浅丸のいない夏

Side A

  1. 河内太鼓
    三音家小若、三音家浅日丸(太鼓)

  2. 赤城の子守唄
    三音家浅王丸(音頭)、浅照(太鼓)、英夫(三味線)、小若(ギター)

  3. 歌入観音経
    三音家浅信(音頭)、浅照(太鼓)、英夫(三味線)、小若(ギター)

  4. 姿三四郎
    三音家浅司(音頭、ギター)、勝子(太鼓)、浅若(三味線)

Side B

  1. 獄中からの手紙
    三音家勝子(朗読)

  2. 河内十人斬り
    三音家利若(音頭)、浅照(太鼓)、浅若(三味線)、小若(ギター)

  3. 沓掛時次郎

三音家家明(音頭)、勝子(太鼓)、浅若(三味線)、小若(ギター)

 ヤンケ・レコードの記念すべき第1弾は、三音家浅丸という河内音頭のリード・ヴォーカリスト(音頭取り)の死を悼んで出されたライヴ・テープである。現在河内音頭の3大音頭取りの一人、三音家浅丸が亡くなったのは、昨年(1981年)の6月15日。この『浅丸のいない夏』は、その2か月後、河内は北野田の音頭場(盆踊りの会場)で、弟子達が師匠の供養にと、燃えに燃えた一夜を1本のテープに編集したものである。三音家が考え出したという「河内太鼓」を最初に、続いて、浅王丸、浅信、浅司、利若、明、と浅丸の弟子達の中からトップの5人の音頭をここに収めた。

 カリブ海に浮かぶ島、トリニータ&トバゴのカリプソが、年に1度のカーニヴァルの時だけしか聞かれないのとよく似て、この河内音頭も7月から9月まで、約2か月ぐらいしかナマで接することができない。カーニヴァルがキリスト教徒強く結びついてるとするなら、河内音頭は仏と深い縁にある。つまり、河内音頭はもともとが仏を供養するための、盆踊り歌なのであった。うたうことで死者を弔うのが最もうまかった男の一人、三音家浅丸の霊を慰めるために、「河内十人斬り」などといった血の気の多いギラギラした題目を選び、それを遠いかなたの師匠に捧げる。いかにも河内音頭の人間らしいやり方で、彼らは恩を返そうとしている。

 二代目・三音家浅丸。本名、平井悦三。1939年(昭和14年)河内に生まれる。子供の頃から河内音頭が好きで、11歳の時に初代浅丸の門をたたく。初代浅丸は、日の出家源丸、初音家太三郎と共に現代河内音頭のかたちを作った音頭取りの一人であった。13歳で小浅丸を襲名する。小浅丸を名乗るというのは、二代目を約束されたわけで、事実、彼はもうそのことから才能の萌芽が見られたようである。二十歳代で小浅丸は三音会を主宰。京山幸枝若、鉄砲光三郎、そして小浅丸の3人が河内音頭の代表的な音頭取りと言われるようになった。鉄砲光三郎は、ご存じのように、1961年「民謡河内音頭」でテイチクからデビューし

(その前にSP盤を出している)、河内音頭を全国的にヒットさせた現代河内音頭の変革者一人である。京山幸枝若は本来が浪花節の人。鉄砲に続いて河内音頭を録音し、現在でもうまさの点ではトップの座にいると言ってもいいだろう。

 小浅丸のデビューは、クラウン・レコードからの『馬喰一代』。続いて『河内の暴れん坊』を出した。その後ポリドールに移り、『悪名』のタイトルで2枚の圧バムを作った(MN3055、3058)。『悪名』は、河内音頭の中で特筆すべき名アルバムであり、もちろん彼、三音家浅丸の代表作でもあった。『悪名』があることによって、全関東河内音頭振興隊が作られた、と言っても過言ではない。

 初代・三音家浅丸が没してから3年後、1975年に、彼は二代目・浅丸を襲名。同時に『任侠上州やくざ』を発表する。

 この『任侠上州やくざ』でも『悪名』などでも浅丸のバックをつとめていたのが、浅照(太鼓)、浅司(三味線)、浅明(ギター)の3人である。彼らは河内音頭最高のリズム・セクションであり、河内音頭にギターを持ち込み、電気楽器を使ったのもここが最初であった。

 「猛牛河内音頭」という、近鉄バッファローズの応援歌が関西で大ヒットしたのが1980年のこと。浅丸自身も認めていたように、このシングル盤は彼の実力をフルに発揮したものではなかった。その裏には、彼の体を少しずつ蝕んでいたガンによる、体力と精神の集中力の低下あgあったのではないか。

 80年秋、浅丸は倒れた。数回の手術のかいもなく、翌年盆踊りが始まろうとする直前に、彼は100名ほどの弟子を残して去っていってしまった。

 三音家浅丸がどれほどの好人物であったか、またどれほどの才能をそなえていたか、それをここで語ることもないと思う。『浅丸のいない夏』、この、弟子達が力の限り歌ったライヴ・テープを聞いていただけば、浅丸の残していったものの大きさを計り知ることができることができると信じるからだ。