の話をほとんど知らない。コロン自身が話そうとしないことをアリウムがこじ開けるつもりもなかった。その気遣いが災いして、何と声をかけるべきなのかアリウムには全く分からない。
その過去を今も知る者はシレネだけなのだ。唯一コロンの過去を知る者が一番信用ならない人物だという最悪の状況に、アリウムは折られた利き手首をぎゅっと握った。ジンジンと響くような痛みがコロンの心を表しているようだった。
「……僕、コロンの努力家なところが好き」
「え」
「あの……さっきの青髪の女の子もね、同じところが好きなんだと思う」
「なにそれ、あの子の味方するの……」
「僕はずっとコロンの味方だよ」
コロンのワントーン下がった声にアリウムはすかさず返す。あまり動かない表情をニコリとさせて、俯くコロンに目を合わせる。
それはコロンとアリウムが初めて出会ったときと真逆の構図だった。アリウムはコロンが自分を抱きしめたあの日からずっとコロンの味方だった。コロンの幸せを誰よりも願っていた。
「謝りたいって言ってたよ。少し落ち着いたら話してあげて」
「……気が向いたらね」
「うん」
去っていったはずのシレネは廊下の角でその会話を聞いていた。
(青髪の女の子……ねぇ)
その少女に心当たりがあったシレネは歩みを再開させる。アリウムとコロンに出くわさないように少しだけ遠回りして、コロンがやってきた方へ向かった。自分と話す前からコロンの気分が最悪だったのは、その少女に原因がありそうだと。
しばらく歩くと、ベンチに座ってボーっとしている青髪の少女を見つけた。その少女も決してご機嫌ではなさそうだった。
「コロンと喧嘩でもした?」
シレネはまるで元々友達であったかのようにフランクに声をかける。そしてその少女の返事を聞く前に隣に遠慮なく座り込んだ。
「あ……黒ジョーカー……」
「あっはは、なるほどねぇ」
ネモフィラが自分を「黒ジョーカー」と呼んだおかげでシレネはだいたいの流れを把握した。この少女はサーカス時代の自分たちのファンで、そのことを遠慮なくコロン告げたのだろうと。何をどう伝えたのかは知らないが、コロンのあの癇癪の起こし方を見るに少女がコロンのトラウマにかなり深く踏み込んだことは確かだ。
ネモフィラは気まずそうにシレネの隣に座っていた。知りたいことはあったが、シレネもコロンと同じようにサーカス時代を恨んでいたらと考え込む。
「なに?なんか聞きたいことでもある?気が向いたら教えてあげるよ」
そんなネモフィラの心情を察したかのように、シレネは一見優しそうな笑顔を向けた。しかしその笑顔にはしっかりとネモフィラに対する警戒の感情が隠れている。ネモフィラが自分にとって必要か否かを判断するように、シレネは彼女を見定めている。
「サーカスで……何があったのか、知りたいです……」
遠慮がちに呟くネモフィラにシレネは「いいよ」といって立ち上がった。ネモフィラはその様子をぽかんと眺めている。
「知りたいんでしょ。手っ取り早いところがあるからさ」
そういって歩き出したシレネは、エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。一体どこへ向かうのか、今日4番隊に配属されたばかりのネモフィラには見当もつかなかったが、困惑したまま小走りでついていった。
ピンポンと短い電子音が鳴ると「8階、図書室です」という音声と共に扉が開いた。