第1章
日本語教育とは
日本語教育とは
「日本語教育」について皆さんはどんなことを知っていますか。「日本語」の教育は、小学校や中学校で勉強していた「国語」の教育と同じでしょうか。「教育」だから、先生になりたい人が学ぶ分野でしょうか。「日本語」を既に流暢に話せる日本人には、関係の薄い分野でしょうか。
「日本語教育」は日本語を母語としない人々に日本語を教えることや、日本語を外国語や第二言語として学ぶ人々に関わる様々な課題を扱う学問です。この課題には日本語を母語をする日本人の皆さんも大きく関わっています。皆さんの中には将来、小学校、中学校、高校、あるいは塾などさまざまな教室で「教えること」に関わる人もいるでしょう。その教室には、日本語を母語としない児童や生徒もいるかもしれません。また、サークルや習い事などの場で外国人と知り合ったり、アルバイト先や就職先の職場で、外国人とともに働く人もいるでしょう。寮やシェアハウスで外国人と生活を共にしている人もいるかもしれません。あるいは、外国人との直接的な関りがなくても、日本には多様な言語文化背景持つ人々が生活しており、皆さんの生活はそのような人々と確実に関わっています。
つまり、「日本語教育」に関わるのは、日本語に関わる人すべてです。よって、本授業では、日本語を母語とする人・母語としない人を含めた大学生一般に向けて、「日本語教育」の講義を行ってきたいと思います。
「日本語を母語としない人」とは、生まれて最初に習得する第一言語が日本語ではない人のことです。「日本語非母語話者」とも言います。これに対して、「日本語母語話者」は日本語が第一言語の人を指します。
それでは、
日本語母語話者=日本人
日本語非母語話者=外国人
と言えるでしょうか。
皆さんは、その人が日本人か外国人かを何で判断しますか。
ここで、「〇〇人」について考える際に、参考になりそうな例を1つ紹介しましょう。
この写真は、私(筆者)がアメリカで生活していた時に、参加していたバンドのメンバーです。私はニューヨークに10年くらい住んでいたのですが、その時に知り合ったのがチンドン屋スタイルのバンドでした。
当時、バンドは、ニューヨークのダウンタウンのバーやフェスティバル、特に桜祭りや盆踊り、アニメの祭典ComicConなどいろいろな場所でパフォーマンスをしていました。出身も母語も異なる多様なメンバーが、J-pop、演歌、沖縄民謡、炭坑節、天然の美など新旧の日本の歌をメインにアレンジして演奏していました。
バンドメンバーを紹介します。
ロドリゴは日系ブラジル人、ウィンは日系アメリカ人ですが、日本語をほとんど話しません。日本人が海外に渡り、そこで生まれ育った子孫は、現地の言葉が第一言語になる可能性が高いです。日本語は限定的な場面でしか使わないかもしれませんが、日本人としての血統やアイデンティティを持っています。ロドリゴは演歌を日本語で歌っていますし、ウィンはバンドのリーダーで沖縄民謡や演歌、JPOPなどの選曲をし、楽譜を書いています。
ブライアンは、バンドのMCで、両親は日本人とアメリカ人です。両親のどちらかが外国人の場合は、見た目が「日本人ぽくない」かもしれません。でも日本人としての血統やアイデンティティを持っていますし、ブライアンは私と同じくらい日本語を流暢に話せます。
アキコは日本で生まれ育ち、血統も日本人で日本語母語話者ですが、アメリカの市民権を取得しました。国籍で判断すれば、「日本人」は日本国籍を持っている人と言えるでしょうが、海外に渡り、その国の国籍を取得した日本人もいます。海外の永住者にとっては、その国の市民権を取得するかは大きな決断を要する場合もありますし、市民権取得後も日本人としてのアイデンティティを強く持っている場合が多いです。
この写真の中で、国籍、血統、出身、言語のすべてで日本人以外の何者でもないのはコッサンと私(カオリ)です。その他のメンバーは、音楽を通して日本と繋がっています。
ある日、バンドメンバーでワシントンD.C.の桜祭りに参加するためにツアーに出かけました。その道中、ワゴン車の後部座席に乗っていたアメリカ人のビルが、突然、「このバスはsegregationだ」と冗談を言い、それを聞いてみんなが笑いました。「Segregation」とは人種差別的な隔離政策を意味しますが、アメリカでは過去に、黒人はバスの後部座席に座らなければならない、などという人種差別的ルールが存在しました。たまたま、私たちのワゴン車の前の方には、日本に何らかの関係がある前述のメンバーが座り、後ろには他のメンバーが座っていたというわけです。
丁度この写真のように分かれていたのです。(中央に日本に関わりを持つ人、周辺にそれ以外のメンバーがいます。しかし、これは単にバンドのフロントメンバーや背の低い人が中心にいるだけですが…)
つまり、ビルは、言語や見た目や国籍が異なっていても、日本に何らかのつながりを持つメンバーはみんな「日本人」だと見なしたわけです。恐らく、私たちのバンドが日本の歌を演奏し日本にゆかりのあるフェスティバルに出演していたために、「日本とそれ以外」という図式が成り立っていたのでしょう。
みなさんは、どう思いますか。この写真の中で「日本人」は誰でしょうか。「非日本人」は誰でしょうか。
私たちは、その人の言語や見た目で「〇〇人」と判断しがちですが、誰を「〇〇人」とするかは、それほど単純ではありませんし、その人自身の考えるアイデンティティにも関わる問題です。また、逆に、「○○人」が必ず「○○語」を流暢に話すとは限りません。日本語を流暢に話さない「日本人」もいます。
ただ、本コースでは、日本語教育の課題を扱う便宜上、日本語母語話者を「日本人」とよび、日本語非母語話者を「外国人」と呼ぶことにします。しかし、血統や国籍、言語、そして生まれ育った文化の間に多様性があり、「日本語母語話者=日本人」と単純に定義できないことは踏まえておいてください。
「日本語教育」は、日本語を母語としない人のためだけではありません。日本語を母語とする日本人のための学問でもあることは、すでにお話ししました。この点について、もう少し具体的に見ていきましょう。
皆さんは、周囲の外国人、例えば、アルバイトで一緒に働く外国人と、どのようにコミュニケーションしますか。店のルールを知らない外国人のお客さんが来たら、どのように対応しますか。ルームシェアで外国人と一緒に住むことになったら、就職した企業に外国人の同僚や上司がいたら、サークル活動で外国人留学生と活動するために、どのようにコミュニケーションしますか。
「やっぱり英語は大事!」と、長年英語教育を受けてきた皆さんは思うかもしれません。
しかし、外国人が全員、英語を話せるとは限りません。
2020年の出入国在留管理庁が発表した「国籍・地域別在留外国人数」は、中国、韓国、ベトナム、フィリピン、ブラジルなどが多くなっています。この中で、英語が公用語の国はフィリピンだけです。
出入国管理庁「国籍・地域別在留外国人数(2020年6月現在)」より作成
2008年の国立国語研究所による定住外国人についての調査で、「もっともよくできる言葉」として回答を得たのは、多い順に1位中国語、2位ポルトガル語、3位フィリピノ語でした。
国立国語研究所2008年調査「『生活のための日本語』に関する調査研究」より作成
「日常生活に困らない言語」を答えてもらったところ、日本語は6割以上だったのに対して、英語は4割に満たない結果となりました。
国立国語研究所2008年調査「『生活のための日本語』に関する調査研究」より作成
日本で生活する人々の間では、英語よりも日本語の方が共通言語になる可能性が高いです。また、日本語が唯一の共通言語である場合もありますし、共通言語がない場合もあります。
言語だけではなく、文化、宗教、生活習慣、考え方などの違いもあります。言語や文化の異なるさまざまな背景をもった人々と、どうやって一緒に生活していくかを考えることも日本語教育の課題です。
さらに皆さんにとって重要なのは、21世紀の日本の産業構造が、外国人なしには支えていけないという事実です。例えば、皆さんが食べているコンビニの弁当の製造、スーパーで買う野菜や果物の生産、自転車や車や船の製造は、外国人の労働力に頼っています。高齢者施設にいるおじいさんやおばあさんも外国人がお世話をしています。
2020年、日本で生活する外国人は288万5,904人にのぼります。仕事や学業で、あるいは家族とともに日本に移り住む人々は増加しています。これは、現在、日本政府が推し進めている政策でもあります。
2020年6月末の在留外国人数は288万5,904人
東京ビザ申請オフィス
さまざまな背景を持つ人々がともに生活する社会を創造していくことを「多文化共生」と言います。日本語教育は、日本語を学ぶ人々だけではなく、日本人も含めた多文化共生社会の創造と、その中でのことばやコミュニケーションを扱う学問です。
補足資料:2021年のデータ 在留外国人数公表資料(令和3年6月末)
「日本語教育」がどのような教育なのか、皆さんが知っている「国語」や「英語」と比較しながら、見てみましょう。
日本人が学校教育で学んできた「国語」と「日本語教育」は、扱う言語は同じ日本語です。また、皆さんが学校教育で学んできた「英語」と「日本語教育」は、扱う言語は英語と日本語で異なりますが、非母語話者への言語教育という点で同じです。
「日本語教育」が日本の学校教育の「国語」や「英語」と最も異なるのは、多様な言語文化背景を持つ学習者がいることだと思います。「日本語教育」では、学習者の母語もさまざまですし、学ぶ目的や学び方、教育機関もさまざまです。
「日本語教育」の教師は日本語母語話者だけでなく、たくさんの日本語非母語話者教師が国内外で活躍しています。
「日本語教育」の教育機関の欄に、「小学校、中学校、高校」とありますが、皆さんの通っていた学校にも、日本語の補習を受けていた外国につながりのある児童や生徒がいませんでしたか。
このように比較すると、「日本語教育」は「国語」とかなり異なっていることがわかります。日本語母語話者に対して日本語を教える「国語」と、日本語非母語話者に対して日本語を教える「日本語教育」とは、内容も教え方もかなり異なります。「日本語教育」は、むしろ外国語である「英語」に似ていると言えるのではないでしょうか。
日本語も英語も学習者にとっては母語ではない言語を学ぶ点で同じですが、日本語を「外国語」として学ぶ場合と、母語以外の第二言語として学ぶ場合とでは、学習内容や方法、目的が異なってくるでしょう。
日本人が日本で生活し、英語を「外国語」として学んでいるように、日本語を「外国語」として学ぶ場合は、日本語を実際の生活の中で使わなくても生きていけます。言語を「外国語」として学ぶ場合は、中学や高校の英語の時間と同じです。授業やテストが終われば、英語を忘れてしまっても、生活に支障はありません。
しかし、日本語を第二言語として学ぶ人は、生きるために日本語を仕事や生活で使えるようにならなければならない、差し迫った状況があります。外国語としての日本語教育と、第二言語としての日本語教育はこの点で区別されます。
外国語としての日本語 Japanese as a Foreign Language (JFL)
第二言語としての日本語 Japanese as a Second Language (JSL)
皆さんがもし、外国で生活することになり、その国の言語を全く話せなかった場合、どんな困難があるか想像してみてください。生活をしているすべての場面に言語はついて回りますし、言語だけでなく、食生活、住まい、就学・就労、医療、社会保障、人々の考え方や態度までその国や地域の習慣や社会システムの中で生きていくことになります。
筆者も、アメリカで生活している間、英語を第二言語として学んでいました。最初の数年は言葉はもとより、生活の基盤を築くのが大変でした。部屋探し、職探し、病気の時の対応、事故や事件に巻き込まれたこともありました。自国から離れて外国語を第二言語として習得している人は、異なる社会や文化の中で生きる力も習得しなければならないのです。
第3節では、日本語教師は、どのような専門知識が必要か、職業としての日本語教師について紹介します。
日本語教師は、日本人なら誰でもなれるでしょうか。まず、日本語教師になるのに、日本人や日本語母語話者である必要はありません。私の周りでもたくさんの非母語話者教師が活躍していますし、海外には非母語話者教師の方が多い地域もあります。
次に、日本語教師も、就職の際には資格が求められます。ただし、医者などとは異なり、日本語を教えること自体に資格や免許はいりません。受講生の皆さんも、自由に日本語が教えられます。
実は、近年の外国人人口の増加に伴う政策の一つとして、日本語教師の国家資格化に関する議論が進んでいます。
*2022年3月時点で下の図にある「公認日本語教師」という資格はまだ存在していません。
2018年以降、法務省告示機関である日本語学校では、以下のいずれかを満たしていることが教員要件となっています。また、国内の日本語教育機関でも同等の要件が求められることが多いです。
1)大学または大学院の日本語教育に関する教育課程の修了
2)大学または大学院で日本語教育に関する科目26単位以上修得、当該大学・大学院の修了
3)日本語教育能力検定試験の合格
4)学士以上の学位、かつ、日本語教師養成講座(420時間)の修了
5)1~4)と同等以上の能力があると認められる者
この中の3)「日本語教育能力検定試験」は、年1回行われる日本語教師になる人のための試験で、公益社団法人日本国際教育支援協会(JEES)が実施しています。近年の合格率は20%-30%弱で、試験内容には日本語教育の諸分野が網羅されています。
JEESのウェブサイトに出題範囲が掲載されていますので、見てみましょう。
公益社団法人日本国際教育支援協会(JEES)「日本語教育能力試験 出題範囲等」
5つの区分と求められる知識・能力
*各区分の下位項目はウェブサイトを参照してください。
1.社会・文化・地域
日本や日本の地域社会が関係する国際社会の実情や、国際化に対する日本の国や地方自治体の政策、地域社会の人びとの意識等を考えるために、次のような視点と基礎的な知識を有し、それらと日本語教育の実践とを関連づける能力を有していること。
国際関係論・文化論・比較文化論的な視点とそれらに関する基礎的知識
政治的・経済的・社会的・地政学的な視点とそれらに関する基礎的知識
宗教的・民族的・歴史的な視点とそれらに関する基礎的知識
2.言語と社会
言語教育・言語習得および言語使用と社会との関係を考えるために、次のような視点と基礎的な知識を有し、それらと日本語教育の実践とを関連づける能力を有していること。
言語教育・言語習得について、広く国際社会の動向からみた国や地域間の関係から考える視点とそれらに関する基礎的知識
言語教育・言語習得について、それぞれの社会の政治的・経済的・文化的構造等との関係から考える視点とそれらに関する基礎的知識
個々人の言語使用を具体的な社会文化状況の中で考える視点とそれらに関する基礎的知識
3.言語と心理
言語の学習や教育の場面で起こる現象や問題の理解・解決のために、次のような視点と基礎的な知識を有し、それらと日本語教育の実践とを関連づける能力を有していること。
学習の過程やスタイルあるいは個人、集団、社会等、多様な視点から捉えた言語の習得と発達に関する基礎的知識
言語教育に必要な学習理論、言語理解、認知過程に関する心理学の基礎的知識
異文化理解、異文化接触、異文化コミュニケーションに関する基礎的知識
4.言語と教育
学習活動を支援するために、次のような視点と基礎的な知識を有し、それらと日本語教育の実践とを関連づける能力を有していること。
個々の学習者の特質に対するミクロな視点と、個々の学習を社会の中に位置付けるマクロな視点
学習活動を客観的に分析し、全体および問題の所在を把握するための基礎的知識
学習者のかかえる問題を解決するための教授・評価等に関する基礎的知識
5.言語
教育・学習の対象となる日本語および言語一般について次のような知識・能力を有し、それらと日本語教育の実践とを関連づける能力を有していること。
現代日本語の音声・音韻、語彙、文法、意味、運用等に関する基礎的知識とそれらを客観的に分析する能力
一般言語学、対照言語学など言語の構造に関する基礎的知識
指導を滞りなく進めるため、話し言葉・書き言葉両面において円滑なコミュニケーションを行うための知識・能力
遠藤織枝編著(2020)『新・日本語教育を学ぶ―なぜ、なにを、どう教えるか―』三修社
出入国在留管理庁ウェブサイト「令和2年6月末現在における在留外国人数について」
http://www.moj.go.jp/isa/publications/press/nyuukokukanri04_00018.html
東京ビザ申請オフィスウェブサイト
https://office-immi-lawyer.com/info/toukei202006/
日本語教育学会ウェブサイト「『日本語教師の資格の在り方について(報告)』概要」
http://www.nkg.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/07/3-_shikakunoarikata.pdf
日本国際教育支援協会(JEES)ウェブサイト
http://www.jees.or.jp/jltct/range.htm
森篤嗣編著(2019)『超基礎・日本語教育』くろしお出版