Music
Miyuki nakajima
「二隻の舟」の項でも書きましたが、中島みゆきは詩人です。
元来、その「詞」が言葉通りかどうか、その裏にある意味は如何なるものか、それを検討されるべきなのが「詩」であるはずです。「詩」の解釈は決して論理的な意味に限られるものではなく、感情的、感覚的な意味を含めてでも有り得るべきものとされる事は一応断っておきます。ええ妄想と言われても結構なレベルで。
中島みゆきの「詩」の全てにおいて、性、じゃない、「生の肯定」が吟れている事を、わしは微塵も疑いもせず、むしろこれこそが中島みゆきのテーマでありレゾンデートルであると思ってはいます。産婦人科医を父に持つ事の影響もあるのだろう、というのはわしの想像ですが。
しかし中島みゆきの盟友とすら言えるミュージシャンを、しかも中島みゆきと比較して貶める言を吐く三流芸人は(結果的に中島みゆきすらも貶めていましたが)論外としても、「弱者に寄り添う」だの「弱者の視点」だのと言い募る論があたかも正しいかのように流布されているのには同意できません。わしはFBで三流芸人の言は「世情」で論破できると曰いましたが、「中島みゆきの視点」は一個人であったり俯瞰であったり鳥瞰であったり犬瞰であったり、千変万化としか言い様がありません。「いわゆる弱者」の「生の肯定」は間違いなくあるにしても、「弱者を守れ」だの「弱者=正しい」だの、そんな陳腐な公式、視点はあり得ません。
そこで、中島みゆきの代表曲、もしくは名曲として異論がないであろう、尚且つ、幾度となくわしが号泣した「ファイト!」を引き合いにしていくつか検討してみようと思います。余談ですが阪神大震災後のツアーでのこの曲は、わしは「アジテーションアレンジ」と呼んでいますが、本当に凄まじいまでの「唄」です。youtubeにUpされているので未聴の人は是非。
この唄に出てくる人々を順に挙げてみます。
1.就職難の中卒女子
2.殴られたガキ
3.犯罪を目撃して知らんぷりをした人
4.詳細不明ながら夢半ばで倒れた人
5.東京にいる恋人と一緒になる事を諦めた人
6.レイプされた人
これね。どんだけ残酷な話かって一言で言いますけど。
誰一人として。 闘ってないんですよ。
闘えてないんですよ。
みんなね。
むしろ、闘う以前に、負けてしまってるんですよ。
社会常識や、大人や、恐怖や、柵や、力に。
何より、自分=あきらめに。
自分とも闘えず、負けてしまった人達なんです。
そして、少なくとも一旦、負けを認めてしまった人達なんです。
その意味では、「闘う君」に「なれなかった」人達なんです。
ただし、「それでも葛藤と闘う人達」ではあるかもしれず、また「闘える人達」かもしれませんが。
なお、6.についてこういう言い方は語弊があるかもしれません。ただ、女に生まれた事を否定せざるを得ない状況も、敢えて言えば、自己否定に他なりませんから、同じ範疇に入れても差し支えはないと思います。
さてここからサビにどう繋がるか。
「闘う君」が誰なのか。
ここまでの解釈から単純に断言できる人、います?
わしゃ三十年以上聴いてもまだ、正直、判りません。
闘えず負けてしまった1〜6の人々でしょうか?
それとも何かに争い闘っている他の人でしょうか?
これに対し闘わない奴らは誰になるのでしょう?
1〜6を嘲笑う人々ですか?
それとも1〜6の人々そのものですか?
大体何と闘ってるのでしょうか?
社会常識や、大人や、恐怖や、柵や、力とですか?
それとも、諦めてしまった自分とですか?
運命や宿命と、ですか?
これをみゆきワールドというのかスパイラルというのか何が妥当か知りませんが、この辺りのこねくり回し方は流石としか言い様がありません。わしとしては、敗者弱者の胸ぐらを掴んで闘えとアジっている内容であると感じています。一度や二度負けてもそれでも這い上がれ、立ち上がれ、と。少なくともわしはこの意味において感動し号泣したものです。
わしの解釈からすれば、「弱者に寄り添う」だの、「弱者の視点」だのは、敢えて言えば片腹痛い物言いです。否、サビの詩だけで全否定できます。「冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ」と命令形です。バカがよく使う言葉、というかバカが好んで己のバカを曝け出す言い回しを敢えて使いますが、「上から目線」に他なりません。俯瞰だか鳥瞰だか客観だか解りませんが、少なくとも同一以下の目線ではあり得ません。弱者への共感(おそらくは自身が嘗てそうであったことも踏まえての)は確かにあるのでしょうが。
単純明快に敗者弱者を慰め肯定しているものでなく、むしろ闘えとアジっている事は、ここまでで十分に論証し得たと思います。
さらに続けてみますが、「人」の対比として吟れているのは「魚たち」と「小魚たち」です。
どんな種類かは明示されていませんが、イメージされるのは、川を下り海で成長した後、生まれた川を遡上し産卵する鮭でしょう。衆目の一致、そう言って間違いないと思います。
ここからがまたみゆきワールド炸裂なのですが。
鮭が産卵のために、傷ついてやせこけながら遡上する姿は感動的ではありますが、それは本能の為せる業でもあり、言い換えれば鮭の運命でもあります。つまり、鮭は「本能=運命の命ずるまま」に遡上しているのであり、水の流れには逆らっていても、運命には逆らっていないのです。運命のままに遡上する=生きる事を全肯定していないのは、このメロの最後で判ります。「やせこけて そんなにやせこけて」は日本語として、懐疑的否定的批判的に次に掛かる筈です。そこに感銘や感動はあるにせよ、本能運命宿命に従うしかない様に、言い様のない歯痒さ、ジレンマを感じているかのようです。このジレンマは、そのまま闘えなかった人を論った上で、闘う君の唄を語るジレンマと相似、いや同一と言って良いでしょう。
また、後で吟れる「小魚の群れ」も少し考えると複雑です。おそらく鮭の稚魚と考えて良いと思うのですが、別に鮭でなくても鰯でも鮪でも構わないでしょう。なるほど海を泳ぐ稚魚は国境も柵もなく、自由に回遊できるのかもしれません。一見、羨ましくもあり美しくもあります。
しかし。「小魚たちの群れ」には抗えない運命、宿命が待っています。いや、その渦中にあると言うべきでしょう。大体が、小魚が群れるのは「捕食を避けるため」です。無数の卵から成魚になれるのが、ほんの一握りに過ぎないのは周知の事実です。スイミーではありませんが、群れを作り巨大な姿に見せる事で捕食者を欺き、捕食されても生き残る確率を上げるために、小魚は本能的に群れを作るのです。
この視点で考えると、痩せこけて遡上する成魚も、群れて回遊する小魚も、所詮は本能運命宿命の中で生きている、という事に他なりません。
以前、中島みゆきについて書いた拙文「夜会と二隻の舟」、「ヤドカリの話」で、釈迦及び仏教思想/哲学との類似性について述べました。その時は全く気づきもせず、これを書きながら、今にして気づいた事があります。
「諦め」という言葉。
ちょっと調べてみれば、本来の意味を狭義に解釈し、誤用と言って差し支えない意味合いが現代で流用されている事が判ります。先に断りますが、わし自身が誤用していた事もありますので、でかい顔で論うつもりはありません。本来は、「(因果を)明らかにする」すなわち「悟る」、という意味であり、不可能不到達を甘んじて受け入れる、という意味ではありません。
ここでまた、トラップが仕込まれています。
いわゆる「あきらめ」なのか、正しい意味での「諦め」なのか。
「社会」の中での敗北を認めるという狭い意味なのか、苛酷熾烈な運命を悟るという広い意味なのか。
中島みゆきが「ファイト!」において、「諦め」という言葉をどういうつもりで使ったのか、それは当の中島みゆき自身すら、自覚していないことかもしれません。中島みゆきが詩人である以上。
しかし、あきらめ=前者=狭義=「社会における敗北」としてしまうと、サビはただの皮肉に堕してしまいますし、小魚たちの群れの喩えなど、魚にすら劣ると痛烈に面罵されているようなもので、辛辣という言葉すら胸焼けしそうなほどの甘さです。この意味でも当然泣けますが(笑)、そんな意味で人の胸を打つ事はないでしょう。
であれば、必定、諦め=後者=広義=「運命を悟る」という意味で吟れていると解するべきでしょう。そう諦めれば(笑)、淡々と明るく軽く〜ただしアジテーションアレンジを除く〜「ファイト!」と吟っているにも関わらず、遠大なスケールを感じさせる事にも納得させられる、というものです。運命を悟る事すらも、解くべき「鎖」である、と吟うのです。仏教、というよりその一派である臨済宗(ベースは老荘思想と言われますが)の物言いにも似ています。一休宗純の歌は以前にも紹介しましたが、「しやかといふ いたつらもの」などという物言いです。こうしてみると、仏教哲学との類似性は「ファイト!」に端を発するのかもしれません。中島みゆきは仏教徒ではないはずなんですが、そんじょそこらの生臭坊主より余程仏教を理解しているような気がします。
こう考え進めてみると、「何と」闘えと吟っているのか、朧げながら見えてきます。それは運命であり、宿命であり、それらを覆すことなどできないと悟る自分自身、です。極端に言い換えれば、「身の程知らずであれ」と吟っているのです。身の程知らずは、殆どにおいて、嘲笑の的に過ぎないのは自明な事です。だから、身の程を知っている「闘わない奴ら」は嘲笑うのです。しかし、身の程知らずこそが歴史を動かしてきたのも、また自明な事です。日本史随一の人気者の渾名は「うつけ」です。信長が人気を博すのは、その戦略故であったり政略故であったりもするでしょう。しかし何より、日本の歴史そのものとすら闘おうとしてた信長のスケールの大きさにこそ、人は憧憬を抱くのだと思います。そして志半ばで夭折したことにもまた、不思議な感動を得るのではないでしょうか。この意味で信長と類似なのは坂本龍馬でしょう。彼もまた、日本という国そのものを変えようとしながら、その夜明け前に暗殺されてしまいました。
到底叶わない実現不可能な夢であり、艱難辛苦の道であろうとも、それが夢を信じて生きる事であり、それこそが「闘い」である。中島みゆきはそう吟っているのであり、そんな人に「ファイト!」とエールを送っているのだとわしは思います。
これが「生の肯定」でなくてなんでしょうか。
だからこそ、この曲「ファイト!」は、中島みゆきの代表曲の一つとして目されるのです。
如何でしょう。こうしてみると、序段で「陳腐」と言い切った事も決して罵詈雑言ではないと「諦めて」いただけるのではないでしょうか。