田中寿美子略年譜

TANAKA Sumiko(1909-1995)

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田中寿美子の足跡.pptx

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<参照>

記録集「田中寿美子の足跡に学ぶ~女性と政治のこれまで、これから」

吉田健二「東京政治経済研究所の設立と事業-戦前期の一社会科学研究所」(大原社会問題研究所雑誌,No.479,1998年10月)

女性就労支援バックアップナビ内「女性就労の歴史」より行政資料検索サイト:旧・労働省婦人少年局発行資料のデジタルアーカイブを含む

1909(明治42)

12月20日 父西島良爾・母千代の三女として、神戸に生まれる。父は中国語に堪能で裁判官の通訳官を務めるほか、新聞雑誌の編集を通じて日中交流の懸け橋となっていた。


1922(大正11)

神戸市中宮小学校卒業後、兵庫県立神戸第一高等女学校入学。


1924(大正13)

 父の死により上京、私立小石川高等女学校(現・文華女子中学校・高等学校)に転入、1926年卒業。


1927(昭和2)

女子英学塾(現・津田塾大学)入学。1931年に卒業。在学中に山川菊栄氏に師事。

狩野弘子のペンネームで翻訳を始める。


1931(昭和6)

日中戦争回避を目的として前年に設立され、国際政治を調査研究する東京政治経済研究所(同人代表・蝋山政道)に助手として入所。そこで田中稔男氏と知り合い、結婚。三女をもうける。


1940(昭和15)

私立小石川高等女学校に教諭として就職。


1944(昭和19)

戦争の激化により、夫の実家のある熊本県に疎開。


1946(昭和21)

夫の田中稔男、復員。翌年の第2回衆議院選挙で社会党から福岡県3区に立候補し当選する。これにより一家は東京へ移住。


1948(昭和23)

労働省婦人少年局(前年9月労働省設置とともに発足・局長山川菊栄)の嘱託として入局。

労働省婦人少年局発行「婦人の重量物取扱い作業」(海外婦人労働資料第1号)を署名翻訳。


1950(昭和25)

高級公務員試験に合格し、労働省婦人少年局婦人課長に就任。女性の労働問題、地位向上など民主的婦人行政にたずさわる。婦人課には、森山真弓、赤松良子、高橋展子といった面々がそろっていた。


1954(昭和29)

ハーバード大学夏季国際セミナーに参加。引き続きブリンマー大学特別研究生として社会学・文化人類学を研究。


1955(昭和30)

帰国後、社会党に入党。労働省を退職して著述・講演など社会評論活動にはいる。


1956(昭和31)

『婦人のこえ』2月号・憲法特集号に最初の記事「憲法の保障する社会的権利」を執筆。

売春防止法制定。社会党法案作成など法制定に尽力。


1960年

6月、『婦人のこえ』編集委員に加わる。


1961(昭和36)

第1回アジア・アフリカ婦人会議(カイロ,1月12日~14日)で基調報告。


1962(昭和37)

山川菊栄とともに婦人問題懇話会を設立。

松岡洋子、羽仁説子、深尾須磨子らとともに日本婦人会議(現・I 女性会議・あいじょせいかいぎ)を結成。初代議長に就任し、1975年まで務めた。


1965(昭和40)

社会党より参議院全国区に出馬し第4位(社会党内では1位)で当選。

予算委員会で、国立療養所の給食を国会に持ち込み、物価高や政府の施策の改善を要望。


1966(昭和41)

日本婦人会議代表団団長として訪中。


1968(昭和43)

社会党国民生活局長に就任。公害問題に取り組む。


1970(昭和45)

社会党婦人局長に就任。沖縄の売春問題などをとりあげ、沖縄返還運動をすすめる。


1971(昭和46)

参議院全国区選挙で当選(2期目)。


1972(昭和47)

日本婦人会議沖縄婦人問題調査団団長として沖縄訪問。「沖縄の売春問題ととりくむ会」結成(73年に「売春問題ととりくむ会」に発展)。初の社会党婦人活動家として、朝鮮民主主義人民共和国を訪問。日中国交回復・友好をすすめる婦人連絡会結成。


1974(昭和49)

朝鮮女性と連帯する会結成、代表に就任(80年に同「日本連絡会」に発展)。


1977(昭和52)

参議院全国区選挙で当選(3期目)。参議院物価等対策特別委員会に所属。

選挙中、足の打撲でリウマチ性関節炎発病。以来リウマチの痛みと闘いながら、政務と社会活動を続ける。


1978(昭和53)

参議院公害対策及び環境対策特別委員会委員長。

国連婦人の十年推進議員連盟を結成し事務局長。男女雇用平等法案を国会に提出。


1980(昭和55)

社会党中央執行副委員長に就任(女性として初の政党副委員長、委員長は飛鳥田一雄)。日本社会党婦人対策委員会『婦人のための85の政策』刊行。


1981(昭和56)

前年に逝去した山川菊栄の後任として日本婦人問題懇話会代表となる。

「山川菊栄記念会」創立に関わる。


1983(昭和58)

参議院議員を退任。文筆活動にもどる。持病のリウマチ悪化。


1987(昭和62)

札幌に転居。入退院を繰り返しながら療養。


1993(平成5)

夫稔男逝去。


1995(平成7)3月15日

札幌の病院にて逝去(享年85)。