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今までに書いた論文の一部についての要旨です。適宜追加していきます。

「「宗教」の位置づけをめぐって――明治前期におけるキリスト教徒達にみる」(島薗進・鶴岡賀雄編『〈宗教〉再考』ぺりかん社, 2004.1) pp.228-253

この論文は、近代の日本に当初は翻訳概念としてもたらされた「宗教」が、どのような契機を経て道徳や学術とはひとまず切り離された自律的なものとして捉えられるようになってきたのかを論じるものである。

まず明治初年において日本にもたらされたプロテスタント・キリスト教は、それをもたらした宣教使によって「文明の宗教」、すなわち「文明」と「宗教」が一体となったものとして提示された面があり、かつ同時代の日本人キリスト教徒達もそれを強調しつつ受容した面があった。そこには「宗教」の正しさは「文明」において計り得るという論理が存在しており、これはまた明治初期の啓蒙思想家達に共有されていたのである。

そうした議論は「文明」やあるいは「学術」と「宗教」の調和を前提したものであったが、明治十年代後半以降における進化論を援用した批判を一つの大きな契機として、「学術」と「宗教」の調和という前提そのものが掘り崩されていくことになる。そしてその一つの帰結として、「文明」や「学術」とはひとまず区別されるところに自律的な「宗教」の本質を模索する試みが行われていくことになる。

その過程において、「感情」や「超越性」といった個人の内面に関わる論点が提出され、それらが「宗教」の本質として見なされるようになっていくが、しかし明治二十年代の段階においては、それらはなお人間の理性を踏み越えないものとして論じられていた。

他方において、このように「宗教」に共通する本質を措定し、模索していく試みが宗教学によって試みられるようになっていったことを受けて、「宗教」そのものの考究は例えばキリスト教神学のように個別の宗教伝統について考察する学問ではなく宗教学によって担われるという合意が宗教者達によって内面化されていくことになる。いずれにしても、この段階において「宗教」には他の何ものにも還元し得ない独自の本質があるという考え方が確立するのである。

『〈宗教〉再考』@CiNii Books


「中西牛郎『教育宗教衝突断案』について――キリスト教の捉え直しと望ましい「宗教」という観点から」(『思想史研究』6, 日本思想史・思想論研究会, 2006.5)pp.46-72

この論文は、中西牛郎が教育と宗教の衝突論争に際して著した『教育宗教衝突断案』(明治26年)を取り上げ、その独自の論理について考察を加えるものである。

中西牛郎は明治中期に仏教改革論者として活躍して名声を博すものの、後にユニテリアンや天理教にも関わるということもあって今日ではあまり取り上げられない人物であるが、この『断案』では興味深い議論をなしている。

同論争に際して井上哲次郎は、キリスト教は来世主義かつ人類主義、すなわち非国家主義であるとして批判し、またそうである以上日本においては原理的に行われ得ないと論じていた。これに対して中西は全ての宗教は普遍的・現世超越的な側面を保持する以上、キリスト教をそのような論拠において批判するならば仏教にもあてはまってしまうと述べる。このように全ての宗教伝統に共通の本質を措定する議論は、中西の名を高めた『宗教革命論』(明治22年)から一貫したものであったが、しかし中西はそこからキリスト教がそのまま日本において行われ得ると論じるわけではなかった。

すなわち、キリスト教は非国家主義として責めを負うべきではないとしても、しかしなお日本固有の国のあり方である「国体」との齟齬という問題があると指摘する。ここで中西は一般的な国家主義と、日本固有の「国体主義」とを切り分け、宗教なるものの本質が非国家主義的なものであることを承認しながら、なお「国体主義」からの逸脱についてはこれを認めないのである。

この「国体主義」の根拠は日本固有の歴史に求められ、かつキリスト教はその歴史と調和的に再解釈され得るという同時代のキリスト教神学についての知識に支えられた確信が中西の議論の根底にあった。そして、必ずしも小さくはなかった現実的な影響力とは異なるレベルにおいて、中西のこの議論は宗教のより上位に別種の価値を設定するというその後の日本の行き方をよく指し示してしまっているのである。

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「明治十年代におけるある仏基論争の位相――高橋五郎と蘆津実全を中心に」(『宗教学論集』26輯, 駒沢宗教学研究会, 2007.3)pp.37-65

この論文は明治十年代中葉におけるある仏基論争を取り上げ、そこで何が論じられていたのか、そしてその論争がどのように位置付けられるのかについて論じたものである。

この論争は、一方には高橋五郎が『六合雑誌』上にキリスト教の立場から寄稿した仏教批判の論説があり、他方には蘆津実全らが主に『明教新誌』上に仏教の立場からそれに反駁した論説があるというものであるが、いずれの媒体においても明確に同時代の知識人が読者として想定されており、そうした人びとに対してそれぞれの宗教伝統の真理性を弁証しようと試みるものであったということができる。

実際の議論を見てみると、第一に高橋は当時の天文学のような自然科学的知見と仏教経典の記述との齟齬を批判していた。こうした批判に対して、蘆津や他の論者はこの時点ではあまりこれを争点とすることはなかったが、しかし後に自然科学的知見と聖書の記述との齟齬を批判するというキリスト教批判の議論において、同じ論理が反転して適用されることになる。

第二に仏教経典の解釈に関して、高橋は諸仏教経典の記述に食い違いがあることを問題とし、これに対して蘆津は仏教の真理は文字に拘泥しては捉えることができないとして反論していた。しかし、蘆津がこのように述べる場合に、では仏教の真理はどこにあるのかということが問題になることになるが、この時期の蘆津はこれに対して明確な答えを出すことができなかった。

このように見るならば、この論争はある宗教伝統の真理性を前提としない人びとに対してどのようにそれを提示するかということを宗教者達に問いかけるものであったということができるが、かくして後に蘆津は仏教の依拠すべき経典の編纂を強く主張し、実際に『仏教各宗綱要』(明治二十九年)の編纂に深く関わることになる。つまり蘆津は『綱要』の編纂を通じて、仏教の真理を同時代の知識人に提示するための信頼に足るテキストを編み上げたのであった。

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