・昔は急な坂で薬研坂と呼ばれていた。
・八景坂とも呼ばれ、坂の上からの景色は大森海岸、房総半島まで見渡せた。
・坂の上の松に八幡太郎が鎧を懸けた鎧掛けの松があった。
天祖神社脇の階段道には今から100年前の当時の様子が描かれた文士達のレリーフがあります。
石井鶴三の作品をもとにした大森駅のレリーフ 大森駅は明治9年に開設されました。
石井鶴三 大正8年 大森駅山王口(現在の西口) 屋根の上には大森海岸が見え、駅には人力車が客待している。
明治末から画家たちが住みつき、大森丘の会を作り、彼らは丘の上にあった西洋建築の望翠楼 ホテルで展覧会を開催しました。詩人の日夏耿之介、日本画家の小林古径、川端龍子、真野幾太郎、版画家の長谷川潔らの芸術家同士の集いでした。彼らはこうして交流をはかっていました。
尾崎士郎と宇野千代の出会いがなかったら馬込文士村と呼ばれるほど文士達が集まることはなかったでしょう。2人は関東大震災前の大正12年に出版社で出会い、その日のうちに恋に落ち、馬込に住むことになり、尾崎士郎は作家仲間に馬込はいいところだと宣伝し、それに誘われた文士たちが馬込に住むようになり、馬込文士村を形成しました。二人の住まいは狭くも、文士仲間で四六時中賑わいました。
油絵も描く小説家であった広津和郎が馬込に麻雀を持ち込み、宇野千代、国木田虎雄、間宮茂助など共に「酒飲まぬ麻雀・花ひき」グループを形成した。
尾崎士郎、山本周五郎が中心となって、昭和6年7月に大森相撲協会を作り、文士仲間で相撲に興じました。彼らはしこ名を付け、池上本門寺近くで相撲を取りました。当時は本家の相撲協会が紛糾し関東と関西に分かれていた時代でもあり、ひ弱な文士達の大森相撲協会を応援していました。尾崎士郎はて自分には夕凪、山本周五郎には
馬込文士村には女流文士も集い、宇野千代、片山広子、吉屋信子、佐多稲子、村岡花子と、まさに女性活躍の時代を築きました。
当時は、断髪して帽子をかぶるモダンガールが銀座の女給を中心にはやり、宇野千代が馬込でもいち早く取り入れ広めました。周りの人々は彼女たちをモガさんが通ると言ってファッションの先端を行く女性たちを眺めていました。
当時は、鹿鳴館に代表する西洋化が進み、モダンなダンスが流行しました。これは衣巻省三の家でのダンスパーティの様子です。
安西啓明 大森駅前八景坂(天祖神社脇の階段道) 昭和3年
当時の神社脇の階段道は池上通りに真っすぐの階段でした。当時大森駅西口の天祖神社前の池上通りは古道のために道幅が狭く、乗り合い自動車の往来も不便でした。そこで池上通りは、昭和7年に幅4.5mから15mの道幅拡張工事が行われた。これにより神社脇の階段道は現在のように坂の途中から写真のように道に沿って曲がって階段が作られました。
ガイドからレリーフと解説を聞きながら石段を一つ一つ上り、馬込文士村の当時の様子を見ながら石段を上っ終わったたことろで、脇道から天祖神社の境内に入って行きます。
丘の上にある天祖神社です。ここは駅前の雑踏から逃れ静かです。本日のコースとガイドの紹介をします。
天祖神社では室町時代末期、八幡太郎義家が奥州征伐に際し、戦勝祈願をしました。
天祖神社の御朱印です。8種類から選択できます。1体¥300です。ご希望の方は社務所のブザーを押してください。ガイドツアー中は、時間がとれませんので、ご遠慮ください。
鎌倉時代初期、八幡太郎義家が奥州征伐に向かう際に八景坂の上で休んだときに鎧を懸けたとされる鎧掛けの松です。海には帆掛け船が浮かび、遠く房総半島が見えます。歌川広重作
八幡太郎義家が奥州征伐の際に八景坂の上で松に鎧を懸けて休んだ鎧掛の松の三代目の切り株が神社の神殿の前に添えられています。この松は現在のララビルの山王口のところにあり、ビルの建築にあたりここ天祖神社に移植されたましたが、残念ながら枯れてしまいました。
天祖神社の境内です。児童公園があり鉄棒、滑り台があります。結構広く、ここで、参加者の皆さんに馬込文士村の簡単なレクチャーをします。明治から大正にかけてかつて神社裏手にあった梅の名勝であった八景園は、当時は近隣から多くの行楽客が押し寄せました。
天祖神社の境内からみた大森駅です。ビルが建ってしまい、大森海外や房総半島は残念ながら今では見ることができません。
天祖神社裏手の山王台地に明治17年に開業した八景園、当時は関東近郊の行楽地として桜や梅の名勝地として名を馳せた。明治天皇の奥方様(明治35年には昭憲皇太后が行啓され )もお見えになられました。大正11年から13年にかけて、住宅地として売却されました。鉄道唱歌の4番には「梅に名を得し大森を」と八景園が唄われています。
下のボタンを押すと鉄道唱歌が流れます。