私がトリビアを話していて、今日、気づきがあった。いわゆるトリビアの「へー」よりも、それを調べて「なるほど」という瞬間が大好きということだ。勉強しているとき、人と話すとき、ニュースを見るとき、頭のアンテナと回路は常に動作中だ。そして、なにか閃く感じでそうなんだという感覚が花火のように浮かび上がる。そういう繰り返しで世界の構造が見えてくる、それが私という人間の思考の在り方のようだ。
「人が絶対的に逃れられない運動(法則)」と「人が社会生活の中で築き上げてきたルール(法律)」、その二つに私は惹かれる。電子が原子を結びつけ分子を成し、分子の相互作用によって機能がでる。ときには分子の結合の組み換えが起きることで、エネルギーの蓄積、または、放出がなされる。そういう動きを自然科学の視点で理解する。この自然法則は不変だが、技術や科学の進展とともに拡張されていく。これはまるで大樹の枝がのびていくような安心感と心地よさがある。そして原理はほぼ不変で解釈は、日々の反証可能性によって改良という波に侵食されていく、それがついに耐えられなくなったとき新しい強固な礎が覆うように立ち上がるのだ。
いっぽう、社会科学では人類の歴史、思想、社会の在り方によって流転していく。そして、あるときばっさりと変わる例えば 狩猟、農耕、封建、王制、民主制などだ。革命などで法律や社会システムのありようは激変する。昨日の常識は今日の非常識なのだ。革命でなくても、昭和のパワハラはいまではコンプライアンスの問題になる。しかし、その変化の経緯には人々の営みの痕跡を感じることができる。
自然と社会という2つのシステムのありようをルールとその枠組みいう視点でみれば、構造の類似点が浮かび上がる。両方みることで世界がより立体的になるのだ。科学と法律とか、科学と政策とか、科学と倫理とか、そういう境界の部分は、自然科学と社会科学が交わる場所で、私にとって興味深く構造的アプローチを刺激される。これを言語化して文章にまとめて、人の役に立つ形にできたらいいな。
仕事柄、電子の動き、その反応の駆動力、触媒の仕掛けを探ることをしており、その営みが普段の生活にもしみだしていく。そうして、思考がぐるぐると回転する。そのため、なにかとるに足らないものでも起点にして思考が自動で回転していく。そして構造が見えた時、ばらばらなものがつながるのだ。こんなことでも意味があるんだと世界の理解が深まった感じがして世界がまたおもしろくなる。それは別視点の自分が思考を拾うことで理解される。この視点はとても便利で感情と意識を分離し、私を自由にする。
私は「理解することをライフワークにしている人」だと。大げさな哲学ではなく、ただ、世界の深いところに流れているものを感じたい。これからも、自分のペースで、世界を少しずつ深く見ていきたい。その積み重ねが知識と人生かなと授業で感じたのでここに記録しておく。
そうするうちに最近考えていたことを思い出した。これいいたくてこのコラム書いたんだけどね。。ロッサーによる不完全性定理の拡張と、レヴィの束縛探索による密度汎関数理論の再構築に共通する「外的制約から内的構成への移行」という構造は、自律を内因化プロセスとして理解する枠組みのもとで比較可能か? 自分でも冴えてると思った。そうしてるうちに思考が深くなり、これってカントの自律と同じ構造だし、学習の初期過程の模倣から離脱とらえることも可能だから いわゆる守破離に収束するかな? カントのほうが包括的かな?と思考が回転していく。
結局、「システムが外的制約を脱し、自体の法則を自己樹立するプロセスには、領域を横断する共通の数理的・構造的トポロジーが存在するか?」 つまり、数理(ロッサーの論理拡張)、物理(レヴィの束縛探索)、そして、認知(メタ認知による自己言及の解除)は、カントの超越論的枠組みに包含され、「守(他律的制約)・破(内的探索・メタ認知)・離(自律的自己完結・内因性ドミナント)」という動的プロセスとして再定義する自律性生成の普遍方程式として記述可能かという問いに変化した。つまり、内的自由とは理論の制約や記憶の束縛からの自由として自ら立ち上がることで得られるのだ。
私はうれしくなった。今日はいつもより猫が可愛く、もらった河内晩柑が、やけに美味しく感じた。和製グレープフルーツのような、あの独特のほろ苦い手応えが、乾いた喉に心地いい。世界は美しく、楽しいものですね。
非線形な動的挙動から見える調和された人生
(挿絵はK先生よりもらいました)
そうして基幹教育の場で始まった思考の回転は、一つの知的なノイズによってさらなる加速を見せることになる。それは、最近ニュースや日常の議論でよく耳にする「派遣の隷属」という、極めて他律的で不条理な社会問題の言葉だった。労働者が外的なシステムに縛り付けられ、都合よく使い捨てられる歪んだ他律の構造。だが、私の頭にあるアンテナは、この地上の泥臭い言葉を拾い上げた瞬間、仕事柄いつも追っている電子や触媒のミクロな駆動力を超えて、理論物理学におけるもう一つの、しかし全く異なる美しき「隷属」へと回路を繋げてしまった。ハーケンが提唱した複雑系科学の核心、「隷属原理」である。
ハーケンの隷属原理とは、非線形動的システムにおける「時間スケールの分離」を解き明かした数理である。多数の構成要素からなるシステムにおいて、ミクロな各要素の運動変化は非常に「速い反応」を持つ。一方で、システム全体を俯瞰したとき、全体のパターンや秩序を決定づけるマクロなモードは、非常に「遅い反応」を持って現れる。数理的には、システムが相転移する領域に達した瞬間、変化の速い無数のミクロ変数は、変化の遅い少数のマクロ変数――「順序パラメータという支配因子」――の方程式によって完全に規定されてしまう。物理学において、この速い変数が遅い変数へと一瞬で追従し、数学的に消去可能になる現象を「断熱消去」と呼ぶ。つまり、少数のパラメータが方程式の骨格を決定し、この式が支配的に振る舞うことで、個別のミクロな運動データの追跡、すなわち「個別の記憶」は不要になり、バラバラなものが一つにつながり、無秩序から美しい秩序への変化である自己組織化が生まれる瞬間の、完璧な設計図なのだ。
この構造は、化学におけるボルン・オッペンハイマー近似と本質を同じくする。電子という「速い変数」と原子核という「遅い変数」。これらが織りなす多電子系において、電子は原子核の配置に対して即座に応答し、エネルギー状態は原子核の座標のみをパラメータとする関数――ポテンシャルエネルギー面――として描き出される。近似が許されるとき、電子系は原子核の運動に隷属し、断熱的に追従する。フランク・コンドン定理に見られる遷移の速い電子過程と遅い核振動の重なりも、この階層的支配の帰結だ。
この型は、生命の発生にも通底している。受精卵の増殖という指数関数的な「量の蓄積」が限界に達し、胞胚から原腸胚へと至る「形成」の転換点。ここでも少数の転写因子が順序パラメータとして立ち上がり、細胞の運命を規定する。細胞群は自らの位置と役割を把握し、複雑な器官へと分化していく。
同様に、植物の細胞壁形成もこの数理を体現する。セルロース繊維が強靭な骨格を構築し、そこへリグニンという高分子が浸透・硬化することで、細胞は木質という不動の構造を確立する。セルロースがミクロな方向性を規定し、リグニンがマトリックスとして全体を固定する。この骨格と充填の物理がなければ、系は自律的な形態を維持できない。
それらはそのまま、私達の思考形態へと写像される。「骨組み」を決め、マクロな順序パラメータを確立してから、詳細を肉付けする。段取りという支配因子を確定させてしまえば、細かい調整は臨機応変に追従させれば良い。この論理の順序こそが、あらゆる情報の断片を統合するための基盤なのだ。このハーケン的相転移の視点を通すことで、前編で私が直感した「ロッサーの論理拡張(数理)」「レヴィの束縛探索による密度汎関数理論の再構築(物理)」「メタ認知による自己言及の解除(認知)」という三軸の問いは、カントの「超越論的枠組み」という器の中で、「守(他律的制約)・破(内的探索)・離(自律的自己完結)」という自律性生成の普遍方程式として、パズルの穴が埋まるように美しく収束した。カントの言うア・プリオリな認識の形式とは、人間の思考システムにおける「究極の順序パラメータ」に他ならない。この少数のパラメータが支配する方程式が立ち上がったとき、システムは外側の制約を内因化し、完璧に閉じられた自己完結を果たすはずだ。
この普遍方程式は、私たちの生きる生活世界において、驚くほど美しい「時間と空間の調律」として具現化している。
例えば、私たちの学習のプロセスがそうだ。初期の「掛け算九九の暗記」や「受験勉強」は、理屈抜きに大量の基礎データを脳にインプットする他律的な「守(詰め込み)」のフェーズである。ここでは「数は力なり」の圧倒的な量とエネルギーが主役となる。
この詰め込みが次の応用へと向かう臨界点が、社会的に設定された「修養年限」という、圧倒的に変化の遅い時間軸のダムが満たされることによって必然的に訪れるという点だ。(この学習スタイルは歴史の中で教育効率という点において最適化されている。)小学校の6年間、中学高校の3年間というマクロで遅い時間が満期を迎えた瞬間、学力や親の意見といった少数のコントロール・パラメータによって、人生に大域的な「分岐(Bifurcation)」が発生する。学校という保護区を飛び出し、「社会という巨大な規範を規定するマクロの方程式」という新たな重力場へと足を踏み入れる瞬間である。
分岐の瞬間の激しい混迷(カオス)を通り抜け、新しい所属が確定した瞬間、システムは新しい安定状態へと引き込まれ、「決まったら、しばらくまた安定。人生だね」という定常状態を取り戻す。「離」に達した知性は、型に盲従しない。脳内に数理の骨格が完成していれば、現実に直面した瞬間、複雑な演算を意識せずとも最適な解が自動的に出力される。個別のデータなど不要。少数のパラメータが方程式を統御しているからだ。それはまるで、現実の状況という「硬貨」を一枚投入するだけで、内部の複雑な構造をいちいち意識せずとも、数式から最適な答えが自動で構築されて出てくる全自動の自動販売機、あるいは完全にチューニングされた遊戯機器のようなゾーンの状態である。少数のパラメータが方程式を決めて支配的に振る舞うことで、個別の記憶や微細なデータは不要になるのだ。
大域的な拘束力と日々の即応的な挙動が1つの運動方程式として統合されるとき、我々は生活の他律的束縛から解放され、精神は自己規定法則に基づく自律的な秩序へと再編される。つまり、世相という動的なシステムの中で人が持ちうる揺るぎない安定の論拠となるのだ。
天体の運動において、月のような衛星は数日単位の「速い反応」で惑星の周りを猛スピードで周回するが、それらを抱く巨大な星雲や銀河のネットワークのうねりは、何百億年という「超鈍足」でゆっくりと動く。宇宙全体の運行を支配しているのは、この圧倒的に動きの遅い巨大な銀河の配置(支配因子)である。したがって、天文学者が銀河の運行を計算するとき、衛星のミリ単位の細かい現在位置をすべて追跡・記憶する必要は全くない。「衛星の細かい位置がわからなくても、惑星の近所にいるだろう」という大枠の確信さえあれば、決定論的な宇宙のシステムは完全に成立する。マクロな重力場の方程式が、細部を優しく束縛しているからである。
そしてこれこそが、私が日常の中で直感した、「子どもの細かい場所はわからなくても、家のどこかにいるから、家がわかればOK理論」の本質そのものなのだ。
子どもというミクロな速い変数は、毎日「学校と家の往復」という日々のハイスピードな移動を繰り返しながらも、「所属(家族・学校)」という、滅多に変わらない変動の遅いパラメータに完全に支配され、優しく守られている。親は、子どもが今この瞬間に通学路のどの電柱の前にいるかという秒単位の細かなデータをすべて記憶・追跡する必要がない。「家」というマクロな骨格が確定しているため、細かなカオスは自動的にその近所へと収束することが保証されているからだ。
「派遣の隷属」とは、企業側が都合よく作った偽物の局所的な数式に個人の時間を縛り付け、そこからの大域的な分岐、すなわち人生の「引っ越し」や応用を許さない、数理的なバグに他ならない。数年に一度しか起きない圧倒的に変化の遅い現象であるはずの「引っ越し」を封じられ、ミクロな変数の檻に閉じ込められること。それこそが他律の本質なのだ。
しかし、私たちが他律の檻を抜け出し、社会という本物の巨大な規範をリスペクトしながらも、自らの中に「世界を統御するより高次の普遍方程式」を自己組織化させるとき、私たちは他者の命令や微細なデータの奴隷という重荷から完全に解放される。
私たちは、修養年限という遅い時間をかけて数を詰め込み、やがて自らの意志で所属の引っ越しという大域的な分岐を起こす。その時、個別のデータの奴隷であることをやめ、「家がわかればOK」と言えるだけの強固な骨格を胸に抱く。これこそが、非線形動的システムとしての人間が他律的な隷属を越え、真の意味で自律的な自由を手にするための、冷徹かつ美しき人生の方程式なのである。この完璧に自己完結した論理の調和の中にこそ、揺るぎない内的自由が確立されたのだと、その時の私は確信していた。
問いに対して、私は二つの答えを書いた。 どちらも正しく、どちらも不完全だ。
1.自由落下という「不自由」
先日の講義の後に書いた、あの「内なる自由の普遍方程式」についてのコラム。自分でもなかなか冴えていると思ったし、理論の制約から脱皮して自律していくプロセスの美しさに、しばらく一人で居室で悦に入っていた。
しかし、私の思考の回路は、一度回り始めるとそう簡単には止まってくれない。大学院の分子電子構造論でレヴィの束縛探索に触れ、学部3年生の統計力学で熱力学の基盤を予習し、1年生の身の回りの化学で世界のルールを語る。そんな日々のなかで、あの理論のその先にある奇妙な違和感が、頭のアンテナにずっと引っかかっていた。
「完璧に自己完結したシステムは、本当に自由なのだろうか?」
大学の廊下を歩きながら、ふと物理における「自由落下」の錯覚を思い出す。アインシュタインの言う通り、自由落下するエレベーターの中にいる者は、重力を感じず「自分はふわふわと完全に自由だ」と錯覚する。しかしそれは、外から見れば重力という冷徹な外的制約に100%支配され、あらかじめ決められた軌道方程式の解となる軌跡をただ受動的に、盲目になぞらされているだけだ。中にいる者がどれだけ自由を叫ぼうとも、そこには自らの意志で進路を選ぶ「逃げ道」など一切ない。自由落下という名の無重力空間では、人間は自力で加速することも転換(姿勢は変更可能だが)することもできず、むしろ因果律にトラップされている。それは自由の形をした、因果律の囚人に過ぎない。
では、真の自由とはどこにあるのか。それは、空中をラクに流されるのをやめ、コンクリートの大地に自分の足で立ち、世界からの激しい反作用を感じた時にこそ現れる。水中では抵抗を感じ、水を押し出すときにこそ人は推進力を得る。因果律のレールから方向転換を果たすための反作用とは、人間にとって、自分と交わる他者という存在であり、ぬかるんだ小道に残る足跡のような経験であり、未だ見ぬ未来への憧れとなる希望に他ならない。世界を踏みしめ、その跳ね返ってくる手応えと衝突したその瞬間、システムは初めて自らの意志で、用意された決定論的なルートをねじ曲げ、新しい軌道を切り拓くことができるのだ。
すべてが完全系のまま、閉じられた軌道の上で終わるなんて、そんなものはちっともおもしろくない。
数理論理学を眺めれば、完全に閉じた体系は第二不完全性定理の壁にぶつかり、自らの無矛盾性を内側から証明できなくなって硬化する。これを統計力学に重ね合わせれば、外部との熱や揺らぎのやり取りを断絶した孤立システムは、エントロピーが最大化して「熱的死」を迎える。エネルギーの総量はあっても、そこから活動のための「仕事」を取り出せる有効なエネルギーは残らない。完全な孤立、完璧な自己完結という名の「逃げ道のないシステム」は、ロジックにとっても物理にとっても、ただの窒息死を意味する。真の自律とは、自らが構築した論理という名のドグマから、自分自身を解放し続けるプロセスそのもののはずだ。
だからこそ、私たちは自らの系の中に、あえて引き算としての「揺らぎ」を、外部への窓口として指先に少しだけ残しておかなければならない。
そう思ったとき、目の前で私の拙いトリビアを一生懸命ノートに書き写している1年生たちの姿が、まったく別の意味を持って立体的に見えてきた。私が授業で語る知識や型は、最初は彼らにとっての単なる情報集合体に過ぎない。しかし、彼らがやがてそれを理解し噛み砕いていく過程で、彼らは私の想定を軽々と飛び越え、予測不可能な、瑞々しい「外部の揺らぎ(反作用)」となって私の思考へ還流してくる。文系の学生が提出したレポート「おじいさんの農薬の話」にジャーナリズムの萌芽を見て私が震えるとき、私は彼らというリアルな人間の営みから、強烈な反作用を受けているのだ。
私はそれを受け取ることで、自分自身のシステムを錆びつかせることなく、更新し、生存し続けることができる。教育という営みは、他者を自分の型に嵌めることではなく、世界に優しくエラーバーを伸ばし、自らも生き続けるための壮大な「生命維持装置」だったのかもしれない。
そんなことを考えていたら、今日の授業はいつもより少し熱が入ってしまった。
独立しつつも、宇宙の果てまで広がる波動関数のごとく世界と繋がっている感覚。到達できぬ地平線を目指し、独自の曲率を描き続ける終わりなき周回運動。世界は美しく、そして何よりも、今日の地面はいつもより固く、私の足に心地よい安心感を返してくれる。この静かな反作用。これこそが、因果律のトラップを抜け出した私が手に入れた、真の自由なのだと思う。
「閉じられた論理の檻から脱出し、世界を踏みしめて自律せよ」
2.制御された揺らぎのなかで
昨日まで完璧に機能していた社会のルールが、ある日突然、誰かの都合で書き換わる。人間の営む世界は流転し、理不尽で他律的だ。一方で手元にある自然科学の世界は強固で反証可能であり、決して嘘をつかない。私はいつもこの二つの境界を歩いている。科学の厳密さで現実を切り取りながら同時にその自分を冷徹に俯瞰するもう一人の自分がいる。この二つの視線が交差するとき世界は平面ではなく立体的な構造として立ち上がり、ばらばらに見えていた地上のバグたちが天の法則とカチッと結びつく。その瞬間だけが退屈な日常から私を救う。
私の思考は理論化学で扱う自己無撞着場(SCF)に似ている。多電子系をそのまま計算しようとすれば相互作用は爆発的に増えすぐに破綻する。粒子はあまりにも予測不能だからだ。それは日常で次々に降って湧く理不尽なトラブルや感情で動く「困ったちゃん」たちと同じであり、彼らの動機や不条理をいちいち計算しようとすればこちらの脳が先に焼き切れてしまう。そこでSCFは「個々の衝突を捨てて全体を場として扱う」という割り切りを導入する。
この発想はそのまま日常の防衛策になる。他人の思惑や予測不能な出来事、感情の揺らぎといったノイズを丸ごと一つの環境ポテンシャルとして抽象化し、その中に自分の論理を投げ込む。そして問うのはただ一つ、「この場に対していまの自分は整合しているか」だけだ。個々の細部は切り捨て場とのすり合わせに集中すると混沌としていた世界は静かに整理され、脳内を占有していたノイズが消えて思考空間に余白が戻る。このとき感じるのは理解ではなく、リソースが解放される静かな快感である。
かつて私はこの収束こそが理解だと思っていた。しかし今は違う。収束とは停止であり、完全に整合した瞬間にその系は変化を失う。それは安定であると同時に思考の死でもある。美しく完成された理論ほどつまらない
――そのとき、あの ε-δ 論法が頭に入り込んでくる。
この理論は誤差を消せとは言わない。むしろ「ズレを管理せよ」と告げる。完全一致を目指してはいけない。必要なのは制御された揺らぎだ。
私はあえてノイズを投入する。矛盾する視点、理解不能な他者、拭いきれない違和感。それらを反証可能性という触媒として放り込むことで収束しかけた思考を崩し、場を歪ませ、再び揺らぎを生じさせる。計算はやり直しになるが同じ軌道には戻らない。系は螺旋を描きながら次の構造へと進み、この揺らぎは単なるバグではなく必要悪として機能するエネルギー源となる。
完全一致ではなくズレを抱えたまま対話を維持し続けること。それだけが思考を駆動することである。私は地平線を見ている。それは到達すべき終点ではなく走り続けるための指標に過ぎない。そして思考は今日も回り続ける。収束しそうになった瞬間に猫が鳴き、みかんの皮の匂いが立ち上る。圧倒的な具体が抽象を揺さぶり、そのノイズをわずかに取り込みながら思考は再び新しい軌道へと進んでいく。
おそらく自由とは到達ではなく、完成という名の死を回避し続けるこの運動そのものであり、
そしておそらくそれ以外の自由は存在しない。