趣旨・目的:
約 2,400 年前、古代ギリシアの医聖ヒポクラテスは、『貧血には鉄が薬になる』と自身の全集に記しており、金属と生命・病気との関係は非常に古くから認識されていた。現代では、鉄だけでなく、亜鉛、銅、マンガン、モリブデンといった金属元素に加えて、セレンやホウ素などの半金属元素を含めた生体内に極微量存在する金属元素(生命金属 Biometal と定義)が、 すべての生物の生命維持に必須であることが分かっている。生命金属は、その特徴である酸化還元能、ルイス酸性、配位あるいはイオン結合性などを活用して、多種多彩な化学反応を通して様々な生理現象に関与している。しかし、必須といえども、生命金属の過剰も生命維持を脅かす。例えば、我々人間にとって重要な生命金属の一つである鉄では、欠乏は貧血の原因となり、過剰は活性酸素種の発生の要因となり、神経変性疾患・がん・糖尿病などの様々な疾病を引き起こす。すなわち、生命金属の生体内存在量は、その吸収、感知、輸送、貯蔵、活用などの生体内動態によって、厳密に制御されているのである。生命金属の生体内動態を理解することは、生命維持の本質に迫る一つの道筋であることは従前よりよく理解されていた。
生体内に存在する全ての金属を合わせても、その存在量は重量比にして1%にも満たないが、ヒトの体内には、鉄結合タンパク質が約400種、亜鉛結合タンパク質が約3000種、銅結合タンパク質が約50種存在すると推定されている。そのうちのいくつかの金属結合タンパク質は、分子構造を基盤にその化学的な機能が詳細に議論されてきた。一方で、生体内金属動態に関わる分子として、金属イオンを細胞内に取り込む膜タンパク質(トランスポーター)や、細胞内で金属イオンを運搬するタンパク質(金属シャペロン)が、1990年~2000年代にモデル生物を用いた遺伝学的解析を中心に数多く同定された。その後、生体内で特異的に金属を検出できる蛍光プローブの開発が進み、生命金属の細胞内動態の理解は飛躍的に進展した。その結果、例えば、亜鉛過剰が銅欠乏を引き起こし、その結果鉄欠乏(貧血)となるように、多くの金属はお互いに影響を及ぼし合っていることも示され、結果として生命金属研究の分野に、いくつもの新たな問いが現れてきた。現在では、生命現象において重要な役目を担う微量金属の作用や細胞内動態をタンパク質レベルでも解析できるようになり、分子・細胞・個体レベルでの金属の役割を議論できる素地が確立されつつある。生命金属の研究は、様々な生命現象を真に理解するには避けて通ることのできない普遍的な問いへの挑戦であり、今まさに進展させるべき研究領域となっている。
このように、生命金属の普遍的かつ広範な役割を解析する機運が高まり、令和元年(2018年)10月から文部科学省の科学研究補助金新学術領域「『生命金属科学』分野の創成による生体内金属動態の統合的研究」(略称:生命金属科学)が立ち上がった。この研究領域では、金属タンパク質の分子レベルの研究や細胞レベルでの金属の生理機能の研究に関わる研究者、さらにより社会実装に近い医学、薬学、農学、工学などの分野の生命金属の研究者が一堂に会し、情報交換と連携研究を行うことにより、究極的には、生体内の金属に関する研究を分子からオルガネラ・細胞、さらに個体に至るまで一気通貫的に統合することを目指した。令和6年3月末までに、幾度もの領域会議、3回の夏の合宿、2回の生命金属科学シンポジウムを開催した。その結果、多くの異分野連携研究が開始され、多数の研究成果をあげてきた。しかし、究極の目的を達成するには4年半はあまりに短かった。そこで、生命金属を研究する研究者が分野を超えて集まり情報共有する場として、生命金属科学シンポジウムを令和6年度以降も継続することとした。この継続には強い意志が必要であり、シンポジウム継続の運営母体として「生命金属科学研究会」を発足させることとした。生命金属科学研究会が運営するシンポジウムにより得られる知見は、基礎科学の発展のみならず、生命金属に関連した実用を指向するする研究、例えば創薬・植物育種・新物質創成などを目指した研究開発への基礎となることも期待される。