均茶庵バージョンの始まり
2013年8月に、「コケ図鑑(蘚類)均茶庵バージョン(以下、均茶庵バージョン)」の初版を完成した。そして、同年に、Okamoss 36号に紹介した。所が、均茶庵が凄く意外だったのは、コケ好きの皆さんにまるで訴えなかった事だ。問い合わせも、一件もなかった。自分では、結構使い勝手が良いなと感じ、大いに悦に入っていただけに、とても信じられなかった。しかし、均茶庵はめげることなく、「均茶庵バージョン」の時折の改訂を続けて、今では大いに進化した。その後、苔類均茶庵バージョンも完成した。均茶庵にとっては、なくてはならないコケの道具となっている。
「均茶庵バージョン」を作った理由は、実に簡単だ。一言で言うと、均茶庵の激しい老化にある。
「均茶庵バージョン」は、アマチュアの利用を大前提としている。アマチュアのコケの楽しみ方は、野外で採ってきたコケが、一体何という名前なのかを知るという、いわゆる「同定」が、大部分を占める。あるいは、同定が終わってしまったら、一件落着と言っても構わないほどだ。所が、これが思いのほか難しい。
コケの特徴を覚える事が最初だが、これが凄く困難だ。一応この段階をクリアしたとしても、老化が進むと、勉強した後から直ぐに忘れてしまう。一歩あるいては、二歩も三歩も後退してしまう。一ヶ月もコケを見ないと、汗を流して必死に覚えた内容も、まるで頭の中に残っていない。
どうしたら良いのだろうか。大いに悩んだ。脳みその状況は、今更改善しそうにもない。そう、自分の脳みそに問題があるのであったら、外部メモリーを着ければ何とかなるだろう。脳みそと外部メモリーの間の遣り取りに多少の時間がかかったとしても、問題ない。つまり、コケの特徴をPCに記憶してもらうことだ。更に、タブレットに記憶を移せば、屋外に重くて高い図鑑を持って行く必要もない。そして、こんなイメージの図鑑の出力を考えた。
均茶庵バージョンの設計
目的がはっきりしたから、PCに何を記憶させれば十分かは、自ずと決まる。先ずは、コケの写真と図版だ。不思議な事に、写真だけでは、コケの特徴を十分に把握できない。図版があって、初めて他の種との区別がはっきりする。しかし、写真と図版だけでは、微妙な変化が種の違いに繋がるコケの世界では、どうしても不十分だ。それぞれのコケを区別する特徴を、同時に短い文章で表現して置く必要がある。
図鑑の記述は詳しい。各種の間の違いを一瞬に把握するには、ちょっと面倒だ。野外には、絶対に向かない。
コケの場合には、便利な事に「検索表」が開発されている。この表を辿って、同定をするのが原則だが、この検索表と言うのが中々難解だ。種を区別するために検索表があるわけであり、そのために種間の決定的な違いをパラメーターとして使っている。従って、パラメーターが野外で、あるいは、一見しただけで分り易いかどうかは、全く考慮の外だ。例えば、ミノゴケMacromitriumは、外蒴歯の有無から入る。蒴が付いていなければ、そこで終わりだ。コゴケWeissiaだってそうだ。閉鎖果か蓋が有るかどうかから入る。検索表には、こんな項目が意外と多い。
検索表から簡単に同定に入る方法は、だから、諦めるしかない。しかし、全て諦めるわけではなく、分りやすいあるいは明瞭なパラメーターだけをまず取り出して、種を複数個に絞り込む事は出来る。その後、詳細な部分を図鑑とその説明から判断し、最終的に一種に同定すれば良い。
改めて考えて見ると、人間はごく自然にこんなプロセスをたどって、生物の区別をしている筈だ。似通った特徴をグループ分けして、これは梅これは桜と名付ける。その次に、別の特徴例えば花の形を捉えて、これは梅の中の八重これは一重とかを把握し、更に細かい特徴で種を細分化する。同じような方法を採って、「検索表 均茶庵バージョン(以下、均索表)」を作れば良い。同定は、梅で言えば取りあえず八重・一重までのレベルにし、それ以上は改めて詳しく調べれば良い。
均茶庵バージョンの構想と作業
構想がまとまった。均茶庵バージョンを、こんな風に構成する。この中でも、均索表が核になる。
均索表
平凡社の検索表
コケの図版
コケの写真
まずは、写真と図版の収集から始める。手に入るありとあらゆる図鑑をスキャナーでコピーした。初版を作った頃は、Webに載っている写真情報が少なかったが、USDA(米国農業省)などのデータベースを使ったりして、片っ端から集めた。問題があった。ごく有名なあるいは教科書的な種は、あちらこちらに図版と写真が見つかるものの、ちょっとマニアックな種になると、何処を探してもない。特に、絶滅危惧種になると、難度は急激に上昇する。そんなときは、各種論文に載っている図版に頼らざるを得なかった。綺麗な写真は、殆ど見つからない。実際にやってみると、想像したよりも遙かにエネルギーを費やした。図版と写真が双方揃っているケースは、限られている。
均索表
均索表を作るために、平凡社を読み込んだ。但し、全ての種が細かく記載されているわけではない。そんな時には、原論文に当たることもままあった。そして、何とか曲がりなりにも均索表を作り上げた。しかし、実際に使ってみると、実体に必ずしも合致しない点も多々あり、その都度修正した。あるいは、採用するパラメーターを変更したりして、改良を続けた。
区分は、属レベルとし、必要がある場合には、科レベルも作成した。外見を見ただけで、属レベルまでは何とか判別出来るだろうという判断だ。勿論、属でさえ良く分らない場合のために、科レベルも作ったわけだ。後述するが、更に科レベルでも分からない場合の用意に、アンチョコも用意した。
PCによる検索を容易にするためと、整理の便宜上、名称は原則として学名を使った。学名や記載の順番などは、de Fact Standardとなっている、平凡社に準拠した。従って、最新の分類や学名とは必ずしも合致しない点もある。何しろ、この学名というのは、良く変る。
典型的な特徴で表現する事を原則としたが、それでも中々分かりにくい。そんな時は、直感に訴える事にした。文章の他に、特徴別に図版を並べ、対照表とした。葉の形が主だが、場合に応じて、蒴の形や細胞の特徴などの表を作った。
均茶案は、茅ヶ崎市の住人なので、神奈川県が主たるフィールドになる。均索表には、神奈川県で未だ記録されてない種を、赤文字で区別した。こうすると、採取した標本を見た瞬間に、赤文字分については、取りあえずは検討対象から外せる。勿論、新種あるいは新産の場合もあるが、そんな事は滅多にないし、均索表の神奈川県産に該当する種が見つからなかった場合に、改めて振り出しに戻れば良い。少なくとも、同定の労力は大いに軽減できる。
石灰岩地帯に特異的に産出するコケについても、印しを着けた。但し、これは参考程度だ。特異的と言っても、「多い」という事だけで、非石灰岩に生育しないと言うわけでもない。
先にアンチョコと言ったが、例えば、おまけにこんな均索表も作った。「中肋がない、一本、2叉」あるいは、「毛葉あり、偽毛葉あり、双方ともに無し」「茎・枝の先が鞭糸状になる」などだ。種は限られるが、その分ジタバタせずに一気に同定できる。この方法は、野口先生の『日本産蘚類概説』にも紹介されている。均索表では、その範囲を少々広げている。まあ、手抜きというか、何が何だかどうしても分からない時の用意だ。結構役に立つ時もある。
*アンチョコの例
こちらのサイトも参照: あると便利な分類
使ってみる
以上をまとめてみると、均索表は下記のように構成になる。
あると便利な分類 (あるいは、基本分類)
Family Level
同対照表
Genus Level
同対照表
Species Level (種別の図版と写真)神奈川県で未確認種は、赤マーク
平凡社の検索表のコピー
最近では、タブレットよりもPCの検索機能を利用する事が多い。検索すると、画面に写真や図版と均索表が、10枚以上並ぶ事になる。先ずは、均索表上で該当する種のアタリを着けて、図版と写真を見る。これかなと思ったら、平凡社の検索表と本文を詳細に読む。これで、大体片付く。駄目だったら、「未同定標本」箱に放り込み、暫く頭を冷やしてから、改めてじっくりと取り組む。
尚、PCで検索する時には、学名を全部入れる必要はない。例えば、Diphysiumと入力する代わりに、Diphだけでも同じ結果が出る。
タブレット用には、「均茶庵バージョン タブ版(タブ版)」を別途作った。写真と図版を全てタブレットに搭載すると、ちょっと重くなってしまうためだ。タブ版には、原則として、均索表全文と写真1枚と図版1枚を載せている。又、掲載した数も、平凡社で詳細説明が行われている種に限った。
まとめ
同定は、結論ではなく、出発点だ。しかし、均茶庵のようなアマチュアの場合には、それ自体を目的とするのも、それなりに楽しい。均索表は、マトリックス形式になっているので、PCでの完全自動検索やあるいはAIベースに置き換える事も可能だ。しかし、それでは、アマチュアの命である同定の喜びが失われてしまう。同定の作業に頭を使い、汗を流すのが、楽しみ方の一つだ。それに、PCの自動検索に全てを置き換えてしまうと、「考える」事をしなくなってしまう。機械に頼りすぎると、野外に出てコケを見ても、それだけでは一体何なのかまるで検討も付かなくなってしまう。あくまでも、原始レベルの作業があってこそ、自然界との身近なお付き合いができる。
但し、唯一の例外として、「中肋による区分」と「Pottiaceae」は、図表にするとちょっと煩雑になるので、Excellの「抽出」機能を併せて利用している。
2020年7月8日 均茶庵