追悼

井上輝子さん








2015年10月22日、東京内幸町の日本プレスセンター・ラウンジで行われた、懇話会同窓会幹事会にて撮影。

 2021年8月10日に急逝された井上輝子さんを偲びつつ、この追悼頁を加えることにしました。2015年から始まった婦人問題懇話会同窓会幹事の間のグループメールのやりとりでは、活発なご発言が多かった井上さんですが、昨年の山川菊栄シンポジウムでも山川菊栄記念会代表として、リーダーシップを発揮され、このほど記録冊子もできあがったばかりでした。7月に入りメールがっきり途絶えたため、健康を害されたのでは、と心配の声があがっていました。6月27日の井上さんのメールでは、女性学の創始として過去の人のように語られることに対する抵抗感とともに、それに抗うように通史に着手し、前半の原稿を出版社に渡したところであり、寿命を意識するようになった、と書かれていました。遺稿は有斐閣より『日本のフェミニズム-150 年の人と思想』として、年内に刊行される予定とのことです。

 2015年に行われた一橋大学ジェンダー社会科学研究センターによる井上さんへのインタビューで女性学研究の開拓の軌跡が余すところなく述べられています。ここでは、日本婦人問題懇話会会報最終号59号(2002年)に収録された懇話会解散時のスピーチ「女性学への道」とともに、日本の女性学に込められていた井上さんの想いを、永く伝えたいと考えます。

 ご冥福を心からお祈りいたします。

2021年8月


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女性学への道 井上輝子

 七〇年に、千駄ヶ谷の区民会館で初めてのウーマンリブのティーチイン[1]がありました。朝日新聞の小さな記事で知って参加しました。当時、大学の助手をしていていろいろな性差別を経験していたし、結婚した家庭生活の中でも自分なりに理想の家庭像みたいなものにとらわれて、まわりからのプレッシャーを感じていたので、女として生きていくことに非常に個人的に問題を抱えていたからです。

 その時の熱気は、今思い出しても体に迫ってくるようです。そのティーチインの司会者の一人だった樋口恵子さんが、懇話会でリブのお話をなさるというのをまた新聞で知って、行ってみたのが入会のきっかけでした。二八歳の時です[2]

 樋口さんのリブの紹介には「ちょっと私とは違うな」という気がして、恐る恐る感想を述べたんですね。そしたら後で菅谷さんが「あれを会報に書いてみないか」と言ってくださって入会することになったのです。ウーマンリブについて初めて書いた「女のアイデンティティを求めて」[3]は会報に載せていただき、アンソロジーにも収録されています。ウーマンリブを通じてさまざまの方と知り合いましたし、懇話会の女性史分科会では研究の仕方とか文章の書き方とかいろいろな事を学びました。


 分科会で活動しているうちに田中寿美子先生が、菅谷さん、駒野さんとか、亡くなられた原田清子さん、島田とみ子さんなど懇話会の有志の方々に、近代日本の女性史研究会をしないかと声をかけられ、私も仲間に入れていただきました。その研究は七五年に「女性解放の思想と行動」として上下二冊にまとめられ、時事通信社から出版されました。いつも田中先生のお宅に集まってやるこの会も、分科会とはまた違う懐かしい思い出です。


 その頃から私は女性学を始めたわけなのですが、そのきっかけも懇話会にありました。ウイメンズ・スタディという言葉は、七一年に信州で開かれたリブ合宿で、懇話会の会員で朝日新聞記者の松井やよりさんが、アメリカの女性解放運動を取材して報告された時、初めて聞きました。アメリカではリブ運動を女性自身の学問としてウイメンズ・スタディというのが始まっていると聞いて、自分が今まで考えていながら言葉にならなかったことが、ストンと胸に落ちた気がしました。社会学部出身でマスコミ研究をやっていたんですけど、「女性が社会学をやるって、家族社会学か婦人労働問題かい」などと、それ以外に選択肢がないみたいに言われていて、本当に自分が何をやりたいのかはっきりしていなかった私は、ウイメンズ・スタディという言葉を聞いて、初めて「これが私のやりたいことだ」と気づいたので、懇話会で松井さんから更にいろいろ伺いました。七三年に田中先生から「アメリカの国際学会に行くから一緒に来ないか」とお誘いを受けて同行しました[4]。アメリカのいくつかの大学で始まっているウイメンズ・スタディの担当者から伺ったことを元に、賀谷恵美子さんと「アメリカの女性学講座の紹介」[5]を会報に載せていただき、その時初めて「女性学」と訳語をつけたんです。


 それから懇話会で研究の動向に関心のある何人かの方たちに声をかけて、女性社会学研究会というのをつくり、私自身はそれからずっと女性学をやってきたわけですが、懇話会の方々との接触で始まったわけですから、日本の女性学はまさにこの婦人問題懇話会から生まれたのだと思っております。今思いますに、七〇年代以降の女性学は、新しい展開はしておりますが、それまでの日本の婦人問題研究と別のものではありません。女性学は日本の伝統から離れた輸入されたもの、という見方をする人がかなりいるのですが、実はそうではなくて、「女性学」は日本の戦後の女性解放運動や、いわゆる婦人問題研究の新しい展開、第二世代の展開としてあるということ、そして実際問題としては婦人問題懇話会の中で創られていったということを改めて確認したいと思います。とりあえず私は女性学が誕生するまでをお話しいたしました。(『日本婦人問題懇話会会報59号』、2002年)



[1] 1970年11月14日。

[2] 1970年12月26日、私学会館で行われた第4回婦人問題懇話会例会のシンポジウム「ウーマン・リブを考える」。この直後に懇話会に井上さんは入会し、翌年4月3日開催の例会「性の解放とは何か」では、井上さんは社会学の立場から近代資本主義成立以降の明治期から戦後の社会構造と性意識の変化等について解説をした。

[3] 辺輝子「女のアイデンティティ」(婦人問題懇話会会報、14号、1971年)。巻頭論文であり、このときの肩書は「女論研究者」。続けて15号に「ミニコミ・ウーマン・リブの季節ー報道されるリブから主張するリブへー」(1971年)では、1970年10月21日の国際反戦デー前後から始まり、11月のウーマンリブティーチインや1971年8月のリブ合宿について『朝日新聞』を中心とした新聞や新聞社系週刊誌、女性週刊誌に掲載された報道記事を丹念に分析している。私事の身辺から始まる女の問題についての議論が一面にも三面に収まり切れない新聞メディアの限界、スキャンダルとして女たちの集会を扱う週刊誌、海外の事例翻訳や一部活動家だけを取り上げ内在する問題を深めきれない『婦人公論』や『婦人民主新聞』の一方、市民運動体のミニコミに表れた問題提起を見逃さず、女性主体によるメディアの発行とその可能性を展望している。

[4] 当時、社会党参議院議員であった田中寿美子氏は、1973年シカゴで開催の人類学・民俗学学会世界大会に参加する際、井上さんに声をかけアメリカの大学でウィメンズスタティ講座を視察できるよう誘い、それを実現させた(田中寿美子さん追悼のことばより『日本婦人問題懇話会会報』55号、1995年)。この大会は、9th International Congress of Anthropological and Ethnological Sciences (Chicago, 1973),であり、その後、Raphael,Dana, (ed)., Being Female : Reproduction, Power, and Change(1975), Rohlich, Ruby,(ed)., Women cross-culturally : change and challenge, (1976)が出版されている。リブ運動の影響を受けたセッションのあった大会だったことがわかる。

[5] 賀谷恵美子・辺輝子共著「アメリカの諸大学の女性学講座」(『婦人問題懇話会会報』20号、1974年)辺(ほとり)姓での論考は会報上はここまでで、以降は井上輝子と署名。

なお、井上さんが日本婦人問題懇話会会報51号までに発表された、書誌データはこちらからご覧いただけます。左端の列の国立国会図書館デジタルライブラリへのリンクにより、掲載号をダイレクトに読むことができます。(注記:山口順子)