昭和25年 奥沢小学校に東玉川小学校準備会が出来る。
戦後外地からの引揚げや、平和になってベビーブームが起き、教育制度改訂で六三制がしかれ、奥沢中学校の校舎が手狭なために、奥沢小学校の一部間借りをしていた等の原因で、二部授業、三部授業にしなければならないようになりました。そこで、地域の有志、篤志家が集まって、分校設立の運動を始めました。
世田谷区立奥沢小学校 分校建設協賛会趣意書
終戦後奥沢小学校の児童は年々増加し、現在、壱千七百五拾名(三十四学級)でありますのに、校舎は戦前の壱千ニ百名(ニ十四学級)のままでありますので、只今無理をして尚、一年二年の二部授業を只今無理をして尚、一年二年の二部授業を行いつつあります。来年度には三年迄二部授業を行わねばならないことは決定的であります。この二部授業によって生じる色々の弊害を除くために急速に分校を建てて、子ども達に完全な義務教育を・・・・・・・・
昭和25年 12月9日 校舎起工式(奥沢小学校分校として)10教室
昭和26年 3月13日 東京都世田谷区立東玉川小学校が出来る。
初代校長小木曽四郎先生 発令
4月1日 世田谷区立東玉川小学校告示
4月5日 東玉川小学校 開校。8学級(1年~4年)児童394名 教員数10名 用務員2名.
始業式・入学式は奥沢小学校で行う。
4月13日 新校舎ができ引越し、授業開始。
校庭は未完成、一棟だけの校舎、まわりは麦畑。なにしろ戦後の物のない時なので、奥沢小学校からリヤカーで少しずつ机や椅子を運ぶ。それでも足りないので床に座って勉強したこともある。
5月27日 東玉川小学校PTAができる。
6月21日 開校式(この日を記念として6月21日を開校記念日とする。)
世田谷・大田両区長出席。
9月16日 創立第一回大運動会
児童数が少なく、先生も少ないので実施が不可能かと思われましたが、PTAのお母様方の協力で、立派に出来ました。
昭和27年 4月5日 27年度10学級(5年生まで) 児童509名、 教員14名
校長、校務主任、音楽専科、養護教諭、用務員2名、給食作業員3名。
8月4日 6教室増築起工。12月1日完成。
昭和28年 4月1日 学区域 拡張
4月5日 28年度14学級(6年生まで) 児童721名、教員20名
校長、校務主任、給食担当、音楽専科、ローマ字担当、養護教諭、用務員2名、給食作業員3名。
7月22日 校歌完成 作詞・栗原源七 作曲・芥川也寸志。11月18日校歌 発表会。
12月26日 四教室 増築起工式
昭和29年 3月25日 第一回卒業式 卒業生 112名
11月15日 校庭土留 完成(区)
11月16日 図工専科教諭発令
11月19日 上校庭舗装 完成
昭和30年 10月1日 第2代 片岡亀栄校長 着任
昭和31年 11月10日 開校 五周年記念式
図書館ができる。PTA(会長 後藤嘉一)が児童の読書力向上を願って、学校法人調布学園から建物を無償で寄付していただき、建設する。(現在はない。)
昭和33年 3月25日 理科、音楽室できる。これから昭和49年の鉄筋改築まで大切に使われる。
昭和34年 4月1日 第3代 伊原 憲校長 着任
卒業記念作品
昭和18年度卒業、昭和18年度卒業、卒業年度不明
卒業記念作品
昭和54年度卒業、平成2年度卒業、平成2年度卒業
創立70周年
開校70周年に向けて、「開校70周年記念事業準備委員会」が令和元年12月に発足し、準備委員会の委員長には、同窓会の和田会長が就任しました。
同窓会では、周年事業として毎年積立てていた50万円を今年度、準備委員会に寄付しました。
準備委員会では学校と協力して、記念事業の準備を進めていますが、その一つとして、体育館の緞帳と紅白幕を学校に贈呈し、今年3月の卒業式と4月の入学式で、お披露目されました。
なお、70周年記念式典・祝賀会は、令和3年10月9日(土)に予定されています。
開校70周年記念事業
令和3年度は、本校が開校70周年を迎え、様々な記念事業が行われました。
児童から周年記念デザインを募集し、その中の何点かが航空写真や横断幕、記念品などのデザインとなりました。
記念式典前日の10月8日には、校庭でバルーンリリースが行われました。青空のなかを一人ひとりの思いを乗せたバルーンが空高く飛んでいきました。
そして10月9日には「開校70周年記念式典」が行われました。コロナ禍での開催となり5,6年生児童と教職員、限られた来賓のみの出席でしたが、同窓会を代表して和田秀寿会長が祝辞を述べました。
厳かな式典の後は、5,6年生児童による「お祝いの言葉と合奏」が披露されました。これまで練習に取り組んできた成果を遺憾なく発揮し、素晴らしい演奏や演技で会場を感動の渦に巻き込みました。
児童合奏「ソーラン節」
合奏「オリンピックファンファーレ&テーマ」 和太鼓演技「暁光」
70周年児童記念イラスト
マグカップ、階段アート1,2,3,4、封筒表面
昭和26年4月に完成し、昭和49年7月に取り壊されるまで23年間頑張って教室を支えてくれた木造の旧校舎。
第1期から第21期まで2091名の卒業生を送り出した旧校舎。
第26期の卒業生まで、一度はお世話になった旧校舎。
戦後から高度成長期の前半までの時代を見てきた旧校舎。
卒業生の色々な思い出が詰っている旧校舎。
そんな旧校舎のひとつ、最初に建った旧校舎を思い出すべく写真と平面図を基にCG(コンピュータ・グラフィック)で再現してみました。
旧校舎から巣立った卒業生は、思い出を楽しんでください。旧校舎を知らない卒業生は、時代の移り変わりを楽しんでください。
正門玄関は、当時としては立派な造りでモルタル張りでした。
玄関を入ると左手に用務員のおじさんがいた小使室、その奥にいつも美味しいにおいがした給食室、正面は二階への階段と校長室、職員室の脇を通る「走ると床が抜ける」とよく注意された長い廊下、右手は下駄箱があり、その裏には後に保健室となる教室がありました。
校長室には、昔、第1期卒業生の全員の写真が飾ってあったそうです。
教室は1階に4室、2階に5室の合計9室あり、玄関上の教室は音楽室でした。
昭和26年の開校時には、第4学年までの8クラス394名の児童、10名の教職員及び2名の用務員の方々が、奥沢小学校から分校移動してきました。
30畳の教室1クラスに55~60名の超過密状態で、しかも戦後の物不足の時代、机や椅子も不足し、床に座って授業を受けたこともあったようです。
一度に最多数の卒業生が出たのは、昭和35年3月で、第7期生4クラス187名が卒業しました。因みに最小数の卒業生は、第52期生1クラス32名で実に約1 /6です!!!
教室の戸は引き戸で、黒板消しを上に挟んだりして先生に怒られました。窓は南側にそして北側には天窓がありましたが、立てつけが悪く且つガラスも浮いており隙間から風が入り、冬は寒かったです。夏は断熱材など無い時代ですから・・・
机は木製の2人連結型で、席替え時に隣の席が好きな子になった時はとてもうれしかったし、ならなかったときは駄々を捏ねたりした記憶があります。
冬には、ダルマストーブが入り席間がより狭くなりましたが、ストーブの上に大きなヤカンを置き、又周りに弁当を置いて暖めました。朝、最初に火を着け石炭をくべるのが楽しかった気がします。
小学校のまわりは麦畑で、正門から入った右手に肥溜め(肥溜めは何かご存知ですか?)が、あったそうです。たくさんの生徒が落ち、落ちた生徒はホースで水洗いをされました。最終的には第一期生が生めたそうです。又、石川台中学校との間には畦道があり、昼休みによくザリガニやかえるを取りに行きました。
校庭も未完成でしたが、PTAのお母様方の協力で整地され、その年の9月には立派な運動会ができたそうです。ただ、校庭はもともと畑であったため水捌けが悪く、雨が降ると泥濘になり使い物になりませんでした。これは今も同じかな?
又、二宮金次郎の銅像が校舎の脇にありました。
その後、第2校舎が南側に平行に建ち、屋根つきの長い渡り廊下により連結されます。
卒業生の皆様、特に旧校舎から旅立ちした年代の方々にとって、校舎が木造からコンクリートに、校庭との段差がなくなる等外観の変化はまだしも、様変わりにはびっくりなさるのではと思います。
又、多分、ベビーブームの頃とは違い児童の絶対数が少ないことから、教室数がありあまっっているのだろうとか、IT時代に備え、コンピュータ室があるのだろうか等、想像なさっていらっしゃるかも知れません。
しかし、こんな部屋もあるとは!!!
*視聴覚室 ビデオの鑑賞の他、多目的に使用されます。
*新BOP室 Base of Playingの略で遊びの基地という意味の部屋。提供してくださった遊び道具や本が置いてあります。
*和室 カルタ会や琴の学習の他、PTA等の親睦会にも使われます。
*ランチルーム これは立派な食堂、保護者や祖父母、異学年等とランチに使用しています。
因みに、プールに関しては、開校から何年かは多摩川まで泳ぎに行ったとか、15期生頃までは、授業で奥沢中学校にプールを借りに行った筈です。