1905
1.
市のカウンセリングセンターは、家からバスで二十分ほどかかる。オフィス街と繁華街の間にある、五階建てのビルの中腹にあるのがそれだった。
ハルは、普段行かない場所へ行くとき、いつも首の後ろがむずむずする。何かに追い立てられるような感じだと、それを表現している。
ゴールデーンウィーク明けにしては、少し熱気のある一日だった。日差しの下にいると、少々汗ばむような、そういう天気をしていた。バスの窓は二、三センチほど空いていて、そこから、風と一緒に、ときどき、街路樹の青々しいにおいが、ハルの席までやってきていた。
体験期間中、月に最低一度、カウンセリングがある。性別が肉体ごとかわる、というのは、それだけショッキングな出来事でもあるため、それをケアするための制度もまた、同時に存在している。
ハルがそこへ行くのは今日で二度目だった。バスに乗って、ひとりでそこへ行くのは、今日が初めてだった。初回は保護者への説明も兼ねていたので、フユが同席していたのだった。
ハルは窓の外を眺めていた。どこかへ向かう親子。信号を待つ老人。大きなバックパックを背負った外国人。気ぜわしそうな表情で電話をかけるビジネスマン。見知らぬ人々が、見知らぬ街を往く光景。履きなれない靴を履いた時のような感覚が襲ってきた。
車内の案内表示が切り替わる。どうやら次が目的地らしい。ハルは視線を窓の外から外して、カバンからICカードを取り出した。
2.
カウンセリング室には、鶯色のソファが、角の丸い、木目柄のカフェテーブルをはさんで二つある。その出入口側にハルは座っていた。
「それでは、井川ハルさん。あらためてよろしくお願いします。カウンセラーの鈴川といいます」
目の前の男性はハルにそう自己紹介してから、ゆっくりとお辞儀をした。ハルの両親よりもずっと年上に見えた。頭のてっぺんは薄くなっていて、口元には、ひげが丁寧に切りそろえられた状態でたくわえられていた。老紳士、という言葉がしっくりくるいでたちだった。手元には新品のノートがあって、おそらくハルのためにそれを用意したのだろう、ということが一目でわかった。
「井川ハルです。よろしくお願いします」
お辞儀をしながら、つい、ハルは居住まいを正してしまった。かしこまらなくても大丈夫ですよ、と、鈴川に微笑みながら言われてしまった。
「まず……先月の説明と繰り返しになりますが、いいですか?」
「はい」
「あ……その前に。井川さんのことは、何とお呼びするのが一番いいですか?」
「ハルでいいです」
「分かりました。ではハルさん」
そこで一度、鈴川は咳払いをした。
「前回ここにいらしてから今日ここに来るまで、何か気づいたことや、悩んだこと、困ったことや、話しておきたいことがあれば、なんでも言ってください。もし、そういうものが特になかったら、何もなしでも結構です」
はい、とハルは答えた。
「必要に応じて、私は記録を確認したり、また、記録をすることがあります。もし私の胸の内にとどめておいてほしいことがあったら、それも言ってください。そうしてくれれば、私は何も記録しません。もちろん、記録をとる、取らないにかかわらず、話してくれたことを、この部屋の外に持ち出したりもしません」
もう一度、はい、とハルは答えた。年輪のように刻まれた皺の奥にある、鈴川の目を、ハルは見ていた。
「ありがとう。……ではあらためて、ハルさん、この一か月はどうでしたか?」
投げかけられて、ハルは二、三分ほど思案した。施術を受けた日、それからの生活、今日ここに来るまでの道のり。記憶の頭出しをして、二十倍速で再生していく。
「スカート」
ふいに言葉が漏れた。
「スカートを、この間初めて穿きました」
鈴川は頷きながら、その視線をノートからハルに移した。
「初めてだったんですね」
「そうです。スカート自体は、体験を始める前に、レンと……友達と遊びにショッピングセンターへ行ったときに買ってて。……別に今どき、男子でスカート穿いてるのもいたはいたんですけど、でも、僕はそれが初めてのスカートでした」
そうだったんですね、と鈴川は相槌を打った。
「スカートを穿いてみて、どういう気分になったか、聞いても大丈夫ですか?」
鈴川は、慎重にハルに訊ねた。
「……ユニセックスのやつだったので、気色悪いとか、そういうのはありませんでした。想像よりも動きやすい感じがありました。総じて言うと、悪くはなかったです」
ハルの言葉を聞きながら、鈴川は軽く頷いていた。それを確認して、ハルは言葉をつづけた。
「ただ、くるぶし丈のスカートで、想像よりはそうでもなかったんですけど……すこし、心許ない感じがありました。ずっと」
「心許ない」
「はい。なんていうか、守られてない感じがありました」
「ありがとう……記録しても大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
ハルの答えを聞いてから、鈴川はノートを開き、メモを始めた。ペン先が紙をなぞる音が、カウンセリング室に響いた。
「……あ。あと」
記録中、ハルはふと、思い出したように言葉を漏らした。
「月経薬、飲みました。昨日、初めて」
鈴川の手が止まった。そのままノートを脇にどけて、視線をハルのほうへ向けなおす。
「私が聞いても大丈夫ですか?」
落ち着いた声で、鈴川は訊ねた。先ほどよりも幾分か、地盤のしっかりした声色になっていた。
「大丈夫です。気にしません。記録もしてもらっていいです」
ハルは鈴川の目を見て、そう返した。
「分かりました。でも、無理はしないで、言える範囲で大丈夫ですから」
「はい」
「ありがとう。……それで、どうでしたか?」
「飲む前は、ずっと、気分が悪い感じがありました。飲んだ日の前の晩に始まったんですけど、体も、感情も、何というか、正しい位置がわからない感じがあって。お腹のあたりもじんわり痛いし。それで、夜中に起きてしまって」
そこまで言って、ハルは一度、ひといき置いた。
「水でも飲んでやり過ごそうと思って台所に行ったら、ナツさん……僕の親が、物音に気付いて起きてきてて、すぐに薬箱から錠剤を取り出してくれて。それを貰って、飲んで、しばらくしたら、眠れました」
ハルは一呼吸置いた。そしてまた、言葉をつづけた。
「……人や時期によって『波』がちがう、って、どこかで見たんですけど、本当にそうだとしたら、これを乗りこなしてる人はすごいな、と、素直にそう思いました」
「話してくれてありがとう」
話し切った後、ひと呼吸おいてから、鈴川はハルに声をかけた。凍える人にそっと毛布をかけるような、そういう言い方だった。それから、記録しても大丈夫か、と改めて念押しして、ハルがうなずいた後に、記録を再開した。
3.
「ほかに、なにか話したいことはありますか?」
記録がひと段落して、鈴川はあらためて、ハルに問いかけた。ハルは少し思案した後、話せる範囲でいいんですけど、と前置きして、鈴川に問いを投げた。
「鈴川先生のところには、どんな『体験者』が来ますか? みんなどんな風に、この体験期間をとらえてるんでしょう」
鈴川は、なるほど、とつぶやくように言ったあと、いっとき顎に手を当てて無言になった。それからしばらくして、非常に慎重に、言葉を選んだ。
「ほかの『体験者』の方の個別の状況はお話しできませんが、あくまで一般論としてなら」
鈴川はそう前置きして、ソファに深く座りなおした。
「でもその前に。どうしてそれが気になったんですか?」
「僕の友達で。三日早く女性を体験してるやつがいるんですけど。その友達はすごく『なじんでる』感じがあって。それで焦ってる、というわけじゃないんですけど、そういうふうにできる人間もいるんだな、って、すこし感心したんです」
「それで」
鈴川が言葉を挟んだ。
「はい。みんなこの期間をどう考えてるのかな、って。気になりました」
わかりました、と言って、鈴川はすこし息を吐いた、
「……あくまで一般的には。ここにいらっしゃる方には、次のみっつのパターンのいずれかに当てはまる方が多い。ひとつは、不安感を持て余している方。自分がこの先どうなっていくのか、どうすべきか、五里霧中になっている方」
鈴川は一拍置いた。自分の指先を見ていた。
「ふたつめは、非常に積極的な方。これが本当の自分だったんだ、と言ってはばからないような方」
ハルは真剣に、鈴川の話を聞いていた。変わらず優しげな鈴川の声に、今はどこか鉛のような鈍さを感じた。
「みっつめは、この体験期間をつよく嫌がる方。とにかくこの時間を早く終わらせたい、元に戻りたい、逃げ出したい……そういう風に追い詰められている方」
もちろん、例外的な方はたくさんいらっしゃいますが、と、そこまで言って、鈴川は話を締めくくった。
「これで回答になりましたか?」
鈴川はハルに訊ねた。先ほどの、鉛のような鈍さは、すでに失せていた。
「ありがとうございます。十分です」
そう言ってお辞儀をするハルを眺めながら、鈴川はもうひとつだけ、付け加えた。
「私の所見を述べるなら、今のところ、ハルさんは先ほどのどのパターンにも属さない、と私は思います。強いて言うなら少しご不安があるようにも見えますが、あくまで常識の範囲内で、強い不安を感じているご様子ではない」
ハルは上体を起こして、鈴川を見た。
「ハルさんは今この期間を、とても俯瞰して見ようとしていらっしゃる。それは悪いことではないように思います。そのようなことができる方は、そういらっしゃらない」
鈴川は今一度ハルの目を見た。羽毛のようにやわらかな声色だ、とハルは感じた。
「けれど、俯瞰することにこだわりすぎないほうがいいかもしれません。視界を広げすぎると、自分の中にある大事なものを、取りこぼすときがあります」
4.
カウンセリング室を出た。受付で来月の予約をして、資格証を返却してもらい、センターを退出する。エレベーターに乗ると、他のフロアで仕事をしているのであろうサラリーマンが、口元に手をあててどこかと電話していた。
ビルを出る。街には西日がおり始めていて、向かいの建物の群れが窓をぎらつかせていた。
ハルは帰りのバスの到着時刻を確認した。次のバスが来るまでは、まだ三十分ほどあった。あたりを見回しても時間をつぶせそうなところはなかったので、ハルは少し、げんなりしてしまった。