東急電鉄と相模鉄道が直通する「新横浜線」が2023年3月18日に開業しました。
東急新横浜線の日吉駅~新横浜間と相鉄新横浜線の新横浜駅~羽沢横浜国大駅間に至る約10㎞になります。首都圏では2018年開業の成田スカイアクセス線以来13年ぶりの新線となるそうです。停車駅は日吉駅(SH03・TY13・MG13)~新綱島駅(SH02)~新横浜駅(SH01・SO52)~羽沢横浜国大駅(SO51)~西谷駅(SO08)で、新綱島駅は東横線綱島駅から綱島街道を挟んで約100m反対側に地下駅としてできました。
これにより所要時間は、田園調布駅から新横浜駅へは直通で14分、奥沢駅から新横浜駅へは田園調布駅や武蔵小杉駅乗り換えで21分になりました。以前は、田園調布駅から新横浜駅へは菊名駅経由となり最速23分かかりましたので、約9分短縮できます。
又、新横浜線の開業に合わせ、JR東海はダイヤ改正で新横浜6:03発の臨時「のぞみ491号」を新設し、新大阪駅到着が8:06となり、車東京6:00発の一番列車「のぞみ1号」より16分、品川6:00発の「のぞみ99号」より10分早く新大阪駅に到着できます。
例えば、田園調布駅5:35発に乗れば、新大阪駅に2時間31分後に到着できます。城南地域に住む人達にとって都心まで出る必要がなくなり大変便利になります。
同線を通じて東急線と相模線は相互直通運転を実施しますので、相鉄線内から渋谷や目黒など東急線各駅のほか、地下鉄に乗り入れて永田町といった東京都中心部に乗り換えなしで行けるようになります。逆に都心部から新横浜へのアクセスも向上し、渋谷―新横浜間は最速25分、目黒―新横浜間は最速23分で結ばれます。
もし東玉川・奥沢から東横線で神奈川方面へ向かう場合、例えば、田園調布駅からだと海老名駅へは二俣川駅経由47分、湘南台駅へは二俣川駅経由49分で行けます。前は横浜駅経由となり約8分前後短縮できます。
東急東横線方面は2013年に東京メトロ副都心線・東武東上線まで、東急目黒線方面は2000年に東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線・埼玉高速鉄道まで既に広がっていますので、直通区間が、相鉄線の海老名駅(神奈川県)から東武東上線の小川町(埼玉県)までの約116㎞を2時間25分で走る列車も誕生しました。又、相鉄直通列車は走らないものの、東横線・副都心線を介して線路につながる西武鉄道も含めると、神奈川・東京・埼玉の1都2県にまたがる7社14路線、計約250㎞におよぶネットワークになるとの事です。忘れていけないのは、2013年まで相互直通運転だった中目黒からの東京メトロ日比谷線もあります。
今後の首都圏大型新線は、2030年開業予定の東急多摩川線蒲田駅と京急蒲田駅を結んで、最終的には羽田空港への乗り入れを目指す新路線計画があります。
1890年(明治23年)に東京と横浜地区で電話サービスが開始しました。
1935年(昭和10年)に田園調布郵便局の電話交換業務が廃止、最初の単局地における純自動交換局として田園調布電話局が開局し、局番(02)が与えられました。
1944年(昭和19年)に田園調布電話局は、加入区域が東京中央電話局に編入、東京中央電話局田園調布分局と改称し、電話番号簿には局番と番号が一緒に記載されるようになりました。
1951年(昭和26年)6月20日 東玉川小学校が創立しました。
1952年(昭和27((1952年)9月発行の「東京都内人名別電話番号」を調べた所、小学校の電話番号は
世田谷立東玉川小学校 02-5568 玉川奥澤1丁目1 を確認しました。
1952年(昭和27年)に日本電信電話公社が設立し、1953年(昭和28年)に、田園調布局の局番が(02)から(72)になりました。
1954年(昭和29年)6月現在の「東京都内人名別電話番号」によれば、電話番号は
世田谷区立東玉川小学校 72-5568 玉川奥澤1丁目1
(1953年(昭和28年)の電話料金は、基本料金:月額700円、市内通話:7円、時間制限なし、公衆電話:10円、時間制限なしです。)
1960年(昭和35年) 東京23区内の電話局番が3桁になり、田園調布局番は(72)から(721)なったため、自動的に(721)へ移行しました。
1961年(昭和36年)4月現在の「東京23区50音別電話番号簿」によれば、電話番号は
世田谷区立東玉川小学校 721-5568 玉川奥沢1丁目1
(1962年(昭和37年)の電話料金は、基本料金:月額910円、市内通話:7円、時間制限なし、公衆電話:10円、時間制限なしです。)
1963年(昭和38年)6月に雪ヶ谷電話局が開局、東玉川区域は雪ヶ谷電話局管内となり、局番が(721)から(720)に変更されました。これが、局番(720)の始まりです。局番(720)だけ変更する人もいましたが、局番(例728)や電話番号まで変更した所もありました。東玉川小学校は電話番号を721-5568から720-4211に変更しました。
1972年(昭和47年)3月現在の「東京23区50音別電話帳」によれば、電話番号は
世田谷区立東玉川小学校 720-4211 奥沢1丁目1
1991年(平成3年)、電話局番が4桁となり、
1991年(平成3年)11月「ハローページ東京都50音別電話帳企業名・個人名世田谷区版」によれば、
世田谷区立東玉川小学校 3720-4211 奥沢1丁目1-1
で現在に至ります。
(1991年(平成3年)の電話料金は、基本料金:月額1790円、市内通話:10円、3分、公衆電話:10円、3分毎です。)
昔「東玉川小学校前」というバス停がありました。母校の前にある環八と石川台を繋ぐ区道(311号線)で、環八方面へは「ディサービスセンター東玉川(昔セブンイレブンがあった所)」の前辺り、石川台方面へは、母校の電話ボックスがある辺りにバス停がありました。東京急行電鉄・バス部門(現東急バス)が1952年(昭和27年)6月に等々力駅~田園調布駅入口~石川台~長原~大森駅間に路線を新設、その際、田園調布駅~石川台間に「奥沢小学校前」と「東玉川小学校前」というバス停を設置しました。
その後、1953年(昭和28年)5月に瀬田、1955年(昭和30年)4月に二子玉川駅まで区間を延長し、最終的に二子玉川~等々力駅入口~田園調布駅入口~「奥沢小学校前」~「東玉川小学校前」~石川台~長原~大森駅間という「森09」系統というバス路線ができました。路線開通当時はまだ環八が出来ていませんので、(田園調布~中原街道間が開通したのは1970年(昭和45年)頃)二子玉川から田園調布までの道路は美しい桜並木通りでした。
しかしながら、1981年(昭和56年)6月東急の路線改編で中延営業所が廃止され、「森09」も廃止となり、「奥沢小学校前」と「東玉川小学校前」というバス停も一緒になくなりそうになりましたが、中延営業所管轄の品川駅~石川台~丸子橋路線「品90」が瀬田営業所に移管されたので、「品90」へのバスを瀬田営業所からへ入出庫するため「森09」の路線の一部が使われることになりました。即ち、「品90」向けバスを瀬田営業所から出庫するのに田園調布駅入口~石川台経由で「品90」路線へ、又は「品90」で運行中のバスを入庫するのには「品90」の石川台から田園調布駅入口~瀬田営業所へとなり、「奥沢小学校前」と「東玉川小学校前」というバス停が存続することになりました。
残念ながら、1989年(平成元年)4月1日に「品90」が廃止されたため、「奥沢小学校前」と「東玉川小学校前」というバス停がなくなりました。平成元年卒業の第36期同窓生ぐらいまでは、「東玉川小学校前」というバス停があったと記憶しているかと思います。
ただ、「品90」になってから、行先が瀬田営業所又は品川駅・丸子橋となり、本数も瀬田営業所からの/へのバスの入出庫のみで少なくなったこともあり、利用者数が激減した記憶があります。何処へ行くにもちょっと歩いて、石川台駅や奥沢駅から電車で行ったほうが早いので、乗車する人が限られてしまったためだと思います。
ただ、母校の前の道路にバスが通り、「東玉川小学校前」というバス停があったという歴史的事実?を何とはなしに後世に伝えたい気持ちからです。
渋谷33系統廃止!!
渋谷33系統が、残念ながら2018年(平成30年)2月28日にとうとう廃止になりました。
1959年(昭和34年)に渋谷駅~大森駅間が繋がることにより、奥沢駅南口~雪が谷駅間の自由通りに「東玉川町」「東玉川交番前」「調布高校グランド前」というバス停が設置されて以来、58年9ヶ月の長きに渡って運行されました。下記がその沿革です。有難うございました。
東玉川町民とっては、特に奥沢駅、都立大学駅、時間に余裕があれば渋谷駅まで行くのに大変重宝しました。そのバス停は多摩01系統(多摩川駅~東京医療センター(昔の東京国立第二病院)) 路線にそのまま受け継がれていますので、高齢者の方々の足として未だ便利に利用されています。
-奥沢二丁目-奥沢駅北口-奥沢駅南口-奥沢駅通り-東玉川町-東玉川交番前-調布高校グランド前-
年月日 経路 備考
1959年(昭和34年)5月1日 渋谷駅~大森駅 渋谷駅~都立大学~雪谷を延長
1960年(昭和35年)中半 渋谷駅~大森操車場 大森駅から大森操車場へ延長
1972年(昭和47年)3月1日 渋33渋谷駅~大森操車場 系統番号付与
1981年(昭和56年)5月26日 渋33渋谷駅~丸子橋 路線を分離し、丸子橋となる
1989年(平成元年)12月16日 渋33渋谷駅~多摩川園駅 丸子橋折返しを廃止、多摩川園駅へ延長
2000年(平成12年)8月6日 渋33渋谷駅~多摩川駅 多摩川園駅から多摩川駅に変更
2002年(平成14年)10月16日 渋33渋谷駅~多摩川駅 渋33運行朝のみ
多摩01多摩川駅~東京医療センター 多摩01を開設
2018年(平成30年)2月28日 多摩01多摩川駅~東京医療センター 渋33廃止
石川台中学校の裏に流れている川です。
大岡山の東工大の防空壕の塹壕に遊び?(危ないので禁止されていた)に行く時に渡る川です。
昔はといっても1955年(昭和30年)代中頃までは、川はきれいで、泳ぐには浅すぎたのですが、ザリガニ、鯉、フナ等が獲れ、フナは理科の実験に利用した記憶があります。又、台風時には濁流が川の上淵まで来たのを覚えています。
ただ、1965年(昭和40年)代には、河川工事(後述参照)が始まり、垂直護岸が初めは木柵、鋼矢板、最終的にはコンクリートで固められ、中に入れなくなり、多分15期生以後の卒業生には、呑川で遊ぶという事にあまり馴染みが無かったのではと想像します。
その昔呑川は、3箇所からの湧き水の流れが集まってできた川でした。
水源は、桜新町 から来る流れが本流とされ、2番目は柿の木坂支流で、都立大学駅付近で合流し、3番目は九品仏川で、緑が丘駅付近で合流していました。
その他に、清水窪湧水等が洗足池経由で、道々橋付近で合流する流れ、六郷用水と池上で合流・分流もあったようです。
戦後、農業用水として、また生活排水用に利用されていましたが、当時は、水洗トイレや洗濯機は未だ普及しておらず、生活排水の流れ込む水量が、多くなかったため、それなりにきれいな川でした。
しかしながら、台風をはじめ、しばしば水害の被害を受けた中小河川への対策及び「ドブ川」と化していた川の下水道利用として、都が1960年(昭和35年)に「東京都市 計画河川下水道調査特別委員会」を設置し、1961年(昭和36年)に、源頭水源を有しない河川の一部又は全部を暗渠化し、下水道幹線として利用することになりました。
呑川も含まれ、世田谷区内、目黒区 内の呑川だった場所、すなわち緑ヶ丘駅付近より上流に蓋がされ暗渠化し下水道幹線になり、覆蓋上部を遊歩道として利用されるようになりました。
小学校校庭の正門脇の道も呑川覆蓋上部の遊歩道ではありませんが、呑川緑道軸構想の遊歩道の一部になっています。
よって、現在では世田谷や目黒の湧き水は、一滴も呑川に入ってきません。緑が丘駅付近から下流の水は、新宿区 の落合下水処理場の高度処理水をはるばるパイプで引いてきているのです。石川台中学校の裏あたりの川の水は、昔みたいにとてもきれいです。
但し、これは晴天時の話で、雨天時には世田谷・目黒区 の呑川下水道幹線に流れる汚水及び雨水の混合した水の一部が呑川に流れ込みます。少し強い雨が降ると呑川が臭うのは、このためだそうです。
余談ですが、上流から池上付近まで臭いのは、前述の降雨による一時的現象ですが、蒲田付近以降の臭いのは、流れてきた水と海水とがぶつかり、水が停滞することにより腐敗するためで、水の色も黄色や黄緑色で、強烈な悪臭がするそうです。
緑が丘工大橋
この橋の上を奥沢から東工大の校庭の脇を通り大岡山駅へ行く道路が通っています。その道路と平行し、東急目黒線が走り大井町線が合流します。その大井町 線合流地点の下にプレハブの家があったのを記憶している方もいると思いますが、今はなくなりました。 この橋の上流へは、地下道があり道路及び線路を潜り、遊歩道につながります。 下流には自転車置場がありますが、そこまで蓋がしてあり、呑川が黒いゴムの扉の後、開渠になり現れます。
境橋
呑川が緑が丘で開渠になってから最初の橋です。河口から約9.4km地点です。
島畑橋
奥沢タイヤ公園から大音寺・白菊幼稚園の前の細い道を通り、この橋を渡り、大岡山へ抜けてる裏道です。結構幅広い橋です。
島本橋
小学校の運動場及び石川台中学校の運動場の脇の道を歩いて行って最初に当たる橋です。渡った所に、華園児童公園があります。
柳橋
中原街道の石川台交差点を環八方面へ行く道の曲がった直後の橋です。川と道路に挟まれた三角地帯に「清流の復活」と書かれた石碑があります。これは先程述べました新宿の「落合処理場」の高度処理水が呑川に流された「清流復活事業」の記念として建てられたものです。
石川橋中原街道が上を通っています。河口から約8.5kmの所です。この先は、雪谷、池上、蒲田と流れ羽田空港河口までに、道々橋、池上橋等を含む59の橋があります。 この先は自分で探検してみて下さい。
情報:呑川の会ホームページを参照
2013年(平成25年)3月15日を最後に、渋谷駅が地下駅に変わり、東京メトロ副都心線と相互直通乗り入れになりました。昭和に東玉川小学校を卒業した第1期から第36期の世代の方々、特に第1期から第10期の60代以上の世代の方々は、昭和が消えていく寂しさがあるかと思います。
「私の東玉川は?私の奥沢は?」の番外に掲載の出光ガソリンスタンドの染谷商店もなくなり、玉川田園調布の環八沿いにあった大豪邸もなくなりました。自分たちの時代が終わっていくのを体感しているのではと思います。(そういう筆者もその一人です。)
東横線に乗り渋谷駅で降り、前方の改札口を出て直ぐ右に曲がり、陸橋を渡ると渋谷文化会館に繋がり、プラネタリウムを見たり、パンテオンや名画座で映画を見たり、ジャーマンベーカリーでハンバーガーを食べたり、立田野のあんみつを食べたり 、又は階段を下り東横のれん街で買い物をしたり・・・・・したなあと色々な記憶が蘇りますが、駅がなくなり、蒲鉾形の駅屋根もなくなり、その思い出すきっかけもなくなりました。さびしい限りです。
渋谷駅が終点駅でなく、通過駅になってしまった事も時代を痛感せざるを得ません。確かに、以前(2004年)、東横線桜木町駅が無くなり驚きましたが、それ以上の驚きです。余談ですが、高島町~桜木町間の高架下の壁に描かれていた、消しては書かれ、消しては書かれていた有名なストリートパーフォーマーの絵はどうなったのでしょうか?
翌日3月16日の田園調布駅では、勿論全ての掲示が、写真の如く変更されました。「中目黒、渋谷方面」から、「渋谷、池袋、所沢、川越市方面」となりなりました。
中目黒止まりがなくなり、渋谷行の他に、小手指行、新宿三丁目行、所沢行、和光市行、清瀬行、森林公園行、保谷行、川越市行、志木行、石神井公園行、飯能行及び池袋行が増えました。
行先だけを見ると、なんだか東横線ではないような気がします。便利なのか、寂しいのか複雑な気持ちです。
(尚、中目黒で乗り入れしていた日比谷線は、今回を機に相互直通運転を終了し、東横線は全列車が渋谷・副都心線方面の運行となり、日比谷線は全列車が中目黒までの運行に変更された。日比谷線直通の代替として、菊名発着の渋谷方面行きの列車を現行の日比谷線直通と同程度運行している。)
田園調布発渋谷方面上りの始発は、午前5時7分発の和光市行(土曜・休日上りも同じ)で、終電は午前0時47分発の渋谷止まり(土曜・休日上りは午前0時36分)です。田園調布の駅コードはTY08です。(因みに自由が丘駅はTY07で、多摩川駅はTY09です。)
田園調布からの運賃と時間は、
渋谷まで 190円・12/15分
新宿三丁目まで 350円・23分
池袋まで 380円・33分
和光市まで 460円・51分
森林公園までは 1030円・1時間40分
川越市まで 760円・1時間15分
です。
昔 東玉川町は荏原郡玉川村大字等々力諏訪分といわれました。玉川村の東の方なので、東玉川町と名前がつけられました。また、大平出羽守と言う人が住んでいて、吉良家に仕えて砦であったという説もあります。そこで”大平分”とも言います。ここは、等々力の飛地で、田園調布の台地を過ぎると、多摩川に望み、山の砦としては良い場所でした。等々力から移住した時は、十戸を増すことを禁じていたようですが、明治以後はだんだん家も多くなって来ました。関東大震災にも、あまり被害を受けることもなく、地区整理工事が昭和6年に完成して、今の東玉川町ができあがったのです。
諏訪分 住居者
元禄時代始から明治まで 百姓拾戸
明治中 十四戸
大正中 七十四戸
昭和元年中 九十三戸
(諏訪神社 御大典記念碑 裏分から)
中原街道は、江戸時代前からの古い道ですが、徳川家康が江戸に入ってから、中原往還となりました。 これは、相州中原に将軍の別荘、中原御殿を造ったためで、東海道よりも利用客が多かったそうです。中原街道は、この名の他に、相州街道、御酢街道(江戸城用の食酢を相州中原村から運んだ)、江戸街道(江戸と二本榎猿町に通じていた)と、呼ばれていました。 まわりは、水田と畑、山林でした。農家は朝三時か四時には牛車に野菜を積んで、神田や京橋に運び、町なかの家から下肥を分けてもらって帰ることでしたが、目黒川、立会川を渡り、坂を上り下りしたので、ずい分苦労したようです。 大正十二年の関東大震災のあと、多く人が都心から移り、蒲田と雪ケ谷間に電車が開通、昭和三年五反田まで全通したので、住宅地として、発展しました。 雪ケ谷-新奥沢1.4キロメートル(池上線支線、池上電鉄奥沢線)が、東玉川町の中を、ゴトゴトと、走っていました。これは、延長計画がうまくいかず廃止しました。(昭和三年十月五日-昭和十年十一月まで)奥沢一丁目は、玉川村大字奥沢字開平、稲荷山、丸山、諏訪山、沖ノ谷でした。沢が昔はあったようですが、今はわかりません。大音寺の後ろのあたりまで、海が入って来ていたそうです。 いつのころかはわかりませんが、外国から来た船が、ここで沈んだという、いいつたえもあります。又、今の変電所の南に「貝売山」という場所があって、貝塚があるそうです。 大音寺とその周辺、大音山は世田谷城、奥沢城と関連した防備の地でした。山頂に見張り小屋を作って野武士を募集してホラ貝を吹き鳴らさせたので、「大音山」というそうです。 今よりも緑が丘の方へ約五百メートル寄っており幅七、八十メートル高さ七メートルの雑木林でした。大音寺は元禄のころに浄土宗の寺として建立され、二回の火災で焼け昭和になって建築されたそうです。 この大音山の中央に、今の奥沢中学校があります。大正年間に耕地整理をした時に現在のように山を切り取りその土砂を目蒲線を敷設する時の砂利に利用したそうです。土は住宅地へ盛土としたのだそうです。そのため、今も道路の方が低いのです。 大音寺は地図で見てもわかるように、小山になっています。呑川が東を流れて、少し大雨が降ると水があふれてしまいました。 又、大音寺の南は土地が低くて、「石川たんぼ」といわれていました。現在の地図と比べて見ると、整地の苦労が思われます。 呑川の水源は深沢、浄真寺の九品仏池等、ニ~三か所から流れ出し緑が丘の南で合流して、大田区の方へ流れていますが、水田灌漑用水として利用され、水争いもありました。又、野菜の洗い場として利用されたりしました。 大正時代は岸の高さが低く草や竹が茂り、小鳥が多く、水も澄んで、魚とりをしたり、水遊びもできたそうです。昭和になって改修工事が行われましたが、大音寺山門下の道を東へ出た所に現在、自動車の通れない橋が呑川にかかっています。これは昔は石の一本橋で、このあたりは大雨のあとなどは、すぐに水があふれていたようです。東玉川町が東玉川一丁目二丁目となって、今の学区域のように住宅地として発達して来たのは、中原街道の発展と、東急池上線や東横線の輸送力がふえたこと、田園調布の高級住宅地としての発達も見のがすことはできない点です。 又、奥沢一丁目は、奥沢本村から奥沢新田を合併し奥沢小、八幡小、九品仏小の学区域にまたがる大きな奥沢町の一部でした。それが自由ヶ丘の商業地、奥沢駅前等、駅付近の商業地と住宅地、大岡山・緑が丘付近の商業地と住宅地、東急大井町線・バス輸送力・環状八号線の発展整備等の影響から、東玉川小学校の学区域は、住宅地として発展してきています。 大きなマンションは奥沢一丁目の「石川たんぼ」と言われた低地帯であった付近に多く、東玉川には三菱銀行、東海テレビの社宅等の鉄筋の建物はありますが、主として一戸建住宅が多く見られるのは、戦前戦後あまり変化しない傾向ではあるようです。 東玉川と奥沢との間を通っている学校の前の道路は、環状八号線がその昔、筏道といわれていたころから、奥沢本村と大平分を分ける往還として、中原街道の石川橋へ通じていた大切な道であったようです。 現在も、車がたくさん通って危険ですね。
(東玉川小学校 創立30周年記念誌より)