同窓生の皆様から寄せられた記事をを掲載しています。
本来であれば鶴友に全てを掲載したいのですが・・・
ページ数の関係上、鶴友に掲載することが出来なかったものなどを掲載しています。
当時の懐かしいエピソードや・写真・など、皆様からの寄稿をお待ちしております。
母船式サケマス工船漁業
*沿革と概要
戦前
大正末期から昭和にかけてロシア領カムチャッカの我が国の借区サケ、マス漁業が漸次統合され、日魯漁業の統制下のもとで経営されるようになり、借区の個人漁業者は新しい方向への企業経営を求めるようになった。(漁法は定置網)1914年(大正3年)当時の
東京水産講習所(現在の東京海洋大学)の練習船、雲鷹丸がカムチャッカ西岸沖合で流し網を使用して、サケ、マスの沖取り漁法に成功した。同船はその後も毎年同海域へ出漁し、沖取り漁法の研究開発を継続した。
この様な調査をもとに、一部の企業家は公海沖取り漁業に将来性をかけて、漁具等の研究開発を進めた。この時代から暫くして1921年(大正10年)我が国で初めて事業化されたカニ工船漁業の成功以来、その発展ぶりに刺激され、公海沖取り漁法による母船式サケ、マス工船漁業が事業化に至った。その後1927年(昭和2年)に西カムチャッカ、オゼルナヤ沖で6~7月にかけて操業をして、漁獲物を母船で処理し、販売も順調に推移し、母船式の沖取り漁法が確立された。漁獲物は全て塩蔵処理した。漁法は流し網。(当時は缶詰の発想はなかった)
1930年(昭和5年)出漁から母船に缶詰ラインを設置し本格的な缶詰生産を始めた。
1940年(昭和15年)には母船10船団を擁し26,000トンの漁獲を揚げた。大戦が勃発した以降も1942年(昭和17年)まで出漁が続いたが戦況悪化のため翌年以降出漁は出来なくなった。
戦後
1952年(昭和27年)日米加三国漁業協定の成立により戦後途絶えていた北洋漁業が再開された。
この年は、日本水産、大洋漁業、日魯漁業の3社が各々1船団を出漁させその後は、出漁する母船も大型化し、付属独航船の隻数も増加した。1955年(昭和30年)にはオホーツク海での操業が許可された。(カムチャッカ西岸沖合、千島沖合40マイル以遠の操業)
1956年(昭和31年)ロンドンで開催中の、日ソ国交回復交渉の席上、ソ連は太平洋西部海域を主漁場とする、母船式サケマス工船漁業に対し、漁場海域の大幅な規制と漁獲量の上限を要求してきた。
漁場規制ラインは当時のソ連の首相ブルガーニンの名を取って「ブルガーニンライン」と呼ばれ、これを契機に「日ソ漁業交渉」なるものが出来た。この交渉は主に漁獲量を取り決める交渉で、以後アメリカの海域(べーリーング海)での規制も加わり、漁場は狭まる一途を辿り遂に、1988年(昭和63年)8社共営(日水、大洋、日魯、宝幸、極洋、報水、北海道漁業公社、函館公海漁業)の母船、喜山丸船団が出漁し戦前より北洋の海を開拓した我が国の伝統の北洋漁業の花型である、母船式サケマス工船漁業の歴史は幕を閉じた。
ちなみに、小生が実習で出漁したのは1969年(昭和44年)で母船は11船団であった。
Ⅰ,船団編成について。1969年(昭和44年)宝幸水産(株)大津丸に実習生として乗船。
船団構成
①母船 大津丸 8,032トン。
②付属独航船33隻 内先航調査船4隻。乗組員は船長、漁労長以下21~25名。
独航船は85~90トン型で流し網、サンマ棒受け、底引きの操業が出来る汎用型。
③仲積船3~4隻 何れも1,000~2,500トン型。
大津丸船団のみならず、他社の母船の積荷も集荷して廻る。
④タンカー3,000トン型 上記同様各母船に補給して廻る。
人員体制
①母船:事業部員(社員)21名。大型船員;59名。事業員約246名
水産庁監督官2名、立会人3名、他に漁網メーカー、ラジオブイメーカー
揚網機メーカー、缶詰ライン機器メーカー等の「サービスマン」が各社1名
乗船。
事業部の組織
母船は独航33隻の指揮命令系統が集中する母船司令室を設け、短期決戦の操業
の中枢部。
*独航船は売漁形式で母船に付属しており、主に北海道、東北、北陸の船主で構成。
船団長 漁撈課長ー漁撈主任ー漁撈資材係ー調査員(先行調査船に乗船)
ー実習生(船員手帳上は航海科実習生)
(調査船への指示、宣言海区の選定等)
缶詰工場長ー缶詰主任、冷凍主任、機械主任。
庶務課長ー受け入れ係。(各船から揚る漁種別重量の計量。
通訳(ロシア語)
Ⅱ、船団の操業概要。
①サケマス操業は、北太平洋を回遊中のサケマスを母川へ遡る前に如何に効率よく捕獲
するかが好漁に結びつく。漁期は5月15日函館出漁、8月初旬函館帰港がパターン。
②我が国の母船式の操業形態は操業海域の制限で(N45度以北、W175度以西)
おのずと今のロシア、カムチャツカ東岸の母川に遡上する魚を捕獲対象としたため、
調査船の海域は漁期のはじめは東側海域を中心に調査し、各社の船団も同様の行動を
共にした。以後サケの母川遡上本能に沿って、西進操業を行なった。
③先行調査船の情報(魚種別羅網率)をもとに、翌日の操業海域を決める。
*西太平洋の限られた海域で11船団が効率よく操業するために、出漁各社で事前に
共有の海区図をもとに、同一海区に複数船団が操業するのを避けるため、翌日の操業
海区を随時当番母船へ「主海区」を宣言し併せて「併海区」を宣言する。
「併海区」は他社の船団と共有できる。海区海域はLATで1度、LONGで2度
(約60マイル四方)
④操業海区が決定したら、母船は独航船からの水揚げが終了する夕刻から「適水」(移動)
し、昨日宣言した海区に向かう。
⑤独航船も水揚げ終了後、母船の指示で指定の海区に向かい夕刻より投網にかかる。
⑥水揚げ。
調査船を除く29隻の独航船は早朝からの揚網後、魚種別に畚(もっこ)に入れ母船に
向かい横付けし母船のデリックで釣り上げ、デッキ上でデリックのフックに取り付け
た計量器で重量を計測。水揚げは全て売漁方式になっており、独航船にとっては計量
が命。この間、母船といえども常にローリング、ピッチングしており、計量器の針は
静止しない。左右に振れる「針」を何処で読むか、母船の「受け入れ係」と独航船の
船主代理の「立会人」との駆け引きとなる。
⑦水揚げは母船の右舷で独航船2隻同時に行う。水揚げの際に、燃料、清水、食料、
漁具(網、ラジオブイ)の補給、内地からの託送品を渡し、病人がいれば母船に揚げ
て診察も行なう。漁模様にもよるが、各船の接舷時間は平均40分~1時間。
⑧独航船は水揚げ後は順次指定の海区に向かう。独航船が操業できる流し網の数量は
(反数)日ソ漁業条約で1隻当り330反と決められている。
1反は約50m。単純に計算すると330反×50m=16.5km(総延長)調査船を除く
27隻の網の総延長は16.5km×27隻=445.5kmにも及ぶ。
これが11船団になれば 445.5km×11船団=4,900kmとなり日本列島を往復する
距離に相当するとんでもない漁獲努力となる。(母船式漁業の最大の優位性)
⑨独航船について。
ⅰ)母船会社との資本関係は全く無い。
ⅱ)漁獲量は水産庁より各母船に割り当てられている。従って、付属独航船は自船団
内でのオリンピック方式での操業となる。この年の母船割り当ては11船団で105千
トンであった。
ⅲ)漁獲物は母船会社と、独航船側(日鮭連)とで、出漁前に魚種別価格を決める。
魚種:ベニサケ、シロサケ、ギンサケ、マスの4種類。マスノスケは独航船の土産
魚で買い取り価格には反映させない。(母船で凍結)
ⅳ)独航船の乗組員の漁期中の給与は、固定給と航海日当、水揚げにリンクする
「歩合金」に分けられ、歩合金の比率が高い。従って、船頭(漁労長)は水揚げ
第一を優先し、ややもすると、母船の「宣言海区」内での操業を嫌い、船頭自らの
判断で他の海区に投網することもある。 この様な行動を制止且つ戒めることが出
来るのが船団長の器である。船団長、佐久間 登氏(当時 北洋部 次長 44歳)
彼はその器であった。(大正15年生れ、海軍兵学校から東京水産講習所へ)
ⅴ)独航船の装備。
1969年(昭和44年)当時にしては最新の航海計器を装備していた。レーダー2基
方探、漁探、(遊泳速度の速いサケ、マスは補足できない)、ロラン、網を揚げる
「揚網機」(ネッホトーラー、浮子、沈子の双方)。網を纏めて艫に送るコンベァ
これらが主な漁撈機器。
造水機は装備してなく、接舷の度に母船より給水。
操業海域では当時はロランシステム網が不十分につき、母船も含め位置は天測が主。
Ⅲ、母船での製品の生産について。
当時の我が国の国内、海外の水産関連の概要。
大手水産各社は海外へ漁場を求め進出、海外の基地を拠点に大型トロール船を投入し
我が国の食料確保に邁進していた。経済的には 円は1ドル360円の固定相場で
輸出産業は各社好決算で潤っていた。戦後我が国の農林水産の輸出産品目は「絹糸」、
水産缶詰「カニ缶詰」と「サケ、マス缶詰」であった。
1955年日本鮭鱒缶詰輸出組合
が設立された。
①生産品目の筆頭は「缶詰」製品。「ベニ」「マス」とも水揚げされた全てが缶詰
ラインに流れた。
②シロサケは頭を落し、「ドレス」にして冷凍にした。一部塩蔵にもまわされた。
③ベニ、シロ、マス、ギンから採卵された筋子は「塩蔵筋子」として木箱に納めら
れ製品化された。
④現在流通している「イクラ」の生産は母船では行なわなかった。(当時は全国区の商
品ではなかった。)
⑤母船での生産工程は時間との勝負だった。水揚げは時化以外は常時オンデッキ
されて来る。鮮度保持のためには社員、事業員はオーバーワッチの連続で生産に
励んだ。
参考
昭和52年以降海外の缶詰の市況が悪化し、加えて数年後円が変動為替制に移行し
輸出缶詰の円安による優位性はなくなり生産は採算割れとなり長い歴史に幕を閉じ
た。
Ⅳ、実習生の業務について。
①乗船中の往復航は、ブリッジでの当直に立ち、本来の航海科の実習をする。
②漁場着と同時に母船の船団司令室の勤務。05時~18時が通常の当直。
③作業の内容は、まず船団長以下の朝食前のラーメン作り。
④独航船が母船横付けと同時に、水産庁監督官の指示で、魚体調査。母船の3等航海
士と2人で行なう。
⑤魚体調査終了後は、母船司令室で漁労主任の指示で、事務用品の整理、司令室内の
清掃等の雑務。
⑥食事は幸いにも、メルスルームでボーイさん付。ご飯のおかわりの際は、後ろから
お盆が出てくる。 これにはびっくりであった!!
⑦実習中の賃金は、乗船日から下船日の間、1日1,000円であった。
当時長崎で土方をして800円(食費は自前)の時代、最高の待遇だった。
下船時当時(昭和44年)10万円を手にした感激は忘れない!!
Ⅴ、ソ連監視船。
①ソ連は日ソ漁業交渉に準じて各船団が操業しているかを監視するために、監視船を
数隻出して、各母船を廻り、操業の実態を調査する。
②調査内容は主に、臨検時点での母船の漁獲量の確認。水産庁の監督官に報告の漁獲
量の台帳をチェック。加えて、水揚げ時は、計量にも監視の目を光らせた。
③一連の臨検で問題がなければ、サロンで船団長以下漁撈課長、庶務課長が、ソ連の
監督官を接待。
④とにかく早く下船してもらいたいので、酒で酔い潰し、土産に、当時ソ連では貴重
品の「パンティストキング」を大量に渡し、最後は船団長が付けていた、時計を
くれてやったことを記憶している。
⑤当時既にソ連の監視船には、女性が同乗しており、監視船のポールドから1ヶ月
ぶりに見た女性の顔・・・・・。
⑥ソ連監視船の臨検情報は11船団で共有する事になっており、退船後は航海士が
ワッチし、進路、速度等を他の11船団に流し、情報を共有した。
ⅵ、漁場切り上げ。
①5月5日函館出港以来約3ヶ月、水産庁は各船団の水揚げ状況を、母船乗船中の監督
官からの連絡で、日ソ漁業条約で決められた漁獲量にいつ達するか見守っている。
②船団司令室にいると他船団の切り上げ日が順次伝わってくるが、母船会社としては
1日でも長く漁場に滞在し、生産量を上げたいのが本心。
③水産庁報告の漁獲日報に準じ、大津丸の切り上げは予想できた。7月26日の操業を
もって切り上げとなった。
④復航は約1週間。ブリッジで当直に立ち、釧路沖では、イカ釣り船の中を蛇行しな
がら一路函館へ向かった。
ⅶ、実習生として学んだこと。
①小生はこの実習で乗船するまで、魚臭い漁船に乗り漁撈に従事するつもりは
なかった。
②大津丸船団の実習生として、母船の司令室で体感したこと。
それは他船団より如何に早く、如何に多くの魚を漁獲するか、船団長以下漁撈
担当事業部員が寝食を惜しみ魚を獲ることに励んでいる姿を見て感動した。
③在学中はこの様な船団事業の内容の存在さえ知らなかった。
④実習終了後は卒論のため上京し、宝幸水産の独身寮にお世話になり、当時大津丸
船団の調査員の方が寮にいて、種々話を聞くうちに船団操業と云う仕事の面白さに
興味を持った。・・・・・22歳にして人生最大の転機であった。
参考:当時の学外乗船実習(水産会社の事業船での実習)の実態について。
1969年(昭和44年)我々漁業学科4年次生は23名。次年度特設専攻科進学希望者
19名。当時母校には練習船は2代目長崎丸が1隻のみ。4年間のうち練習船での
6ヶ月間の乗船履歴取得は無理で、学外での乗船実習が開学以来踏襲されていた。
その年は、サケマス母船の他に、カニ工母船(西カムチャッカ)、母船にはずれた
級友はサケマス母船の先行独航船(90トン)に調査員助手として乗船し履歴を
つけている。母船に乗るか、先行独航船に乗るかは「くじ引き」だった..
添付資料
1,サケマス流し網独航船(90トン型)
2,漁場図
参考:1969年(昭和44年)我が国の漁獲割り当ては、母船式、独航式
(45度以南海域)105千トン。
引用文献 1,「日本水産100年史」(日本水産社史編纂室刊)
2,「母船式工船漁業」(葛城 忠男著:成山堂書店)
3.「世界水産要覧」(農林経済研究所刊)
4,「遠洋漁業」(斎藤 一郎著:恒星社厚生閣)
5,「日本漁船図集」(津谷 俊人著:成山堂書店)
6,「昭和44年度大津丸船団乗組員名簿」(宝幸水産北洋部作成)
7,「日魯漁業経営史第2巻」((株)ニチロ 平成7年刊)
2022年5月24日(火)快晴、気温30℃越えの中、ローレル日田カントリークラブで、第2回鶴水会親睦ゴルフコンペが開催されました。
明るく楽しい親睦ゴルフのコンセプトで、長崎、佐賀、熊本、福岡、大分、山口の6県から、最年長の10期・立石さんを筆頭に26期・水頭さんまでの19名全員が1番ホールのシニアティーからスタートし18ホールを無事プレー完了しました。
表彰式は入浴前に冷たい飲み物を頂きながら行い、成績は以下のようになりました。
優勝:15期・福岡さん
ベストグロス賞:17期・池辺さん
ニアピン賞:15期・福岡さん(2ホール)、17期・白石さん、21期・中尾さん
次回、第3回は2022年10月24日(月)別府扇山ゴルフ倶楽部で開催予定です。
尚、第1回は、2021年10月26日に大分支部の兼田さん(20期・製造)が幹事で開催され、成績は以下のようになりました。
優勝:19期・利根さん
ベストグロス賞:17期・池辺さんと17期・白石さん
ニアピン賞:10期・立石さん、15期・三重野さん、17期・白石さん、29期・中田さん
青春の思い出
我々18回生が入学したのは昭和41年、時は高度経済成長の真っ只中である。
当時の母校長崎大学文教町キャンパスには水産学部の他に教養部、教育学部、同年創設の工学部が同居していた。学生会館はあったが闘争がこじれて使用不可。古びた学生食堂を中心に、教養部の一部水産学部を除き殆どが木造の建物だった。このような環境に新入生約90名内紅一点増殖学科のIさん。彼女は卒業式の際、水産学部総代として我々の卒業証書を受け取ってくれた。当時水産学部には女性はIさんと4年生に1名在籍していた。今では想像できない男世界。
我が水産学部だけは佐世保から移転して約4年が経過、まだ新築の香りする鉄筋3階建ての建物だった。玄関前には池があり(現在も存在)中央に「オットセイ」が鎮座していたのを記憶している。
昭和41年(1966年)我々は6.8倍の難関?を突破して約90名が中部講堂での入学式に望んだことを鮮明に記憶している。
以来56年が経過し同期の仲間も順次鬼籍に入りつつある75歳前後の年齢となり、記憶を呼び戻し学部の4年間(小生は特設専攻科で1年計5年)の回想を記してみた。
「伝統の対面式」
これには驚いた!!オリエンテーション後、何処から来たのか当時の漁業学科の2年生が来て、恐らく学部の教室の一室に入れられた?何が起こるのかと思いつつ待っていると、2年生が対面式を行なうと言って、いきなり自己紹介・・・・・。
「00県立00高校出身、00学科 氏名。趣味00。」その声がまた大きく、加えて顔は夏でもないのに汐焼けした赤銅色。18~19歳のウブナ?我々は度肝をぬかされた。
次は1年生の我々の番、恐る恐る壇上に立ち、教えられた通り自己紹介するのだが、2年生は何かにつけてケチをつけ「元へ・・・」の繰り返し。
全員が終わったのは何時だったか・・・・・?
2年生の日焼けは、端艇部の春の合宿の結果。このことはまた後程・・・。
「漁業学科新入生歓迎コンパ」
コンパは学科別でやってもらった…。場所は長崎の歓楽街銅座の「銀鍋」何故店の名前を憶えているかというと、「銅」に「銀」ゴロが良かったのを覚えている。歓迎コンパは学科の2年生3年生ほぼ全員が参加し、恒例の「自己紹介、00県立・・・・・。」延々と3年生まで続く、それまでは膳に箸もつけられない。4年生は当時学外実習でいなかったのは幸い。自己紹介が終わると杯がコップになり最後はO君「どんぶり」で上級生に対応、さすが九州男児!!
当時はコンパといえば「日本酒」当時1升が600円位だったか・・・・?
酩酊しチンチン電車で帰ったことは覚えているが翌日は床の中の一日。
「早朝訓練」
これまた例の2年生が主役。07時グランドに集合、まずランニングでただ走るのではない。「ヨーンソロ、ゴーヘイ、ゴーヘイ、サアー」のリズム感ある掛け声、この光景は春になると大学界隈の名物になっていたとか。全員で裏門を出て薬学部前から住吉町電車通りへそこから南下し本部正門を過ぎ次の電停を左折し再び裏門へ。約2~3km?の距離か。そのあとは筋トレ、ジムの様な器具はなく、自分の体一つ。腕立て。腹筋(2人1組)、ポンプ(スクワット)その回数が半端でない。筋トレの後は手旗信号の訓練でしごかれる。1年生のすべてが、食事の際に箸が持てないほどの筋肉痛、1週間続きこれが月2~3回行われた。とうとうT君が脱落、関東の自宅に帰ってしまった。彼は翌年再度1年生に戻ったが、学部の気風?が合わなかったのかいつの間にか自らいなくなった。今だとパワハラ云々で新聞沙汰になるような出来事。漁師になるのはまず体力から・・・。これが先輩の口癖だった。
「開学祭」
当時は入学後の翌月の5月に行われていた。有志で仮装行列に参加を決め学部の裏庭で出し物の制作に取り掛かった。図面も何もないまま竹を割り骨組みをT君が鮫を作ってはと提案・・・。皆同意して作り始めたがいつの間にか潜水艦に、当時佐世保に原子力潜水艦が寄港しマスコミ沙汰になっており潜水艦に変更、そのうち誰かが、仮装行列には順位が付き景品が出ると言い出した。
それなら到着地の経済学部迄の道中、他の出し物を攻撃し破壊すれば潜水艦が無傷で着き、入賞するかもと元気のいい奴が言い出し、それでは攻撃用に船首に銛を装着することとなった。銛は端艇の折れたオールを使い、これに破壊力を増すために釘を打ち付けた。効果てきめんで、本部から経済学部迄相当の距離を焼酎1升瓶片手に炎天下を行幸?いつ何処でどの出し物を攻撃したのか全く記憶がなかった。当然帰ったことさえ記憶になかった。今だったら警察沙汰だ!!
「端艇訓練」
これもまた漁業学科の2年生のもとしごかれた・・・。当時学部には艇が2艇あった。学部は海から遠く離れた陸の上で艇の管理は水産高校に依頼していた‥‥。詳しいことは不明。水産高校は小ヶ倉にありそこまで電車とバスを乗り継いで1時間ほどかかかった。足賃は自己負担、ここでも2年生からコッテリと絞られた。何せ初めての経験で1本7kgほどの丸太(オール)を12人で漕ぐのだから初めから上手に漕げるはずがない。中にはオールを流す奴もいてこれはしごきの格好の材料。陸に戻ってからも罰則の腕立て伏せをやらされた。金まで払ってここまで来てしごかれると思うと涙が出る思い。手は「マメ」だらけ、尻の皮は赤く円形状にはがれサルの如し。日々の歩行にも差し支える始末・・・・・。
パンツは鮮血で真っ赤。
漁師になるにはまず体力、端艇訓練はシーマンシップ習得の一環と諭され日々運賃を捻出しながら放課後通った。その後この苦しく、野蛮な競技?に取りつかれるとは想像さえしなかった・・・・。詳細後述。
「学問」
1年は全て教養部での自然科学、社会科学の各教科の講義。高校生の延長で全く興味がわかないとなると自然に足は遠ざかり下宿でゴロゴロ、夜になると同期の下宿を訪ね杯を交わす日々。特に馴染めなかったのが「ドイツ語」それも2科目二人の教官だ、先輩からの情報「ドイツ語を2年の後期で単位取得しておかないと3年生の遠洋航海に赤信号」とのことで「ドイツ語」だけはほぼ出席したが何せ今まで聞いたこともないような「発音」それに「オトコ」「オンナ」の区別、理解できるはずもなく前期の試験、出そうなところの和訳を丸暗記し忘れないうちにがむしゃらに書いた。本当に正解であったのか・・・・?今もって疑問を抱いている。教授も水産の学生の程度はおおよそ理解しているはずで、猫の足の裏に墨を付け走らせたのか、扇風機で遠くに飛んだのか、運よく小生の答案用紙はこの難関を通り抜けた。猫、扇風機に感謝・・・・?
2年生になると専門と教養の掛け持ちの講義、印象に残っているのは入江教授の海洋学であった。新築の階段式の講義室での授業、海に興味をもって入学し初めて「海の知識」を教わるのである。この講義室で受講している事、ここが大学かと思った。講義は90分毎週一心不乱にメモを取りそれをノートに清書した。試験はこのノートから出るので、小生のノートは評判で借り手も多かったが卒業の際には既に手元になかった。これは残念なことで大切なものをなくした心境であった。講義に入江先生は海洋学者、宇田道隆氏の研究内容を再三披露していた。その宇田道隆氏の甥が現在小生の自宅近くに居住しており時には杯を交わす間柄になっているのも何かの縁か・・?
大学は教わることもあるが自ら進んで興味のあることについての追及が当然で受け身では進歩はない。4年生の学外乗船実習から7月中旬帰港した。
待っていたのは漁船運用学講座の柴田教授。君は8月から水産庁漁船研究室で卒論実験するよう段取りをしているのですぐ行くように・・・・。
所在地は東京都中央区月島。長崎に来る前に東京には何度か行ったことはあるが地理は全く分からない。まず住まいを探さねば・・。先生はそのようなことは一切関知せず。
幸い乗船実習でお世話になった宝幸水産の寮で世話になることに、交渉は全て小生が行った。寮がまた問題で現在の埼玉県志木市(当時は東葛飾郡志木町)
池袋からガラの悪い東武東上線で30分ほど、駅から歩いて15分、漁船研究室までは1時間半の通学?夏の暑い時、当時は電車に冷房などほとんどない頃であった。ここに12月初旬までお世話になり。漁船研究室で漁船設計の権威土屋孟氏のもと約4ケ月教授戴き何とか卒論が出来上がった。一番困ったのは英文の文献の講読であったこと記憶に鮮明に残っいる。
入学以来端艇部の部活、同期との毎晩の酒盛りから一変した「学問」の世界へ導いてくれた柴田先生に感謝です。
志木の町には再び縁があり、昭和62年大阪支社から本社転勤で当時新築の日本水産の社宅が志木にありそこに2年間住むことに、ここでは同級生のT君、2期後輩のY君も同じ屋根の下でした。そのT君も2年前鬼籍に・・・・。合掌。
「海洋訓練」
題名の通り海洋になじむ訓練。入学後7月を迎え7月10日からは夏季休暇の予定、恒例の3年生、特設専攻科の遠洋航海の出向式が例年7月10日。我々は
大波止岸壁に長崎丸の遠洋航海の出向を見送り誰が手配したか・・?長崎バス
に乗り約1時間長崎半島の先端野母崎町へ・・・・。ここでいろいろと事件があった。野母崎には当時学部の臨界実験所があり地元の方々とは何かにつけて交流があった様で、まず我々の宿舎、その年は漁業学科の他製造学科、増殖学科の希望も多く約60名。事前に交渉に行ったのが役場、窓口曰く去年役場が移転し役場跡が空いているのでそこを無料で貸し出してくれるとのこと。
事前に確認に行ったがまず人が住むようなところではない。トイレ1か所、全て板の間、空調などあるはずがない。かび臭い寝具は実習場から端艇で運んだが60人すべてに行き渡ることはなかった。場所は野母湾のどんずまりの小高い山のうえ、階段が70段くらいあった。ここで10日間18~19歳の若者が集団生活、1日3食の賄いは地元の婦人会の方にお願いして個人宅で炊飯してくれた。
今から思えば夢の様な話、当時の大学生は「学生さん」と呼ばれ婦人会の方には本当によくしてもらった・・・・。
訓練は06時起床、21時消灯、朝は脇岬の海岸まで例の「ヨーンソロ」でのランニング。朝食。階段下の個人のお宅まで大きなバケツの入った味噌汁を食事当番が取りに行き配膳、終わると食器を含めまた元の道へ、70段の階段を往復する日々、食事当番は交代でやったのだ。連日30度を超えるなか、食事当番も端艇訓練以上つらい任務だった。野母崎の沖約2哩に当時は石炭を産出していた「端島」(例の軍艦島)があった。ここへは端艇訓練を兼ね上陸し炭鉱の生協でスイカ等を調達した。上陸したときはこれが本当に島かと思うほどの全てにわたって生活が出来るよう、映画館もありパチンコ屋もあり全てがそろっていた。訓練も半ば事件が起きた。前日海岸で艇から降りる際に貝殻か岩に足を当て怪我をしたK君が端艇訓練後突如けいれんを起こし大声で喚き散らしだした。これは破傷風かと思ったが診療所に担ぎ込んだら即回復、今でいう「熱中症」だった。連日の端艇訓練、水泳訓練、手旗信号訓練もほぼ順調に進み最後の仕上げの遠泳の前日の夜T君が点呼の際いなくなった。大騒ぎとなった・・・。
T君水泳は不得意で連日2年生からしごかれていたが3kmの遠泳は無理と判断したのか長崎へ逃避したことがその夜分かって、K君が長崎まで迎えに行き、遠泳はしなくてよいから野母に戻るよう説得し無事翌朝我々と合流した。本当の良かった・・・。そのT君も昨年5月鬼籍に。合掌・・・・。
樺島灯台見学に行く途中椛島名物の「大ウナギ」を見た。とてつもない大きなウナギで、1尾が途絶えると次の代が何処からともなく現れてくる不思議なウナギ伝説であるが、我々の興味はかば焼きにしたらだった。
10日間の訓練の打ち上げが行われた。訓練中は禁酒禁煙、打ち上げだけは酒は許された。未だ日々アルコールをを口にしているが、この打ち上げの時に飲んだ札幌ジャインツ大瓶の生ビールの味を超えるものは未だ出てきてない。60数人が大声を上げ騒いでも山の上の宿舎、誰に気兼ねすることもなく深夜まで飲み明かし、水産放浪歌、寮歌、逍遥の歌を全員で歌ったことの思い出が懐かしい・・・。10日間雨は一度も降らず全員日焼けし水産健児らしくなったことが思い出される、同じ釜の飯を食らい遠泳で励ましながら完泳した同期の絆は以後4年間の学生生活の礎となったのではないか・・・?
この海洋訓練は学生有志で企画し学部は一切関知していなかったが、水産健児養成の基本と理解?したのか我々が卒業数年後学部の単位教科として取り入れられたと聞いている。長崎大学水産学部の水産健児育成には「野母」という土地柄は最適の立地であった。
「鳥鍋」
読んでの通り鳥の「鳥の鍋」である。飯塚先生の海洋浮遊生物学の講義が終わった際先生から「娘が縁日で買ったヒヨコが成長し朝鳴き始めたので近所に迷惑とか、誰か引き取ってくれないか?」引き取ることは即ち食すること理解し手をあげた。当日チンチン電車に乗り終点?近くで下車歩いて坂を上ること数分、先生宅に到着。そこには2羽の雄鶏がゲージの中で元気よく遊んでした。早速持参した紙の米袋に2羽を入れ帰路の電車に…。ところが電車内で雄鶏が鳴き騒ぎ車内は騒然となるが、O君と二人素知らぬ顔で大学前まで無事着いた。其の後は学部裏の庭先でO君の手により見事処理、3階の漁船運用学教室N助手の部屋で盛大に酒盛りと雄鶏の供養をしたが、参加者も多く2羽では不足し急遽鳥肉を調達に走り、その夜は心行くまで鶏肉を味わった。後日飯塚先生にこの件を報告した。返事は記憶にない‥‥。
鳥を締めるのはO君で見事な手さばき、樹の幹に頭を持って幹に沿わせ斧で一撃。O君何処で修得したのか…?
「端艇部合宿」
入学時しごかれた端艇訓練、日々参加して行くうちに12人が心を一つにして漕ぐ爽快感を感じるようになり何時しか端艇部の一員になっていた。当時漁業学科主体の端艇部で当然クルーになるものと思うようになった。
1年の海洋訓練も終わり、それなりに漕げるようになり1年が経過し翌年の春休みを迎え、聖地野母の野母臨海実験所で初めての合宿を迎えた。2年生が正クルーで我々は2軍。2軍には食事当番があり3~4日に一度回ってくる。食当は海路1㎞離れた野母の町?へ食材の買い出しに行く。ここで事件、実験場の和船に船外機が装備されていた。これで買い出しに行くのである。その日の食当のS君、気分ルンルンで操船していたのだが船外機取付けの「ボルト」の緩みで船外機は海没した。当時N助手も陣中見舞いに来ており何処に海没したのかと問うと舷側を示し「ここから」との返答…。。是政に中国の故事に出てくる話…。
「ここから」はとんでもないところで野母湾のどん詰まり、野母名産の蒲鉾工場の前で、汚水と悪臭透明度0cm。2年生は我々の連帯責任と称して船外機引き上げを命じた。3月下旬のまだ肌寒い頃、「およおよ」の浮いてる海に素潜りして船外機を捜すが視界0cmで発見できるわけがない。顔をあげると「およおよ」がベロリ頭から伝わってきた。この時ばかりは本当に泣けた!!
我々クルーは日々の練習。午前2000mを5本。午後同様に5本。乗艇のない日は権現山へのハイキングと行きたいのだが、下から350mまでランニング、帰りは交互に背中に相棒を背負い下山。夜は裏の海岸で例の水産放浪歌、寮歌。逍遥の歌、蛮歌で大声で歌う。遠く25㎞先には長崎の灯が見え禁酒、禁煙の身に長崎の灯はあまりにも無常だった。船外機は未だ揚がらず、懸命の捜索の最後の日に「すまる」に船外機が引っ掛かり回収し、N助手が全て分解し徹夜で復旧してくれ、実験場にも迷惑を懸けることもなく落着。N助手ご苦労様でした。
野母湾は奥行き約1㎞で端艇の競技1000m×2の練習には最適で外洋から隔離されていて波も立たず絶好の練習の海域。山側には3月中旬から山桜が咲き木々が芽吹くのが艇からも見え、きつい練習の中にも花を見る余裕があったのだ。
1年生伝統のこの合宿を無事終えると晴れて2年生、入学する1年生の指導に当たることが出来る。当時1年生には「踏み絵」の様なものであった。
「大学紛争」
我々の時代、このことを差し置いては当時の闘士達に失礼である・‥‥?
我々が入学した昭和41年大学本部内に学生会館は存在していたが、閉鎖中。
理由は会館の運営を巡って学生側と大学側が対立しこれが紛争の火種となり以来我々は卒業まで一度も学生会館の食堂を使用することはなかった。
そうしているなか、佐世保に原子力空母「エンタープライズ」が入ってきた。学内は騒然、わざわざ佐世保までデモに参加す学生も多数いた。もちろん水産学部の学生も同様で佐世保まで足を運んだ。漁業学科のS君(後に闘士となる)デモの最前線で活躍し顔面を催涙ガスでやられ散々な姿で下宿に帰ってきた。
当時小生もS君と同じ下宿。下宿のおばさん、S君の顔を見て思わず涙ぐんだだことを憶えている。以来S君はこの下宿を根城に本格的に運動に没頭するようになった。例の学生会館に立てこもり長崎県警の機動隊とドンパチやった(火炎ビン等使用)結果西町の別荘?送りとなった。同居の下宿人としてせめてもの差し入れをと数人で話し、差し入れをすることになったが、面会は1日に1回の決まりがあり、もたもたしていたら同志が先に面会する恐れありと判断、同居の畳屋さんの軽トラで西町まで走り朝1番で面会出来差し入れを渡した。拘置所訪問はもちろん初めてのことではあったが、中にいる本人は笑顔で対応したこと、大物の片鱗を感じた・・・・・。
其の後文教町キャンパスの教育学部、工学部、薬学部、教養部は全学連によって封鎖され講義などできない状態となったが、唯一水産学部だけは通常の講義が続けられていた。全学連にしてみれば完全封鎖が理想…。ある日の夕刻学部を占拠するという情報が舞い込んできた。これは大変と数十名の学生と一部教官も学部に駆け付け深夜まで待機したが結局はネズミ1匹来なかった。当時の学長は紛争の影響で体調不良に陥り急遽水産学部長の山田先生が学長代行として大学紛争に対峙されました。ご苦労様でした。
今思えばあの紛争はなんだったのか・・? 正解はないのでは?
「たつき」
我々18回生から2年後輩諸氏は記憶にある店の名前です。早朝訓練のランニングコースの中間位、昭和町の薬学部からダラダラと登坂、その坂を上り切ったあたりに店があった。この店の開拓者は15回生の増殖学科のKさん、漁業学科のAさんとTさんで我々が通い始めた頃上記の先輩諸氏Kさんを除きA、Tさんは専攻科在学中。店の奥に4畳半位の和室がありここでAさんにコッテリと絞られたこと未だ忘れない記憶。同級生の間で「のみに行くか?」といえば「たつき」だった。飲むのは日本酒カンビン1本150円、夜な夜な女に縁のない輩が参集し深夜まで親のすねをかじっている分際でよく飲んだものだ!! O君とは特に足しげく通い彼は締めに日本酒をご飯にかけて茶漬け同様にうまそうに食していたこと思い出す。本当の酒豪で豪傑だった。ここのおかみはかれこれ60代後半でいい旦那がいてスポンサー的存在。女将の親戚?を語る女性が突然店に現れた。年の頃は30前?この女性をカウンター越しに見ながらくだらない話をしながらついつい酒量が進み帰りは千鳥足でまっすぐ帰ればいいのに次はラーメン屋、まずビール次にラーメンこれで今日一日お終いとなる。なんという学生生活だろう‥‥。親が見たらどう思うかすら思ったことはなかったいい時代。この店で珍事が起きた。増殖学科Kさんが学部の補導教務のF係長を誘い慰労会をした。酒が進みF係長もいい気分になり店のカウンターに上がりその上を走り出した!!この店の逸話である。学生と学部の事務方との交流はこのようにして始まったのである。其の後我々もF係長には何かとお世話になった。有難うございます‥‥。
「練習船 長崎丸]
我々漁業学科18回生は練習船長崎丸での実習期間が専攻科を含め1年間に及んだ。専攻科入学と同時期に海技試験の制度の見直しが始まり、練習船での実習期間が1年あれば、当時の甲種2等航海士の筆記試験が免除になるよう検討が進んでいた。結果本科と専攻科で長崎丸には通算1年間お世話になった。昭和39年3月竣工し第2代を襲名し当時では最新の設備を有し、なかでも当時他の大学の練習船ではなかった冷房設備完備の居住区を有していた。お陰様で遠洋航海の際南下し赤道付近でも快適に船内生活を送ることが出来たのは感謝です。
我々18回生は昭和43年の遠洋航海はシンガポール、ペナン、高雄をめぐる約85日の航海、最後の高雄に着いたのが8月下旬1週間の寄港予定が、フィリピン付近に台風の卵が立て続けに発生し約2週間の寄港を余儀なくされた。
シンガポール、ペナンを巡って金銭も1週間はもったが後は殆どの者が「オケラ」となってしまい、とうとうシンガポールで買った土産の品を上陸した際に換金し飲み代に変わった・‥‥。ここでの2週間は大誤算。暇つぶしに最後は地元の小学生相手に野球の試合や、高校生相手にバスケットボールの試合など、船長も気を使ってくれて・‥‥。野球では見事に負けました!!
昭和45年の専攻科の遠洋航海はいつもの通り3年生と専攻科の混乗でこの年はボルネオ沖でトロール実習後ボルネオのサラワク川を約半日遡ったクチンという名もないみすぼらしい港町が寄港地、しかしここは面白かった。何しろ首狩り族の末裔が近郊に住んでいるという……。早速船長がバスを借り切り首狩り族の部落を訪問することに、なんとなく気持ちが悪いが興味半分んもあり足を運んで部落の酋長の館へ、館の梁には「ろくろ」がずらり並んでいるではないか。ガイドが今は文化的な生活をしているといっていたが、ボルネオの奥地迄来ていい経験をしたこと船長に感謝です。地元新聞にはサラワク川をさかのぼる長崎丸が一面に、学生が両舷に答舷礼で整列している雄姿が掲載され、数日後には市民に船内が一般公開され大勢の市民が物珍しさに集まってきた、国際親善の一翼を担ったのだ。サラワクを後にして一路シンガポールにへ。ここでも事件が起きた。シンガポールは岸壁停泊は出来ず沖係(港内でアンカリング)上陸は代理店手配の「サンパン」となる。門限は21時。デッキで点呼を取ったら1名欠員が発覚。最後のサンパンに乗り遅れたのだ‥‥。我々専攻科のT君怒り狂い3年生全員の尻をデックブラシの柄で叩いて回った。其の後自腹でサンパンを雇って帰船した1名を含め深夜までのストーンデッキの罰直となった。翌日2等航海士のIさんから専攻科生は戒めのお言葉を戴くことになったのである。当時の3年生の諸氏今はいかに思っているか? 申し訳ない‥‥。
「端艇部遠漕」
艇庫のない端艇部。2年生終わりまでは小ヶ倉の水産高校へ通い練習をしていた。
念願叶い大村湾に艇庫、艇揚陸設備等が出来2隻の艇を大村湾の時津港まで回航することになった。1日目は小ヶ倉から佐世保まで当時新造船の「鶴水」で曳航することになり3月下旬未だ肌寒いなか端艇部員全員が「鶴水」と艇2隻に分乗し沿岸沿いに北上をした。運悪く高気圧の張り出しで風は強く加えて向かい風の中「鶴水」と2隻の艇はピッチングの連続これが日没近くまで続いた。
灯もドップリと暮れ宿泊先の富高造船所のドックハウスに到着、遅い晩飯を食べ明日の時津までの遠漕に備え「せんべい布団」に入った。艇はヤマト張りの木造の外板、ピッチングで外板が緩み艇の中は水垢が溜まっていた。明日はまず排水と漏水止めの仕事が待っていることなど思う間もなく夢心地‥‥。
朝食後先の作業を行い安全点検をし一路時津港へ向かうのだが、西海橋の針尾の瀬戸の「汐」の流れを確認し南流になる頃を見計らって橋の下を通過するよう調整しながらスローで漕ぎ始めた。難所の針尾の瀬戸を無事通過しあとは唯々漕ぐだけ一路南に向け進む大村湾は内海で波はなく漕ぐにはいいが何しろ遠い!!富高造船所から時津港までは約20哩位あったのではないか?2隻並走して漕いでいたら午後になり他艇が西に変針した。当方は意に介さず南下していたらかなり時間が経過し片方の艇がはるか後方に視認された。我々が無事時津港についてから遅れてもう1艇も無事到着した。後でわかったこと、指揮していたN助手が片上湾の入口を時津港の近道と勘違い行きついたところは「どん詰まり」急遽アスターンし方向転換したとか。甲種船長のN助手のとんだ勘違いでした‥‥。
「寒中水泳」
この行事も学部が長崎に移って以来の冬の伝統行事である。毎年2月11日新たに制定された「建国記念の日」に長崎港外の俗称「ネズミ島」で行われた。
主催は長崎市の市民団体で夏はネズミ島で市民の子供たちに水泳を教える有志の会。我々は特別参加?寒中水泳の1か月前くらいからの早朝訓練は短パン、上半身裸でランニングから筋トレ時間があればサッカーに興じた。1年の1月は長崎は雪の降る日が多かったが早朝訓練は始まった。寒いを通り越し風切る肌は痛かった‥‥。全てが終わってから積雪のグランドでサッカーそれも裸足でやった、それ位元気があった18~19歳だった!!
本番では海面に「水大」と人文字を書くので、グランドで人文字練習をやらされた。全て1年生がやらされるのである。本番ではうまくゆき、海から揚がって焚火を囲みながら冷酒で乾杯!! 帰路の通船の中は他の市民も乗船しているのだが我々学部生は、冷酒が聞いてきて酩酊状態、「ゲロ」を吐くやつもいれば大声で寮歌など歌うもの、他人にはご迷惑をおかけしました!!大波止に着いたら飲み足らない輩は浜の町方面に繰り出して行った。あとはどうなったかは不明でした。
「結び」
このように我々18回生は昭和40年代の初期から中期まで長崎の街で心置きなく青春を謳歌し、社会に船出し以後50数年が経過した。いつしか18回生の有志が声掛けし学科を超えた同期会を開催するようになり現在に至っているが残念なことに「武漢コロナウイルス」に端を発した世界的なパンデミックの影響で2017年の神戸の開催以後途絶えている。本来であれば2020年に学部卒業50年の「金祝」を札幌で開催すべく準備を進めていたが感染拡大で止むなく中止せざるを得なくなった。その間同期の数名が鬼籍に入ったことは残念である。今回の「青春の思い出」を読んで戴き50数年前を振り返ってもらえれば幸いです。
文面中数名の個人名をアルハベットで標記しています。事前に了承を得ず掲載したことご理解いただきたい。
参考:当時の身の回りの物価
学費(国立大学一律) 6,000円/半期 年間12,000円
下宿代2食付 7,000円/月前後
大学の食堂(個人経営)ちゃんぽん 50円
丸玉ストアー隣のラーメン 60円
タクシー初乗り 80円
電車賃 10円?
銭湯 32円
育英会奨学金(一般) 3,000円/月
サントリーレッド 700㎖ 500円
コンパ参加費 800~1,000円
ダンスパーティーチケット(自治会館)150円
ガソリン 35~40円/ℓ
(完)
続きはこちら→「わが青春の思い出」
入江春彦先生 作「翠の水に」
入江先生の特徴のある筆跡がとても懐かしいですね。
楽譜は昭和51年入江先生退官記念”業績集”によった。
作者不詳「崎辺の太郎」
昭和33年頃の学生への応援歌(詩)のようです。
この詩は”鴻洋”の創刊号に載った。
水産学部の学生の同人誌が”鴻洋”と名付けて、昭和33年秋に発刊しました。
プロモーターは製造9回生の工藤弘志さんと漁業9回生の馬場広治さん等でした。
なお、この時の顧問が入江春彦先生でした。
プロモーターの二人の家に私はよく遊びに行っていました。
このようなことで、当時の詩を長く持ち続けてきました。同窓生の皆様に見ていただけたらと思います。【中島 信次】
支部を設立してきて~ 第4回 漁業学科 海洋学教室卒 青木 國男
S31年1月にJT九州支社のノンキャリヤ入社試験を受けたが、部長たちに云われたのは、この受験資格はJT本社採用キャリヤ試験に不合格の者しか受験できないと。長大水産学部には願書が来てなくて、受験できなかったという。教養試験問題で高得点を得て私は採用されたが、採用の通知は3月30日でした。
即、佐世保営業所の勤務となり、翌年に佐世保市沖の崎戸島に日本一大きい三菱・機械製塩所ができて、ここの塩収納検査を35年7月までして、私はタバコ製造業に転職し、仙台市勤務となった。
S41年4月にJT京都工場勤務となり、S43年頃に京都魚市場勤務の第11回卒の門柳忠雄兄をしり、京都市内の同窓の人たち、数名と会合し、支部設立で働く。その後、吹田氏役所勤務の第6回卒の板谷是義兄と会い、関西支部設立に向けて働き、S45年頃に関西支部を設立した。支部長は板谷さんにしてもらった。
その後、私は米子市勤務、S57年4月に広島市のJT中国支社勤務となり、広島支部設立で働き、第9回卒の村上恭祥兄(県水産試験場)に第13回卒の正木康昭兄「瀬戸内海区水産研究所」の協力をえて、S60年頃に広島支部設立をした。
支部設立ではワープロを打ち、自費で連絡した。卒した人の中には、大学から就職斡旋をしてもらっていないからか、無関心の人もおられたのは残念でした。
まとめにS39年頃、塩釜市の極洋水産工場にいた8回卒の久野義宏兄と会い、東京水産大卒、下関水産大卒の人たちと会った。彼らに聞いた、先輩たちは後輩の面倒を見るかと。皆、後輩の面倒はしますと云い、これ以来、私は支部総会では、先輩は後輩の面倒をするようにと云いました。
私の事~H元年に56歳でJTを退職し、S60年頃にJT年金共済が破綻し管理職だった者は、年金月額30万円あった。破綻後の私の年金月額・20万円では生活できないので、県立広島職業訓練校に入校。ビル管理科を半年で終了し、広島中央郵便局のビル・メンテナンスマンとなり75歳まで働く。
退職した時にはビル管理に必要な国家資格を持ってなくて資格取得に励み、最後は65歳の時に電工二種試験に合格、冷凍三種も得て計8ケを得る。私等の世代、製造学科卒の人たちは冷凍理論を習うが、漁業学科卒の者は習っていないので取得では難儀した。
65歳の時に難関の建築物環境衛生管理技術者試験に挑戦5回目で合格し、2年前の8月までビルの衛生検査で出勤していた。
最後に第4回卒の同期会の開催も私がし、佐世保市、長崎市、福岡市、小倉市、別府市、呉市、萩市と続いた。これらも同期生の協賛を得て開催できました。卒した同窓の皆様も健康に留意して、世の為に働いてください。
鶴友100号に一部掲載