1906


1.

 その日は梅雨らしい雨が朝から降っていた。気温はそれほど高くなかったが湿気がとかく不愉快で、肌がじわじわとべたついた。

 大学の事前説明会があった。後期からの入学者向けのものだった。講義のスケジュール、サークル活動、設備や学内の制度、ハルのような「体験期間」の学生向けのサポートなど、学生生活に必要なモノとコトを、広く浅く説明していた。説明された内容について、ハルは半分も覚えていられなかった。自由参加で、参加している新入生は思ったほど多くなかった。

 行かなくてもよかったかもな、と、帰り道でハルは思った。身体が重かった。空気を掻き分けて進んでいるような感覚があった。メイクの下で、汗がじわりとした。はじめて知る不快感だった。夏のメイクって嫌なのよね、と化粧台の前でフユが言っていたのを思い出して、なるほど、と思った。次の定期カウンセリングで鈴川にどんな話をするか、ハルはその時決めた。


2.

 帰宅すると、こんどはすっと寒気すら感じた。夏に出掛けると、ハルはずっとそれが心地いいと感じていたけれど、その寒気は、それとはすこし違った。身体のつくりがかわるというのは、そういうことらしかった。靴を脱ぎながら、学びだ、とハルは思った。

 荷物を自室に置いた後、台所に向かった。居間にはアキがひとりでいた。テレビがついていたが、アキの視点はその先にはなかった。アキは雑誌を読んでいた。ファッション誌らしかった。雑誌のおまけらしいミニバッグが、ソファに雑然と置いてあった。

 ただいま、とハルは声をかけた。アキは、一度視線をハルにやったあと、おかえり、と返して、すぐに雑誌のページに戻した。

「何の雑誌?」

 台所に向かいながら、ハルはアキに訊ねた。

「ファッション誌。おまけついてたから買った」

 アキの回答を聞きながら、冷蔵庫から麦茶のボトルをとりだして、ハルはコップに注いでいった。それをひといきで飲み干して、もう一杯注いで、残りを冷蔵庫に戻した。

「アキって、そういうの買わないほうだと思ってた」

「買うよ、たまには」

 ハルがアキの隣に座った。

「どんなの載ってるの」

「うーん。私よりハルの年代向けのやつかも」

 雑誌に視線をやったまま、アキは言った。

「よっつ違いでそんな変わる?」

「変わるよ。とくにこのあたりの四、五年は」

 言われて、たしかに、とハルは思った。ハルの歳から、アキのすこし年上くらいまでの世代は、人生で一番「ゆらぐ」世代だ。だから、志向なりトレンドなりが、一番変わってくる。

「あげる。読んでいいよ」

 読み止しの雑誌を、アキはそのままハルに渡した。おまけは、と訊ねたハルに、それはだめ、と返して、バッグを手に自分の部屋に戻っていった。

 ハルは受け取った雑誌の表紙を見た。いかにもおとなし気な女性が、表紙でほほ笑んでいた。ハルは居間のテレビを消して、麦茶を片手に自分の部屋へ戻った。雑誌も、ハルの小脇に抱えられていた。


3.

 麦茶を机において、ハルはベッドに腰かけた。ベッドに投げ出していたエアコンのスイッチを入れると、六畳用のそれはハルの部屋の温度を設定どおりにしようと、必死に唸った。

 麦茶を一口飲んで、ハルは雑誌のページをめくった。雑誌は薄く、いかにも「バッグのおまけ」という感じがあった。案の定、内容も薄かった。

 最初の一、二ページは、おまけのミニバッグの説明だった。ポケットの数、収納力、デザイン、利用シーンなどがコンパクトにまとめられていた。次のページからしばらくは、そのミニバッグのブランドの新作紹介、という感じだった。少ないページの五割くらい、宣伝のような、広告でもあるようなページが続いた。特集ページはそのあとだった。

 見出しを見て、ハルは、なるほど、と思った。

「体験中の女子初心者必見」

「あえて挑戦するフェミニンコーデ」

「メンズファッションとボーイッシュの違いとは? マニッシュとメンズライクも併せて徹底解説」

 そういう文言が並んでいた。たしかにこの内容は、アキ向けじゃない。

 ハルは何ページか、ぺらぺらと捲った。コーディネートをどう楽しむかとか、どういう色遣いがいいかとか、そういう内容を「初心者向け」に、懇切丁寧に解説していた。

 雑誌を閉じて、ハルはそのまま体重をベッドに預けた。雨が止んだのか、夕日が部屋の腰窓から侵入してきた。視線の先には天井があった。真っ白い壁紙に、シミがひとつついているのが分かった。

 ハルは、今読んだ雑誌のことを考えた。悪いことが書いてあるわけじゃなかった。けれどハルは、あの本に載っていた情報から、言葉にしにくい厚かましさを感じていた。まるで今日の空気みたいに、まとわりつくような感じだった。求めていない親切心、という感じで、自分が欲しくて買ったわけでもない本って、読んだらこうなるんだな、と、ハルは思った。

 ノックの音がして、ハルは身体を起こした。どうぞ、というと、アキがアイスをもって部屋に入ってきた。

「いるでしょ」

「いる」

 ハルは立ち上がって、アキから袋を受け取った。棒が二本ささった、ラムネ味のアイスだった。真ん中で割って、分けて食べる。アキはこれを均等に割るのが苦手なので、こういうときはいつもハルがその役目を担っていた。

「はい」

 ハルはいつも通り丁寧に、アイスを一本から二本にして、片方をアキに渡した。アキはそれを受け取りながら、雑誌どうだった、と訊いてきた。

「なんか、胃もたれした」

 きわめて正直な感想だった。ひっかかりもなく、ハルは言った。アキも思うところがあったのか、ああ、と納得したふうの声が自然と出た。

「あるよ、そういう感じの本」

「あれくらいのノリが必要なひともいるとは思うけどね、たぶん」

 ハルの言葉を訊きながら、アキはアイスをかじった。

「ハルは必要ない感じ?」

 少し思案して、まあ、そう、とハルは返した。

「べつにおしゃれが嫌、ってわけでもないんだけど。ああいう感じでべたべたされると、ちょっと身構える」

「そういう感じか」

「そういう感じ」

 そこまで言って、アキは部屋から出た。部屋を出る間際に、アイス食べきったらシャワーでもあびたら、と言われて、ハルは、分かった、と返した。アイスを一口かじる。ひんやりとして、身体の芯のほうにある暑気が、ぬけていくような気がした。


4.

 翌日、バイト上がりのレンと、駅前のコーヒースタンドで話をした。梅雨の間の晴れ間、という感じで、季節の割にはからりとしていた。やることがない日は、レンと時々そういう風に落ち合っていた。窓際のテーブル席にのぼる話題に特別なものはなく、ぜんぶ他愛のないものだった。

 話をしながら、ハルは、レンの恰好を見ていた。大判のTシャツとデニムパンツ。ハイテクスニーカーにベースボールキャップ。「メンズファッションとボーイッシュの違いとは?」という、昨日読んだ雑誌に載っていた文言を、ハルは思い出していた。

「……なに。なんか変?」

 ハルの視線に気づいて、レンが訊ねた。いや、とハルは前置きして、昨日読んだ雑誌のことをレンに話した。なるほどね、とレンは頷いて、それから、私は全部読んじゃいそう、と続けた。

「まあ、レンはそうだろうね」

 アイスコーヒーを一口ぶん、ストローで啜って、ハルはそう返した。そうして、ハルはレンの全体を眺めた。レンの言葉遣いが、しぐさが、だいぶ身体のほうに寄ってきた、と、ハルは思った。カドがとれたというか、しなを作っている感じがあった。けれどハルは、それを思うだけで、口にすることはしなかった。する必要がない、とハルは思った。レンが気づくべきときに気づけばいい。そういう考えだった。レンはいつもそうだった。無意識にそういうことができて、できた後に気付くような人間だった。

「レン」

「なに」

「……似合ってるね、その恰好」

 ハルは何の気なしに、つぶやくようにそう言った。意表をつかれたのか、レンは一瞬目を丸くして、それからゆっくりと、はにかむようにほほ笑んだ。

「何、急に」

「急に思ったから」

「だから言ったの?」

 うん、と答えて、ハルはコーヒーをもう一口啜った。少しの間、沈黙があった。店で流れているジャズが、ほんの少し、近づいている感覚があった。レンはしばらく、何かを考えているような、噛みしめているような表情をしていた。

「……ハルも、似合ってるよ。そのスカート。最近いつも穿いてるよね」

 返す刀で、レンがそう言った。ハルは自分の下半身に視線を落とした。体験期間が始まる前に、レンに勧められて買ったスカートだった。確かに最近、これを穿く頻度が増えた気がしている。積極的にそうしている、というより、日常の選択肢の中に、ちゃんと組み込まれている、というほうが、ハルにとってはしっくりきた。

「……通気性良くて。似合ってるかどうかはわかんないけど」

 言って、ハルは片手で、スカートの腿のあたりをつまんで、少し持ち上げた。

「でも、まあ、レンが選んで、レンが似合ってるっていうんなら、そうなんだろうね」

「そうだよ。似合ってる。……もうこんな時間だ。帰ろ」

 スマートフォンの時計に目をやったあと、レンはそう言って、のこりの抹茶ラテを一息で飲み干した。ハルも同調して、のこりのアイスコーヒーを飲み切った。ずず、という音が、カップの底で鳴った。


5.

 帰り道でも、ハルとレンは他愛のない話をした。ハルが大学の説明会の話をして、レンはバイト先の話をした。

「リサイクルショップって言うと、店長不機嫌になるんだよね。うちは古道具屋だ、って。やってることはもうぜんぜんリサイクルショップなのにね」

「まあ、誰にでもあるよね。本人にしかわからないこだわりみたいなの」

 言いながら、ハルはなんだかこそばゆい感じがした。すっかり忘れていたスカートの「感触」が、少し這い上がってきていた。

 団地の敷地内で、レンと別れた。ハルは、自宅へ歩いていくレンのうしろ姿を、少しの間眺めていた。俯瞰しすぎないように、という鈴川の忠告を、ハルは頭の中にめぐらせた。昨日の自分と、今日の自分は、はたしてどうだったろうか。見ていないもの、見えていないものが、あったろうか。

 ハルはもう一度、視線を下ろした。スカートが、夕方のぬるい風を受けて、緩やかになびいている。カフェでそうしたように、片手で腿のあたりをつまんで、離した。

 似合ってる、とハルはひとりごちた。耳があついな、と思った。今が六月だから、と、ハルは考えることにして、踵を返した。家はもうすぐそこだ。