第2章
日本語学習者と日本語教育の現場
日本語学習者と日本語教育の現場
日本と海外の国々との間で、様々な理由で人が移動するときに、避けて通れないのがことばの課題であり、日本語の学習や教育です。各時代の日本語学習・日本語教育の姿を把握することは、現在の日本語教育や言語政策の姿をより客観的に、また批判的にとらえることにつながります。どのような人が、どのような目的で、どのように日本語学習や日本語教育を行ったのか、を見てみましょう。
1549年にフランシスコ・ザビエルらキリシタン宣教師が日本に上陸しました。江戸幕府による鎖国令が出るまで、日本でキリスト教の普及を行うために、多くのイエズス会宣教師が来日しました。彼らが布教活動のために最初にやらなければならなかったのが日本語学習で、会の方針としても言語の習得には力を入れていました。宣教師たちは、学校を建てて、文法書や辞書などの教材を作ったり、日本文学の翻訳をしたりと、布教に必要な日本語を学んでいました。
宣教師たちにとってヨーロッパ系言語とは全く異なる日本語の習得は困難で、イエズス会士の書簡や報告の中でも日本語の難しさについて言及しています。日本布教長のフランシスコ・カブラルなどは、才能のある者でも日本語で告解を聴けるようになるのに6年、キリスト教徒に日本語で説教できるようになるには15年以上を要し、一般の異教徒に対して日本語で説教などは全然考えられないと、日本語学習を悲観的に見ていました。
狩野内膳作「南蛮屏風」(右隻)
カピタン一行を出迎えるイエズス会宣教師やフランシスコ会修道士、日本人信者
1579(天正七)年、イエズス会巡察使ヴァリニャーノが来日し、日本語学習に苦戦するヨーロッパ人宣教師の日本語教育の強化と日本人修道士の養成のために、教育機関を設立しました。コレジオ(Collegio 学林)は高度の哲学や神学を就学する高等教育機関、ノビシアド(Noviciade 修練院)は修道士としての適性の有無の研究機関、セミナリオ(Seminario 神学校)は司祭や修道士の養成機関で、日本語学習も組織的に行われるようになりました。ヴァリニャーノはまた、伊東マンショら天正遣欧使節の帰国に伴って1590年に再度来日した際に、日本に初めて西洋印刷機を持ち込みました。これにより、キリスト教の教理入門書『どちりいなきりしたん』など多数のキリシタン版(布教のための教科書や語学学習書)が印刷されました。
イエズス会の日本語教育は、話し言葉を習得してから、書き言葉を習得するという方針をとっていました。口語習得のために編まれたローマ字の会話教科書『ヘイケ物語』(Feiqe Monogatari)や、それよりさらに口語性が強く、俗語を交えた当時の庶民の言葉を映している『イソポのハブラス』(Esopo no Fabulas イソップ寓話集)、口語の注釈をつけた格言集『金句集』があります。これらは、宣教師の日常会話や説教などに役立つように作成されました。
1595(文禄四)年には、日本人信徒のラテン語学習と外国人宣教師の日本語学習のために、ラテン語・ポルトガル語・日本語の対訳辞書『羅葡日辞典』(Dictionarivm Latino Lvsitanicvm ac laponicvm)が刊行されました。また、1603(慶長八)年に、本格的な日本語とポルトガル語の対訳辞書『日葡辞書』(Vocabulario da Lingoa de Iapam)が、1604~1608(慶長九~十三)年にはジョアン・ロドリゲスによってキリシタンの日本文法研究の集大成『日本大文典』が編纂刊行されました。
その後、江戸幕府はキリスト教を禁止し、日本は鎖国体制に入ります。江戸時代を通してヨーロッパ諸国で唯一国交があったのはオランダですが、幕府はオランダ商館の関係者が直接日本人と交渉を持つことを嫌い、公然での日本語学習を禁じていました。
江戸幕府は、遠洋航海を禁止し、大型船の建造・使用を許しなかったことも関係し、17世紀末~18世紀末には、日本沿岸で海難事故が続出しました。ロシアのカムチャツカ半島、北千島、アリューシャン列島などにたまたま漂着した日本人の漁師や船員は、日本語教師として迎えられ、日本語学校も開設されました。当時、帝政ロシアのシベリア開発は北太平洋沿岸まで進み、不凍港を探して南下政策を進めており、薪水、食料投資財の供給を目的に日本との交流機会をうかがっていました。帝政ロシアでの日本語教育は、漂流してくる日本人をインフォーマントとして政治的に利用する形で行われていたと言えます。
1695(元禄八)年に、大阪商人の一行がカムチャツカに漂着、伝兵衛のみが遠征途上の探検家ウラディーミル・アトラーソフに救出され、モスクワでピョートル大帝に拝謁しました。ピョートル大帝は伝兵衛にロシア語を習わせた後、ペテルブルグに日本語学校を設立し、教師として青年学生数名に日本語を教えさせました。その後、伝兵衛はロシアに帰化して一生日本語を教えました。
1728(享保十二)年、薩摩の商船がカムチャツカに漂着し、生き残ったソーザとゴンザは、ペテルブルグで女帝アンナ・ヨアノヴナに謁見し、洗礼を受けました。二人はペテルブルグ科学アカデミー付属の日本語学校で日本語を教えました。監督官であるボグダーノフはゴンザを指導して『露日語彙集』や『日本語会話入門』を刊行しました。ゴンザは薩摩を出たことがなかったため、使用されてる日本語は18世紀前半の薩摩方言です。その後、南部藩の竹内徳兵衛一行がオンネコタン島に漂着し、生存者のうち5名が日本語教師に加わりました。
1754(宝暦四)年、日本語教育がイルクーツク海軍付属日本語学校に移され、7人の漂流民が日本語教師としてロシア人子弟や漂流民の子どもに日本語を教えました。その中の一人、三之助の子アンドレイ・タタリノフは1782年ロシア語と日本語の対訳辞書『レキシコン』を編纂しました。この日本語は18世紀の東北方言が使われているため、方言研究の資料としても価値があります。
1782(天明二)年、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した伊勢の商人、大黒屋光太夫一行のうち生存者5名は、イルクーツクに入り、タタリノフらに会いました。ロシア当局から強く日本語教師になるよう要請されましたが、光太夫ら3名は、ペテルブルグでエカチェリーナ2世に拝謁し、帰国を願って許され、1791(寛政三)年に江戸幕府と通商交渉を行おうとしていたラクスマンとロシア船で帰国しました。
1794(寛政六)年、仙台の若宮丸が漂着しました。レザノフは、漂流民4名の送還を機に、長崎への入港を認める信牌(ラクスマンが幕府から受け取ったもの)を所持したロシア使節として、日本との通交関係樹立を企てましたが、幕府の拒否にあい失敗に終わりました。1806~1807(文化三~四)年には、ロシア人の樺太やエトロフ島襲撃なとで日本との関係が悪化し、日本語教師の求人難、財政的困難もあってロシアの日本語学校は閉鎖されてしまいました。
オランダ商館医官のシーボルトは日本研究を行うとともに鳴滝塾で西洋医学や一般科学を日本人に教授していましたが、1829(文政十二)年、国禁の書を国外に持ち出そうとして国外追放になりました。シーボルトの助手ホフマンは、シーボルトが日本から持ち帰った資料の整理を『日本書誌』で行っています。
1853年アメリカから黒船がやってくると、日本は開国し、欧米各国と貿易を始める条約を結びます。対日外交の主導権を最初に握ったのはアメリカでしたが、すぐに、資本主義の先進国だったイギリスに移りました。貿易、外交、宣教を目的とする人々が来日し、そのための日本語学習が始まり、日本語研究も盛んになります。19世紀後半、ヨーロッパ大陸でも東洋への関心から日本研究や日本語学習が行われました。ここでは、日本・日本語研究で知られる外交官や宣教師、お雇い外国人の日本語学習に対する考え方を中心に見てみましょう。
オールコック(英初代総領事兼外交代表) 1859年に来日
外交の仕事には日本語の習得が不可欠であると考え、二人の通訳見習いに勉強させるとともに、自分自身も日本の官吏を教師に日本語学習を始めました。日本滞在記の中で「午前中われわれはテーブルを囲み、われわれの不幸な教師をまん中にして(中略)英語の八品詞に相当するものについて十字砲火を浴びせるように質問し、とまどわせ、ひどく困らせたものだ。」と述べているオールコックは、文法解説書『初学者用日本文法要説』や日英仏対訳の会話集『日用日本語対話集』を刊行しました。
ヘボン(医師・米宣教師)とブラウン(米宣教師) 1859年来日
ヘボンは神奈川県の成仏寺を宿舎にし、鍼灸師を教師にして日本語学習を始めました。ブラウンも同じ場所で日本語の研究を行い4年後に『日本語会話』を刊行しました。またヘボンも8年後、約2万語の語彙を掲載した和英・英和辞典『和英語林集成』を完成させました。この辞典のローマ字表記は、後にヘボン式ローマ字のもとになりました。
アーネスト・サトウ(英外交官) 1862年来日
通訳生として来日して1週間もたたないうちに生麦事件が起き、やがて薩英戦争、下関戦争、賠償問題へとつながるこの事件の処理にあたりました。幕末~明治維新の動乱期に、オールコックや駐日英国公使パークスを通訳官として補佐し、1873年に『会話編』を刊行しました。
アストン(英外交官)1864年来日
サトウと同じ通訳生として来日し、短期間で日本語に熟達しました。1869年に『日本語口語小文典』、1872年に『日本文語文典』を刊行し、話し言葉と書き言葉を区別し、初めて両者について別々のまとまった文法書を著しました。
チェンバレン 1873年来日
来日後、すぐに日本語学習をはじめ、海軍兵学校や東京帝国大学の教師となりました。上田万年、芳賀矢一、岡倉由三郎らを育て、日本の国語学、言語学の基礎を築きました。実用性を重視し、日常の書き言葉の文法を扱った『日本近世文語辞典』、『ローマ字日本語読本』『日本口語文典』を刊行します。また『文字のしるべ』の序文の言葉には、日本語の文字に対する学習観が表れています。彼は、ローマ字による日本語表記導入が学習負担を減らすことを認めつつも、「この国の書記体系は言語そのものである。つまり、言語と日本人がそれを書き表し方とは、分かちがたく結びついている」と述べ、ローマ字やカナだけの学習は不十分だと主張しています。「日本はヨーロッパ的な事物の表現に必要な新語をほとんどすべて漢字を基にして作り出している」「生活や仕事に関係したすべての書類や書き物が漢字を基礎にしている」「カナしか知らないような宣教師は尊敬を得る地位には上がれない」「子どもでさえ漢字学習に成功しているのだから、我々にできないわけがない」などと、漢字学習の必要性を解いています。
外国人を対象とする日本語教育が大規模に始められたのは日清戦争後でした。
1894年の日清戦争後、清国から留学生がやってきます。日露戦争の効果もあり、その数は東京で1万人近くに増加します。革命家孫文も亡命してきました。清国政府の依頼で革命運動が取り締まられると、留学生数は急激に減り、各学校の留学生部も閉鎖しました。
しかし、中華民国が成立すると、再び留学生がやってきます。この時の清国留学生は、単に日本語を学ぶだけでなく、今の中学程度の社会や理数系の教科を学ぶために日本語を学んでいたようです。また専門分野の教育も行っていました。自国より教育制度が普及していて、地理的に近いうえ同じ漢字圏、欧米より文化的に親近感がある、欧米から取捨選択された知識情報を得た日本から吸収できるといった、理由があったようです。中国人学習者のための教材もたくさん作られました。
19世紀後半~20世紀初頭、ハワイやアメリカ本土に移住した日本人子弟のために、国内の小学校に準じた母語教育が行われました。
世界恐慌がおきると円安も後押しし、1930年代には主にアメリカの日系二世が大量に来日しました。日本語しかできない日系一世と日本語ができない二世のコミュニケーション上の必要性、日本人的考え方を教える継承語としての日本語を学びました。
a)植民地での日本語教育
国外では、戦前戦中の植民地で「侵略的」に日本語の普及が行われていました。日本が侵略し植民地化した地域では、1945年の第二次世界大戦の終戦まで、「大東亜共栄圏」構想のもとに、日本精神や日本文化の涵養を行い、日本人化し、天皇を尊ぶ皇民化教育が行われました。皇民化は、一方で現地の言語や文化を否定・破壊する政策でもあります。日本語教育が戦争と侵略の手段として使用され、その国策の中で教員が日本語普及の一端を担いました。軍事的また経済的に優位に立つ集団が他の集団を侵略し、その政策において自言語を強制・普及することは、決して過去のことではありません。現在の世界情勢で、国家と人と言語がどう位置付けられ、どのように政策的に利用されるかを考える上でも、日本の植民地での日本語教育(国語教育)から学べることが多そうです。以下、地域ごとに見て行きましょう。
台湾
国家として初めて海外で日本語教育が行われたのは、1895年、日清戦争後の下関条約で割譲された台湾でした。伊沢修二が台湾総督府の学部長となり、台北郊外の芝山巌(しさんがん)で同化政策に基づいた日本語語教育を行いました。伊沢の帰国中に6人の教員が抗日ゲリラにより殺害される芝山巌事件が起きました。1896年に、国語学校の師範部で教員養成を、国語伝習所で日本語教育が行われるようになりました。1898年には公学校を設置し、台湾の人々に国語(日本語)を用いた初等教育が行われました。初期の日本語教育は、台湾語を媒介語として意味理解をさせていましたが、日本人教師全員が十分な台湾語の能力を持っていたわけではありませんでした。第2回講習員として渡った山口喜一郎は、グアン式教授法を採用し、台湾語を媒介せずに直接法で教えました。
満州国
1905年、日露戦争後、ポーツマス条約で手に入れた関東州の大連を中心とした租借地、および南満州鉄道沿線の付属地で日本語教育を開始しました。ここでは、主に関東州や満鉄に勤務する現地スタッフを対象とした職業訓練の一環として日本語教育が行われ、日本語の検定試験の合格が給与にも反映されました。1932年に満州国が建国されると同時に学制を公布、日本語教育を必修としました。満州は、実質的には日本の傀儡政権による植民地でしたが、五族協和をスローガンとした独立国という建前だったので、満州語(中国語)や蒙古語も必修の国語として扱われました。成人学習者が多い満州では、大出正篤が提唱した速成式教授法により、媒介語による対訳と注釈を付した教科書を使い、自宅学習をさせ、授業では口頭発表と会話練習のみを行わせる方法がとられました。これは、学校での学習時間が十分にとれず、学習目的も異なる成人向けの教授法として大きな成果を上げたと言われています。
朝鮮半島
朝鮮半島では、1876年の日朝修好条規締結後に日本へ留学生を送り、現地の人々による日本語教育が行われていました。しかし、1910年の日韓併合によって、日本語教育は植民地での国語教育に替わりました。山口喜一郎は朝鮮においても日本語教授法の指導的地位に立ち教科書の編纂も行いました。1930年代半ばには、社会生活のすべてで日本語を使用する国語常用運動がおこり官庁や新聞・ラジオでも日本語を国語としてもしひることが強制されました。1938年には、必修科目であった朝鮮語が学校教育から消され、1939年に氏名を日本式に変えさせる創氏改名まで強制されました。このような同化政策は朝鮮の人々の激しい怒りを招きました。1943年には国民学校から大学まで、約226万人が日本語を強制的に学んでいました。
南洋群島
サイパン、グアム、パラオなど、第一次大戦を機にドイツから奪ったミクロネシアの大部分が日本の委任統治領となりました。第一次世界大戦直後の軍政時代の小学校は、海軍の将校が日本語教育を担当しました。1922年以降の南洋庁時代には教育制度が整い、公学校教育で日本人の助けとなる日本語を理解する島民を養成するために日本語教育が行われました。1933年に日本が国際連盟を脱退すると、他の植民地と同じように皇民化教育が行われました。ミクロネシアでは島ごとに大きく異なる言語が使われていたため、日本語は島嶼間のリンガフランカ(通用語)として使われるようになりました。第二次大戦後はアメリカに統治権が移り、英語が通用語となっていますが、英語・現地語とともに、多くの日本語語彙も日常的に使われています。
東南アジア
1941年に太平洋戦争が始まり、日本軍がフィリピン、マレー、ジャワ、セレベス、ビルマなどの「南方」を占領し、軍政下におかれました。この多言語多文化地域に、共通語として日本語を普及する政策がとられました。日本は、これらの地域を植民地として支配している国と交戦状態にあったので、「南方」の人々に対しては「解放者」であるという印象を植え付けようとし、「皇民化」ではなく「文化交流」が主張されました。
以上のように、この時期の日本語教育は、以前からアジアの国々との交流目的で行われていた「日本語教育」とは異なり、植民地の人々を皇民化する目的で強制的に行った「国語教育」でした。日本語を「国語」として母語の使用を禁止する、名前を日本風に変えさせる、天皇崇拝といったことが日本が侵略したアジア各地で行われていました。
b)戦時下の欧米での日本語教育
一方、第二次大戦期のアメリカやイギリスでは、軍の日本語学校や大学、訓練学校で、暗号や戦地で入手した書類などの解読、戦後処理に関する諸活動など戦争のための日本語教育が行われました。優秀な人間に短期間で戦略的な教育がなされていました。
特にアメリカでは大規模な日本語教育が組織的かつ計画的に行われていました。陸軍日本語学校や海軍日本語学校、陸軍特別訓練プログラム(Army Specialized Training Program:ASPT)などで合わせて2万5000人ほどが日本語教育を受けていました。ASPTの教授法はアーミーメソッド(Army Method)と呼ばれ、主任教官が学習項目を解説し、インフォーマントとして採用された日本人助手が徹底的に口頭練習を行うという方法でした。戦時下の軍隊という特殊な環境で用いられた方法ですが、戦後、オーディオリンガル・メソッド(第3章2節参照)に影響を与えました。この戦時下での日本語教育を受けた中には、ドナルド・キーン(Donald Keane)やサイデンスティッカー(E. G. Seidensticker)といった日本研究者も生まれました。
1945年の終戦により解放された東アジア地域では日本語教育が禁止・中止され、ほとんどの日本語教育機関が閉鎖しました。また、海外に日本語教員を派遣していた日本語教育振興会も解散となりました。終戦直後の時期に日本語教育を受けていたのは連合国軍基地での軍人やその家族でした。また、日本に着任した宣教師も東京や京都、神戸の日本語学校で学びました。
1954年、日本政府がコロンボ・プランに参加すると、東南アジア諸国から国費留学生の受け入れが始まりました。そのために、いくつかの大学には留学生別科が設置されました。また、1959年に技術研修生のための海外技術者研修協会(現・海外産業人材育成協会OATS)が設立され、さらに1962年に海外技術協力事業団(現・海外協力機構JICA)、1972年に国際交流基金(Japan Foundation)など、今日まで海外への日本語教師派遣や日本語教育支援を行う組織が設立されました。
戦後、日本経済が成長するとともに外国人が多く来日します。政府は、中国帰国者、インドシナ難民、留学生、労働者、日系人、などの受け入れ政策を進めてきました。1980年代以降は、海外との人の移動が急激に増加します。(戦後の外国人受け入れについては、第5章で詳しく扱います)
このように日本語教育が行われてきた歴史を概観すると、日本語教育は政治、経済、社会の動向、宗教や文化的交流など、歴史の中で人の移動とともにあることがわかります。国家間の戦争によっても人の移動がおき、日本語教育もその政策の一部となっていました。
日本語教育や学習の目的も、ビジネス、留学、布教活動、親子のコミュニケーション、国家統制などさまざまです。日本語教育が国の政策によって推進されることもあれば、人的交流の必要に応じて活発化することもあります。逆に、国やその時の権力者によって禁止されることもありました。現在の日本語教育も大きな歴史の流れとともにあり、政治、経済、社会の動向と切り離せない関係にあります。
第2節では、国内外の日本語学習者の現状を見ていきましょう。
現在、日本語は、どれくらいの人に話されているのでしょうか。下の表は世界の母語人口の上位10言語です。2019年現在、日本語母語話者数は1億2千500万人で、母語人口は世界第9位です。
World Atlas (Victor Kiprop June 13 2019) Languages With the Most Native Speakers
それでは、日本語を第二言語や外国語として学習している人は何人くらいいると思いますか。
日本は、2008年に「留学生30万人計画」を打ち出し、2018年に達成されました。これは日本語学校、専門学校、大学などの教育機関に在留資格「留学」で在籍する人数です。大学では英語で学位を取得するプログラムに在籍する学生もいるでしょうが、日本での生活で何らかの日本語学習をしていると思われます。
また、日本国内では、288万5,904人の外国人が生活していますが、学校に通っていない人でも、仕事や生活上必要なので、何らかの形で日本語学習をしている人が多いでしょう。
それでは、海外にはどれくらいの日本語学習者がいるのでしょうか。2018年の調査では、385万人の日本語学習者が海外にいることがわかっています。過去39年間で日本語学習者数は30.2倍に増えました。
国際交流基金「海外の日本語教育の現状 2018年度日本語教育機関調査より」
また、アニメやゲーム、音楽、ファッションなど日本の文化への興味から、日本語に出会う機会も多くなっています。
最近はオンラインのリソースが豊富にあるので、データに表れていない、独学で日本語を学んでいる学習者も多いと思われます。21世紀の現代では、人の移動が伴わずとも、SNSや動画配信などオンラインでの交流ができます。
次に、国別、地域別の日本語学習者を見てみましょう。東アジアや東南アジアの学習者数が圧倒的に多く、全体の8割近くを占めています。
国際交流基金「海外の日本語教育の現状 2018年度日本語教育機関調査より」
国別に見ると、2018年度の1位は中国で約100万人、2位はインドネシアの約71万人、3位は韓国の約53万人です。2003年度の調査では、1位韓国、2位中国、3位オーストラリアで、インドネシアは6位でした。
このような学習者数の増減の背景には、各国の言語教育政策があります。
インドネシアでは、2006年に中等教育での日本語の扱いが変更され第二外国語が選択必修科目になり、2009年の大幅増加につながりましました。エネルギー資源の対日輸出や日本からの経済援助などで両国の関係が強く、2008年に二国間経済連携協定を締結しています。ビジネス目的での学習が盛んで、技能実習生の送り出し機関の増加により初級学習者も増加しています。それ以外に、日本文化の影響で日本語学習を始める若者も増えています。
韓国は、2009年度の調査までは最も学習者の多い国でした。その中心は全体の8割を占める中等教育の学習者でした。2009年に、中等教育で第二外国語が必修科目から外されたため減少につながりました。韓国では、大学受験など進学に関わる制度が影響を与えますが、第一外国語の英語が重要で、日本語は大学教育へは繋がりにくくなっています。しかし、興味関心や就職希望で日本へ留学する人も少なくなく、民間の日本語学校など学校教育以外の学習者も15%ほどいます。
ベトナムでは、2003年に中等教育で日本語をとりいれ、国際交流基金が教育の支援をしていました。しかし近年は、日越の緊密な政治・外交関係を背景に、高等教育や学校教育以外での学習者が急増しています。2009年には二国間経済連携を結び、ベトナムで事業を拡大する日本企業が増加するとともに、民間や企業内研修の日本語教育機関も増加しています。日本や日本企業での就労機会を見据えて日本語学習をする人が多いのが特徴です。
オーストラリアでは、1980年代後半にLOTO(Language other than English)という多言語政策が始まり、日本語もその一つとして推奨されました。また1994年にはアジア語・アジア学習推進計画(National Asian Languages and Studies in Schools Program: NALSAS)が発表されました。日本が貿易相手国として重視されたため学習者が急増しました。初等・中等教育での学習者が多く2018年度の調査では全体の96.3%を占めているのが特徴です。言語以外に、日本文化も取り入れた異文化間教育を重視しています。2000年代以降は、政権交代や経済状況により日本語学習者は増減を繰り返しています。(2009年27.5万人、2018年40.5万人)
中国は、高等教育機関の学習者が多いのが特徴で全体の6割を超えています。全大学の半数近くに日本語専攻が開設され、中・上級レベルに達する学習者が多いのが特徴です。中国には多くの日系企業が進出しており、日本語の習得が就職や事業拡大につながるという目的で学習する人も多いです。また、実利だけでなく、文化的な興味関心から日本へ留学する人も多く、2020年度には12.1万人、外国人留学生全体の4割以上が中国からの留学生でした。
このように、各国が日本やアジア地域で進める経済政策そして言語教育政策は、政権交代によっても変わり、日本語学習者の増減に大きく関わっています。
皆さんの多くは中等教育、つまり中学や高校で外国語として英語を学んでいたと思います。他の外国語を選択した人はいるでしょうか。もし、英語以外の外国語を選択できる場合、あなたは何語を学びますか。それは、どうしてですか。
日本語教育が行われている教育機関はさまざまです。2019年度の調査で、日本国内には2542の日本語教育期間があり、前年度より11%増加したとのことです。その割合は、法務省告示機関*である日本語学校が24.3%と最多です。続いて大学等機関が22.3%、任意団体21.5%、国際交流協会13.1%、地方公共団体7.8%となっています。
*法務省告示機関:外国人留学生受け入れに「留学」ビザ発給を必要とする日本語学校
日本語教育実施機関・施設等数について (2)機関・施設等別の状況
文化庁国語課「令和元年度国内の日本語教育の概 要(令和元年11月1日現 在)」
a)日本語学校
日本語学校では、日本で大学や大学院、専門学校へ進学する人や、就職する人のための日本語教育が行われています。大学の入学試験では年に2回行われる「日本留学試験」や「日本語能力試験」のテスト結果の提出が求められる場合が多いので、試験勉強や受験のための進学指導も必要です。
また、受験やテストだけでなく、日本で生活するための総合的な日本語能力や知識も身に着けていきます。留学で、初めて一人暮らしをする場合、自立の第一歩になる人もいますし、アルバイトを始める学生もいます。日本語学校では、言語だけでなく日本で生活していけるようになるための教育が行われている側面もあります。
b)高等教育機関
大学等、高等教育機関では、レポート作成や発表などアカデミックな場面での日本語、また就職のためのビジネス日本語も学ばれています。
近年は、留学目的が多様化するとともに、短期プログラムや英語で学位取得できるプログラムも増加して、初級や初中級レベルの学生が増加傾向にあります。
c)研修期間、小・中・高
そのほかに、特定の分野で働く技能実習生や看護・介護の現場で働くために来日した人のための日本語研修機関や、
親に帯同して来日した児童・生徒のための日本語教育も行われています。
これまでに紹介した日本語教育の「現場」は、教育機関などによって提供されているカリキュラムやコースを履修し、授業を受ける「フォーマルラーニング」です。
しかし、すべての日本語学習者がこのような「フォーマルラーニング」で学んでいるわけではありません。日本語が学べる場として、自治体やNPO、ボランティア団体が運営する地域の日本語教室もあります。また、外国人と日本人との交流の場でランゲージエクスチェンジを行ったり、 オンラインで言語を学び合えるアプリもあります。そのような日本語学習は「ノンフォーマルラーニング」や「インフォーマルラーニング」と呼ばれています。
学校以外の学びの場や学びの機会を提供する「ノンフォーマルラーニング」「インフォーマルラーニング」は他にどのような例があるでしょうか。みなさんは、そのような場に参加したことがありますか。
遠藤織枝編著(2020)『新・日本語教育を学ぶ』三修社
遠藤織枝編(2011)『日本語教育を学ぶ:その歴史から現場まで[第二版]』三修社
オールコック(1962)『大君の都(上)』山口光朔訳、岩波文庫
外務省大臣官房文化交流・海外広報課(2019)「海外における日本語教育の現状と 主な日本語教育の取組」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000544472.pdf%EF%BC%89
北村一親(2009)「18世紀のアンドレイ・タタリノフ露和語彙の研究」『岩手大学人文社会科学部紀要』pp.1-29
木村宗男(1991)『講座日本語と日本語教育15 日本語教育の歴史』明治書院
国際交流基金ウェブサイト「日本語教育について調べる」
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/index.html
国際交流基金「海外の日本語教育の現状:2018年度日本語教育機関調査より」
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/result/dl/survey2018/all.pdf
国際日本文化研究センターウェブサイト「日文研データベース『外像』」
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/top/
真田信治、吉岡英幸『 NLF日本語教師養成プログラム12日本語史/日本語教育史』アルク
真田信治(2009)『日本語教育能力試験に合格するための日本語の歴史30』ココ出版
中川かずこ(2003)「外国人による日本語文法教本の研究 : W. G. Aston著『日本文語文典』を中心に」『北海学園大学人文論集』pp.375-397
文化庁国語科「令和元年度国内の日本語教育の概要(令和元年11月1日現在)」
松永典子(2008)『「総力戦」下の人材養成と日本語教育』花書院
World Atlas Languages With the Most Native Speakers (2021年3月30日アクセス)
https://www.worldatlas.com/articles/languages-with-the-most-native-speakers.html