「君たちが新しいJoker?」
黒髪の少年が幼い兄弟に尋ねる。年は兄弟と同じくらいだろうか。青い瞳が緊張からか、かすかに揺れている。その青色は兄弟の鏡のような銀色の瞳に 映っていた。
「僕はスペレイ……。年も近いし、面倒見るようにみんなから言われて」
スペレイと名乗った少年は言い訳がましく、恥ずかしそうに片手を兄弟に差し出す。兄弟は表情をほとんど変えずにスペレイの自己紹介を聞いていた。兄は弟が目を逸らしたのを見て、代わりに差し出された手を取った。
「よろしく、スペレイ。仲よくしようよ」
黒と金色の服をまとったジョーカーはスペレイに笑いかける。スペレイは嬉しそうに恥ずかしそうに小さく「うん」と呟いた――……。
===
2月の朝のことだ。空気の冷たさを感じてシレネは目を覚ます。朝日がカーテンを通して青く差し込む。その青を見た瞬間、既に記憶から消えかけていた夢を思い出した。夢を反芻するために、一度だけ寝返りを打って、目を瞑る。そのあとふっと笑って独り言を呟いた。
「懐かしい夢見たな」
そのまま起きるか否か、少しだけ悩んだ。今日は彼の貴重な休みの日だったのだ。しかし、シレネは重たそうに身体を起こした。聞き覚えのある足音が自室に近づいていたからだ。
案の定それは自分の部屋の前で音を止め、コンコンと扉を叩く。
「開いてる」
ベッドに腰かけたまま、そう告げたと同時に扉が開き、弟のコロンバインと目が合う。
「おはよ、おにーちゃん」
コロンは玄関先に小さなカバンを置いて、慣れた様子で短い廊下を歩いてくる。いつもは耳の横で結われたミルクティー色のお団子からツインテールを伸ばしているが、今日は長い髪を下ろして少しワックスをつけているようだ。この間”おそろい”で買った流行りのブルゾンジャケットを着て、休日用のメイクをして、明らかにお出かけ用の装いだ。
シレネは何故3番隊のコロンが7番隊寮に居るだろうかと軽い疑問を抱いたが、大方7番隊の隊長であるアザレアが入れたのだろうと後頭部を搔きむしってあくびをする。
「なに、出かけんの」
「うん、こないだ買った服着て行こ」
コロンはシレネの予定など聞かず、問答無用で手を引く。どうにか言いくるめて断ることもできるが、急ぎの用事もどうしてもやりたいことも特になく、シレネは「仕方ないな」と少しだけ笑ってベッドから足を下ろした。と、同時に今日見た夢が頭を過る。
コロンはサーカス時代を非常に疎ましく思っている。夢のことを話せば間違いなく顔を歪めるだろう。そんな想像をして、ついつい口を開こうとしたその瞬間にコロンはクローゼットをバッと開けた。
「そーこれ、やっぱめっちゃ可愛くない?」
コロンはその中から自分が着ている服と同じ型のジャケットを取り出して、掲げては言う。心底どうでもよさそうな様子でシレネはそのジャケットを受け取った。
「こーゆー……おそろいとか、ふつーカップルとかでやるんじゃないの」
「えー、いーじゃん。お兄ちゃん、顔“は”いいんだからさ」
コロンは「まぁ僕には敵わないけど」と付け足して、クローゼットの中を漁る。そのジャケットに合う服を探しているようだ。簡素で地味な服ばかりが詰め込まれたクローゼットに文句を言いながら、部屋を散らかしていく。
シレネは受け取ったジャケットを粗雑にベッドへ投げて、歯を磨きながらその光景を眺めていた。
(俺のこと嫌ってる割につきまとってくるんだよなぁ。一応、きちんと嫌われてる感じはするんだけど。……)
シレネはどうしたものかと考えながら、シャコシャコと歯を磨き、口の中の泡を吐き出す。
「そーゆー……、服とか合わせて着るとさァ」
それだけ言って口の中へ水を含み、コロンの方へちらりと視線を向ける。水を吐き出した後も、その先の言葉は敢えて言わず、コロンの反応を見る。サーカスの話題に敏感に反応するコロンのことだ。シレネのその一言で「サーカス時代を思い出すよね」という先の言葉を連想するに違いないと。
(そもそも、コロンが”おそろいで着たい”ってわがまま言ってきた時もちょっと驚いたんだけど…言った直後に「しまった」って顔してたもんなぁ)
コロンがピタリと手を止めたあとに、ふつふつと自分の身体が温かくなっていくのを感じて、シレネは口角をあげた。
「どーしたの?コロン、なんかヤなことでもあった?」
ちゃちゃっと口をゆすぎ、顔を拭いて、コロンの方へ近づいていく。コロンの頭にポンと手を置くと、彼はそれを不機嫌そうに払いのけた。
「別に。僕、外で待ってるから5分で準備してよね」
冷めた口調とワントーン下がった声。シレネの明らかな悪意にコロンは気を悪くして部屋を出ていく。散らかった服の中から適当なものを手に取って着替えながら、こらえきれずに「くく」と笑って肩を竦めた。
===
コロンに連れられてやってきたのはユスティア中央市街。彼らの所属するルドベキア隊本部から電車に乗って数分で着く大きな市街地だ。
最寄りである中央市街駅は多数の行先へと繋がっており、交通の便が良いこともあって平日でも多くの人で賑わっている。まるで宮殿のような造りをしたその駅は、ユスティア国内で最も美しい駅だと評されている。天井にはカラフルなステンドグラスが張り巡らされており、晴れた日には鮮やかな光が足元の大理石を照らす。年季の入ったレンガが敷き詰められた壁からは荘厳さが感じられるのに、どこか懐かしさすらも感じさせる。そんな美しい景色のために、何の用事がなくても一日中駅で過ごす人も少なくない。有名な観光地の一つでもある。
街で買い物を終えたコロンは、両手に大きな荷物を持ちながら幸せそうに中央市街駅を歩いていた。
「あのブランドの冬服ずっとほしかったんだよね~~あ~嬉し~」
「どー考えても悩み過ぎでしょ。結局どっちも買ってるし。もうすぐ冬おわんじゃん」
「だってかわいいんだもん」
「つーかナンパ対策で連れ回すくらいなら、もー男の格好して出かけりゃいーのに」
「はぁ?可愛い服買うんだから可愛い格好で行く方がいいに決まってんじゃん」
「そーですか」
シレネはコロン自身、女装をする理由をわかっているのだろうか、と少し冷めた目線を向ける。いつだったか、兄弟にしては似過ぎたシレネとの見分けをつけるためだと話していたが、本当のところそれだけではない。寧ろ、それが主旨ではないだろう。だとしたらお揃いの服を着せたりなんかしない。
コロンはシレネの目線に気が付かないまま、少し前を歩く。
(どうせ虚勢張ってんだろうけど…それが女装に向くのはサーカス時代に手籠めにされたからかな…それでトラウマと向き合ってるつもりになってるんだもん。ほんと、かわいいよねぇ)
そんなことを考えているとコロンはくるりと振り返って、シレネに話しかけた。
「ねぇ、そろそろお昼にしない?何食べる?」
「お好きにどーぞ」
シレネの適当な返事にムッとしながらも辺りを見渡して地図を探す。そんな時だ。
「きゃぁああああああああああああああ!!!!!!」
女性の悲痛な叫びが遠くで響く。その直後、なにかがぶつかったような破壊音が反響したかと思うと、人々が雪崩のように出口へ向かって走り出した。
コロンが状況を判断するよりもずっと早く、シレネは嬉しそうに楽しそうに呟いた。
「悪夢化(ナイトメア)だ」
離れたところから放たれている負の感情が、じわじわと心地良い熱さになってシレネの身体を巡っていく。ナイトメアーー……それは生物に対し、精神負荷が酷く掛かった時に怪物化する現象。Lv.1〜Lv.5に分類され、強力なナイトメアはさらに周囲の人間に悪夢化を促す。彼らが所属するルドベキア隊とは、そのナイトメアを討伐するための部隊である。約100年前から見られるようになった現象で、詳細については未だわかっていない。
しかし、シレネはそれの討伐に向かうわけでもなく、ただただ阿鼻叫喚を眺めて目を細めていた。楽しそうな割に嫌に冷静な彼をコロンは怪訝な表情で見つめる。
「お兄ちゃん」
「なぁに」
「増える前に早く」
「勤務時間外の武器使用も結構報告書増えるんだよね~」
「そんなこと言ってる場合じゃ…こんな人の多いところ、すぐに悪夢化が伝染する…」
コロンがシレネに対して強い口調で責め立てている途中で、また新たに悲鳴が響く。破壊音が増えたことから、ナイトメアがまた一体生まれたことがわかる。
「ハイハイ、仕方ないなぁ。コロンは本部に連絡しといてよ。悪夢化の伝染の早さからして多分、Lv3以上だし、これ以上増えんならちょっとひとりじゃきびしーから、増援呼んでおいて」
シレネが真面目に戦えば1人でLv3の相手をすることくらい大したことではないだろうが、そんな文句を言っている間にも被害が増える。コロンは何も言わずに通信機のピアスを回した。
シレネは楽しそうに右手首を耳に近づけ、武器を左手に召喚させる。人を避けながらナイトメアの方へと向かっていき、シレネの背中はあっという間に見えなくなった。シレネが離れていっても、コロンの身体には心地よい熱さが巡っている。その心地よさが、シレネからコロンに向けられる愛情の大きさを証明する。
(ほんと、ムカつく)
シレネの向かった先を睨むように見つめていると、ジジ……と線が繋がる音が耳に響く。
『はい、こちらルドベキア隊本部通信口です』
「こちら3番隊コロンバイン、中央市街駅にて悪夢化発生です。現在7番隊シレネが応戦しておりますが、至急増援をお願いします」
本部はコロンからそんな要請を受けると、大きなため息をつく。コロンはその反応にムッとしながら返答を待った。
『またジョーカーか…了解。至急出動させます』
「ちょっと、なにその反応。こっちは休みの日にわざわざ応戦してあげてんだけど」
『どうせまたジョーカーが悪夢化させて遊んでるんでしょ。まぁいいわ、あなたは一般人の避難にあたってちょうだい』
(このクソアマ……はっらたつ……)
コロンは言いたい文句を飲み込んで、小さく舌打ちをする。碌でもない兄の味方をするつもりはないが、いわれもない誹謗中傷には憤りを感じた。
『とりあえず5番出口に避難させてちょうだい』
「ハイハイ……」
既に駅は崩壊し始めている。ナイトメアによって破壊された瓦礫や破片が行く道を阻み、落下した明かりは炎へと変わった。美しい駅だと評されていたユスティア中央市街駅はすっかり見る影もない。
ざっと見たところ、既にナイトメアが5体ほど増えているようだ。一般人の避難より、シレネの手助けに向かうべきかと判断に迷う。しかし、このままナイトメアの負の気にあてられてナイトメアが増えるのも困る。一般人の避難を急ぐべきかもしれないが、たった一人でどれだけの人数を避難させられるだろうか。それならいっそ、シレネと共に1体でも多くナイトメアを討伐した方が…とコロンの頭の中はごちゃごちゃになる。コロンは一歩踏み出した足を次に動かせないでいた。まるでそれを察したかのようにコロンのピアスに交信が入る。
『コロン、ナイトメアだいぶ増えたけど、避難でいいから。よろしく』
聞き慣れた兄の声が耳に響く。シレネは一方的に要件を告げるとブツリと交信を切ってしまった。返事なんて要らないとでもいうように。
(あぁ、もう本当にムカつく)
今朝から嫌なこと続きだと、右目元に触れる。しかしそれを数えている暇もない、と足を動かした。
すでにナイトメアによって殺された人たちの死体が転がっている。ルドベキア隊員であれば見慣れた光景かもしれないが、そんな生活からはほど遠いところで暮らしている一般市民には堪える光景だろう。その被害者の中に友人や大切な人が居れば、人は容易に悪夢化してしまう。
(Lv.2以下のナイトメアなら何とか討伐しながら避難させられるはず)
コロンは安全な道を見つけては避難誘導を続ける。怪我をして動けない人を支えながら、出口を目指す。そんなことをしているうちに、ようやく他の隊員が到着し始めたようで、赤い服の隊員がナイトメアを目がけて走っていく。
そして、また聞き慣れた声がピアスから響く。
『コロン、到着した』
「アリウム!僕結構奥の方に居るし、合流はあとにしよ!」
『了解』
自分のパートナーであるアリウムや他の隊員が到着したことでコロンは少し安堵する。空回っていた頭が整っていくのを感じた。そんな時だ。
ドカァァンッ
と近くで爆発音が響く。何を判断するわけでもなく、ただ咄嗟に隣に居た少女を自分の身体で庇い、コロンは爆風を直に受ける。ガラスの破片や細かいチリなどが彼の身体を突き刺すが、コロンは少女を庇い続けた。
「大丈夫だった?」
少女を少し身体から離すと、混乱と絶望の混ざった表情をコロンに向けた。恐怖で埋め尽くされたその顔は今にも悪夢化してしまいそうだったが、コロンの顔を見るなり目を見開いて少し平静さを取り戻す。コロンは恐怖を少しでも和らげるために、優しく笑いかけた。
「もう大丈夫。怖かったね。ちょっとごめんね」
腰が抜けた少女をヒョイと持ち上げ、出口を目指す。少女は強くコロンの隊服を握りながら大人しく抱かれていた。
5番出口には既に4番隊により簡易避難テントが設置されていた。コロンは少女を4番隊に預けるとすぐに現場へ戻ろうと駅へ向かう。
しかし
「?」
突然、身体から熱が引いていく。身体処置によって身についた「魅力の体質」がなくなっていくようなそんな感覚だ。
(……ん?お兄ちゃん死んだ??)
好意や愛情を受けて身体能力や回復力が向上するこの体質が、突然発揮されなくなる理由としてまず考えられるのは、自分を愛してくれる人が死んでしまった・遠くへ離れてしまったというケースだ。しかし、負の感情を受けて身体能力と回復力が向上するシレネがナイトメアの側で死んでしまうことは、ほとんどあり得ない。
この状況で遠くへ離れる利点など存在しないが、あのシレネのことだ。くだらない理由での途中退場もあり得る話だ。死んだというより、遠くへ離れたと考える方がまだ現実的だろう。
「妹ジョーカー!」
コロンが自身の違和感に疑問を抱いていると、話したことのない4番隊員が声をかけてきた。コロンの名前は知らないが、有名なジョーカーの”妹”であることはわかるようだ。正直コロンはその通称を酷く嫌っているが、そんな素振りを見せずにかわいこぶって振り返る。
「なぁに?」
「体質、特に異常ないか?」
「!」
そう問われ、コロンは驚いた表情を浮かべる。まさに今、体質の弱体化を感じたところだ。
「ちょうど今、なんか変だって……思ったところ。他の人も?」
「あぁ、麻酔体質の奴が触っても痛いまんまだったり、俺も体質補助が上手くできなくてさ……」
「中に居る時は平気だったんだけど」
「そうか、わかった、悪かったな引き留めて」
その後もなかなか体質は戻らなかった。まったくなくなったというよりは、アクセルを踏んでも、ブレーキを同時にかけていて、加速しないような感覚だ。
(アリィかお兄ちゃんと合流しないと足手まといレベルかも……いや、いい、やれることをやらなき……)
辺りを見渡し、改めて状況を確認する。視界に入る限りでナイトメアは約7体、既に5体近く討伐されているだろうと予測できる。しかし、シレネが動いていて更に1番隊も出揃っているにしては、討伐に時間がかかりすぎている。たとえシレネが遊んでいるとしても。コロンがそう感じたころ、2番隊員であるキブシの声が脳に直接響いた。
〔全隊員に告ぐ。現在、隊員からの体質弱体化の申し出が相次いでいる。弱体化を自覚する隊員は可能な限り3番出口か5番出口へ撤退を。”動ける”と判断しても弱体化を感じるのであれば撤退を。これは命令だ。まもなく7番隊も出動する。他隊員はフォーメーション7に移行して動いてくれるかな〕
キブシのテレパシーはもはや未来予知映像に近い。キブシはフォーメーション7の詳細情報を的確に全隊員の脳へ叩き込む。それは今回起きている体質弱体化を考慮した新しい形。最終的な被害者数はおよそ5000人、死者は隊員含め150人程度になるだろうと、キブシの推測がテレパスされる。
7番隊が出動するということは、まだ息のある一般人を殺してでも、ナイトメアを殲滅するという意味だ。
この場に居るほとんどの人間が怪我を負い、瓦礫に押しつぶされている人、ナイトメアに殺されてしまった人、悪夢化してしまった人……見渡さなくても全て視界に入るくらいには現状は最悪。
数年前、集団悪夢化によって街が一つ壊滅してしまった事件をコロンは思い出していた。
この現状を見て撤退できる隊員がいるだろうか、と思った直後、また同じ声が響く。
〔既に死亡した隊員が複数人いる。弱体化してる者は黙って3番か5番出口へ行け。はっきり言って足手まといだ。ココが全壊すれば被害はさらに大きくなる。現場で動いている君たちならわかるだろうけど、今は非常に危ない状態だ。それを回避するためにも弱体化している者は必ず指定した出口へ向かえ。従わなければ、死者150人じゃ済まない〕
コロンはキブシからの牽制を受け、利き手を握りながら、出口を目指した。
全隊員に告ぐと言っていたキブシだが、彼は全隊員に同じ指示を出しているわけではない。ココに居る人間でただ一人、キブシから「死んでもここに残れ」と命令された者がいた。
「無茶言うねぇ~~俺ひとりでこの現状何とかしろって言ってる?」
『他の7番隊が到着するまで踏ん張って。君ならできるでしょ。ていうかナイトメアがそばに居て死ねるの?』
ケタケタと笑うシレネに対し、キブシは呆れたように返す。シレネはこの現状に心を痛めるどころか、非常に楽しんでいる様子を見せていた。シレネの手によって、既に6体のナイトメアが討伐されている。Lv3以上のナイトメアは1番隊でも5人掛かりでようやく討伐できる。それを1人で6体も討伐しているという事実は素晴らしい功績だろう。……しかしシレネが善人であれば、恐らくこの事件はもうとっくに収束しているだろうとキブシは予測していた。シレネはナイトメアが新たに生まれるよう、殲滅はしないで楽しんでいるのだ。
キブシは現状、最善の計画を全隊員に提示した。彼がこれ以降できるのは状況によって計画を変えることと、シレネをその気にさせることだけだ。
「ねぇ弱体化が一番起きてる隊ってどこ?4?」
シレネの問いかけに対し「おしゃべりしている暇があるなら討伐してくれ」だなんて思うが、そんなことを言って彼のやる気を損ねてしまってはいよいよGAMEOVERだ。実際、過去に彼は「つまんない」と言って悪夢化討伐を投げ出し、状況を笑って見ていたことがあった。この状況でそれをされては頭を抱えるどころでは済まない。キブシはしぶしぶ彼の問いかけに応えた。
『一番酷いのは4番隊だね、どうしてわかったの』
「さぁ、なんででしょ~か!」
ザシュッとナイトメアを切りつける音が響くと、悲痛の叫びは「ギッ」と短い声をあげて息の根を絶やした。
『残り5体だね。他の7番隊も到着したようだよ』
「あーあ、なーんだ、つまんないの。たったの数体か」
シレネの不謹慎な言葉にキブシは顔を歪める。シレネ以外の7番隊が到着したあとも数体、ナイトメアが増えてしまい、事態が収束したのはもう日が落ち始めたころだった。
「すげぇ事態だな……ジョーカーも弱体化してたんすか?」
シレネと合流したハルが尋ねる。彼のパートナーであるグレは非常に機嫌が悪そうに腕を組んでその会話を黙って聞いていた。
「ん~まぁそんなとこ」
ハルはシレネの返答に「大変だな」と労いの言葉を口にしたが、残りの7番隊員は「嘘つけ」と心の中で呟いた。
弱体化の原因をすぐに6番隊の研究員たちが解明しようと、本日弱体化が起こった隊員は追加の報告書が義務化されたようだ。
「ところでさ、今日の被害者リストとかって見れる?」
「あるだろうけど、6番隊がお前に見せてくれるかどうかだな」
「あることがわかればいーや」
暗に盗むと言っているような発言に7番隊隊長のアザレアは「おい」と一言だけ言及するが、それ以上は何も言わなかった。シレネに対しては、誰もが「言っても無駄だ」と半ば諦めている。規則も何度か破っているが、大きなお咎めはなかった。それはシレネが7番隊員として、これ以上ないほど優秀だからだ。彼がこの隊を抜けてしまったときの犠牲者数は他の隊員とは比べ物にならない。(もちろん、彼が居なければ助かった命もあっただろうが)ルドベキア隊は、何があっても彼を失うわけにはいかなかった。
「何か気になることでもあったのか?」
「被害者の中に知り合いがいた気がしてさ。ま、今日見た夢に影響されてんのかもしんないけど」
「知り合い?」
「気になる?」
シレネはハルとアザレアと3人で会話を続ける。グレは自分には関係ない、といった様子でさっさと本部に戻れないかと右足で軽く地面をたたいていた。レンも同じだ。少し離れたところの植込みの側で座り込んでそっぽを向いている。
「サーカス時代の知り合いか?」
アザレアの問いに「まぁそんなとこ」と曖昧な返事を返す。
「あぁ、そういえばジョーカーって元サーカス団員なんでしたっけ」
「まぁねー」
「ってことはあの、妹もそーなんすか?」
「そりゃね。ハルくんも聞いたことくらいあるでしょ?トランプサーカス団!」
「!小っちゃいころ見に行った気がする」
「でしょでしょ、結構有名だったんだよ~俺ら」
「へぇー」
シレネは楽しそうにハルに思い出話をする。シレネが過去の話をするだなんて珍しい、とグレも少しだけ耳を傾けていた。
“トランプサーカス団”それはユスティア国内最大のサーカス団だった。サーカスを見に行ったことがない人でも名前くらいは知っている。人気絶頂時には芸能人と同じような扱いをされるほどだった。シレネとコロンはその中でも最も人気者の「ジョーカー」の席を務めていた。熱狂的なファンも多かったが、サーカス団は”不慮の事故”により焼失してしまい、その火事によってほとんどの団員が死亡してしまった。シレネとコロンはそのサーカス団唯一の生き残りだ。
「団員は全員亡くなっていたんじゃなかったか」
「お、たいちょーよく知ってんね」
「まぁ」
7番隊の隊長として、もちろん隊員の過去についてはよく調べてある。しかしそれを言えば、険しい顔を浮かべる者も居るだろうと、隊長は口を噤んだ。が、しかし
「まぁ、そっか!隊長として俺らの過去はあれこれきちんと調べつくしてるかぁ」
「お前なぁ……」
シレネはわざわざ隊長が言わなかったことを、それはもう大きな声で口にする。近くで聞いていたグレは案の定眉間にしわを寄せ、3人を睨みつける。シレネがそれを見てケタケタと笑っているのと反比例して、隊長とハルは困った表情を浮かべた。
「死んだのはキャストだけね。それも目で確認したわけじゃないから本当かどうか、知らないけど」
「あぁ、スタッフは生きてるのか」
「んー、まぁ」
シレネは妙な返事を返したあと、その場を離れて別の隊へと足を運んだ。
「おい、固まってろって言われてんだよ」
「えーいーよ、先帰ってて~」
「そーゆー問題じゃねーーーーんだよ、おい、コラ待てコラ」
隊長の制止などもちろん聞かずに、シレネの背中は他隊の雑踏の中に消えていった。結局シレネが集合場所に帰ってくることはなく、全隊員は本部へと帰着した。
その日の被害者数は5041人、内18名が悪夢化、56名が死亡、99名の隊員が殉職した。
キブシの予想はほとんど当たっていたが、キブシはずっと悔しそうな表情を浮かべていた。こういった大きな事件となると、被害の責任の多くは2番隊へ行く。あの場での最善など、誰にもわからないが、外野は好き放題言うだろう。誰よりも自分を責めているのはキブシ自身だということなんて、誰も知らないからだ。