【10月号】 一日の利用定員を3名にした理由(その2) ~「場」とともに~
感情や記憶・身体など「じぶん」を成り立たせているほとんどは自分自身でコントロールできるものではありません。
そんな「意のままにならない自分と他者」だからこそ、
先月号でも書いたように、高齢者虐待の完全な解決は困難であるとともに、
(親族や介護職員も含め)介護にあたる“誰もが例外なく”虐待の加害者になる可能性があります。
置かれた状況によって「介護者は天使にも悪魔にもなる」という格言に対して、ぼく自身も盲目ではいられません。
20年以上の介護経験があっても、「状況次第でどうなるかわからない」のが実感なのです。
「自分は何があっても虐待なんてしない。」と思い込んでいる無自覚なひとほど危険です。
際限のない状況に自ら身を投じる可能性があるからです。
これは決して介護だけに限られた話ではありません。
育児や保育・医療従事者や(学校などの)教育現場など
ひとがひとと関わらざるを得ない仕事はすべて当てはまることだと思っています。
直接的な身体的接触が避けられない仕事であればあるほど、
自らのなかに潜む「暴力性」には自覚的でいた方が良いと思っています。
「介護は、危ない仕事だよ。」
西川さんが不意に呟いたその一言が、ぼくを覚醒させます。
その言葉に触れたとき、ある種の転回がぼくのなかで起こるのです。
「丁寧なケア」を考えるとき、それを「意識すればできる実践であること」を前提として届けようと努めるのではなく、
その場へ行かなければ自分でも自らのケアがどんな形をとるのかわからないことを見越したうえで、
できるだけ「不適切なケア」が生じないような場をあらかじめ整えておく。
そして、そこではじめて自らの実感とともに可能なケアのあり様を考えてみるのです。
例えば、弊社が一日の利用定員を3名程度にしているのは、
利用者の「絶対数」が増えれば、その分対応しなければならない場面が多くなり、
結果としてケアが雑になったり、不適切なケアを誘発したりする危険性が高まるからです。
「質」と「量」は同時に担保することは出来ません。
「量」を増やせば「質」は落ちます。
反対に「質」を保ちたければ「量」は減らさなければなりません。
利用者数と職員数を「3:1」といったように対比で示して「手厚さ」を強調してもシフトのずれが生じる以上、
それは正確な「手厚さ」を表現してはいません。
大切なのは、利用者の「絶対数」を加減することです。
ケアで「場(状況)」を作ろうとするのではありません。「場(状況)」がケアを生むのです。
【9月号】 一日の利用定員を3名にした理由(その2) ~高齢者虐待の調査を経て~
お年寄りを介護者の意のままに操作しようとするのではなく、思い通りいかないままに一緒に居続けるための技(わざ)として考える。その中でしか「丁寧なケア」の輪郭は見えてこない。
そんな実感を何とか文章にしたいと思ってきました。
自分のためではなく、日々介護を必要としている方や在宅で介護をし続けている方たちの苦労が少しでも報われれば、
という一心でそう思ってきました。
実際に介護の現場に身を置く者として、ぼく自身が「ほんとう」だと思えることだけを書き残しておきたいと思っています。
県内の高齢者施設で働く介護職員を対象に「虐待」に関する調査・研究をしたことがあります。
もう20年以上前の話です。
調査は快諾を得た二つの特別養護老人ホームで行いました。
快く協力して下さった10名の介護職員に対し、調査の一環としてインタビューを行いました。
個々の「職歴」や「勤続年数」のほか、「仕事で苛立ってしまう場面や対象」など質問事項は多岐に渡るのですが、
ぼくはひと通りの聞き取りが終了したあと、最後に調査対象者すべての方へ次のような質問をしました。
「高齢者虐待の原因としてよく『介護技術や知識の欠如』『職員のストレス』『職員間の関係の悪さ』
『人員不足による多忙さ』が挙げられますが、仮にそれらすべてが解消されたとしたら、
あなた自身は不適切なケアをしないと思いますか? また、不適切なケアは無くなると思いますか?」
回答はぼくの予想通りでした。
10名全員が「それでも無くならないと思う。」と答えました。
とても正直に答えて下さったと思っています。
調査対象者は、ぼくと面識のある気心知れた方がほとんどで、日ごろ仕事している様子から見れば、どの方も親切に介護にあたる方々ばかりでした。
その方々が「それでも不適切なケアは無くならないと思う。」と答えたのです。
嘘のない、とても信頼できる回答だったと思います。
この調査からわかるのは、虐待等の不適切なケアが、常に決まった特定の原因で起こるものではなく、
原因がわからないまま、もしくは可変する複数の理由が複雑に絡み合う「ある状況」に介護者が身を置かざるを得ないとき、
衝動的・突発的に生じてしまうものである、ということです。
つまり、介護者が意識して防げるものではなく、「そんなことしたくないのに、してしまう」のです。
その限りにおいて、完全な解決は困難であるとともに、介護にあたる“誰もが例外なく”虐待の加害者になる可能性はあり、
それが「介護者は天使にも悪魔にもなる」と言われる所以でもあります。
だからこそ真剣に「思い通りいかない者同士の支え合い」として「ケア」を考えたいと思っています。
理由は一つ。
以前参加した読書会で西川さんが呟いた次の一言がいまだに忘れられないのです。
「介護は、危ない仕事だよ。」
【8月号】 一日の利用定員を3名にした理由(その1) ~丁寧なお付き合い~
先月号まで「思い通りいかないこと」について書いてきましたが、
「思い通りいかない自分」と「思い通りいかない他者」とがお互いに支え合っているのがケアの実像ではないか。
ケアについて考えれば考えるほど、介護を経験そればするほど、その思いは増すばかりです。
そんな自分の実感には正直でいたいと思っています。
介護する自分と介護されるお年寄り、そのどちらも思い通りいにいかない存在であるならば、如何なるケアを「丁寧」と呼ぶことができるのでしょう。
西川勝さんは以前ケアについて論じた際、「丁寧なお付き合い」という表現をされましたが、
あるときに居酒屋で飲みながらその意味を伺うと「丁寧は丁寧だよ。」とだけ返されました。
それ以来、ケアの深淵として「丁寧」の意味を考え続けています。
「命を絶とうと思わない私は、自分の意志で生き続けている。」
一見間違いないように思えるそれは正解であり、他方では誤りでもあります。
自分の意志で生き続けていると言えるのは(ある側面においては)そうかもしれませんが、
物理的な肉体として自らの身体に目を向けたとき、不随意筋で構成される心臓は自分の意志とは無関係に動き続けていることに気がつきます。
自らの意志で生きていると思っている自分の心臓は自らの意志とは無関係に動いています。
果たして、ぼくらは生きているのか。それとも生かされているのか。
そういった「主体でありながら客体でもある存在」として自分や他者を考えた場合、
操作が及ばない「動き」や「流れ」として世界は現れることになります。
つまり、「思い通りいかないこと」が特異なことではなく、至極自然な現象として見えてくるのです。
介護においては、ユマニチュードや回想法・アンガーマネジメントなど、
思い通りいかないことを強引に思い通りにさせようとする「固定化された知や技法・技術」ばかりが「良い実践」として強調されがちですが、
先に書いた自らの実感がある限り、ぼくにとっては思い通りいかないことを思い通りいかないまま、
そのなかで生まれるケアのあり様について考える方がより重要な意味を持ちます。
西川さんが言った「丁寧なお付き合い」の「丁寧」が意味することは、お年寄りを介護者の思い通りに操作しようとするケアではありません。
思い通りいかないことへの技(わざ)として「丁寧」があります。
そして、それを実践するためには、それが可能な「場」をそれこそ“丁寧に”整えるほかありません。
ぼくが立ち上げたデイサービスを3名程度の定員にした理由の一つもそこにあります。
思いがけず生まれる偶然の出来事に、いかに丁寧なケアを彩ることができるのか。
次号以降、もう少し考えてみたいと思います。
【7月号】 「希望だけは失わないでいられるよな。」
「思い通りにいかない」ということについて言えば、ぼくにはいまでも印象に残っている思い出があります。
それはぼくがデイサービスを立ち上げる決心をした15年以上前の出来事です。
ぼくはその当時所属していた大阪での研究会でご一緒していた西川勝さんにその旨を報告しました。
西川さんは本当に温かく面白い方で、それほど面識もなかった頃から気軽に自宅へ招いて下さったり、
泊めて下さったりしながら深夜遅くまでケアについての思惑を未熟なぼくに聞かせて下さいました。
ぼくはいまでも憧れのまなざしのまま、密かに西川さんの背中を追い続けています。
しばらく会えなくなる寂しさもあったのでしょう。
ぼくは西川さんに「自分でデイサービスをやってみようと思います。」と打ち明けました。
小規模デイサービスで働いた経験のある西川さんは、ぼくの決断がおそらく険しい道になるであろうことを知ったうえで、
少し考えながら言葉を選ぶようにこう言われます。
「・・・そうか。きっと経営は厳しいよ。それにいまの職場を辞めたからって自分のやりたいことがやれるとは限らないし、
自分の思い通りいくことなんてほとんどないと思う。」
その言葉に、ぼくが「そうだと思います。」と返したあと、しかし最後、こう声をかけてくれました。
「・・・でも、希望だけは失わないでいられるよな。」
ぼくは西川さんの隣りで思わず声に詰まってしまいました。
思い通りいかないことと希望を失うことは同義ではない。自分で考え続ける限り希望だけは失わない。
たった一言のエールが、そのときの自分にとってはとても心強く、何だか救われた気がしました。
とはいえ、決して思い通りいかないことすべてが「絶望ではない。」と言いたいのではありません。
そもそも思い通りいかないことが絶望かどうかなど事前にわかることでもありません。
ただ、「先が見えない」という混迷の濁流の中に身を置き踏み留まることを恐れてはいけないと思っています。
介護の教科書の中にぼくが出会ったひとの名前が書いてあるわけではないのです。
「思い通りいかない」という事態がぼくたちに伝えようとしていることに素直に耳を傾けてみます。
失敗したあと再び立ち上がるそのときに、手を差し伸べる他者となり得るかどうかが問われているのであれば、
「希望だけは失わないでいられる」と言い得るだけの十分すぎるほどの根拠は、誰の手の中にもあるとは言えないでしょうか。
ぼくは「良い。」と思ったからそうしたのです。
「・・・もう死ぬかも知れん。」とこぼした80歳のおじいさんの気持ちを未だわからないまま、
それでもぼくは「そのとき良いと思ったこと」をし続けていく以外、術を知り得ないのです。
たとえ他人から見ればそうとは思えないケアだったとしても、ぼくにはどうすることもできません。
結局のところ、所詮ぼくは、その程度の「ぼく」なのです。
【6月号】 再び立ち上がる想像力を
思った通りにうまくいったケアならそれなりにあります。
しかし、どれだけ身を尽くしても結局は綺麗な結末を迎えることのなかったケアの足跡が
いまもぼくを支えてくれているような気がするのはなぜでしょう。
「うまくいったケアばかり語ってはいけないよ。」とぼくに教えてくれたひともいましたが、
「ひととひととがともに生きるかたち」を仮に「ケア」と呼ぶのであれば、
そこには当然「うまくいかなかったケア」もあるはずです。
それをきちんと言葉にしなければ、日々懸命に介護を続けているひとたちが本当の意味で救われない。
そんな切迫した思いで振り返る出来事の一つとして、先月号は「不条理を愛するために」と題し、
一宮市時代に出会った80歳のおじいさんとの「思い通りにいかなかった思い出」を書きました。
ひととひととの関係を操作可能な対象とみなし「モノ化」すれば、
ぼくたちは「失敗しない方法」を考えることになります。
そうなればもはや「思い通りにいかないこと」は「絶望」でしかなく、もうぼくにできることは何一つありません。
しかし、ぼくたちが遭遇する出来事は絶えず動性の只中にあります。
常に固定化を拒みながら様々な事物が不規則かつ相互的に影響し合う関係の場です。
「予測」はいとも簡単に裏切られ、操作しようと試みる者をあざ笑うかのように「意図」はそのすき間からこぼれ落ちます。
自分自身を省みれば、人間の「意識/無意識」の成り立ちを科学はいまだ解明できていないように、
感情や記憶も自分の思い通りにできるものでは無いことに気がつきます。
人間の力の他愛無さを目の前にして、自らが未だ知り得ていないことの大きさを痛感するばかりです。
それは自分だけではなく他者も同様です。
「思い通りにならない自分」と「思い通りにならない他者」とがお互いに支え合っているのがケアの実像であるような気がします。
ぼくは決してお別れするために興奮するおじいさんの後を追ったわけではありません。
「これからも一緒にいたい。」と思ったから後を追ったのです。
可能な限りおじいさんの気持ちを汲みたいその一心で付き合っただけなのです。
どうしたらよいのかわからないなか、そのときのぼくにはそうするしかなかったのです。
ぼくたちが絶えず偶然性のもとに身を置き、常に「結果」しか知ることができないとするならば、
そのときぼくが教えてほしかったのは「失敗しない方法」ではなく、「失敗したあと再び立ち上がる想像力」でした。
繰り返します。
「思い通りにいかないこと」が必ずしも絶望だとは限らないと思っています。
よろこびもかなしみも「思い通りにいかないこと」から贈られる宝物ではないかと思えるほどです。
次回は、そのことを実感したエピソードを書いてみたいと思います。
願わくば、「思い通りにいかないからこそ希望が生まれるのだ。」と言えたなら・・・。
【5月号】 不条理を愛するために
一宮市でデイサービスを運営していたときのお話です。
訳があって岐阜県から弊社に通うことになった80歳のおじいさんがいました。
ある日の昼食を終えた午後、「行かないかんところがあるっ!。」と言って
急に思い立ったように外へ出て行かれます。
お付き合いするようになって半年以上経ちますが、おじいさんがそのような行動をとるのは初めてです。
ぼくは若干の戸惑いを感じつつも後をついていくことにしました。
おじいさんは足早に最寄り駅までたどり着くとズボンのポケットに手を突っ込み、
僅かに持っていた有り金で「名古屋行き」の切符を購入します。
しかし、自宅は反対方向です。そういったときに限ってあいにく財布を忘れたぼくは、
改札口を通ろうとするおじいさんをたまらずせき止めます。
とはいえ、もともとは町内のハンドボールクラブのコーチをしていた方です。
おじいさんはその強ついた腕でぼくの身体を撥ね退け、職員を呼ぶためのボタンを押し、大声で助けを求めます。
「すいませんっ!何でもありません!」とおじいさんより先にぼくが答えると、
おじいさんはこれまで見たことの無い不機嫌な顔で、明らかに苛立った態度を示します。
駅に背を向け「放って おいてくれっ!」と言い放ったきり黙り込み、今度は交通量の多い道路の真ん中を歩き始めます。
途中、他人の敷地で立ち小便をしたかと思えば、道端にあった工事用のカラーコーンを思いっきり持ち上げ、興奮を露わにします。
ズボンの前はおしっこで濡れたまま、背中は汗にまみれTシャツが張り付いています。
日差しの強い午後でしたが、ぼくに暑さを感じる余裕はありません。
途中スタッフに迎えの車をお願いしても乗る気配はなく、合間に小休憩を挟みながら、歩みを進める
たびにデイサービスからは段々と遠くなっていきます。
手に持っていたお茶を差し出しても見向きもしないまま、
ぼくが話しかけると逆にぼくから離れたいと言わんばかりに歩くスピードを上げます。
どうすればよいのかわからないまま、2時間以上歩き続けた頃です。
おじいさんはふらふらになった身体を自分の意志ではコントロールできていないようでした。
酷く前傾姿勢で足がついていきません。
呼吸の荒さがぼくを急かすように焦らせます。
その姿にぼくは「もう限界だ。」と判断し携帯電話で再度スタッフに迎えの車をお願いしました。
おじいさんはしがみつくように車に乗り込みます。
そして、息を切らし肩を震わせながら「放っておいてくれ。」と小さく呟いたあと、こう漏らします。
「・・・もう死ぬかも知れん。」
何がおじいさんの身体を突き動かし、どんな気持ちでそのとき車に乗り込んだのか。
結局、その日以来、おじいさんがデイサービスに来られることはありませんでした。
帰宅した後、自宅でどのような家族会議が行われ、おじいさんが何を話したのかは知りません。
二度と会うことはありませんでした。
おしっこと汗にまみれたおじいさんの息を切らす音だけが、ぼくの耳から離れずにいることに
たいした意味などなかったとしても、ぼくにとってこの出来事はいまでも忘れられない思い出です。
介護を「美しい物語」へと昇華させない態度をこそ「誠実」と呼ぶことができるなら、
関係の不条理を愛するために、ぼくたちが問われていることとは一体何なのでしょう。
【4月号】 「・・・何もできなかった。」
先月号で「連載をはじめます!」と言ってはみたものの、何をどう書くかは正直何も決めていません。
あらゆる「あらかじめ」を設定しないままに書いてみたいと思っています。
それがコラム調(またはエッセイ風)になるのか、論理的な記述になるのか、
主語が「ぼく」になるのか、「私」や「俺」になるのか、
語尾が「ですます調」になるのか、「である調」になるのか、わかりません。
それら文体(かたち)はケア同様、その中身・内容が決めてくれると思っています。
透析患者が食事制限や治療の苦しさから「死にたい。」とこぼしたとき、
それでも「生きていた方が良い。」と言い得るだけの根拠まで医療は示してくれません。
寝たきりの母親を介護し続ける娘様が
「どれだけ丁寧にケアしても寝たきりの母は言葉を発せられないから、
自分がしてあげていることが母親にとって本当に良いことなのかわからないのがつらい。」
と不安を口にしたとき、その「答え」を「論理としての介護学」は持ち合わせてはいません。
他人の助けがなければ生きていけないひとから「おまえに俺の気持ちの何がわかるんだっ!」
と言われたとき、その声に対峙し得る言葉を「学問としての福祉学」は未だ語ってはいません。
そういった「専門性」の限界を考えると、本当に苦しむ者を前にしたとき、
ひとがひとに対してできることなどごくわずかであることに気づかされます。
ぼくが知る一人の精神科医は、自分の担当患者が病棟で自ら命を絶ったと知ったとき、
「・・・何もできなかった。」と崩れ落ちるように涙に暮れたそうです。
ケアの場で生じる苦悩は容易に片付くものではないがゆえに、
手を差し伸べる側の者にも痛みを残すことになります。
「誰も傷つかないケアなどない」と言えるのもそのためですが、
しかし、そういった無力さしか残らないケアだったとしても、
そこにもひとつの「出会い」があったことは確かです。
自らの無力さへの自覚は他者への誠実さにつながります。
この連載は、ひととひとのあいだに生まれるそういった「しかたなさ」を巡る旅になるような
予感がしています。
そこで次回は、「思い通りいかない」ということにまつわるエピソードを紹介したいと思います。
うれしいことや楽しいことばかりではありません。
ひとがひととともに生きる途上で生まれる苦しみやかなしみの経験もまた、
自らのケアに厚みをもたらしてくれると信じています。
【3月号】 連載、はじめます!
「通所介護事業所きやのあ」代表の安田と申します。
一宮市から名古屋市へ事業所を移転してきて5年目になります。
会社を立ち上げてから数えると13年目になります。
その間、いろんなひとと出会い、いろんなことがありました。
いまになって特段感傷に浸りたいわけではありませんが、
ぼくたちのなかには、何があっても手離せないできたいくつかの「たいせつなこと」があります。
そして、それらを言語化は難しいと自覚しつつも何とか言葉で表現したいとずっと思ってきました。
それをこの度、連載企画の「きやのあ日記」と題して試みながら、
誠に一方的ではありますが、関係者の方々に弊社について知っていただくための材料としてお届けしたいと思います。
はじめに、「きやのあ日記」を書くうえでぼくが自分自身に課している約束を三つご紹介します。
一つ目は、「嘘は書かない」ということ。
二つ目は、「ぼく自身の具体的な経験から文章をはじめる」ということ。
三つ目は、「書き続ける」ということ。
この連載でお届けしたいのはあくまでぼくたちがこれまで考えてきた、
そしていまなお考え続けている「ケア」についてです。
決して「介護」や「看護」「福祉」についてではありません。
それらは「ケア」を考える上での単に一つの「窓」でしかありません。
念頭にあるのは、ぼくが敬愛する『ためらいの看護』(岩波書店)の著者・西川勝さんらとともに
言葉を交わしながら考えてきた「ケアの記述」です。
自分で決めたこととはいえ、
どこの誰に届くかわからない文章を誰に頼まれたわけでもないのに書く、というのは、
何とも不思議な気分です。
流し読みでも、暇つぶしでも、何かのついででも構いませんので一読いただけたら幸いです。
「ケア」を一緒に考えるひととの出会いの契機としてお届けできればと思っています。
パソコンのキーボードを打つ自らの指先に宿るのは、
これまでに出会ってきた多くのひとたちとの再会の瞬間です。
4月からの連載、どうぞ宜しくお願い致します。