駒野陽子

KOMANO Yoko

長年、公立中学校教員としての共働き育児の経験から、婦人問題懇話会の労働分科会、教育分科会で活動。1983年から事務局長(のち代表世話人)として17年間、各種の企画・運営、会報編集などを献身的に行った。


著書『共働き家庭の育児』(第三文明社、1978年)ほか


■ 懇話会は、戦後十数年を経て六〇年安保改定のあと設立された、女性問題の研究グループである。戦前から女性問題の解決に取り組み、戦後は初代労働省婦人少年局長を経て文筆活動をしていた山川菊栄と、労働省を辞めてやはり評論家活動をしていた田中寿美子が、婦人問題を論ずる場が必要と考え、新しい憲法の下で社会に進出し活躍していた女性たちに設立を呼びかけた。その思いは山川菊栄の起草になる「婦人問題懇話会趣意書」に込められている。そうして、-九六一年九月に設立準備委員会を発足させ、翌一九六二年四月に発会した。(略)

世界的にウーマンリブの運動が広がり、国連は一九六七年に女子差別撤廃宣言を行ない、七五年を「国際婦人年」として世界会議を開催。翌七六年から八五年までを「国連婦人の一〇年」とすることを決めた。田中寿美子は六五年に参議院議員になっており、国際婦人年についての情報を次々と国内に伝えた。会では婦人年をてこに日本の女性問題の解決を図ろうと、いっそう精力的に取り組みを進めた。この間、会報は全巻が国際婦人年事前特集といえるほど多角的に、当時の日本の女性問題をとり上げている。

「婦人の一〇年」期に入ってからは、世界行動計画や女性差別撤廃条約などの国際情報、海外の運動や法律などをいち早く紹介・解説し、国内で取り組むべき運動を提起している。研究団体という性格から、会としては直接運動に関わらないが、研究に裏づけられた理論に支えられて、会員が次々と運動を立ち上げていくので、結果的には「国連婦人の一〇年」の運動の水先案内のような役割を果たしていた。

家庭科の男女共修、民法改正、雇用平等法制定、性別役割分業の撤廃、高齢社会と社会保障、性暴力反対、優生保護法改悪反対、メディアの描く女性像の批判などなど、現在までに展開された多くの女性運動の中には必ず懇話会のメンバーがいた。国会議員から学生まであらゆる人に開かれた懇話会という研究の場で、こうした行動へのパワーとネットワークが紡ぎだされてきたと言っても過言ではあるまい。


<駒野陽子「日本婦人問題懇話会―その活動と果たした役割」『社会変革をめざした女たち』10-11ページ所収>