はじめに
ミトコンドリアは、細胞のエネルギー代謝を支える「発電所」です。ミトコンドリアには、有機栄養素を酸素で酸化して二酸化炭素と水にまで分解し、その過程でATP(細胞のエネルギー分子)を産生する一連の酵素群が存在しています。特に、ATP合成に直接関わる呼吸鎖酵素やFoF1-ATP合成酵素は、ミトコンドリア内膜に埋め込まれています。
ヒトでは、呼吸鎖酵素複合体の機能障害がパーキンソン病や遺伝性視神経萎縮症などの重大な疾患(いわゆるミトコンドリア病)の原因となることが知られており、その基礎研究のさらなる進展が期待されています。また、呼吸鎖では電子伝達の副反応として活性酸素種が生成されることがあり、その過剰な生成は細胞傷害や疾患の発症に関与します。一方で、呼吸鎖酵素は生物に共通するエネルギー代謝の中核を担うことから、選択性に優れた農薬の標的分子として利用されてきました。近年では、医薬品の標的分子としてもその重要性が認識されています。
歴史的には、さまざまな「阻害剤分子」が呼吸鎖酵素研究の発展に大きく貢献してきました。阻害剤の作用機構の解明と呼吸鎖酵素の構造と機能の理解は、互いに補完し合いながら発展してきた関係にあります。私たちは、これらのエネルギー代謝に関わる膜タンパク質を研究対象として、特異的に作用する低分子化合物に着目し、有機合成(ものづくり)を切り口として、「化学」と「生物」の両面からその機能と作用機構の解明を目指しています。詳細を下記にまとめました。
1. NADH脱水素酵素を標的とする生理活性化合物の合成と作用機構研究
1.1. プロトン(H+)輸送型NADH-キノン酸化還元酵素(呼吸鎖複合体-I)
ミトコンドリア呼吸鎖電子伝達系の初発酵素であるNADH-ユビキノン酸化還元酵素(複合体-I)は,キノン還元を駆動力とするプロトンポンプであり,ミトコンドリアでのATP合成過程における基幹酵素です.複合体-Iの最大の謎は「キノンがどのように複合体-I内部の反応部位へアクセスし、どのような仕組みでプロトン輸送を駆動するか」という複合体-Iのはたらく仕組みが不明であるという点に集約されます。
私たちはこれまでに,光親和性標識法、トシル化学法、クリックケミストリーなどの有機化学的アプローチを駆使して、複合体-Iのプロトン輸送を生み出すキノン反応ポケットに関する知見や、ユニークな阻害剤の作用機構を世界に先駆けて報告してきました.我々はこうした知見を元に,さらに優れたプローブ分子類を開発し,構造生物学・計算化学的な手法を取り入れながら,複合体-Iが「はたらく仕組み」を明らかにしたいと考えています.本研究は,薬剤標的としての複合体-Iの理解を深めるものであり,農薬化学分野への貢献が大きいことは当然ながら,基礎研究としても高い価値を持ちます.
ウシ心筋ミトコンドリア複合体-Iの立体構造. 哺乳類複合体-Iは45の異なるサブユニットで構成され,電子伝達を担う親水性ドメインとプロトン輸送を担う膜ドメインから構成される. バクテリア複合体-Iとの共通成分である14のコアサブユニットを色付きで表記し,キノン反応部位の拡大図を右側に示した(PDB entry: 7QSK).
(A) 複合体-Iを標的とする光反応性阻害剤. 阻害剤の分子内に光反応基(赤色部分)と放射性同位元素(青色部分)を挿入しタンパク質と共有結合が可能な人工分子を設計する.(B) キノン/阻害剤結合ポケットの特異的化学修飾.阻害剤の分子内にタンパク質による求核反応のアクセプターとなる分子構造(トシル基)を組み込むことで,キノン/阻害剤結合ポケットの最深部に任意の嵩高い分子構造を導入することが可能となる. 有機化学的なアプローチから得られる複合体-Iのキノン結合ポケットの構造特性は,当該領域がタンパク質の立体構造から想像されるよりもはるかに柔軟性に富んだものであることを示唆している.
1.2. ナトリウム(Na+)輸送型NADH-キノン酸化還元酵素(Na+-NQR)
Na+輸送型NADH-ユビキノン酸化還元酵素(Na+-NQR)は,キノン還元を駆動力とするNa+ポンプであり,コレラ菌や緑膿菌など多くの病原性細菌に分布するNADH脱水素酵素です.本酵素は哺乳類ミトコンドリア中には存在しないため,選択性に優れた抗菌剤の標的分子として期待されています.私たちは,コレラ菌Na+-NQRを標的とする特異的阻害剤コロルミシンを見出し,光親和性標識実験によってその結合部位を同定しました.これと並行して,クライオ電顕単粒子解析によってコロルミシンを抱合したNa+-NQRの立体構造を初めて決定し,光親和性標識実験の結果を裏付けました.Na+-NQRの「かたち」と「はたらき」を明らかにすることは,哺乳類のエネルギー生産(つまり複合体-Iのはたらく仕組み)を理解するヒントとなります.
(A) コレラ菌Na+-NQRのクライオEM構造. Na+-NQRは6つのサブユニットと6つのコファクターから構成され,ユビキノン還元を駆動力にNa+を能動輸送する.(B) 酵素内部の電子移動(赤矢印)およびNa+移動経路(点線矢印).酸化還元依存的なNqrF, NqrD/E,およびNqrCサブユニットの構造変化がNa+輸送の駆動力となる. (C) 阻害剤コロルミシンの化学構造と結合部位周辺の構造.阻害剤結合部位を構成するNqrBサブユニットの末端部は柔軟性が高く,構造解析に十分な密度が観察されないが,阻害剤コロルミシンが結合することで安定化されて当該領域のモデル化が可能となった.(PDB entry: 7XK7)
2. ユビキノンの新たな生理機能の発掘を目指した生物有機化学研究
“コエンザイムQ”の名称で広く知られるユビキノン(UQ)は、ミトコンドリアでのATP生合成に不可欠な分子ですが,近年では呼吸鎖酵素以外にもユビキノンの酸化還元能を利用するタンパク質が存在すること明らかになりつつあり、その生理的役割の多様性が注目されています.また,ミトコンドリアで生合成されたUQは細胞内各所へ,細胞外から取り込まれたUQはミトコンドリアへ,未知の経路を介して能動的に輸送されること知られていますが,その実体はわかっていません.私たちは,呼吸鎖酵素研究で培った人工分子の合成戦略を駆使して,出芽酵母をモデルとしてUQを利用する新規なタンパク質を同定したり,UQの細胞内輸送経路の全体像を明らかにすることを目指します.こうした研究の成果は,細胞内レドックスやエネルギー代謝を司る新規な医農薬の標的分子の発掘に繋がります.
(A)光反応性UQの構造. 出芽酵母は6個のプレニル単位を持つUQ6を利用してミトコンドリアでのATP合成を行う.プレニル側鎖末端に光反応基とクリックタグ(末端アルキン)を持つpUQ5を合成した.pUQ5は出芽酵母ミトコンドリアへ能動輸送され,天然UQ(UQ6)と同様に振る舞う.(B) pUQ5で再構成された出芽酵母ミトコンドリアの光親和性標識.pUQ5の末端アルキンを足場として蛍光タグ(TAMRA-N3)を付加して,光親和性標識を受けたミトコンドリアタンパク質を可視化した.
3. ミトコンドリア膜輸送体を標的とする生理活性化合物の探索と作用機構研究
ミトコンドリア内膜/外膜上に存在するADP/ATP輸送体やリン酸輸送体,電位依存性アニオンチャンネル(VDAC)などの膜輸送体は,ミトコンドリアと細胞質の間の代謝物の輸送/透過を担うだけでなく,細胞死(アポトーシス)の反応過程にも関与することが示唆されています.「呼吸鎖酵素やATP合成酵素を阻害しないにも関わらず,ミトコンドリアレベルでのエネルギー代謝を阻害する化合物」は一連の膜輸送体を標的としている可能性が高く,我々は膜輸送体の阻害剤の候補化合物を複数報告し,これらの化合物の作用機構研究を行ってきました.こうした化合物は膜輸送体の構造と機能を紐解くツール分子となると同時に,今まで見落とされてきたミトコンドリアの機能を明らかにするための鍵となることが期待されます.
ミトコンドリア膜を構成するタンパク質群の概観とミトコンドリア膜輸送体阻害剤の候補化合物. ミトコンドリア膜には呼吸鎖酵素複合体やFoF1-ATP合成酵素に加えて,代謝物やイオンの透過・輸送を担う多くの膜タンパク質(膜輸送体)が存在する.左側パネルに示した3つの化合物はミトコンドリアレベルでのエネルギー代謝を阻害するにも関わらず,呼吸鎖酵素やATP合成酵素への阻害を示さないため,このような膜輸送体を,あるいは膜輸送体が関わるエネルギー代謝の過程を標的とする可能性が高い.