私たちは, 五感を使って外部環境からの情報を受け取り, 様々なことを記憶したり学習することができます. しかし, 私たちは全てを記憶することはできず, ある記憶は長期間にわたって保持される一方, 一時的ですぐに忘れてしまうような記憶もあります. それはなぜでしょうか?この理由を分子レベルで解明したい, というのが私たちの研究の根底にあります.
記憶が学習に着目した研究は, 単一シナプス, さらには1分子といったミクロレベルの解析から, 神経細胞やグリア細胞といった細胞レベルでの解析, さらには神経ネットワークレベルの解析など, 様々なスケールでの研究が進められています. 私たちは, 「長期的に持続する記憶学習には, 神経活動に依存した遺伝子発現が必要である」こと, すなわち外部環境からの強い情報入力によりシナプスが活性化すると, その情報は神経細胞の核内にまで伝えられ, シナプスの構造や機能を調節する分子をコードする遺伝子群の発現が調節されることに着目し, シナプス活動依存的な遺伝子発現制御機構の解明に取り組んでいます. シナプス活動依存的に発現が制御される一連の遺伝子群の中でも, 私たちは「脳由来神経栄養因子 BDNF(Brain-Derived Neurotrophic Factor)」という分子に着目し, 研究を進めています.
シナプス活動によって惹起されたカルシウムシグナルは, 核内にまで情報が伝えられ, 一連の遺伝子転写が制御されます. さらにカルシウムシグナルは, mRNAの安定性や神経細胞内での局在, 翻訳, 分泌など, シナプス活動依存的な遺伝子発現制御に関わる様々なイベントにも関与します. そこで我々は, BDNF遺伝子をはじめとするシナプス活動依存的に発現が制御される遺伝子に着目し, その制御メカニズムの解明に取り組んでいます.
近年私たちは, ホタルの光に代表される生物発光を利用して, BDNF発現変化を可視化する研究を行っています. ホタルの光は基質であるルシフェリンと酵素であるルシフェラーゼにより生じます. この原理を利用して発光イメージングによりBDNF発現変化を生きたマウスで評価可能なマウスを作出しました. これまでに, 人工基質などを利用することで, 脳内のBDNF発現誘導の様子を生きたマウスで可視化することに成功しています. 現在, このマウスを利用してアルツハイマー病やうつ病の脳内におけるBDNF発現の時空間的な変化, 薬剤投与前後のBDNF発現変化などを追跡しており, 将来的にはこれら疾患の治療薬や予防薬の開発を目指したいと思っています.
うつ病やアルツハイマー病など様々な疾患において, 脳内BDNF発現が低下することから, 低下したBDNF発現を回復させることにより, BDNFが有する神経栄養因子作用を介して疾患により低下した脳機能を改善させることができるかもしれません. そこで私たちは, 上記の発光イメージングによりBDNF発現変化を可視化するためのマウスを利用し, BDNF発現を活性化させる薬剤スクリーニング系を構築しました. このスクリーニング系を用いて, 初代培養ニューロンにおいてBDNF発現を増加させる化合物や抽出物を同定することに成功しています. これらの化合物や抽出物は, うつ病やアルツハイマー病といった脳内BDNF発現低下が生じる疾患の治療薬の候補になるかもしれません. そこで, 活性が認められた物質については, 疾患モデルマウスを用いてその効果を確かめていく予定です.
アルツハイマー病では脳内BDNF発現の低下が認められますが, アルツハイマー病は認知機能障害が出現する十数年以上前からアミロイドβの蓄積が生じる, すなわち症状出現のかなり前から脳内では病的な変化が生じていると言われています. そこで私たちは, 早期のアルツハイマー病の脳内ではBDNF発現がどのように変化するのか?またその変化を正常化することによりアルツハイマー病で生じる認知機能障害を食い止めることができるのか?に興味を持ち, いくつかのアルツハイマー病モデルマウスを用いて, 上記の生体イメージングも組み合わせながら解析を進めています. これらの研究により, アルツハイマー病による認知機能障害を抑制, さらには予防できるような方法の開発を目指したいと思っています.
BDNFは「脳由来神経栄養因子」という名前の通り, 脳で高く発現しています. しかしBDNFは, 肝臓や腎臓, 骨格筋や脂肪組織などを含む末梢の組織にも発現が認められます. 以前に我々は, 上記の生体イメージングを用いた研究の過程で, BDNF発現が高脂肪食の給餌により脂肪組織において顕著に増加することを見出し, 発現が増加したBDNFが肥満の病態形成に関与する可能性を示しました. しかし, 脳におけるBDNFの発現や機能に関する研究と比較すると, 末梢におけるBDNFの研究は精力的には進められておらず, その機能については未知の部分も多く残されています. そこで, 末梢組織におけるBDNFの発現や機能に関する解析についても興味を持っています.