河内音頭との出会い

地域の河内音頭が全国に認知されるきっかけになったのは、1977年にルポライター朝倉喬司が現地を訪れたことにはじまる

この原稿は、2005年大久保で河内音頭祭りが開催されていた時、事前の予告活動において関係者がいるなか話したものを鷲巣功(現協議会議長)が録音・文字に起こしたもである。当時朝倉本人に掲載許可承諾済みである。

かえりみすれば河内音頭    朝倉喬司   

2005年7月9日(土)大久保地域センターでの講演から

第一回

河内少年院行きのタクシーの中で

音頭の現場に初めて行ったのは、1978年です。そのころ私は週刊誌記者で、物騒な事件、誰かが殺されたなんて事があると、なぜか「お前が行け」ということになっておりまして。70年代はほとんど毎週あっちこっちへ旅でした。

 77年に何の事件だったかな、たまたま河内少年院へ行く取材があって、東大阪市の北側に河内少年院、今でもありますでしょう。当時は枚岡(ヒラオカ)、「市」になってたのかなあ。近鉄で大阪から行って瓢箪山という駅、そこで降りてタクシーに乗ったんです。その中で、前後の話がどうだったか忘れちゃいましたが、タクシーの運転手さんが河内音頭というものは如何に素晴らしい音楽であるか、一生懸命わたしに言うんです。

 私もそれ以前から河内音頭の存在は多少分かっていました。鉄砲光三郎さん、60年代に全国的に有名になったあの人を通じて。参天製薬のコマーシャルを憶えてます。で、ここはその河内だって話になったのかな。あの時の運転手は自分でもセミプロ的にやってるか、誰かに弟子入りしたばっかで張り切ってたのか、そんな風にいま思うんですけど、勝手にもうどんどん熱が入って来るわけです。こちらとしては、なんという変わった土地へ来たんだろう、てな感じです。

 そのうちだんだんノッてきて踊りの話に進んで、こっちがそれを理解できないんで向こうもまだるっこしくなって来る。そうすると車を止めて外で踊って観せてやると言うんです。こっちは少年院のアポとってあるからっていうと、「ま、いいから、いいから」なんて感じで。「いいから」って言われても・・・。確かチラッと実際に踊ってくれたんですね。ま、とにかく河内少年院まで連れてってはもらえました。

初体験の音頭場入り口

通天閣の下での出会い

その晩ミナミのどっかのホテルに帰ってから、ふと運転手さんの話を思い出しましてね。レコードになってんなら聴いてみようかと。これは鮮明に覚えてる。通天閣の下、あの辺へ行けば何かあるだろうっていう勘で出掛けて。そこにあった、今もありますか、そのスジでは有名な、演歌や民俗芸能の品揃えの充実した店、浪花レコード(ナニワ楽器店か?)で聞いたんですよ。河内音頭のレコード、誰を聞いたらいいか。そうしたら店主は「無難にお勧めできるのは京山幸枝若やろな」と。この人は浪曲師で、天才というのはこの人のためにある位の人。ただし能力を発揮し始めた頃に浪曲全体が絶望的に低調となっていった不運はありますが、歴代でも1位、2位を争う位の人じゃないかな。その方の河内音頭のLPを買いましてですね、帰ってきて友達に聞かせてたんです。

そのころ仲良くしていたのが、平岡正明というジャズ評論家をやっておった男。今は仲良くしておりません。喧嘩をしてるわけじゃありませんが、断絶状態です。そしたら彼もノリやすい男なんで、「おーっ」とか言って。

 結局その、それまで僕らが考えていた日本の民謡に対する固定観念というものがどうしてもあるわけです。古臭いとか面白くないとか、まして身体が自然に踊り出すなんて事は、戦後育ちの我々としてはない。ところが、平岡先生もそうであったんだと思うけども、河内音頭を聞いていると、快くそういう常識が覆れて行く。快感がありました。

 そうこうするうちに、これは多分、平岡さんからじゃなかったかと思いますけど、ミュージック・マガジン、当時はニュー・ミュージック・マガジンといいましたが、そこの藤田正という編集者を紹介されて、ああだこうだ話すうちに私が河内音頭の探訪記みたいなものを書くことになって、78年に河内に行ったわけです。それがわたしの初めての河内音頭の櫓です。

いきなり三音家浅丸に遭遇

しかし何の予備知識もない。どこ行きゃ良いんだろうと考えた時に、河内のだいたい真ん中にあって人口的にも一番大きな町、八尾。その市役所の観光課ってのがあったのかな、そこで訊いたんです。でもぜんぜん教えてくれないどころか、なぜか邪険にする。「無いとは言わないけれど、俺たちはそんなもの問題にしてないよ」っていうような顔をされて、こっちも気分を悪くしましてね。

 どうもまだその頃は、河内音頭自体にいろんな意味で偏見があった。大阪でもですね、一般の善良なる市民からすると、ガラの悪い音楽、音頭場ってのは子供を行かせてはいけない所なんです。東京にいる河内出身者に聞いても、ちっちゃな頃は行っちゃいけないって言われた、みんな同じみたいですね。これにはいろいろな要因があるんですけど、この辺りが河内音頭の一番面白いところだと思います。

 ついでに言いますと、このあいだ知り合いが八尾の市役所へ行ったら、入った所にこんな大きな河内音頭の櫓の形をしたカラクリ時計が置いてあったそうで、時代も変われば変わるもんだと思いました。

 さて、しょうがないんで、正に放浪芸人の如く富田林へ流れました。なんか当てずっぽうもいいところなんですけど、一応の見取り図を持って尋ねようなんてものがあったんで、手間かけまして。で、富田林の市役所へ行ったら、なんと「ハイ、ハイ」てなもんで、「こういう方がいらっしゃいます。松原の方なんですが、音頭はなかなかで、みんな一門の方も張り切ってやっておられますよ」とかそんなような事をいう。それが三音会で、浅丸さんのことでした。

明るいアサマル

第二回

荊冠旗の下で

それでその三音会を紹介してもらって、浅丸さんに話を聞きまして。櫓を実際に観たいというと、ちょうど今夜あるという。さっそく近鉄でちょっと大阪寄りに戻った布忍(ヌノセ)駅から、近くの会場までてくてく歩いていった。

 これが、行くまでは全く知らなかったんですが、その盆踊りの主催者は部落解放同盟松原支部だったんです。荊冠旗が櫓の上に立ってるわけです。よくある町の盆踊りではなく、運動のひとつという意味もあったと思います。支部の人が櫓から挨拶もしてましたし。驚いたのは、音楽にすごく力が入っていて、踊りにもえらい熱気があるんです。僕のその後の運命は、おそらくここで決まってしまった。

 音頭場に入った瞬間、「はっ」とさせられましたね。驚愕です。延々と続く語りとリズムで、これだけの人を動かす力があるのか。びっくりしました。かなり年配の方と、青春真っ盛りみたいな連中と、小さな子供たちとですね、ひとつの場所で、同じ音楽で、こんなに熱く、一緒に踊れるものなのか。それは今までに見たことがない、衝撃的光景でした。

他の盆踊り、集団芸能との決定的な違い

こういった熱狂的な郷土芸能ですと、皆さん阿波踊りを連想されるかも知れません。ただあれはあらかじめ「連」を組んで、事前の決め通り一方向に行進していくものです。河内音頭はバラバラに集まって来た、世代も職業も育ちも、その時の気分すら全く違う個人が、そこの熱気でもみくちゃになって行くうちに、整然とした一体感が生まれてゆく。あるいは、逆にそこで作られた一体感の中で、まるきり違う個人どうしが隣り合わせで踊っているんです。

 櫓のすぐ下にはムシロが敷かれてあって、80歳くらいのおばあちゃんたちが数人かたまって、「悪名」の「浅吉ぃ」「おう」とかいうとこを一生懸命ジーっと 聴いてんですね。その周りをそこに集った全人類の踊りがぐるぐると回る。こういった光景に、盆踊りに限定しないでも、日本人が暮らしている生活局面の一部としてお目にかかれるとは思っていなかった訳です。ただ呆然と見ているだけでした。どういう風にその時の感動を言い表したらいいか、未だに分からないままです。

明るい浅丸

写真で見るとそこには浅司(現つかさ会会長:司家征嗣)さんもいたんですね。櫓の下には演歌歌手の金田たつえさんも来てて、「まあ一杯」と和気あいあい。入れ墨した人もいて、実にキップのいい話し方をするおばさんたちも大勢。

 浅丸さんというのは気持ち良く明るい人で、知らない土地の人間もスーっと迎え入れてくれる。すっかり好きになっちゃいました。「これだけ素晴らしいものなら東京でも大丈夫でしょう。出来たらいいですね」なんて愛想がわりに言いましたら、「わしらも箱根を越えるのが夢や」と答えてくれましてね。

 浅丸さんの性格的な明るさがどのくらいかっていう良い例を、第三者からの言葉で紹介しましょう。1950年から60年代の始め、ちょうど日本が戦後復興のドサクサから高度成長に向かう頃、浅丸さんも含めて鉄砲光三郎、京山幸枝若、といった人たちの河内音頭のレコードが何十万枚も売れました。その立役者と言って良いテイチクレコードの大阪支社のディレクターの島田須恵子(シマダ スエコ)さんに、この取材の時にインタビューしているんです。自分の文章ですが読みます。

「三音家浅丸さん、この人もわたしレコードを出しました。ほんまやったらもっとスターになれるええ節回しの人やねんやけど、惜しいかな、欲が無い。もうほんまに気のええ人でね。三音家の太鼓、三味線、これはもう日本一ですわ。それをよそから借りに来ると、『ああええで』と、どんどん貸さはる。もうちょっと自分のとこで囲い込む位の嫌らしさあったらええ思いますわ」(「ニュー・ミュージック・マガジン」1978年10月号所載『大阪の闇をゆさぶる河内音頭のリズム』ニュー・ミュージック・マガジン社刊)

あと他にも面白い事をいろいろ言ってますが、こういう島田須恵子さんのような人たちとの出会いがあって、河内音頭が音楽として聴くものとして成立して行ったんだと思います。


左から、浅司(現司家征嗣)、浅司の娘(現三門博花)、浅明(現京山宗若)

『大阪の闇をゆさぶる河内音頭のリズム』収録「ニュー・ミュージック・マガジン」1978年10月号

音頭の新機軸

三音会ってのは数ある会派の河内音頭界で、バックの楽器演奏を積極的に音頭に介入させて、全く新しいものを創って行くというコンセプトを展開した唯一の存在です。そのころ三音に集まっていた天才たち、太鼓の浅照、三味線の浅司、 ギターの浅明、これらの楽器に主張させ、フロントで張る音頭を煽り誘導する。そこにはアドリブ、インプロビゼーションが自然発生し、それによって新しい節回しや間も生まれ、河内音頭のサウンドが次の段階へ進んで行く。こういう事を意識してやられたのは、この浅丸さん、三音会だけだったと思うんです。東京でやれたらな、という気持ちが本当に起きましたね。

 取材を終えて東京に戻って、会う人間たちにこの時の感動を伝えました。それから2年ぐらいしてからですか、機運が高まって来るのは。ただ、来てもらおうなんて言ってるうちに、この浅丸さんが病気で入院しちゃうんですね。それで亡くなっちゃうんです。42歳でした。これは残念だっていうんで、わたしらとしては浅丸さんが亡くなった年の三音会の櫓を収録して、『浅丸のいない夏』というのをテープで出しました。まだCDじゃなかった。これを契機としてニュー・ミュージック・マガジン周辺の人間が集まって「全関東河内音頭振興隊」というのをデッチ上げ、東京での河内音頭活動を展開して行く事になるのです。とりあえず「全関東河内音頭振興隊」の成り立ちを説明するつもりで、ここまで来てしまいました。まだ話したいことの五分の一ですね。どうしようか。ちょっと参考に実物を聴きますか。

浅丸のいない夏 カセットテープ

第三回

河内住民総音頭取り現象

 明治時代に河内音頭というものがひとつの有力な音楽として立ち上がってから、凄い数の音頭狂たちが河内という土地の中で流派というよりも、会派ですね、この場合、その会派という形をとって、大都市大阪を背景に劇場芸として進出する、あるいは新しい節を取り入れてより洗練を極めるなど、いろいろ消長を繰り返しながらこの音楽を定着させて来ます。中央集権的な家元制度とはまったく別の、こういう自由な会派の集団発生も河内音頭の大きな特徴のひとつです。現在はいくつぐらいの会があるのかなあ。

(聴講者より)「百会派、千人の音頭取り」

(別の聴講者から)「は、いない。と言われる」

(朝倉、苦笑しながら)百はいないだろうなあ、いくらなんでも。しかし今も実に沢山の会派、演者が存在してます。この辺の事情は一度でも現地へ入れば、私の場合は最初、事件記者としてだったわけですが、大まかながら分かってきますね。

実はこの取材の時でも、八尾に一人ぐらい誰か居ないだろうかと探してまして、「美好家さんという人がいますよ」という話がやっと出たんで出掛けたら、そこは美好寿司という寿司屋で、主人が奥さんと娘さんとその旦那さんと板前さんかな、四、五人で会派を作って音頭をやってる。「今夜、櫓ありますから、ぜひ来なはれ、来なはれ」と誘ってくれるんです。こっちは寿司をご馳走になってしまってるものですから、「ああそうですか」と出掛けてみると、「忙しい稼業を持ちながら、ここまでの芸能がよく出来るもんだなあ」と思わせるだけの腕前はちゃんとあるんです。その後わたしは三音会へずっと行ってたので、それっきりご無沙汰しちゃってて、聞いてないんですけど。

左から 河内家松なべ、金田たつえ、浅丸

この少女は誰だ。天童よしみです。

オリジナリティの競い合い

 ことほど左様に、河内では地域、大きさ、芸風など千差万別でたくさんの会派、演者がいて、季節ともなると毎晩いく種類もの多様な音頭が繰り広げられているんです。知られたところですと三音会、日乃出会、鉄砲会など。それぞれの音のぐあいがありまして、けして形をひとつに決めてしまうのではないんですね。昨今では各会派とも、独創性を磨く事に鎬を削っていて、シンセサイザーなどの新しい楽器を持ち込んだり、テンポを急速にしたり、独自性を前面に曝すんです。皆さんも始めはみんな一緒に聞こえるかも知れませんが、今後お聞きになる時に、それぞれの持ち味、クセ、表現の中で重点が置かれているところを聞き分けていくと、グッと面白さも増して行く筈です。このあたりも他の郷土芸能にはない、河内音頭ならではのヴァラエティの豊かさと言えるでしょう。

芸能の起源と信仰

 音頭というのは、そもそも何かのとっかかりの時に発せられる第一声の事を言うわけですね。「乾杯の音頭」とか言いますでしょう。「音」の「頭」ですから。例えばアメリカ南部の黒人教会でも牧師がまず一声を発する。すると集っている信者たちが反応して声を揃えてついて行く。俗にコール・アンド・レスポンスといいますが、この全体を動かす牧師の第一声が音頭なんですね。このとき彼はキリストの教えを信者に説きながら、自身をも浄化させる。こういった形は信仰の壁を超えて人間の営みのあらゆる所に発見される現象でして、河内音頭のひとつの起源もそこにあると考えられます。

 それぞれの地元のお寺に伝えられている仏さまの教えを、説話の中に溶け込ませて、宗教者が一般の人たちに分かり易く説く、教える、広める。それによって自分の魂を浄化させる、浄土真宗系だと阿弥陀如来の救いに近づけて行く。この国の芸能の原型は、ほとんどがそんな形で作られて来たと思うんです。

説経語りから語りの芸能へ

 それがだんだん仏説を説くというところから物語を聴かせるという方向に変わっていった。ササラという竹の楽器を使って、道ばたで語り物を述べて聞かせる説経語りですね。「説教」ではなくて「説経」。話の題材としては「俊徳丸」や安倍晴明の生い立ちである「葛の葉」といったものなどがあり、語り始めれば辺りの人が集まって来る。この放浪芸の期間というのは、相当に長かったと思われます。

 そういうところで作られた物語っていうのは、江戸時代に入って語り物芸能のいろいろなジャンルに分化していきます。三味線の伴奏が付き劇場に進出して浄瑠璃、それを改良した義太夫節、江戸では清元、といったぐあいにです。つまり物語の芸能になり、より娯楽的要素を大きくしてゆく。もちろんこの種のものはアジアにもたくさん存在するんですが、日本の場合は中世から近世の間に専門家が出て来て、少しずつ宗教色が薄れていきます。

浄化をもたらす踊り

 もう一方で中世には念仏踊りというジャンルがありまして、鎌倉中期、日本で宗教が革命的に変わった時期のですね、日蓮、親鸞らとほぼ同時期の、一遍上人という人が知られてます。浄土系の念仏を唱えて鐘を叩いて踊りながら、心の救いを求めるものです。一遍上人は寺も持たず身ひとつで諸国を放浪して、自分が踊り狂ってそれに人々を巻き込んでいった。これは布教というのとは違いますね。正に現代河内音頭の原型のようであります。ただ中世の事ですから、この種の現象はすべて宗教と密接に絡みながら展開されるわけです。

 えー、これ何時までですか、え、45分、まずいなあ。

第四回

三味線の衝撃その後

 先ほど出た三味線という楽器が果たした役割は、もうひとつ別のところにもありました。室町時代まで、普通に持って歩ける弦楽器は琵琶しかなかった。これを使ったのが琵琶法師であり語られたのが平曲、これを文学的にまとめたのが平家物語ですね。戦国時代の終わり頃に堺に入って来た三味線の衝撃は、それまでの放浪芸的な分厚い表現の束を、劇場内に持ち込んで芸能的に洗練、上昇させて観念的にしていった。そもそも劇場というのは都市部にしかない極めて特殊な空間ですから、芸の在り方も変わっていく。当然、失う物もあった。

 するとその揺り戻しが、民俗芸能をふたたび大道芸的な方向へ逆行させて行きます。ここで大きな役割を果たしたのが、ゴゼさんの持ち歩いた芸能。先頃最後のゴゼと呼ばれた人がなくなりましたね。小林ハルさん。105歳でしたか。ゴゼさんの芸は、非常に憶えやすい節を繰り返して物語を進めていく。この形が今も残っているのが八木節です。上州ってのは山の向こうが越後ですから、ここにゴゼさんが伝えたわけです。おなじメロディーで物語を展開し、ある一箇所で共通するかけ声をかけてまた元に戻って、メロディーをはじめから繰り返して進んで行く。こういう構成をとってますね。 

踊り念仏を継承

裏からみた櫓

音頭と踊りのインタープレイ

 仏教の声明とか、キリスト教の聖歌、賛美歌でも最初に声を出してその場の音の秩序を整えていくリーダーの役割があって、それが音頭取りですね、ツケとかヒラと呼ばれる脇の人たちは、それについていって声を出して行く。表だった受け答えが形式として厳密に成立していなくても、民族芸能はこの種の呼応という要素を潜在的に必ず持っています。特に河内音頭は今もしっかりこの構造を受け継いでいて、まず音頭取りの「さてもこの場の皆様がたへ」という第一声で始まり、お囃子衆の「イヤコラセ、ドッコイセ」という応答で段落を築き、「ソラヨイトコサ、サノヨイヤサッサ」で章を完結させる。立派な応答形式です。そしてこの関係が、踊り手との間にも出来上がっているようにも思えます。踊り手は皆きちんと唱和しているのではないのですが、踊るという行為が音頭に対する返答になって、緊密なコール・アンド・レスポンス構造が出来ている。それだから音頭と踊りが刺激し合う事で音頭場が異常な熱気を帯び、だんだん凡百の盆踊りと違って来るんだな、と私はいつも感じてますね。

お盆、そして盆踊り

 このように切っても切り離せない河内音頭と盆踊りとの関係を見ていくと、これまた面白い。そもそも盆踊りというのは、何か。現代でお盆と言いますと、仏の供養です。この国では人間の死に関する事柄はだいたいお寺が仕切ってるので、葬式や法事と並列的にとらえられる。ただ遡って考えるとですね、この国には古来からオリジナルな形のお盆があって、途中から入ってきた仏教も妥協してそれを残さざるを得なかったのではないか、とも思える節があります。

 日本古来のお盆に行われるひとつの遊びがカガイとか歌垣(ウタガキ)といいまして、ある共同体の若い男女が歌をうたって、恋愛の相手選びをするものです。日本書紀、常陸の国風土記にも出てくる。沖縄あたりだと毛遊び(モウアシビ)。中国雲南省の少数民族もこれと似たような事をしているのを、テレビで見て驚きました。まあ集団見合いみたいなもので、歌でやり合いながらカップルを作っていくわけです。男女の恋愛を言祝ぎ新しい生命力の誕生を歓迎する、死者の弔いと全く逆の儀式が、お盆には一緒に行われていたんです。つまり古来お盆では死者を祀ると同時に、新しい命を生むきっかけを作っていたと考えられます。だから決して静かに厳かにだけ過ぎるものではない。多少は賑やかにもなるんですね。

同一線上の生と死

 若い男と女が出会い結ばれて新しい命を生んで行く。その命も年月を経て死ぬ。するとまた何処かで新しい命が生まれる。輪廻、転生、再生ですね。これをひとつの円運動として考えると、その繰り返す輪の中心を通って水平に引かれた同一線上に人の生と死があるという考え方は、聖徳太子の頃にはもう薄れ始めたようですが、お盆の基本的な拠り所になっていると思えます。

 これを図式に置き換えると、まず生まれてX軸を右に進みながら、正の値を増やしていって、ピークを過ぎて値が少なくなって来て、ゼロになる。人間の生がひとつの波を描く。ゼロになったところが死です。すると今度はあの世で負の値を増やしていって底に着くと、またゼロに近づいて来る。現世に帰って来るんです。そこでゼロを通過して再び浮上していくとまた生まれ変わっていく。このゼロの値のところ、この世の「死」とあの世からの「生」が交差する同一線上。その時に両方を祀るのがお盆。だから死者を弔う一方で、新しい相手も探さなければならない。求愛運動の歌垣に踊りが絡むのは当然のことです。

 冒頭でお話しした布忍の盆踊りで観たものに、男と女が向き合ってマメカチマンボを踊るのがありました。錦糸町なんかではあんまり見られないですけど、今考えますと河内音頭にはお盆の古い形を支える柱がしっかりと残っているなあ、と実感した次第です。

講義中の朝倉喬司

まだまだこの先、詠みたいけれど

 死者はどこから来て、どこに帰って行くのかといいいますと、民俗学者によると高い山だっていうんですね。冬から春、あるいは夏から秋というような季節の変わり目、その山の上から霊が現世に戻って来て、また帰って行く。その時に行われたのが、盆踊りの原型と言えるんじゃないでしょうか。盆踊りは今ではたいていヤグラのまわりを輪をなしておどるわけですが、かつては山の上に死者の魂を送るために行列になる形が組み合わさっていたはずです。山の上にある他界、そこに居る霊を音頭で誘い出し、さんざん踊り狂って新しい命を生み、また送り出す。お盆と河内音頭をこう関連づけても無理はないでしょう。

 と来ましたところで、ちょうど時間となりましてございます。それほど脇道にそれてもいないのですが、当初予定の半分も話せませんでした。どうしましょう、近いうちに続きをまた、という事でお許し願えますか。どうでしょう。


モノクロ写真撮影:朝倉喬司