ここには、考えたことなど 思い出したことを少しずつ書き留めています。
1 授業でトリビアを教えていてふと思ったこと
2 狂気の洗礼 京都時代のエピソード
3 不規則な人々 吉澤研の思出
4 全部一気よみ(このページ+1+2+3)
目次
2次元結晶群/2次元格子並進群 ≅ 2次元結晶点群であり、文様群(2次元結晶群)17から並進対称をとりのぞくと結晶点群10がでてくる。この7はフリーズ群の分類と一致するのは必然である。文様群はふすまの模様の分類です。
いつも長い行列ができている「安全食堂」の前に学生と並んでいる。
行列が長く、待ちながら学生ととりとめもない話をする。 そして、学生に注文するメニューを決めておくように指示をだす、自分もいちおうはメニューを考えてみる。この待ち時間ではだいたいは、日常のトリビアを披露したり、何かの文句を言っていることが多い。 ここでは、研究の話はご法度だ。 せっかく学外に出たのだから、普通の日常の空気を大切にしたい。 まあ、マイペースだから、どこにいてもあんまり変わらない気もするけれど。そうこうするうちに行列の前方になり、活気のある店内に案内される。ここでの私の動きは完全に最適化されている。
「どうぞ」と言われてただ席につくような無駄な動きはしない。 真っ先に向かうのは、給水機だ。 ここはセルフサービス。 初見の学生がオロオロしている横で、美しい無駄のない動線でお手本を見せるのだ。コップに水を注ぎ、席につく。 そこへ、女性店主(ビッグママ)がやってきて「いつものやつ?」と声をかけてくる。「はい!」思考も、完全にパブロフの犬状態だ。 反射的に元気よく返事をしてしまう。(何にしようか考えていた濃密思考はここで破棄される。)結局、ちゃんぽん大盛りなのだ。
ちなみに学生は普通の並ラーメン。
目の前に2つの丼が並ぶ。一見、大盛りちゃんぽんの器は、並ラーメンよりひと回り大きく見える程度だ。だが、脳内はすでに計算を始めている。直径の比率の3乗が、総容量にきいてくる。 つまり、直径がたった1.3倍になるだけで、そこには約2倍の空間がある。 この器は、並の2倍のエネルギーを統治する巨大な宇宙なのだ。さらに、問題は器の形状と、その上にうず高く盛り出している具材の山だ。普通のラーメンは、いわば「円錐型」の器。 だが、この大盛りちゃんぽんの、上に突き出した山部分は一体どうだ? 円錐として近似すべきか(1/3)、それとも球として近似すべきか(2/3)。 係数が 1/3 か 2/3 かでは、体積の計算に決定的な違いが生まれる。器は錐か、盛り出しは球か。 脳内で激しい幾何学のシミュレーションが駆動する。
しかし、猶予がない。 ちゃんぽんは、あつあつだ。
のんびり計算していると、麺がスープを吸って伸びてしまう。空間の近似を思考しながら、同時にあつあつのちゃんぽんを伸びないように、中身から「麺だけ」を優先して引きずり出し、口へと運ぶ。 給水から始まった、我ながら素晴らしい、完璧なシークエンスで食事が展開していく。ハフハフと麺をすすり、上の具材をだいたい食べ終わる。 ここで味変だ。 胡椒を振り、紅生姜をガサッと追加する。スープの水位が下がり、視界が開け、ようやく「器の全貌」が見えてきた。 その瞬間、私は箸を止めてフリーズした。大きさが違うだけじゃない。 描かれている模様(幾何学)の「対称性」が、ぜんぜん違うのだ。学生の並丼は、双喜紋 (囍)がただ横にスライドしていく鏡映面をもつ並進対称性(p1m1)。 対して、大盛りちゃんぽんの丼は、模様が上下に鏡映反転しながら交互に繰り返されている(p11g)。
「フリーズ群が相転移している……!」
数学の世界では、帯状の模様の対称性は世界にたった「7種類」しかないと証明されている。 教科書で「群論」の数式をガリガリこねくり回して勝ち誇っている講義室の住人たちには申し訳ないが、私に言わせれば、この紅生姜の赤に映えるどんぶりの模様すら、空間のルールを体現する生きた意匠なのだ。なぜ、3乗のダイナミズムによって体積が2倍になり、境界線の幾何学が変わった瞬間、異なる対称性のフリーズ群の模様が選ばれたのか。 学生が「チャーシューうまっ!」と無邪気にスープを飲んでいる横で、紅生姜の混ざったスープ越しに、大盛りちゃんぽんの湯気の向こうにある宇宙の方程式を凝視している。
研究室を飛び出しても、結局、私の脳内はこれだ。
普通の日常の空気を大切にしたいなんて、どの口が言ったのだろう。でも、これって量子論のクラスでいつも学生に教えていることと同じなのだ。 空間の広さやエネルギーのレベルが変われば、安定する結晶構造や電子の軌道の「対称性」はダイナミックに変化する。 器が大きくなるということは、システム全体のエネルギー状態が変わるということ。 だからこそ、どんぶりの模様という共通言語も、その空間にふさわしい群へと姿を変えたわけだ。
そうして、最後まで綺麗に食べ終わる。
ふう、と一息つきたいところだが、お腹がパンパンだ。 私は彼らのボスのため、支払い担当(財源)であると同時に、彼らを送り届ける「運行責任者」でもある。 このきついお腹を抱えながら、安全運転で研究室に戻らなければならないのだ。車へ向かう道すがら、いつもの後悔がじわじわとやってくる。 「普通(並)にしとけばよかった……」しかし、たった100円アップするだけで、空間のキャパシティが2倍に跳ね上がるあの快感には、どうしても抗しがたい魅力がある。
そこで、ハッと気づいた。
店に入ってからメニューを決めたんじゃない。 あの「ちゃんぽん」が食べたいという強烈な目的があったからこそ、安全食堂という空間に足を運んだのだ。これって、我々がいつもやっている「DFT(密度汎関数理論)計算」とまったく同じじゃないか。最初に「知りたいエネルギーや電子状態(目的)」が明確にあって、それを解くために最適な交換相関汎関数(手法)を割り当てていく、あのプロセス。 ちゃんぽんへの欲求は、まさに脳内DFTが叩き出した最適解だったわけだ。そう思った瞬間、すべてが腑に落ちて、妙にスッキリした。お腹はパンパンのままだが。あとは、ゆっくり消化するのを待つだけだ。
このとき私は、大きな獲物を丸呑みして、お腹が膨れたヘビの気持ちに深く思いを馳せる。
まあ、私は量子論と点群の化学の先生で、数学やどんぶりデザインの門外漢だけど。 いつも学生には「先生の言ってること、わからない」って言われてるけどね。まあ仕方ないさ、私には、君たちがどこで詰まっていて分からないかわからないんだから。君たちも呼吸の正しい方法なんて、わざわざ他人に教えられないだろう?
(注 内容は一部フィクションを含みます。)
猫が使いこなすイプシロン・デルタ論法
猫は数的センスを持つ生き物だ
YouTubeでなんとなく猫の動画を観ていた。
縁側のいちばん日が当たる、きもちよい昼寝の場所をめぐる小競り合いだ。先客の猫に向かって、新参者がじりじりと間合いを詰めていく。 「シーシー!」 先客が首をすくめて威嚇の声を上げる。おもしろい。彼らは場所を譲る気もなければ、泥沼の大喧嘩をしたいわけでもないのだ。 相手の出方を見ながら、「ここから先に入ったら猫パンチだぞ」、「じゃあ、このラインならどうだ?」と、ミリ単位で見えない境界線を探り合っている。あの緊張感。時折、電光石火で繰り出される猫パンチ。 観ながら、私は思った。 「あ、こいつら今、完全にイプシロン・デルタ(ε-δ)論法をやってるな」と。
大学の数学で誰もが絶望するあの最難関概念。
数式を追っただけで理解した気になって、上からマウントをとってくる自称秀才くんの説明などはこの前には霞んでしまう。 概念さえ掴んでしまえば、数式なんてただの便利な言語だ。いくら綺麗な「空手の型」を覚えたところで、彼らの生ぬるい論理では、現場の電光石火の猫パンチには絶対に対抗できないのだ。 YouTubeの猫のほうが、きもちよい昼寝の場所を守るために、この強力なシステムデザインをよっぽど直感的に使いこなしている。
簡単に説明すると、こういうことだ。
イプシロン(ε)は「出力の誤差」であり、猫にとっては「内なる快眠クオリティ」だ。 「私はこれくらいの静けさとスペースをキープして、気持ちよく寝たい(イライラ度をこの範囲に抑えたい)」という、結果側の許容誤差の基準である。対するデルタ(δ)は「入力の誤差」であり、相手に提示する「猫パンチの射程距離」だ。 相手との物理的な位置という「入力」をどれくらいの誤差(距離)に抑え込めるかという、能動的な防衛線のことだ。
数学の教科書を開くと、このイプシロン・デルタ論法の定義は、次のような冷たい数式で書かれている。
「任意の正の実数 ε に対して、ある正の実数 δ が存在し、0 < |x - a| < δ ならば、|f(x) - b| < ε が成り立つ」
この数式が言わんとしている本質は、「出力の誤差(ε)は、入力の誤差(δ)によって完全に制御可能である」という強力なコントロールの意志だ。
猫たちの会話に翻訳すれば、こうなる。
「あなたが『私のイライラ(出力誤差)をこれくらい(ε)の微々たる量に抑えたい!』とワガママに望むなら、それを実現するために『相手を近づける距離(入力誤差)をこれくらい(δ)の狭さに制限しなさい』という具体的な境界線が必ず決定できる。その入力の防衛線(δ)さえしっかりコントロールして守れば、結果としての出力の乱れ(ε)は、自動的にあなたの理想の範囲内にピタリと収まる」つまり、結果(ε)をコントロールしたければ、原因(δ)を制御せよ。猫パンチの射程を厳密に管理すること(入力の制御)で、己の心の平穏(出力のキープ)を100%保証するシステムなのだ。この学理の本質は、どこか1点に重なること(収束)ではない。 完璧な正解(実体)が真ん中になくても、お互いの許容誤差を連動させることで、関係性を破綻させずに駆動し続けるための「コントロールの真なる定義」なのだ。
そして面白いのはここから。
この「昼寝の場所を守る防衛線」をひっくり返して、「どうしてもあの人に近づきたい、高解像度で理解したい」という純粋なアプローチの情熱を数式にのせた瞬間。 あの δ と ε は極限までギュッと絞り込まれ、美しい「収束」へと姿を変える。相手のすべてを誤差なく理解したい(出力誤差 ε を極限までゼロに近づけたい)と願うとき、私たちは自らのアプローチの間合い(入力誤差 δ)も、無限にゼロへと絞り込んでいく。 「これだけ近くにいるんだから(入力誤差ほぼゼロ)、私の気持ちもこれだけブレない(出力誤差ほぼゼロ)」お互いの境界線が消え入りそうなほど小さくなったとき、数式は「限りなく近づく」という極限の美しさを描き出す。 画面の中で、猫たちは「シーシー」と言いながら互いの δ を微調整し、世界のピントを合わせ合っている。
概念さえ掴めば、理解は一瞬。難解な記号の檻から解放された瞬間、世界はこんなにもおもしろい物理現象の縮図に見えてくる。数式はモデルであり、枠組みでもある。それを感じとり、生活に生かしてこそ人間の知恵だね。
修理可能な障害 叩いたら治った
対応するのがめんどくさくて放っておいたけど、やらざるを得なくなったので対応することになった。AlmaLinux 10.0をインストールして、やれやれとまとめてアップデートしたら、なんか変なのが出た。画面を埋め尽くすのは、yum(dnf) が吐き散らす無機質なスタックトレース。
Traceback (most recent call last):
File "/bin/yum", line 61, in <module>
from dnf.cli import main
File "/usr/lib/python3.12/site-packages/dnf/__init__.py", line 30, in <module>
import dnf.base
File "/usr/lib/python3.12/site-packages/dnf/base.py", line 29, in <module>
import libdnf.transaction
File "/usr/lib64/python3.12/site-packages/libdnf/__init__.py", line 14, in <module>
from . import conf
File "/usr/lib64/python3.12/site-packages/libdnf/conf.py", line 10, in <module>
from . import _conf
ImportError: /lib64/librpm_sequoia.so.1: undefined symbol: EVP_PKEY_verify_message_init, version OPENSSL_3.4.0
まあ、ガウシアン(Gaussian)は動くから放っておくことにした。
研究の計算さえ回っていれば、OSの機嫌なんて二の次だ。学会や締め切りを控えた研究者にとって、パッケージマネージャの反抗期など「部屋の掃除」くらい優先度の低いノイズでしかない。しかし、パッケージを一切入れることができなくなった。これではさすがに不便極まりない。「新しいライブラリを一つも追加できないサーバー」は、ただの豪華で大喰らいな暖房器具だ。春の嵐のような新学期もようやく一息ついたので、重い腰を上げて対応することにした。
白昼、静かに熱を発する50台のクラスターを前にして、私は思った。
1台なら「ちょっとした不運」だが、50台同時に沈黙している目の前の光景は、なかなかに壮観なディストピアだ。「あ、これ、完全にゲーデルの不完全性定理の罠に捕まってるな」と。数学の歴史をひっくり返したあの難解な定理。数式をパズルのようにこねくり回して悦に浸っている「論理学おたく」の静かな説明なんてどうでもいい。あれは、システムを限界まで効率化しようとするすべてのエンジニアが、いつか現場で直面する「構造の呪い」なのだ。
この構図をそのままあてはめてみよう。
ゲーデルの不完全性定理とは、乱暴にいえば「ある論理システムの内側には、そのシステム自身のルールだけでは、正しいとも間違っているとも証明できない命題(矛盾)が必ず存在する」という真理だ。今回の AlmaLinux 10.0 の世界が、まさにその「閉じられた論理システム」だった。インフラ を健康な状態に導くための「証明(プロトコル)」にあたるのが、他ならぬ yum コマンドだ。システムは「自分自身を常に最新に保ち、不整合を修復する」という完璧なルールに従って動いていた。/bin/yum から始まり、Python 3.12 のモジュールたちを順にインポートし、パッケージを調定していくはずだった。しかし、そのルールを動かすための根本の土台である OpenSSL がバグった瞬間、最下層のライブラリ librpm_sequoia.so.1 は EVP_PKEY_verify_message_init という未定義のシンボルを吐いて絶命した。この瞬間に、システムの内側からは「自分が正しい状態であることの証明(=修復のためのプロトコルの実行)」が論理的に不可能になってしまったのだ。
医者が全員病気で倒れた病院で、「医者の診察を受けなさい」というルールだけが虚しく響いているような絶望感。
スタックトレースの最後の1行は、内側のルールに縛られて一歩も動けなくなった論理の断末魔だった。だが、この袋小路の先にこそ、真のブレイクスルーが隠されている。ゲーデルの定理は「内側では解決できない」と言っているだけで、「絶対に解決できない」とは言っていない。「そのシステムの外側にある、より高次元のルール(メタシステム)から介入すれば、その矛盾は嘘のように解決できる」という、大逆転の裏口を残してくれている。
だから、私は「内側のルール(プロトコル)」に従って優等生的に直すのをやめた。
インストールメディアを挿してレスキューモードで……なんていう、システムが用意したお行儀の良いレールはすべて無視した。外側の神(メタ視点)として、直接物理層に手を突っ込む。NFSという共通インフラ領域から、最新の 3.5.5 のバイナリを引っ張ってきて、システムが求めている 3.2.2 という偽装名を貼り、cp コマンドで回路ごと強制的に上書きしてやったのだ。
システム本来の論理回路を、外側から物理的に「殴って」ハッキングする。
やっていることは最高に知的な数理パズルのようでいて、実態は「動かないテレビの横を叩いたら直った」のLinux版である。一瞬だけシステムの嘘に付き合って辻褄を合わせ、電流を通す。するとデッドロックしていた論理の歯車がガチリと噛み合い、死んでいた yum が息を吹き返した。あとは、動き出したシステム自身に公式リポジトリの正規版を踏ませ、その「偽装」ごと綺麗に押しつぶして上書きさせるだけだ。
手元の画面で、50台の接続が「パツン、パツン」と小気味よく自動で切れていく。
強制調律を終えた彼らが、次々とAlmaLinux 10.1へと自動アップデートされ、真の意味で蘇生していく合図だ。それは、システムが内側の屁理屈を諦め、外側からの強制調律を受け入れて自律進行を始めた、何よりの「成功のビート」だった。完璧なシステムなんて存在しない。どんなに美しいシンメトリーで整えた50台のクラスターでも、いつか内側から破綻する。大切なのは、システムの内側のルールに盲従して溺れないことだ。いざという時は、システムごと論理回路をひっくり返し、外側から物理的にケリをつける。インフラ運用はこんなにもスリリングで、最高に痛快なゲームに変わる。
ちなみに、このとき私は、万が一 ssh まで巻き添えで死んだときのために、ftp や rlogin、果ては telnet といった往年のロートルたちをシステムに忍び込ませていた。暗号化という最新の「知性(OpenSSL)」がバグで自縄自縛に陥っているとき、パスワードも通信内容もすべて平文でぶちまける、あのセキュリティ意識ゼロの昭和のベテランたちが、唯一の命綱になるのだ。最新の暗号化技術が全滅し、すべてのレーダーが狂った戦場で、すっ裸の telnet が悠然と立っている。その姿には、妙な頼もしささえあった。そう、五感さえ研ぎ澄まされていれば、ミノフスキー粒子環境下の白兵戦など怖くはないのだ。
つまり私が何を言いたいかというと。最新のスマートな技術に頼りすぎるな、ということ。そして、泥臭く激動の時代を生き抜いてきた「ベテラン」には、いつでも帰ってきてもらえるよう、最高の敬意を払っておくべきだということだ。
修理不可能な障害 沈黙の円盤
きょう、HDDが死んだ。
その冷徹な事実が目の前に突きつけられた瞬間、私の脳裏でひとつの言葉が発火した。『きょう、ママンが死んだ』。カミュの『異邦人』の、あのあまりにも有名な書き出しだ。
きょう、/homeが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。システムからメッセージをもらった。「(fatal error -- Input/output error)ディスクノシヲイタム。ディスク、チンモク、データハショウメツ」。これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。昨日まで完璧に機能していたものが、ある日突然、前触れもなく沈黙する。そこには悲しみや焦りといった人間特有の感情が入り込む余地すらない。ただ、「壊れた」という圧倒的な事実だけがそこにある。世界の根源的な「理不尽さ」が、私の手元で牙を剥いた瞬間だった。
/homeの中には、4年生と新M1の新しい仕事と過去の膨大な資料が入っていた。だが、この出来事は新人にとって忘れられない何らかの教訓になる、と考えるしかないのかもしれない。単独のデータはいつか失われる。格納先を忘れるか格納先が壊れるかのどちらかで、だからこそ備えるべきだという、ごく当たり前で、しかし当たり前すぎて忘れられがちな事実。
そこでふと考える。HDDが死をもって伝えたかったこととは何だったのか。おそらく、何もない。それはただ壊れるべくして壊れただけであり、そこに意図も意味も含まれてはいない。にもかかわらず、私はそこに「伝えられた何か」を見いだそうとしている。教訓や必然性、あるいは小さな物語を与え、この出来事を理解可能なものにしようとしている。けれども、それはすべて後付けにすぎない。HDDはただ沈黙しただけだ。そして世界は、それについて何も語らない。まあ、無理に意味を与える必要などないのだろう。事実に意味など、そもそも必要とされていない。
事実の羅列に法則や再現性が見いだされるときにはじめて、思考は濃密さを帯び、意味が立ち現れる。だが、目の前のこれはそうした類のものとは異なる。予測も体系化もされない、ただ一度起きただけの出来事。それは事故ですらない。ただの事実だ。
ここで思考が回転し始め、マーフィーの法則を思い出す。世間ではこれを「不運の法則」のように扱うが、これは世界の性質ではなく、我々の脳が持つ「認知のバグ」にすぎない。この現象は、条件付き確率、すなわちベイズの定理を用いて論理的に整理できる。
P(A|B) = P(B|A)P(A)/P(B)
ここで、A を「故障という事象」、B を「重大な損失という観測結果」と定義する。我々は「不運により故障した結果(A)、データ損失(B)が起きた」という事後確率 (A|B) を目の当たりにすると、まるで「故障は当初から必然であった」かのように過大評価してしまう。ここで分母の P(B) は、「損失が発生するすべてのケース」を指し、以下の二つの項で構成される。
P(B) = P(B|A)P(A) [故障に起因する損失] + P(B|ーA)P(ーA) [故障に起因しない損失]←無視されやすい
我々が陥るバイアスの正体は、この分母を正しく評価できないことにある。
第一に、我々は圧倒的な「何事もなかった時間」である事前確率 P(ーA) を軽視する。これは生存者バイアスの一種であり、平穏な時間は記録に残らず、壊れた瞬間だけが標本として切り取られる。その結果、記憶に打ち込まれた「壊れた事実」という楔(くさび)だけが、あたかも歴史のすべてであるかのように固定化される。
第二に、P(B|ーA) P(ーA) を無視あるいは過小評価している。すなわち、「故障は起きていないのに損失が発生した」というケースだ。人為的ミスや外部環境など、故障以外の要因で損失に至る可能性を計算から排除することで、我々は P(A|B) ≒ P(A)「故障によるデータの損失の確率≒故障の確率」、すなわちデータ損失は故障時の必然という物語を完成させてしまう。
これまで何事もなく動き続けていた時間は忘却され、壊れた瞬間のみが特別な意味を帯びて立ち現れる。我々が「必然」と感じているものは、分母である全事象 (B) を偏った標本で矮小化した結果、計算された認知上の幻影に過ぎないのである。
この構図に以前のパッケージマネージャーの反抗期を重ね合わせ、ゲーデルの不完全性定理の罠を思い出す。システムが「自分自身を常に正しく保つ」ルールに従っていたとしても、その内側には論理的に証明不可能な矛盾が必ず存在する。前回のOpenSSLのバグで死んだシンボルがまさにそれだった。内側からは自分が正しい状態であることを証明できない絶望。しかし、ゲーデルの定理が救いなのは、「そのシステムの外側にある、より高次元のルールから介入すれば矛盾は解決できる」という裏口を残している点だ。
続いて、ウィトゲンシュタインの論考のような静的な世界観が心に浮かぶ。彼は「論理空間における世界の写像」として、世界を事実の総体と捉えた。しかし、私たちの直面するマーフィー的な事故は、静的な論理空間に突如闖入する「動的なノイズ」である。我々は、この予期せぬノイズと論理的整合性のズレを埋めるために、必死に物語を紡ぎ出す。
なぜ、人はかくも執拗に、意味の欠落した事実に対して、ランダムな粒子の輝点に対して刻む星座のように『法則』という名を与えようとするのか。
「純粋理性の拡張」への欲望――私たちが不条理に意味を求めようとするのは、カントが批判した「理性の必然的誤謬」そのものである。また、ウィトゲンシュタイン的に言えば、その意味付けは言語の論理の外側へ行こうとする「ナンセンスな記述」に他ならない。人間は、カントが批判した理性の幻想を抱かずにはいられず、かつ、ウィトゲンシュタインが沈黙を強いた「語り得ぬもの」をどうしても語ろうとしてしまう。これは人間の知性に刻まれた宿命的な「バグ」である。
恐ろしいのは、この歪みの中にいる限り、自分自身がバイアスそのものになっているという事実を認識できないことだ。だが、メタ視点から外側へ出ることで、私たちは不条理を飼いならすことができる。私の今回の実践――物理層へ直接手を突っ込み、回路をハッキングするように現実へ介入し、バックアップを実装する――は、カント的理性の限界とウィトゲンシュタイン的言語の限界を理論として受け入れた上で、その行き止まりから現実を駆動させるための、唯一の実践的プロトコルであった。
しかし、先日の「鯖缶のシステムエラー」のときとは何かが違う。 あのとき、私は論理のバグを物理的な介入で「殴り、直した」。論理はシステムの外部からハッキング可能であり、私たちの知性は矛盾を克服できるという万能感を、私はあの時確かに味わった。
だが、この沈黙したHDDはそうはいかない。 これは、論理のバグではない。物理的なエントロピーの増大であり、宇宙の不可逆的な摂理そのものだ。ここでは、いかなるハッキングも、いかなるメタ視点の介入も、失われたデータを物理的な過去から呼び戻すことはできない。「外側のルール」など存在しない。ただ、データが物理的に消滅したという絶対的な事実が、沈黙としてそこに横たわっているだけだ。ソフトとハードの違いをここに痛感する。
科学者として、私は常に世界を記述し、制御し、書き換えようとしてきた。だが、世界には「記述も制御もできず、ただ受け入れるしかない領域」が、ある。 鯖缶の不完全性定理において私が勝利したのは、相手が「論理」だったからだ。しかし、この沈黙の円盤を前にして、私は敗北を認めるしかない。論理の檻を突き破る強さは、物理的な喪失の前ではあまりにも無力だ。
科学の探求者として末席を連ねるものとして、即興で意義を与えよという大喜利のお題が未解決では、いささか後味がよくないのも事実である。そこで、とっさの取り繕いが以下の羅列になる。
一、不幸中の幸い。データ蓄積の少ない新人の学生にはよい教訓になるだろう。
(最初の2ケ月などはトライアンドエラーとケアレスミスの連発なので、現在ならすぐリカバーできるだろう。)
二、smartctl -H をログイン時に起動させ、監視を常態化した。
(一般ユーザーでは usermod -aG disk username ;setcap cap_sys_rawio+ep /usr/sbin/smartctl が必要だ! )
三、バックアップという概念が、現実の重みとして理解された。
(知識の伝播とは情報のコピーが本質だ。)
四、システムの信頼性は永続的であるという幻想と、故障の必然性。
(形あるものの命運だ。特に親と健康は昔から永遠でないといわれているものの一つであり、それをよく忘れる例でもある。)
五、時間を離散化し数学的帰納法を導入すればHDDは永続する。だが、その寿命が有限なのはポアッソン分布からも明らか。低確率の故障が平均寿命tのn倍となる確率はexp(-n/t)であることを忘れていたという自省
(故障したときに数学的帰納法が崩壊し「ω矛盾」をわたしに突きつける。低確率とみてその挙動を忘れ安穏としていた自分が情けない )
六、説明不能な出来事に意味を与えずにはいられないという人の営み。
(語呂合わせを発動できるかはセンスによる。)
七、再現性のない事象にすら、法則の影を見ようとする、思考の癖の露呈。
(これは単なる職業病だろう。。。)
八、「バックアップは取るものではなく、取っておくべきだったものである」という格言の再確認。
(備えとは、戒めであり、未来への警告である。)
と、まあ、この程度の意味であればいくらでも捻出できる。しかし、それらはどれも出来事の側に属しているのではない。あくまで、こちら側が付け加えたものにすぎない。
今、学生には再計算と、今後はバックアップをきちんと取っておくよう指示を出し、もう一度、練習できる機会はそうないのだからと、励ました。攻撃こそ最大の防御ではなく、備えこそが最大の防御だったのだろう。
認知バイアスを超えて「妄想」力を鍛えよ
あのOpenSSLのバグを物理層から「殴って直した」ときの万能感。解き放たれた論理の快感。しかし一転して、沈黙したHDDの前にただ平伏するしかなかった物理的エントロピーへの敗北。論理の構造をハッキングする強さが、不可逆な物質の喪失の前ではあまりにも無力であることを、私は思い知らされたばかりだ。
しかし、学生たちに再計算の指示を出し、日常のノイズが再び静かな論理空間へと収束していく中で、私は考えていた。なぜ私たちは、これほどまでに理不尽で、ただ壊れゆく無意味な物理的事実に対して、なおも執拗に意味や法則という名の「星座」を刻もうとしてしまうのだろうか。
ただの「データの消失」という冷徹な現象に対して、教訓や物語を読み込もうとするこの脳の習性。それは一見すると、システムを狂わせる認知の「バグ」のようにも思える。だが、どれほど精緻なアルゴリズムを回し、どれほど膨大な過去のデータを積み上げても、完全に計算し尽くせない暗闇が世界の果てには必ず横たわっている。論理と確率の理性が描ける境界線の向こう側──そこへ向けてあえてノーヒントで踏み出す行為を、ひとは冷ややかに「妄想」と呼ぶかもしれない。事実、そこにあるのは実証されたデータではなく、不確かな直感と、非合理な飛躍にすぎないからだ。
だが、それは単なる空想ではない。認知バイアスという不完全さを燃料に、暗闇へと仮説のアンテナを突き出す、人間独自の「論理の飛躍装置」なのだ。
既存の枠組みや目に見えるファクトという「軛(くびき)」から自らを解き放ち、まだ見ぬ構造の気配をそのアンテナで察知する跳躍力。歴史の大きな転換点や、科学のパラダイムシフトが生まれた瞬間を振り返るとき、この圧倒的な飛躍こそが、真実を暗闇から引っ張り上げるための駆動力になってきたのではないか。物理的な敗北にただ平伏し、既知の確率の網の目に収まるだけなら、人間の知性は計算機と何も変わらない。
問題は、その飛躍が単なる空想で終わるか、それとも新しい世界を切り拓く「ひらめき」に昇華されるかだ。その分かれ道に位置するのが、「洞察」という名の解像度である。科学者は得てしてそれを「直感的な確信」と呼ぶが、その実態は、彼らの抱く「客観的な妄想」がたまたま当たっていたという場合がほとんどなのだ。
だからこそ、日頃から世界の成り立ちや自然科学の普遍的な理、あるいは社会の流転する構造を脳内でモデル化し、幾度となく回転させ続けている者にとって、世界はただの平面的な知識のプールではない。それは微細な歯車が噛み合う動的な構造体として立ち上がっている。ベースとなるモデルの解像度が極限まで高まっているとき、理性の境界線の向こう側──本来は語りえぬはずの暗がりに、ふと「世界の骨組み(構造の影)」がチラリと横切る瞬間がある。
先日のストレージの死のような致命的な不条理すらも自らの脳内モデルに組み込み、見えないはずの影の正体を研ぎ澄まされた感度で瞬時に掴み取りに行くこと。それこそが、幸運と片付けられがちな「セレンディピティ」の正体であり、人間だけに許された能動的な知性の営みだろう。
現代において「知性」の代名詞となりつつあるAIは、膨大なパラメータと行列演算の果てに人間を凌駕する処理能力を見せる。しかし、それはあくまで「既知のデータ空間」の補間・外挿であり、与えられた枠内での最適化にすぎない。彼らにとって、前提や論理の境界線を自発的に踏み越えるための「美学や不合理な妄想」は、ただの処理エラーでしかないのだ。
計算機がどれほど高度な最適化を繰り返そうとも、自ら「語り得ぬ暗闇」へ手を伸ばし、まだ見ぬ構造の影を掴み取ることはできない。
不確かな理性の果てで、あえて妄想の翼を広げること。確かなデータのしがらみを飛び越え、「妄」なる跳躍によって世界を立体的に捉え直す。この非合理な美学の中にこそ、AIには決して真似できない、人間が世界に新たな星座を刻むための「洞察の光」が潜んでいるのだ。
「金長まんじゅう」に見る、皮たる権威と餡というがばがば設定
(金長まんじゅうの名前の由来:天保10年、洪水で家を流され 大和屋の主人に助けられた金長だぬきは その大恩に感激し、主人のもとで一生懸命働いたため 大和屋は大繁盛。そこで金長は四国狸の総頭六右衛門のもとで 2年間勉学し正一位の望みを果し、 再び大和屋で働こうと決意をします。しかし彼の非凡を見込み 娘婿にと懇願する六右衛門だぬきに許されず、 結婚の話を拒絶したため襲撃にあい、 小松島にのがれた金長は阿波狸を総動員。 淡路屋島の加勢を得た六右衛門と 勝浦門の大合戦で金長軍が勝利を得ました。以来、彼の感謝報恩精神は 偉大な感化を世人に与え、 弊社は金長の徳を讃えるため、 その名にちなんで、【金長まんじゅう】を謹製した次第です。)
これは「金長まんじゅう」という菓子の発祥と歴史を伝える文言である。徳島県小松島市を代表する銘菓であり、お菓子に同封された説明には上記の文言と馬にのった勇ましい狸のイラストが記されている。 しかし、この物語を額面通りに受け取ってはいけない。私たちは、この狸の「小賢しすぎる生存戦略」の裏側を覗き見る必要がある。
私たちは、ブランドに弱い。モンドセレクション、歴史、あるいは由緒ある肩書き。そうした「権威」のラベルが貼られただけで、私たちは中身の正体を深く確認することさえ忘れ、それを「価値あるもの」として無条件に受け入れてしまう。この銘菓は、その「権威という薄皮」を、誰よりも狡猾に利用した一匹の悪徳起業家の記録である。
金長だぬきは恩人のもとで修行し、「正一位」という神界の最高権限を手に入れた。普通の狸であれば、そこで恩人の娘と結婚し、平穏に収まっただろう。しかし彼は違った。その最強の権限を手にした瞬間、彼は恩人の縁談を「不要な契約」として冷酷に破棄した。それどころか、恩人との間で大合戦という名の「敵対的合併」を強行したのだ。その裏切りを「感謝報恩」という美名でコーティングした手法は、まさに「皮たる権威」を被り、「餡というがばがば設定」で塗り固めた、史上最も小賢しいリ・ブランディングといえる。
この狸のやり口は、千葉県にあるのに「東京」と名乗るあのテーマパークと構造的に同一だ。彼らは、物理的な実態の上に、全く関係のない「強力な記号」を強引に貼り付ける。そして、そのラベルを見た消費者が「なんとなく凄そう」という思考停止に陥った瞬間、彼らの勝利は確定する。
さらに、現代社会では、権威が意味を失い、形式的なものとなっている例が枚挙にいとまがない。例えば、国連の世界遺産認定は、本来、文化的・歴史的な価値を守るためのものであるべきだが、実際には観光収入や政治的な思惑のために利用されることが多い。グッドデザイン賞も同様で、本来は優れたデザインを称える賞であるべきだが、多くの企業がマーケティング戦略の一環として利用し、賞そのものが商品の価値を保証するものではなくなることがある。さらに、モンドセレクションや他の国際的な品質賞も、その権威が薄れつつある。これらの賞は、企業が自社の製品を「高品質」と称するための一つの手段となり、消費者がその価値を疑問視するようになっている。
金長まんじゅうには、誠実さなど微塵もない。あるのは、権威を借りて物語を捏造し、自分自身を商品としてパッケージングするという、小賢しいまでの生存プロトコルだけだ。だが、お菓子自体に罪はない。金長だぬきが残した物語は、いわば「権力争い」という泥水をすすった狸が、後世の人々に楽しんでもらうために全身全霊をかけて作り上げた「糖衣」そのものである。
驚くべきは、その設定の「あまあまさ」だ。恩人との殺し合いすらも、「感謝報恩精神の感化」という甘美な言葉でコーティングし、あたかも高潔な道徳譚であるかのようにパッケージングしてしまう。狸は、自分たちの生きた泥沼の歴史を、饅頭という甘い幸せへと錬金術のように変換してみせたのだ。
もちろん、ここで誤解してほしくないのは、私たちは決して「金長まんじゅう」という菓子そのものを否定したいわけではないということだ。いわば「罪を憎んで人を憎まず」、商品説明や伝説が醸し出すハッタリや欺瞞には盛大にツッコミを入れるものの、肝心のおまんじゅう自体は普通に、いや、驚くほど美味しい。
私たちは、その「小賢しい狸の計算」を笑いながらも、結局は彼の差し出す甘い饅頭に手を伸ばしてしまう。「おい、この狸はとんでもない詐欺師だぞ」と頭で分かっていても、一口かじれば、そこには何の混じり気もない、素直で上質なあんこの甘さが広がっているからだ。
「花より団子」とは、よく言ったものだ。 栄光や美といった、歴史を彩る高尚な装飾も、いざまんじゅうを目の前にすれば、その甘美さは途端に霞んでしまう。歴史家は「正一位」という権威の正当性を議論し、武将は「合戦の勝敗」という栄光に執着する。だが、金長という名の老獪な狸は、そのすべてをあんこの甘さに溶かしてしまった。結局のところ、商品説明の裏側がどれほど香ばしかろうと、この饅頭のひと口の甘美さに勝るものはない。
花を眺めて空腹を抱えるより、泥臭くとも、その団子を頬張る。 そして、「なんだかんだ言って、これめちゃくちゃ美味いな」と舌を巻く。それこそが、この狸が私たちに教えた、究極の「生存の極意」なのだろう。
実像から様相、そして星座へ
一人残ったオフィスで、無言のまま荷物をまとめる。「アレクサ、オフィスをロックして」と声をかけると、電子的な「オフィスをロックしています」のアナウンス。ジーーー、ガチャ、とスマートロックが閉まる音が響き、「オフィスをロックしました」という無機質な電子音だけが夜のしじまに溶けていく。今日もまた、他律的なタスクと予期せぬノイズに追われた一日が終わった。
外へ一歩踏み出す。体は確かに疲れている。けれど、そこにはネオンも喧騒もない。街灯がぽつり、ぽつりと頼りなく道を照らすだけの、静かな田舎の夜の暗闇だ。駐車場に向かい、車のドアに手をかける。ふと立ち止まり、小さく息を吐いて夜空を見上げる。
見上げれば、夜空はちゃんと星の形をしている。
日常のノイズが消え去った空白に、ふっと浮かび上がるものがある。世界の構造と、その地図――すなわち「星座」だ。
よく「物知りですね」と言われる。お世辞半分だとしても、その言葉にはいつもどこか違和感があった。私は知識を大量に抱え込んでいるわけではない。今の時代、精緻なデータやファクトはネットという外部メモリに任せておけばいいのだ。では、私は一体何をしているのか。その答えが、星を眺めているうちにゆっくりと形になっていく。
空は雲に覆われていることも多い。それでも、雲の切れ間からときどき覗くわずかな光を見つめていると、頭の中では別の空が展開される。これまで泥臭く格闘して手に入れてきた数理や哲学の「フレーム」が、確かな輪郭を持って立ち上がってくる。私はリアルな夜空を見ている。と同時に、その背後にある「構造の空」を見ている。いや、むしろ私にとっての本体はそちらにある。
私の無意識は、あの天空にベースキャンプを置いている。そこから雲の切れ間を探すように、地上の私の感覚を静かに覗き込んでいる。私は世界を見ているのではない。世界に、見られているのだ。
夜空と同じで、いつも晴れているわけではない。構造がくっきり見える夜もあれば、何もわからないまま物理層の敗北に沈む日もある。それでも私は、見えない雲の向こうを「こういう構造のはずだ」と脳内でモデルを回転させ、推し量りながら、静かな夜道を進む。
新しい数式や理論との出会いはいつも泥臭い。記号を機械的に処理して満足することなどない。この式は現実の何を指しているのか。パラメータを極限まで振ったとき、システムはどう歪むのか。それは単なる計算ではない。数式が描くビジョンを、設計者と並んで眺める体験だ。まるで星空の下で設計者が星座を指し示しながら、世界の骨組みを語ってくれるかのような時間。そうした格闘を経て、はじめて無味乾燥な数式は、私にとっての「星座」になる。
車を走らせていると、不意に雲が割れる瞬間がある。
計算機のトラブル、無機質なスタックトレース、AIが埋め尽くす既知のデータ空間、あるいは/homeが突然沈黙する不条理。それら日常のバグやノイズが、研ぎ澄まされた感覚に触れた瞬間、天の星座と地の現実がぴたりと重なる。
「あ、この世界、あの型にそのまま入る」
そのとき、天から地へ雷が落ちる。抽象と具体が直結し、脳の中の論理回路が一気に接続される。それは理解というより、衝撃に近い。私はイデアの側からこちらを見つめる、純粋な観測者になる。
そして次の瞬間、地上から天へ花火が上がる。掴み取った世界の骨組みが、言葉として弾ける。だから私は書くのだ。コラムを書くのは、まさにこの瞬間のためである。
私はただ、地上のノイズを消して、雲の切れ間を待ち、雷を受け取り、花火を打ち上げている。それだけだ。
さて、今夜もまた少し雲が動いたようだ。
星をつないで星座が立ち上がるとき、そこからひとつの神話が立ち上がる。そしてその物語は、たぶん私が語っているのではない。どこか遠くから、こちらを覗いている「世界の構造」そのものが、私の指先を借りて語っているのだ。