第7〜9回
環オホーツク海域〜北海道・サハリン・極東ロシア〜の先住民族の体験から
「国民国家」を見つめ直す
概要
開催日:2023年2〜3月(全3回に分けて開催)
課題本:著:テッサ・モーリス=鈴木、訳:大川正彦『辺境から眺める アイヌが経験する近代』(初版2000年、新装版2022年、みすず書房)
参加者:K、Y、薪、アズシク
内容:北海道だけでなく、シベリアの諸民族やサハリン、千島列島も含めたアイヌの歴史を学ぶ
選書担当:アズシク
議事録作成担当:薪、アズシク
標題作成:K
選書の理由
北海道アイヌだけでなく、サハリンアイヌの歴史も学びたかったため
筆者が女性のため
アイヌや和人以外の研究者の視点からも学ぶため
感想
※今回は少し難しい本だったので、全3回に分けて実施しました。そのため感想も第1〜3回に分けてあります。
【第1回】
序 辺境から眺める
第1章 フロンティアを創造する——日本極北における国境、アイデンティティ、歴史
第2章 歴史のもうひとつの風景
エピステーメとテクネーとはどういう意味なのか?
エピステーメ:近代西洋の知識体系、専門的
テクネー:その他、とりわけアジアのもの
経験的、実践的
専門的ではなく全体的
個人の知識(たとえば長老のような人のもの)
暗示として伝えるもの
神話、伝承、占い
アイヌの物語
オホーツク海域の小社会の考え方は、西洋的な考え方では説明できない。
「龍は蛇か竹としてきっちりと分類されるべきであろう」とはどういう意味なのか?
中国の科学思想は、近代の合理性概念と完全には一致しないかもしれない。近代西洋文明思想(合理性概念)に基づけば「龍は蛇か竹としてきっちり分類されるべき」と考えるのかもしれないが、中国の科学思想では「きっちり分類」しない。
しかし、中国の科学思想が「エピステーメ」的であるのは間違いない。
p20 プキーヨンが日本の民族誌学者に語った物語
インフルエンザがロシア人女性の姿で現れる。人のいないほう(ツンドラの途)を教えたことで、インフルエンザが流行しなかった、という話。
「ロシア人が感冒を連れてくる」「病気が流行ったら病気を連れてくる人を遠ざけよう」という教訓を伝える。煙草とロシア人とインフルエンザが結びついている。
人間が狡猾に振る舞えば出し抜くことができるものと理解された。
p24 ダニエル・マトの「事例研究」アプローチへの批判
「グローバルエージェントを啓蒙する方向で機能してしまい、(……)『地域』のエージェントに情報を与えてゆくという方向では機能していない」とは具体的にどういうことか?グローバル企業は「先住民社会の研究方法として普及している『事例研究』アプローチ」を活用できたけれど、地元企業や地元の団体は活用できなかった。
p50「色丹に移住させられた北クリルの人びと」という写真にはどんな意味がある?
衣服(帽子など)がロシア人っぽい。
金カムサハリン編のスヴェトラーナを思い出した。
左の黒い服の男性たちはヨーロッパ的な服装をしている。ぱっと見ではアイヌに見えない。
髪型は和人の強制に従ったものの、髭は残ったという例。「同化」がうまくいかなかった例として痛快だった。
ナチス・ドイツでアイヌ研究が流行した(短期間だけ)。「日本人の祖先はコーカサス系である」という想定に基づいていた。
p54 サハリンアイヌの犬の飼育は「農業」である(他の地域の牛やラクダ同様)
犬を食べることもあるとは意外だった。
犬が鮭をとる話も面白かった。本能ではなく訓練でそこまでできるようになるほど、賢いのか。
本能ではなく熊ほど大きくもない犬でもとれるくらい、たくさん鮭がいた、ということでもあるのではないか。
アイヌは農業を営んでいた。
20年前刊行の本書にも記載があるのに、この史実はまだ一般的な見解として定着していないのではないか。これまでこの読書会で読んできた本にも、あまり出てこなかった印象がある。
学問分野ごとに専門家がいて、各分野間で情報共有される機会は少ないのではないか。
言語学の研究者(中川裕)が、歴史についても書いている現状がある。
本書の著者は日本研究が専門。レイシズムや、北朝鮮の帰国事業についての著書もある。
p85 グローバルシステムに組み込まれることによる小社会への影響
組み込まれることによって農耕や金属加工が失われてしまい、逆に狩猟に特化させられていく。ここが重要な点。
これが20年前の本だというのがすごい。とても重要な問いかけ。我々が今まで読んだ本には、本書の議論が反映されていないのではないか。
当時の和人も北海道や東北で焼き畑をしていた。
和人もやっていることをアイヌもやっているのに、「遅れている」とみなされがち。進んでいると思われているものを中心に、都合よく考えてしまう。
北海道やサハリン、シベリアはロシアから押しやられている。しかし、そのロシアもまたヨーロッパから……と、ところてんのように押しやられている。
チュッチェフの「知にてロシアはわかりえず」の詩のように、ロシアも「西洋文明では我々のことを理解できない」と自認していた。
著者もオーストラリアの人である。
p75 結婚はいろんな地域の人とする
アシㇼパさんのフチの親戚が北海道各地にたくさんいた、という設定を思い出した。いろんな地域の人と結婚することで協力する。
チカパシがサハリンに残るのも、ありえた話。彼は家族を亡くしてしまっていた。
p82 針が貴重だった
金カムサハリン編にもあった。
毛皮のエピソードや犬のエピソード
サハリンでエノノカたちの犬が盗まれた話。彼らにとって、犬がどれだけ大切だったか。
犬を飼育しているのは「遅れている」のではない。それは西洋近代優位の考え方。
「未開の人」という差別の再生産。
序章は歴史そのものについて書かれていて、メタな感じで面白かった。
これだけ字数を割くと、被害は被害として書きつつも、なにもかもやられっぱなしだったわけじゃない、というように尊厳を持たせながら書くこともできるのかと感動した。
翻訳がすごい。訳すのは大変だったと思う
余計な文がない。一言一句確認して訳しているのだろう。一文一文が重い。
著者のテッサ・モーリス・鈴木は慰安婦問題も論じていたことがあった
アイヌや北東アジアのエスニックマイノリティ史が特に専門というわけではない。
【第2回】
第3章 民族誌学(エスノグラフィ)の眼をとおして
第4章 国民、近代、先住民族
p91の「係累(インプリケーション)」とはどういう意味?
調べたら、同じ著者の別の本で詳しく説明されているらしい。内容をブログで書いてくれていた人がいた。→https://note.com/dokushok/n/nb9d4f8236fbc
「係累」の意味は「つなぎ縛ること」など。著者独自の使い方。他の本では「連累」と訳されていたらしい。
この言葉にすごく感動した。現代の人間である自分たちには、過去の植民地政策の責任があるわけではないけど、日本が過去に植民地を得た恩恵(例えば北海道で生産される食料)は今でも享受している。そういう責任の「ある」「なし」の中間を表現するような言葉があると知ることができて良かった。
自分自身とロシア・日本のオリエンタリズム
自分は大学の専攻が日本語・日本文化学類だった。本当は比較文化を学びたかったので、そこでアイヌについて研究した。だから率直に言うと自分の動機もオリエンタリズムと言える。第二外国語ではロシア語を選択したが、それもロシアがアイヌの記録・研究をしていたから。
アイヌ民族の衣類や工芸品は、ロシアでは当時首都だったペテルブルクや、シベリアの各都市の博物館で保存されている。様々な民族の文化を研究し、保存しようという動きの中で、アイヌもその対象となっている。一方、日本の東京国立博物館に保存されているアイヌの衣服は、明治時代にアイヌを東京に「留学」させて和人式の生活をさせる際、彼らが着てきた衣服を収容したもの。そのため、日本もロシアも、ヨーロッパ中心の近代化の波において「周辺国」となった訳だが、アイヌ文化に対する態度が真逆といえるほど異なっていると思っていた。しかし、本書を読んで、日露の研究者が限られた資料を翻訳しあい、お互いに参照することによって、似通ったアイヌのイメージを形成していった過程を築いてきたことを知った。
サブタイトルは「アイヌが経験する近代」だが…
サブタイトルと違い、中身はアイヌに限った本ではない。北方民族全体の話。日本とロシアの侵略によって北方民族がどういう経験をしていったのか。
原書では、第一章が英語論文、第五章はみすずに連載されたもの、第六章は英語論文、終章は『みすず』に掲載されたものとのこと。他は書き下ろし。この3〜4章は特にアイヌの話じゃない。
それをもっとタイトルに含める方法もあったのでは。帯は「日本とロシアは、アイヌなどの先住民族をどのように国家に組み込んできたのか。辺境という視座からの試み。」となっている。アイヌと限定する本ではない。
この本の初版は2000年。タイトルを「先住民族が経験する近代」にできなかったのは、アイヌを先住民族と決めたのは2019年だからなのでは。研究者は「先住民族」としていたが、国は「少数民族」と捉えていた。アイヌを先住民族とするだけでも物議を醸していた時代があった。
ソ連と日本の民族政策の違い
社会主義は「民族を超えてみんな平等に団結する」。民族らしい暮らしは許容するが、社会主義の生活が規範。
一方、大日本帝国は五族協和。でもアイヌは「もともと入っている」というくくり。和人扱いで「同化」させ、「未開」だから「進歩」させる。みんな一緒だよ、でもこいつらは違うんだよ、という両方のメッセージを常に持っている。大日本帝国の中で、同化させる存在とそうじゃない存在がある。ダブスタ!
どちらが良い悪いではない。日本とロシア・ソ連。プロセスは違うけれど結局同じ結果に至った。学校を都市に集中させたり、学校に通う子どもたちの親の言語や文化から引き離したりするなど。
アイヌ・ウイルタ・ニヴフは同じひとつの北方の生態系の中で暮らしつつ、同時に別々の位置を占め、シベリア大陸の近隣共同体とも交流があった。こういう歴史があるから金カムのサハリン編は本当に良かった…サハリンと北海道の繋がりが視覚的に・物語的に認識できる。
サハリンに作られたソ連の全寮制学校。先住民族の伝統の継承が途絶えた。ソ連末期、学校の大規模集中化が進むと、食事の用意や衣服の用意、洗濯までも子どもたちは自分でする必要がなくなり、自分の世話にまるで関心をもたない若い世代をつくってしまった。…というくだり。
保守派がよく言う「社会主義は家族を破壊する」という意見は極端な偏見だと思っていた。たしかに社会主義はケアを家庭ではなく国家が引き受けるようになるシステムだけど、「伝統的な家族が破壊される」ことは「先住民族の伝統も破壊される」ことなのだと考えたことはなかった。実際、家庭という単位が失われることでこういう弊害もあったのだと勉強になった。ただ、だからといって「やっぱり家族が大事🥺」とは思わないけど。子どもを寮に預けたことでソ連女性は解放された部分もあるだろうし。未来は、それぞれのシステムの間違いを認識したうえで次にどう繋げていくか。
先住民族に限らず、日本の過疎化でも似たようなことが言えるかもしれない。地方から人が減ることで、地元の伝統が廃れてしまう。しかし、だからといって「伝統だけでもお金を出して残そう」となる(政治がお金を出す)と、政治にとって都合の良いものしか残らなくなる。
でも、「じゃあ国家がなければいいか」とはならない。それはそれで切り捨てられてしまう人が増えてしまう。
日本もソ連も、支配しようとして上手く行ってない感じが面白かった。シベリアやサハリンに近代的な住宅を建てたのに上手くいかなかった話とか。セントラルヒーティングのような、生活を快適にする設備はあってもうまくいかなかった。サステナブルにずっと続いてきた先住民族の暮らしから謙虚に学ぶべき。
【第3回】
第5章 他者性への道——20世紀日本におけるアイヌとアイデンティティ・ポリティクス
第6章 集合的記憶、集合的忘却——先住民族、シティズンシップ、国際共同体
終章 サハリンを回想する
アイヌのことだけじゃなく「アイデンティティとは」という話だった。民族的アイデンティティというものについてこれだけ考えないと状況の複雑さは読み解けないんだなと思った。
フロックコートやモーニングコートを着ることが日本人化というダブスタ、近代化=日本人化という矛盾。「進歩する日本人」という国民的アイデンティティ。こういう矛盾を「矛盾してる」で終わらせなかったのがこの著者の誠実なところだと思った。自分だったら「矛盾してるな」だけで終わってしまうけど、著者はそこから「未来に続く」というアイデンティティを考えた。
ここにいる4人は全員和人だけど、「日本人」のアイデンティティはどれくらい強い?
自分は日本人であると強く思ったことはないけれど、日本人であることを疑ったことはない。
日本から離れて留学した際には、自分が日本人だと強く意識することが多かった。
それでいうと、アイヌは常に「留学してる」感覚なのかもしれない。
日本人としてのアイデンティティはないが、自分の地元へのアイデンティティはある。
天皇制、家父長制というファンタジーを基盤に据えた「日本すごい」という幻想と、それに基づく「日本人」というアイデンティティ。それと地元愛は違うと捉えていいのでは?
とはいえ自分の場合は地元愛(北海道愛)がアイヌを抑圧・差別してしまう。素朴な郷土愛だと思っていた感情が実は他者を傷つけていたのだと、この会で勉強して学んだ。
自分の地元、東北地方でも太平洋側と日本海側、海側と内陸側で経験は違う。東北とまとめられがちだけど。
関根政美氏の「文化は生活そのものを示すもので、民族衣装や料理などのみを示すわけではない」(162頁)のくだりは金カムの作者にも読んでほしいと思った。
1930年当時は、アイヌのアイデンティティは「文化」ではなく「人種」や「歴史」の観点から提示されていた。しかし、戦後は人種のレトリックから文化へのレトリックへと転換した、という部分。アシㇼパさんの時代に「文化を守ろう」という姿勢が出てきたのはやっぱり歴史とは違うんだなと思った。フィクションだから史実と違うのは当たり前ではある(金カム世界はあくまでも実際の人物をモデルにした並行社会)けれど、あそこは現実社会とリンクさせた展開だったのでこの部分の歴史修正は良くない。
日本国民としての同化を強制されればされるほど、和人と自分たちアイヌの違いやアイデンティティを意識する力学が生まれる、というくだり。地元愛がエスニックアイデンティティになるときの要因は、政府から同化政策を強制されること。それに抵抗なく同化できる人がマジョリティ。自分のなかでしっくりきたし、今までになかった考えだなと思った。それが地元愛とエスニックアイデンティティの違いだと思った。
シティズンシップについての話、いきなり出てきた印象
3つの基本要素:市民的・政治的・社会的
日本だとあまり区別しない?
p204 形式的なシティズンシップのくだり。色んな意味を含んでいる。
日本ではどれもふんわりした意味で、どれもないような気もするし、区別もできていない、そもそも意味も理解できていないのではないか。
オーストラリアやシベリアの話。それぞれに経緯や歴史がある。
「侵略した側」と「された側」が同じ国に生きている状況もある。そのような国では、なんとか両方のアイデンティティを統合しようとしている?(例:オセアニアの国々)
p206 「先住民族を定義する特性とは、実のところ、外から侵入する住民によって収奪されている状態にほかならない。」
「それに当てはまらないじゃないか」といわれてしまう状況があるが、それこそが、先住民を先住民たらしめている。
サブタイトル
読書会のまとめとして、『辺境から眺める』に続くサブタイトルをそれぞれが考えてみました。同じ本を読んでも、出てくる感想は人それぞれです。自分はこの本をどのように読んだのか?を一言で表現して残すために、このような取り組みをしています。
①辺境から眺め、見つめ直す 国民国家の歴史観とアイデンティティ
②辺境こそ、国民と国家、歴史とアイデンティティを見つめ直す旅の出発点
③二十年経っても古びない必読の一冊
④知的で誠実な思索の旅へ(Y)
「環オホーツク海域の先住民族と国民国家」(K)
「北海道・サハリン・極東ロシアの先住民史」(アズシク)
「複雑なことは複雑なまま、それでも語ることを諦めない」(薪)