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1.

 四月三日。明日はハルの誕生日だった。ハルは明日十九になる。洗面台で顔を洗い、鏡でじっと自分の顔をみる。

 普通の、どこにでもいる、大人になりかけている男子の顔だ。けれどその顔は、あした、違う顔になる。かもしれない。


 この国には、決まりがある。この国すべての男女は十九歳から一年間、別の性を過ごさなければならない。そして、一年の体験期間を経て二十歳になったときに、性別を戻すか、戻さないかを選べる。最後、それらを経て二十五歳になったら、最終的にどちらの性を歩むかを選択できる。いつからか、そういう国になった。多分、ハルの親の世代くらいまでは、だいたいの人間が自分とは別の性別を「体験」している。


 電動シェーバーの電源を入れる。姉のアキが体験期間中に使っていた電動シェーバーを、ハルはおさがりで使っていた。

「おはよう」

洗面所にアキが入ってきた。

「おはよう」

 うっすら生えたひげを剃りきって、ハルは答えた。

「あした?」

「一応。役所で手続きして、予約通りなら、って、ナツさんは言ってた」

 ナツとは、ハルの親のうち片方のことである。彼女はアキの母親で、ハルの父親だ。

 もう片方はフユといって、彼女はハルの母親で、アキの父親だ。

 面倒なことに今はどちらも女性なので、ハルもアキも「お父さん、お母さん」とは言わない。ナツのことはナツさんというし、フユのことはフユさんという。

 この家族にとって、それは昔からずっとそうだった。これからも多分、そういうことになる。

「不安?」

 アキが訊ねる。

「不安というか、実感ない。なんか、ぼんやりしてる」

「わかる。私もそうだったし。……まあ、なるようになるよ」

「そういうもん?」

「そういうもん」


 洗面所を出て居間に行くと、フユがそわそわしながらハルを見てた。

「ハルちゃん」

「おはよう、フユさん」

「ハルちゃん、がんばろうね」

 フユは気合が入っていた。ハルよりもずっとだ。

「頑張る必要って、あるの?」

「ないよ。全然ない」

 食卓のほうから、ナツの声がした。

「行って、手続して、あとは寝てたら性別変わってるだけだから。そんだけ」

 言って、ナツはコーヒーを一口飲んだ。

「そんなぁ、そういう簡単なことでもないでしょ」

 フユは、この家の一番の最年長だが、どうにもいちばん子犬っぽい。

「フユさん朝からはしゃぎすぎ。ハルかたまってるじゃん。ほらハル、朝ごはん食べよ」

「……ああ、うん」

「はしゃいでないです」

 フユはぶうたれた。食卓で、ナツはくっくと笑っていた。


 義務期間開始からの一週間と義務期間修了までの一週間は休暇に充てられる。家庭や学校、職場事情や日程の都合などで調整される場合もあるが、原則としてはそうなる。

 ハルが行く大学は後期からの入学ができたので、ハルはそうした。制度が始まってから、昔よりもそういう大学が増えた、と、社会の授業でハルは習った。

「今日、なにすんの?」

 遅めの朝食が済んで昼前ごろ、アキがハルに訊ねた。

「レンと会う。遊ぶ」

 履きなれたスニーカーを手に取りながらレンは答えた。

「レンちゃんって、もう女の子なんだっけ」

 フユが訊ねる。

「そうだよ。俺が明日そうなんだからさ」

 レンはハルの幼馴染で、三月から義務期間に突入している。学年で言えばひとつ上だが、ひと月違いなのであまり年上という気がしない。

「夕飯、どうする」

 台所のほうからナツの声がした。食べる、と答えてハルは玄関へむかった。

「行ってきます」

 十八の、まだ青さの残る声が、家の廊下を通り抜けていった。


2.

 四月頭の土曜日だった。団地の並木は桜が咲き始めていて、あと一週間もすれば花見日和という感じだった。

 ハルが団地の階段を下りていると、踊り場でばったりと女性に会った。

 ハルは、一拍か二拍か、それが誰なのか理解するのに時間がかかった。

「あ、レンか」

「おそい」

 レンは言った。声は、かすれるような、上ずったような感じに聞こえた。ハルはそれも、まだ慣れていなかった。ハルは腕時計を確認して「いや、お前が早すぎだろ」と言った。レンも時計をみて、確かに、と言った。二人の間ではよくある光景だった。

「今日、どこ行こうか」

 ハルが訊ねた。

「ボーリング……は、ちょっと今、体力自身ないし、カラオケ……も、今のどがこんなだしなあ」

 レンは少し思案して、それから、買い物いこう、と言った。

「買い物」

「そ」

「服とか?」

「そんなかんじ」

 ハルは目をつむって天を仰いだ。

「どうした?お金ないなら見るだけでもいいし」

「……レン。俺、明日から、十九」

 聞いて、レンは、あ、という顔をした。そういう顔をして、結局、まあ、見るだけでもいいし、と繰り返すのだった。


3.

 土曜日のショッピングセンターは、いつの時間もうっすらと人が多い。行きたい場所もやるべきことも大して見つからなかった人たちが、世の中には案外多い、ということを、理解することができる。人生は死ぬまでの長い暇つぶし。インターネットのどこかで見かけた言葉を、ハルはふと思い出した。

 ハルとレンは、衣料品売り場の「十九歳おめでとう」コーナーにいた。所謂義務期間を開始した人向けのコーナーで、下着からアウターまで、派手すぎず、機能性を重視したものがそろえられている。

 レンはスカートのコーナーで、色や形状、素材なんかをつぶさに確認しながら、それなりの時間吟味していた。

「スカート買うの」

「一枚くらいは持っておきたいんだよね」

 視線をスカートに置いたまま、レンは答えた。今どきは男子でもスカートを穿くことは当然あるし、高校でも何人か見かけることはあったが、ハルもレンも、まだそれをしたことがなかった。

「これとかどう?」

 陳列の中から一枚、レンは取り上げた。すこしくすんだグレーの、ひざ下丈のスカートだった。

「……ちょっと年寄りくさい」

「たしかに」

 ハルのコメントを素直に受け取って、陳列に戻す。そういうやり取りを何度かやった。何度かやって、最後に一枚、レンは初めて買うスカートを決めた。最初に手に取ったものよりも幾分か明るい、うすいグレーのAラインのスカートだった。

 悪くない、というのが、ハルの感想だった。今のレンの体に、すっとなじむような感じがあった。その感覚がどこからくるものなのか、ハルにはまだ判断することができなかったが、とにかくそう思った。

 スカートを片手にかけて、二人はレジへ向かった。けれど道中、ふいにレンが立ち止まった。丈の長いアコーディオンスカートが、色ごとに整然と並んでいた。

 その真ん中あたり、深い緑色のスカートを、レンはじっと見ていた。それから、視線をハルのほうにやった。

「……おごらんぞ」

「や、ちがくて」

 レンはそのスカートを手に取って、そのままハルにそれをあてがった。

「なに」

「似合うな、と」

 ハルは、レンからそのスカートを受け取った。柱が鏡になっていたので、そのままハルはそこに自分の姿を映した。

 短めの髪と、ゆったりしたシルエットのスウェット。その下に、深緑のプリーツスカート。ハルは、どうにも焦点が合わなかった。似合う、とか、似合わない、とかを、考える以前の問題だった。

「ていうか、今合わせても意味なくないか」

 ハルは言った。

「別にいいじゃん。それフリーサイズだし、腰のとこゴムだし。なんかウエストも結構調整できるみたいだよ」

 言われて、ハルは腰のあたりに目を落とした。優しく引っ張ると、確かに伸縮性は良さそうだった。鳩目も五つくらい並んでいて、今より多少腰が細くなっても使えそうな雰囲気がある。

「それに」

 ハルが何か言いかけたところで、レンは付け加えるように言葉を挟んだ。

「ハルってなんか、女になってもあんまり見た目変わらなそうだし。今似合うなら、まあ似合うんじゃないかな」

「……それは、俺が暗に子供っぽい見た目だって言いたいんだな」

 レンは笑った。ハルは片足で、レンを小突いた。


4.

 ハルが帰宅したのは、十七時を少し過ぎたあたりだった。買い物の後、フードコートで腹ごなしをして、併設されているゲームセンターで少し遊び、それからすぐ帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり。……なんか買ったの」

 アキは、ショッピングセンターの紙袋に目をやり、訊ねた。

「うん」

「何」

「スカート」

 アキは一瞬、止まった。予想していない答えだった。

「え、ハルちゃんスカート買ったの」

 台所のほうからフユの声がした。フユはこういうときだけ耳が良かった。

「ねえどんなの買ったの。私にも見せてよ」

 一息でかけつけてきたフユは、おだしの香りを漂わせていた。火から離れちゃ危ないでしょ、とアキはたしなめたが、ナツくんが見てくれてるだろうから大丈夫、とフユはあけすけなく返した。

「女になったら着せて見せるから」

「今でもいいじゃん。ユニセックスのやつなんでしょ」

「フユさん」

 アキが少し語気を強めると、フユはしゅんとした。しゅんとして、はあいと力なく言って、台所に戻った。はしゃぎすぎて、叱られて、しょげてとぼとぼ帰る犬。まさにそういう感じで、ハルとアキは少し笑いそうになった。

「……まあ、ハルなりに考えて買ったんでしょ。あんたって、ずっと考えてるタイプだから」

「まあ、そう。あと、レンが似合うって言ったし。そういうのは、レンのほうが目が利く」

「信頼してるねえ」

「十年友達やってればね」

 アキはそのまま、お風呂もう沸いてるから先に入っておいで、と言って居間に戻っていった。ハルは、分かった、と返して、自分の部屋に戻った。

 カバンかけにカバンをかけ、ベッドに腰かけて、ハルは紙袋に手を突っ込み、中身のスカートを持ち上げた。

 スカートは通気性のよいであろう素材でできていた。蛍光灯の灯りが、生地を通り越してハルの目を焼いた。揺らすと、裾がひらりと揺れた。

 世の中にはわからないものがたくさんある、ということを、ハルは理解している。歳を重ねてゆけば、それは少しずつ少なくなっていくだろう、と、これまでのハルは考えていた。

 けれどハルは、本当はそうじゃない、ということを、今日少しだけ知った。わからないことは増える。気づいてない「わからないこと」も、たくさんある。

 ハルはひとつ息を吐いた。紙袋から、一緒に購入したスカート用のハンガーのラベルをはがして、スカートにあてがい、クローゼットにかけた。腕時計を外し、部屋を出て、それからハルは、風呂場へ向かった。