1908
1.
八月になると、フユはいつもかき氷機を出す。電動ではなく手回し式の、専用の氷を作っておかないといけない、安物のかき氷機である。最低でも年に一度、フユはそれを使っておかないと気が済まないらしかった。
「今年は早いね」
台所に麦茶を取りに行ったアキは、製氷器をかるく水洗いしているフユを見ながらそう言った。フユは布巾で軽く拭った容器に水を注ぎながら、去年はぎりぎりだったから、と返した。
「九月に入る前だったよね」
「そう。去年は特に冷夏だったから、すっかり忘れてたのよね」
「忘れたままでもいいのに」
「それはそれ」
みっつの容器に均等に水を注いだ後、フユは冷凍庫にそれらをしまった。それからかき氷機をキッチン台の隅に鎮座させて、だいぶくたびれた紙箱をまた棚の奥へと戻した。
「電動にすればいいのに」
「これがいいの。風情ってもんがあるでしょ」
アキの言葉にそう反論して、フユはかき氷機のハンドルを回す仕草をした。
「風情って言うにはずいぶんちゃちだと思うけど」
アキはかき氷機に視線を落として言った。いくつかの金具と安っぽいプラスチックでできたかき氷機が井川家にやってきて、もう十年は経つ。夏になるとそこかしこの店で千円もしない値段で売られているようなそれを、フユは買い換えようとはしなかった。
「それはそれ」
フユはまたそれを繰り返した。
2.
井川家のかき氷がいちごと練乳だけになったのは、かき氷を家で削り始めて三年目になってからだった。最初の年、ハルが九歳の時は、フユがあれもこれもとシロップを買いすぎて、だいぶ無駄にしてしまった。炭酸水で割ってソーダにしたりもしたが、それにも限度があった。次の年は小さいシロップをちょっとずつ買ったが、その次の年からはいちごだけになった。家でたしなむには結局それだけで十分、というのが、井川家での結論だった。
かき氷用の硝子の器を用意する。ナツは仕事に出ていて不在なので、ハルとアキとフユの三人分である。ハルは手慣れた様子で製氷機から氷を取り出し、かき氷機にセットした。蓋のスパイクを食い込ませて、それから思いきりハンドルを回す。
ハンドルは例年より硬く感じた。今の身体は見た目相応の馬力しかない、ということを、ハルはそこであらためて実感した。
「きつい。交代」
ある程度回し切って、それからハルはフユに交代した。エアコンの効いた部屋でも、ハルはじわりと身体に汗をかいた。
バトンタッチしたフユは、楽しそうにハンドルを回している。そのまま氷を全部削り切った。
「おつかれさま」
出来上がったかき氷にシロップをかけながら、アキは言った。シロップの重みで、氷がじゅん、とへこんだ。
「どういたしまして。さ、早く食べないととけちゃう」
フユは席につくなりそう言って、アキから手渡されたかき氷に軽く練乳を回しかけて、そのままスプーンで口に運んだ。
「おいし。やっぱりこれがないと、夏が来たってかんじにならない」
「じゃあ去年はぎりぎりで夏になったんだ」
「そのとおり。ハルちゃん、わかってるじゃん」
冗談のつもりだったんだけど、と思いながらも、ハルは言及しなかった。深入りすると話がこんがらがりそうだ、とハルは思った。
それからしばらく、三人で黙々とかき氷を食べ進めた。蝉の声が、締め切った窓をものともしない勢いで、居間までなだれ込んできている。七割ほど食べきったあたりで、そういえば、とフユが思い出したようにハルに声をかけた。
「ハルちゃん、大学いつからだっけ」
ハルはかき氷を食べる手を止めて、先日確認した書類の中身を、記憶の中から引っ張り出した。
「えっと、九月十五日に入学式があって、それから二週間は後期入学者向けのオリエンテーション。十月からは前期入学者の後期カリキュラムと合流する、ってかんじかな」
「じゃあ、前期の人たちより夏休み短い、ってこと?」
「そうなる。といってもこっちは春からずっと休みみたいなもんだったし」
そこまで言って、ハルは自分の器とスプーンを流しに持って行った。軽く水で流した後、スポンジに洗剤をつけて洗う。アキとフユも、食べきった後にそのままハルに器を渡した。
「入学式はスーツ?」
「派手過ぎなければなんでもいいって。ほら、スーツなんて今作っても来年使えるかどうかも分かんないし」
フユの質問に、ハルはそう答えた。フユはすこし考えて、そっか、それもそうだね、と返した。
「でも、見たかったなあ、ハルちゃんのスーツ」
「そのうちいやでも見ることになるよ」
「そうじゃなくて」
フユの言葉に、気持ちは分からなくもないけど、とハルは返して、そこから黙った。来年以降、ハルの身体が今のままであるかどうかの保証はない。女性の身体でフォーマルな格好をする、ということ自体、その日が最初で最後になる可能性だってある。だからこそ、フユはそういう瞬間を少しでも逃したくない、と思っているのだろう。ハルはそう考えていた。
「……まあ、スラックスとジャケットくらいはどこかで買う予定。ブラウスも、多少はかっちりした奴用意しとく」
「いつ買いに行くの? ついていっていい?」
すこし食い気味にフユは訊ねた。
「フユさんついてくると、買い物長くなるからやだ」
「おとなしくしておくから」
「だめ」
ハルとフユのやり取りを横でうかがいながら、アキはくすくすと笑った。
「どっちが子供なんだか」
「あ。アキちゃん、今私のことばかにしたでしょ」
「してないよ。かわいいとは思ったけど」
むくれるフユにアキはそう返した。フユは、かわいいならよし、と言って、水切りかごの中の食器を拭き始めた。
3.
ナツが仕事から戻ってきたのは十九時をまわったあたりで、そのころフユは天ぷらを揚げていた。ピーマンとなす、海老と玉ねぎのかき揚げ。横では深めの鍋で湯を沸かし始めていた。
「おかえり、ナツさん。今日はおそうめんと天ぷら。もうできちゃうけど、先にお風呂入る?」
「ただいま。もうできるんならシャワーだけにしようかな」
ナツはそう言った後、自室にカバンや小物を置いて、そのまま浴室に向かった。
「フユさん、素麺どれくらいゆでる?」
「四把でいいかな。天ぷらもあるし」
フユがアキにそう答える横で、ハルがつゆと薬味を用意していた。台所での分業は、この家で長年暮らすうちにすっかり染みついていた。身体が変わっても、そこは変わらなかった。
ほどなくして食卓の準備も終わり、四人そろっての夕餉になった。フユは今年最初のかき氷をした、とナツに報告し、今年は忘れなかったんだね、とナツは言葉を返した。
「去年、ぜったいやんなくてもよかったよね、かき氷。雨も降ってて、ちょっと肌寒いくらいだったし」
二人のやりとりに、アキが口を挟んだ。
「やるの。一回でもやらなくなったら、もうずっとやらなくなりそうだし」
アキの言葉にそう返して、フユはナスの天ぷらをかじった。ナスはまだ芯があつく、フユは「あふ」と言った後涙目になった。
「気をつけなよ。火傷してない?」
ナツがフユの顔を覗き込みながら言った。フユは、だいじょうぶ、と言いながら取り皿にナスの天ぷらをいったん置いて、グラスに入った麦茶の中に浮かぶ氷を一個口に含んだ。
その様子を見ながら、ハルはふと、気になることが思い浮かんだ。普段は捨て置いていくものなのだが、その日はすこし、声に出してみたくなった。
「フユさんって、昔からそうだったの」
ナツとフユの動きが止まって、そのまま視線をハルに向けた。
「昔から、って?」
「フユさんが男だった時とか、ナツさんと知り合ったときとか。要するに、俺が生まれる前のフユさん」
ナツは椅子に深く座りなおしたあと、顎に手を当てて、ふむ、と声にしてからすこし考えた。
「知り合った頃にはもう男に戻ってたから、フユの体験期間の頃とか、それより前のことは知らないけど」
ナツはそう前置きして、フユの顔をみた。フユはころころと音を立てながら、口の中で氷の塊を転がしている。
「男だった頃は今より落ち着いてたし、大人っぽかったよ」
「ナツくん」
「意外」
「アキちゃんまで」
二人の言葉に反駁しながら、フユは頬を膨らませた。そういうところが子供っぽい、とハルは思ったが、追撃するのもかわいそうな気がして、言わないでおいた。
「でも実際、そうでしょ? アキが生まれる前後とか、今よりもずっとしっかりしてた気がするけど」
ナツにいわれて、フユから、うぐ、とくぐもった声が出た。どうやら図星らしかった。
「だって、子供を育てるなんてなったら、ちゃんとしなきゃって思うじゃない。ナツくんも、そうだったんじゃないの」
フユの反論に、ナツは、ふむ、と声を漏らして、そのままもういちど顎に手を当てた。
「まあ、たしかに。アキが生まれる、ってなったころはまだ体験期間だったし、妊娠したった分かるまで考え無しだったのは否定しないよ」
そう言って、ナツはすこし遠い目をした。ナツが自身の体験期間である十九歳のうちにアキを身ごもり、出産後遅れて再選択を行ったのは、ハルとアキ両名の知るところである。それがどういう困難を伴っていたのか、今のハルには想像のつかない部分もあったが、容易でなかったであろうということは理解できた。
「ナツさんはさ、アキを産んだあと、なんでいったん男に戻ったの」
純粋な疑問として、ハルはナツに訊ねた。昔からうっすらと気になっていたことだった。訊くなら今がいい機会だ、とハルは思った。
「親であるために、ちゃんと大人として男でいる景色を見ておきたかったからかな」
言葉を選ぶための時間を用意するだろう、とハルは思っていたが、ナツは回答に間を置かなかった。ハルはすこし虚を突かれた気持ちになった。
「……じゃあ、もう一度女性になったのは、どうして」
「そっちがいいかなと、私が思ったからだよ」
ほかにも色々理由は後付けできるけど、結局最後はそういうこと、と続けた。言葉にしてしまうと想像以上にシンプルな答えだった。答えを聞いて、ハルは自分が思ったよりも自分がずっと何かに身構えていたことに気付いた。
「ナツさんは、今、その選択でよかったって思う?」
少し間をおいて、ハルはさらに訊ねた。ナツもさっきよりたっぷりと時間をとって、それからハルの目を見た。
「……どうかな。正しいかどうかは分からないけど。でも、今はちゃんと幸せに生きていられてると思うよ」
その回答を最後に、ナツは問答を区切った。素麺をすすり、かき揚げを天つゆにひたして一口かじる。ハルも、それ以上は訊ねなかった。ありがと、とだけ返して、フユが他愛もない話を再開するまで、黙々と夕飯を食べ進めた。
4.
寝支度を済ませた後、ベッドにもぐりこんで、ハルはナツとの会話を思い出していた。ナツが大学へ行かず就職したことも、就職と体験期間が重なったことも、二十歳になる前にフユと結婚したことも、ただ事実としてだけ、ハルは知っていた。そのころのナツのことを、ハルは思った。仕事を始めて、フユと結婚し、アキを身ごもり、親になった。そういう時期のナツと、今の自分は同じ場所にいる。
そう思うと、ハルはどうしても、自分がずいぶんちっぽけだと感じた。天井に向かって手を伸ばすと、男だった時よりもほっそりとした指先が視界に映った。今日、かき氷機のハンドルをうまく回せなかった。そういうものと同じ時間をナツも経験したはずで、しかしハルの視界のむこうで、ナツはそういう苦しさを感じさせてこなかった。
ふう、と息を吐いて、伸ばした腕から、ハルは力を抜いた。夜寝るときに考えていることは、どうでもいいことか、もしくは考えないほうが良いことだ、と、どこかで大人が言っていた気がする。そう思って、ハルは目を瞑って、明日まで意識を閉じることにした。