ミューオントリガーの開発

ATLAS 検出器と事象選別(トリガー)

LHC では 1 秒間に 40,000,000 回と非常に高い頻度で陽子陽子が起きており、高い統計量を生かしてゲージボソン・トップクォーク・ヒッグス粒子の精密測定や超対称性粒子など稀に生成される粒子の探索を行っている。ATLAS 検出器は約 1 億チャンネルで構成されており、全てのデータを記録しようとすると膨大なデータ量 (1秒間に数 PB)となってしまう。一方で、全ての陽子陽子衝突で我々が興味のある事象で起きているわけではない。例えば標準模型の中でも生成断面積が大きい W ボソンの生成事象でも 1 秒間に数 10 事象程度である。そこで、陽子陽子衝突事象の中から興味のある事象のみを選別する事象選別 ("トリガー") を行うことで、記録するデータ量を大幅に減らすことができる。ATLAS 検出器のトリガーシステムはハードウェアを用いて高速にトリガー判定を行う Level 1 trigger ("L1 trigger") とソフトウェアを用いて精密なトリガー判定を行う High-level trigger ("HLT") で構成されている。

ミューオン検出器

ATLAS 検出器は陽子陽子衝突によって生成された粒子の種類や運動量・エネルギーを高い精度で測定するためにさまざまな検出器で構成されている。その中でも、ミューオン検出器は最も外側に配置されている検出器であり、磁場によって曲げられたミューオンの曲率を測定することで運動量を判定する。ミューオン検出器は 4 種類の検出器で構成されており、日本グループは高速なトリガー判定用の Thin Gap Chamber ("TGC") 検出器の建設と保守を担当している。

TGC 検出器は円筒型の ATLAS 検出器に蓋をするように設置されており、直径約 25 m の円盤状の構造をしているため、TGC Big Wheel ("TGC BW") と呼ばれている。TGC 検出器のチャンネル数は約 32 万と非常に多く、日本グループが信号の読み出し回路の設計から開発までを担当した。

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メンテナンスのために TGC BW を少しずつ動かしている様子

京都 ATLAS グループの活動

京都 ATLAS グループはハードウェアを用いたミューオントリガーのアップグレードに注力しており、特にミューオンの運動量を判定する後段回路 ("Sector Logic", "SL") の開発を進めている。Sector Logic には高速に動作する FPGA (Field Programmable Gate Array) が搭載されており、ミューオンの運動量を判定するアルゴリズムなどを FPGA に書き込むことで高速な事象選別を可能にする。FPGA は ASIC ほど高速には動作しないものの、何度でも書き込んだアルゴリズムを修正・変更可能 (Programmable) であるということが特長である。京都 ATLAS グループの学生は主にミューオンの運動量を判定するアルゴリズムの開発と FPGA に実装するファームウェアの開発を進めている。

Run3 におけるミューオントリガーのオペレーション

2022 年に開始したデータ取得期間 ("Run3") ではさらに高い精度でミューオンの運動量判定を行うため、新たに高分解能・高効率であるミューオン検出器 New Small Whell (NSW) が導入された。SL は TGC BW と NSW からの情報を組み合わせてミューオンの運動量を判定するため、回路規模の向上や受け取る情報の増加に対応できるように SL を新たに設計・開発する必要があった。Run3 に向けて新たな SL ("New SL") が開発され、京都 ATLAS グループは New SL の開発に大きく貢献した。

開発した New SL は Run3 開始までに全て無事にインストールされ、背景事象の大幅な削減に成功した。トリガーレートの削減は全体で 100 kHz のうち約 8 kHz となり、ATLAS 実験におけるデータ取得効率が約2% 向上した。

SL のメンテナンスの様子

TGC BW の上で作業する様子

高輝度 LHC に向けたミューオントリガーのアップグレード

高統計によるヒッグスの精密測定や超対称性粒子の探索を目指して、ルミノシティを大幅に向上した高輝度 LHC が 2029 年から開始予定である。ルミノシティの大幅な増加に伴い背景事象も増加するため、ミューオントリガーではエレクトロニクスを刷新する大規模なアップグレードを行う。検出器のヒット情報は全て大規模FPGA を搭載した後段回路に送信され、全てのヒット情報を用いてミューオンの横運動量の判定を行う。

京都ATLAS グループではこの後段回路の FPGA に搭載するトリガーアルゴリズムのソフトウェアにおける開発と検証、アルゴリズムのファームウェアとしての実装を進めている。

アップグレードに向けた TGC BW での作業の様子

開発した SL の試作機