1907


1.

 玄関を出た瞬間、夏だ、とハルは思った。ハルは、あまり夏が好きではない。暑いし、汗をたくさんかくし、疲れる。女になってからは、日差しにも敏感になった。それで、日焼け止めを塗って日傘をさすのも、だるい、という気持ちに拍車をかけていた。

 しかしその日、ハルは夏の空の下にいた。レンに連れ出されたからだ。

 プールに行こう、とレンが言い出したのは、先々週のことだった。県内に新しく屋内プールができたので、そこへ行く、という話になった。ハルはあまり乗り気ではなかったが、レンがとにかく行きたがったので、行くことにした。レンは専門学生で、来年になれば就職する。そうなると、今ほど休みに自由がなくなる。そういうことも考慮の中にあった。

「どのバスに乗るんだっけ」

 ハルが訊ねた。

「直通のやつがある。駅前から、三十分おきに出てる」

 レンはそう答えた。

 駅までの道中を、ハルとレンは隣り合って歩いた。まだ午前十時にも差し掛かっていなかったが、陽光は地面を等しく焼いていた。ハルもレンも、あまり口を開かなかった。暑さでそのような余裕がない、ということでもあったが、それよりももう少し大きい理由が、少なくともハルには、あった。二人は体験期間の最中で、現在女性の身である。それは要するに、女性ものの水着を着る必要がある、ということであり、大なり小なり、そこに引っかかるものがあるのは当然だった。

 ハルは、レンの横顔を見た。レンはハルよりも、より好奇心で動くタイプの人間だ。今の表情も、それが隠せないでいた。要するに、レンは「避暑」や「新しいプール施設を楽しむ」ということと同じくらい、あるいはそれ以上に、好奇心をそそられているものがある、ということだった。それが何なのか、ということは、ハルにはおおよそ見当がついていた。今言う気はしなかった。予想が当たった時に、言えばいい話だった。


2.

 ハルが水着を用意したのは一週間ほど前のことだった。家族で買い物に行くついでだった。もともとはよくある、家族での週末のちょっとした外出、というだけのことだったのだが「水着を買わないといけない」ということをハルが話してから、少々毛色が変わった。なによりフユが殊更張り切った。

「ハルちゃん、ビキニだとすこしセクシーすぎる? ……ワンピースだと、逆に子供っぽすぎるかしら。じゃあタンキニとか」

 エスカレーターで上階にのぼる間、フユはずっと饒舌だった。気持ちだけどんどん前のめりになっているのが、手に取るように分かった。

「フユさん、おちついて」

 ハルはつとめて冷静にフユを諫めた。

「落ち着いてます。そわそわしてるだけで」

「一言で矛盾しないで」

 ハルの背後で、アキが声を出して笑っていた。それからも、周囲のことはおかまいなしにフユはしゃべり続けて、結局ナツに、いい加減にしなさい、と叱られ、いつものようにしょぼくれた犬のようになるまで、止まることはなかった。ハルはそれが、フユなりの気遣いなのだろう、と思って、いつも大げさには嫌がらないでいる。フユが楽しそうにしているのがハルは嫌いではなかったし、フユがそういう感じでいると、体験期間も少しは気楽に構えられるからだった。

 その日、三階のスポーツ用品店でハルが買ったのは、スポーツタイプのセパレートの水着だった。まだ、水着で自分を着飾る気にはなれなかった。レジで会計を済ませるとき、フユが何か言いたげな目をして、ハルを見ていた。それがまた、おあずけを食らっている犬にそっくりで、ハルもアキも、笑いをこらえるのに必死だった。


3.

 更衣室からプールに出てきて、逆にスポーツタイプの水着は浮いてしまうかもしれなかったな、とハルは少しだけ思った。室内プールとはいえ、できたばかりのそこはトロピカルな植栽に彩られ、常夏の風情を醸し出していた。大きな流れるプールがあり、ジャグジーがあり、ウォータースライダーがあった。奥にある円形のプールにはカウンターがあり、そこでドリンクを楽しむ客もいた。視界に映るお客はみな着飾っていて、スポーツタイプの、行ってしまえば色気のない水着は、この場においてはむしろ異質にさえ思えた。

 所詮だれも、赤の他人のことなんて気にしないだろう、と思い直して、ハルはつとめて気にしないことにした。考えないほうがよいことは生きていくうえで存外に多い、というのは、体験期間に入ってハルが学んだことのひとつだった。

 更衣室を出てすぐのベンチで、ハルはレンを待った。ハルの予想どおりであれば、レンの着替えはハルよりもずっと時間がかかるだろう、と思っていた。実際にそうなった。ハルは結局、十分ほどそこに座っていた。

「……だろうと思った」

 レンを一目見て、ハルはため息交じりにそう言った。レンは自慢げな表情で、胸を張っていた。空色のビキニだった。首元で、結び目が揺れていた。

「似合ってるでしょ」

「似合ってはいるけど」

 そこまでは、言葉にした。その先に続く言葉はいくつもあったが、それをいちいち言葉にする必要はない、とハルは思った。

「ていうか、ハルはそれ、地味じゃん。もうちょっと冒険すればよかったのに」

「お前が冒険しすぎ」

「そう? せっかくの体験期間なんだし、楽しまなきゃもったいないよ」

 言いながら、レンはハルの腕を引いた。ハルは立ち上がって、流れるプールに向かうレンの横に並んだ。ハルの思っていたとおり、レンは何も考えずに楽しさだけを受け取る時の顔をしていた。無意識にそういうことができるレンを、ハルはすこしうらやましく思った。


4.

 流れるプールでひとしきり遊泳した。自分が考えていたよりも、ハルの身体はずっと軽かった。脱力すればおのずと身体は浮く。それは男性であろうと女性であろうと変わらないのだけれど、女性の、今の身体のほうが、ハルにとってはずっと自然に脱力できた。体験期間に入ってからずっと、どこかが無意識のうちに強張っていたせいでそう感じているのかもしれなかったが、ハルにとってそれはどちらでもよかった。今ここにある感覚だけが、ハルにとって事実だった。

 レンは、泳いでみたり、潜ってみたり、ハルの隣で始終騒がしかった。行き交う子供とハイタッチして、自分もまた小さな子供のように一緒にはしゃいでいたりもした。

 元気なやつ、とハルは思った。思っただけで、口にはしなかった。口にするには言葉としてもう一歩考える必要があって、考えると、余分な材料が入ってしまうかもしれなかったからだった。

「楽しんでる?」

 頬をすこし紅潮させながら、レンはハルに訊ねた。

「気持ちよくはある」

「答えになってないけど」

「……今のレンを見てると飽きない」

「私が子供みたいって言ってる?」

「そうは言ってない」

「……考えた?」

 ハルは答えなかった。レンはハルの顔めがけて水をかけた。

「そういうとこ」

「やっぱ考えてた!」

 レンはむくれて、そのあと笑った。ハルも笑った。自然にこみあげてきたので、ハルはすこし驚いた。

 ウォータースライダーに向かったのは、流れるプールを二周ほど遊泳した後だった。ハルが自分の首元に指をさしながら、結び目だいじょうぶ、と訊ねたが、レンは軽い調子で、問題ない、と言って無邪気に笑った。

「ウォータースライダーなんてさ、小学生以来?」

 大気列の中腹あたりで、レンは言った。

「これだけ大きいのは初めてかも」

 自分たちを縦横無尽に取り囲む、まだ真新しい見た目のチューブを見渡しながら、ハルは返した。遠くから女性とも男性ともつかない笑い声がしていた。

 二人乗りの、取っ手付きの浮き輪に乗って、二人で流された。流されているあいだ、ハルはどこか解放されたような気持ちになった。体験期間に入ってから、ハルはずっとなにかを考え続けているような気がしていて、しかし、チューブの中をただ流れているときは、それがなかった。ハルもレンも、オトコという単位でも、オンナという単位でもなく、ただ、若者だった。水流の中で体は強張ったが、心はずっと弛緩していた。


5.

 二人用のスライダーを滑り切った後、それぞれ一人用のスライダーも滑った。一人用のスライダーは深めの円形プールにつながっていて、着水した後に足がつくエリアまで泳いで戻るようになっていた。

 先にハルが滑り降りた。天井側の透明な樹脂の向こうで、植栽が生い茂っていた。うっすらと、トロピカルな音楽が聞こえてくる。やがて着水し、一瞬の無音の後、泳いで岸まで戻った。

 次にレンが滑り降りた。ハルが着水してから数分ののち、レンもまた着水した。しぶきが立った。それを見る客も、見ない客もいた。監視員が、無線で何かを話している。

 ほどなくして、レンが水面に顔を出した。あたりを見回した後、ハルの顔を見つけて、そちらへ向かって泳いだ。

 ハルはその様子を観察していた。レンが平泳ぎでゆっくりこちらへ近づいてくる。足がつくエリアになって、立ち上がりかけたところで、岸に腰かけていたハルは何かに気付いた。あ、と声が出そうになったが、こらえた。プールに入り、底を蹴ってレンの側へ急いだ。

 レンがハルに声をかけようとしたのと、ハルがレンに抱き着いたのはほとんど同時だった。レンは、突然のことで声を出せずにいた。あたりを見回すが、客のほとんどはそれぞれの相手と話をするか、見守るか、ウォータースライダーの様子を眺めるかで、突然身体を重ねだした女性二人のことなど、気にも留めていなかった。

「急になに」

 そう言いかけたレンの耳元で、ハルは小さく、動かないで、とささやいた。ハルの呼気が耳にかかって、レンの背筋がすこしふるえた。

「紐、ほどけてる。結びなおすから」

 周囲に聞こえない音量で、ハルは言った。レンははっとした。それと同時に、顔面がみるみる熱くなっているのを感じた。レンが胸元を抑えるのを確認した後、二人はゆっくりと、プールの底に足がつくあたりまで戻った。ハルはすこしだけ身体を離して、慣れないながらも手際よく、レンの首紐を結びなおした。そこからいったん水中に潜り、他の箇所に重大な問題がないか確認し、すぐ水面に顔を出した。

「変なとこない? ずれた感じとかある?」

 平常通りのハルの顔をぼうっと眺めながら、レンは少しうわの空な様子で、ない、だいじょうぶ、とだけ口にした。

 プールからあがって、そのまま岸に腰かけた。レンは、まだ少し現実感をうしなっていた。うなだれた姿勢のまま二、三十秒ほど両手で顔を覆って、それから、うー、とか、あー、とか、少しだけうめいた。周囲の雑音が、いやにはっきりと聞こえてきた。

「大丈夫?」

 ハルは訊ねた。レンは姿勢を戻し、天を仰いだ。それからその姿勢のまま、たすかったぁ、と力の抜けた声色で言った。

「ありがと」

「……結び方、気を付けなよ」

「ごめん」

「ちょうちょ結びだった?」

「……だった」

 ハルは、ふう、と息を吐いた。

「結び方の動画、あとで共有しとくから」

「助かる」

 つとめていつもの調子で、二人はやり取りをした。視線は交わさなかった。ハルは、今は多分そうしたほうがいい、と思って、そうした。レンは、まだそうすることができるほど、落ち着いていなかった。


6.

 二人がプールを出たのは一時を回ったあたりだった。もう少し長居するつもりだったが、お互い変な疲れ方をしてしまって、ジャグジーに浸かった後、ほどなくして出てきてしまった。

 ロビーの自販機でアイスバーを買って、それを食べながらバスを待った。ハルはクリームソーダを、レンはクッキークリームをそれぞれ食べた。本当は併設のレストランにも行く予定だったが、すでに家族連れやらカップルやらでごった返していたので、バスで駅まで戻って駅前の店でなにか食べることになった。

「いやあ、まさかほんとに外れるとは」

 先ほどまでの様子とはうってかわって、あっけらかんとした表情でレンは言った。ハルは視線だけをそちらにやり、はあ、とひとつため息を置いてみた。

「ていうかハル、なんで結び方とか調べてたの? ハルの水着、結ぶとことかなかったでしょ」

「どうせビキニとか買ってはしゃいで結び方とか調べてなさそう、と思ったから、調べておいた」

「先に教えてくれればよかったのに」

「ほんとにビキニ用意するかどうか知らないし、事前に訊くのも変だし。あと、案外すんなり着てたから、おせっかいかなと思った」

 それ以上、レンから文句は出なかった。二人ともアイスを食べきって、樹脂製の棒をリサイクルボックスに突っ込んだ。

「とにかく、ありがとね。大事にならずに済んだ」

「……どういたしまして」

 返事をして、ハルはもう一度レンに視線を向けた。レンは、恥じらいと安堵が混じったような、見たことのない微笑み方のまま、視線を地面に落としていた。それからしばらく、お互い何も言わずにいた。

「あの時のハル、イケてたよ。ちょっと」

 少しして、レンは急にそう言った。ハルはすこし、不意を突かれたような気分になった。視線をレンにやると、すこしいたずらっぽい表情をしている。

「どういう意味?」

「王子様みたいな感じだった。私じゃなきゃ告白してたよ、多分」

 訊ねるハルにそう言って、レンはにやっとした。いつもの、ふざけているときの顔だった。

「レンお前……。はあ、いいよ、言ってな」

 ハルは頭を抱えて俯いた。あはは、とレンは笑った。