ここには、思い出したことを少しずつ書き留めています。
まとまりのない読み物ですが、興味のある方はどうぞ。
目次
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1 授業でトリビアを教えていてふと思ったこと
2 本ページ 狂気の洗礼 京都時代のエピソード
3 不規則な人々 吉澤研の思出
4 全部一気よみ(このページ+1+2+3)
私が山邊研究室に配属されたのはちょうど阪神大震災があった直後の平成7年4月でした。それから山邊先生退官までの間、学部・修士・博士と合わせて5年ほどお世話になりました。世界各国から訪問者の絶えない国際色豊かな研究室だったと記憶しています。
一番の思い出はD2のときに、山邊先生と日中理論化学シンポジウム(中国合肥市にて開催)に参加したときの出来事です。この学会は現地の大洪水により何度も延期となっており、日程も急遽決まったもので、プログラムも詳細は不明となっていました。山邊先生に「ポスター発表で参加するように」と言われて、A4でモノクロ印刷した原稿を携えて上海経由で現地に向かっていたときのこと。山邊先生が「大変な事が起きたで。連絡の行き違いがあって、君は口頭講演やから」と冗談か本気かわからないような口調でおっしゃったのです。「先生、ポスターしか持って来てないですよ。」と返答すると、「ここに無地のOHPフィルムが12枚ある。これで15分もたせてくれ。君は運がええで、今はちょうど上海という都会にいるから、ホテルの複写機でポスターから口頭発表用の原稿を作るんや。これから行く所は中国の田舎やからホンマに何もないで、」と却下されました。本当に幸運なのかな?と思いながら、しぶしぶ原稿作成に取り掛かることにしました。英語の口頭発表が未経験の私はというと、その日から心配と緊張で食事が喉を通らなくなってしまいました。物見遊山気分が吹き飛んで、最初はとんでもないことになったという思いで先生を恨みさえしました。しかし、心配+緊張+現実逃避+諦め気分が絡まった変な気持ちにより、発表時には“この先生について行けばどんな困難もたいしたことないと思って乗り越えられる”と超がつくポジティブ思考になっていました。発表はどうにかこうにか終わり、山邊先生にも(初めてにしては)なかなか発表よかったよと元気づけられて非常にうれしかったです。当時は大変でしたが、今ではすっかり笑い話になっています。この事件のおかげで少々のことではビクともしないようになりました。
最後におまけとして、先日(平成25年9月14日)、山邊先生喜寿記念&山邊研究室同窓会 (85名参加)に参加したので、そのときの記念撮影の1コマを載せておきます。
後列 康さん 今出さん 湯村先生 松浦先生 宮島さん 吉澤先生 加藤さん 立花さん
前列 蒲池先生 山辺先生 吉野先生 塩田
山辺先生のおかげで鉄人になれました。。。
本文:熊野寮50周年記念誌に寄稿したものです。
写真:カツカレーは京都のビヤントに実際行ったという杉野君(2026・身の回りの化学・金1を受講)からもらいました。ありがとうございます。30年たっても変わらぬ姿に感動しました。入寮したとき先輩に初めて連れいってもらったお店でした。とても辛くてこれが大人の味かとおもったけど、寮生活はもっと濃厚なものでしたね。
[序]寄稿依頼を受け、寮での日々を振り返ると自分でも忘れていたことを思い出してきました。“人生とは、その人の回想のことである“という言葉もあるので、この機会に熊野寮生活を書き下してみます(漫談筆)。
[入]私が一浪を経て京大に合格したのが1992年、その京都生活の出発点が熊野寮でした。当時はバブル期の終り頃でのんびりとした雰囲気が世の中を覆っていました。生活費を節約するためでしたが、愉快な仲間達に囲まれて奨学金(80千円/月)程度で十分生活できたのでいい時代だったと思います。熊野寮は大学からも近く、四条・河原町方面にもアクセスがよくて便利でした。
[学]希望に胸を膨らませて大学に入ったものの、教養部構内の“人と自転車のカオス”に嫌気がして、賀茂川、御所、岡崎公園などの自然散策、古本屋めぐり、府立図書館通いをしていました。単位不足に苦しめられていた寮の先輩から手ほどきうけていわゆる楽勝単位で固めていました。“単位は天から降ってくるので受け取るタイミングだけが大事、一年時は必要単位に専念し、興味がある科目は二年生でとればいい”というアドバイスが非常に役に立ちました。先輩達のオススメは“単位はあげるので授業には来ないでください”で有名な国憲の豊田先生で、この先生によって一年間にばらまかれる単位は4000単位とも5000単位とも噂されていました。あと、当時の生協パンフに掲載の特殊京大生理論なるものが印象的でした。授業の出席者Aは時間tの関数で一週間wごとに半減する関数A = A0 (2)^(-t/w)で示される。ただし、A0は初回出席者で、テスト前の一週間にはこの関数は不連続となり出席者はA = A0に復活する。
[務]寮の雑務は主に事務室当番と食堂関連でした。事務室当番は単なる電話番+荷物受取係なので、のんびりと漫画をよみつつ過ごしていました。“ある組織に命を狙われているので助けてください”とかの濃い電話は残念ながら私には縁がなかったです。その手の電話をうけた東Nさんは“はい、はい、頑張ってくださいね”とガチャ切りしたらしいですが、、、。寮の夕食は売れ残ると訪問販売の売り子をしないといけないのでこれが辛かったですね。まれにでるウナ丼は即完売なのに対して、塩サンマは全く売れないので知り合いに泣きついて買ってもらっていました。強アルカリ洗剤による皿洗いも新鮮な体験でした。
[食]平日は寮食(当時は昼230円、夜350円)に、休日は洋食 Sato、中華 唐山、辛口カレーのビヤント、ハイライト、丸二食堂などにお世話になりました。特にSatoのグリルドチキンとコロッケ入りトンカツがお気に入りでした。Satoはなくなってしまったそうですが、東山七条にある“里”の支店だったらしく、里でもSatoと同様のメニューを提供しているようです。
[遊]寮生活の中心でした。受験の反動からか退廃的な生活(主に麻雀とゲーム)に身を委ね、風呂無し生活と夜更かしの醍醐味を覚えました。朝は寝床でぐーぐーぐーって鬼太郎の歌にあったような?いまとなっては、桜湯(寮生だと20円引き?)の終了時間(24:00)までになぜ入場できなかったのか謎ですね。
[友]才能溢れる友人、先輩との出会いにより多くの刺激をうけました。蘊蓄とサブカルチャー談義はオタクの嗜みです。私達のローカルルールは、単に面白いという感想では不十分でその何が面白いか説明すべしというものでした。
[戦]廃寮に対抗するために防衛委員という仕事がありました。“常に我々は廃寮化攻撃にさらされている。寮生の諸君は、ガサに備えてサングラス、マスク、ヘルメットの3点セットを用意して川端署のテロリスト(=公安)に対抗するのだ!!”が記憶に残っています。
[集]集会といえば、ブロック会議、寮生大会、寮祭などがありました。下着泥棒事件(犯人は寮生)などの緊急集会も記憶に残っています。入寮そうそうに議長に任命されてしまったA3ブロック会議はまったくの盛り上がりに欠け出席者は2〜3人でした。あまりに暇で議事録にリップサービスで“日帝の横暴に寮生の怒りが爆発した”と書いたら自治会の人が現れて大変なことになったのは内緒です。寮生大会は非常に長くてつらかった思い出しかないです。
[買]サンプラザ*(入ると買い物するまで出れないシステムが斬新、たまに卵がやすいが全体的に高め)、ジャスコ(現イオン?、二条にあり UFOがたまに安い)、ヤオセン(野菜が安い)が食料の買い出し先でした。私は四条あたりにあったマルトミという激安衣料品店を愛用していて、1000円で入手した黒いジャンパーを喜んで着ていたら同じブロックで3人ほど同じものを着用していてあぜんとなったのはいい思い出です。 *補足 熊野神社の交差点に北東にかってはありましたが現在はなくなっていました。
[離]一年生の終り頃、生活環境を改めて真面目に過ごそうと決心して、二年生の4月に上高野(岩倉より少し手前です)の下宿に引越をしました。熊野寮という竜宮城を離れて、“修学旅行の夜”のような生活からの解放感を味わうと同時に何とも言えない寂しさを感じました。良くも悪くも濃密な時間でした。
[結]最近、研究室の同窓会があり、卒業後、いろいろな立場となり普段顔を会わせることはほとんどなくなってしまった旧友達と“昔はしょうもないことをしてたなぁ”と気楽にはなせる機会は得難いものだと実感しました。寮の同窓会を通して、元寮生同士の交流が深まることを期待しています。宀(うかんむり)にRという略字は寮を離れて以来、見ることはありませんが寮関係者だけが読める心に刻まれた秘文字ではないでしょうか。