近年内部地区では新たに謎の石が再発見されている。時代や謂れが判明している石神や石仏の多くはは寺社にまとめて祀られているが、現地でひっそりと残っているものも多い。
この度、石神、磐座など岩石信仰研究で著名な研究者である吉川宗明氏を現地に来ていただき、あらためて専門家としての見解などを伺った。 吉川氏のブログ👈
<①杖衝坂の謎の石 >
数年前に杖衝坂石碑(昭和天皇の即位記念)の背後に大きな自然石の石板が半ば埋れているのを見つけ、たいへん気になっていた。石板は杖衝坂の中腹にあり、室町時代に坂の中腹に移転された大日堂の入口に向かう「赤道(村の生活通路)」の交わる位置にあり、なんとなくではあるが杖衝坂にかかわる謂われがありそうな佇まいである。この坂には古くは日本武尊杖衝坂伝承、弘法大師の弘法の井戸伝説(平安時代)、芭蕉の句碑建立(江戸時代)などの古い歴史も残されていることから、これらの歴史にも関係していそうにも思われる。
この石板は一見正面にはなにも刻まれておらず、ますます謎は深まるばかり。ところが先日良く調べてみたところ側面にはなんやら文字が刻まれていることを発見した。
この謎を解くべく、市立博物館の副館長と学芸員2名の方に現地に足を運んでいただき見ていただいたところ、「亥之四月十日為往生 願主久蔵」と刻まれているらしい。設置の時代やその目的ははっきりとはわからないが、刻まれた字体や内容から推定すると、江戸時代に設置されたもので、東海道で行き倒れた無名の旅人のための慰霊碑ではないかと思われるとのことであった。確かに江戸時代にはこの坂は東海道として多くの旅人が往来していて、不幸にも旅の途中で亡くなった人も少なからずいたものと思われる。この坂の界隈には数々の史跡もあり、特に大日堂という仏様を祀ったお堂もあったことから慰霊碑設置には適した地であったとも想像される。
先日、あらためて吉川氏にも見ていただいたところ、刻まれている文字からすると、以前に市立博物館の副館長、学芸員の見解と同様、江戸時代の慰霊碑の可能性が高いのではとのことであった。ただ石の表面になにも刻まれておらず、側面だけ日付けと建立者の名だけが刻まれている石は初めて見たとのことであった。また刻まれた日付は元号年はなく干支年だけが刻まれているのも少々疑問に感じたとのことであった。
また、氏によれば石の下には台座がある可能性もあるのでそれが見つかればもう少し謎も解けるのではないかとのことであった。更に周辺に散らばった大きな石についても「この石も何か意味のある石、例えば「力石」だった可能性もあるのでは」とのことであった。
この謎の石については、後日吉川氏から専門誌にて紹介していただくことになり、地域を超えて多数の方々にその存在を知っていただき、新たな知見が得られれば幸いであ
る。
<②杖衝坂の「山の神」 >
江戸時代に描かれた絵図にある「山の神」が個人の土地にひっそりと祀られていることが最近になって判明した。祀っている地元の古老の話では先代の時代にはもう少し森の斜面を登ったところにあったものを庭先に下して祀ったとのことであった。山の神本体には合掌した仏様が刻まれていて、一般にみられるような庚申塚ではなさそうで、時代や謂れはわからないとのこと。
本来「山の神」は自然崇拝の対象として自然石や文字碑であることが多いのだが、ここでは仏教的な姿をしている。これは、江戸時代以前の神仏習合(神と仏を一体として祀る考え方)の影響を強く残しているのではないかと思われる。
彫られているのは、一般的に「地蔵菩薩」あるいは「十一面観音」の系統と目されることが多いが、村の境界や山の入り口を守る「塞の神(さえのかみ)」としての性格を併せ持った、素朴な石仏としての信仰が続いていたと思われる。
今回吉川氏にも見ていただいたが、石仏そのものについては同様の見解ではあったが、なぜ他の山の神と同様に近くの釆女八幡社に合祀されなかったか、この石仏以外の五輪塔の石も同時期、同一場所に置かれたものだろうかに疑問が残るとのことであった。
<③杖衝坂に存在したもう一体の「山の神」 >
②の山の神とは別にもう一か所杖衝坂西側の斜面の中間の大きな椿の根本近くに「山の神」が存在していたそうで、十数年前ほど前に釆女八幡社に合祀され、現在は台座の痕跡すら残っていない。
今回吉川氏に来ていただいた機会に釆女八幡社まで足を延ばして、合祀されたと思われる山の神にお参りに出向いたところ、数か所の山の神が合祀されていて、右の写真が③の山の神であることが分かった。
山の神には何も刻まれていないもの、文字が刻まれたもの、仏像が刻まれたものなど多種多様であった。また立派な祠に祀られた山の神もあり、現在でも地域住民の信仰心の深さが感じられた。
ー釆女八幡社に祀られた「山の神」ー