脱・DNAプロジェクトが初めて世に出た2013年(「クライオニクス論」の発行年)から、早いもので10年が経過しました。この間、世界は大きく変容しましたが、特に2019年末に端を発したグローバルパンデミックは、世界的に同時進行で行われたワクチン接種施策のみならず、オンラインやテレワーク社会の定着など、既存社会の枠組みの変更を強いるほど大きなインパクトを残したのではないかと思います。しかし、このパンデミックが人間を内面から見つめ直し、人間の生き方についてより深く考えるきっかけを作ったと言えるのかも知れません。また、2022年末に公開された汎用人工知能のプロトタイプともいえるChatGPTは、コンピューターを自然言語によって運用することを可能とし、世の中に存在する森羅万象の情報に誰もがアクセスできる基盤を作り出しました。これからの人類は、膨大な経験量に基づいた綿密な思考を進めていくことが可能となり、私たちは文明史における最後のルビコン川を渡ってしまったのかも知れません。
脱・DNAプロジェクトでは、人間の持つ尊厳を生み出す場である「個」の存在にこれまでフォーカスを当ててきました。人類の歴史で、私たち自身の存在問題、即ち、生と死の問題に深く関わってきたのは宗教ですが、現代の科学技術もまたこの問題に強く関わっていくことができるのではないかと考えられます。当プロジェクトでは、クライオニクスの実用化により、科学技術力をバックボーンとして、人間の存在問題に深く切り込んでいこうとしています。世界はいま多種多様な価値観を尊重するダイバーシティの考え方が広く普及しています。もちろん、その功罪もありますが、この考え方は人間の主体性そのものの現出であり、人間の自由を担保する極めて重要な立場です。ただし、個々の人間がどのような問題を扱おうとも、それを考える私たち自身の存在を消滅させる「死」の取扱いほど、重要な哲学的問題は存在しえないこともまた事実です。当プロジェクトでは、真正面から「死」の問題と取り組んでいくことを意図していますが、この試みはどこかに不安を抱えながら生きる現代人にとって、有意な価値があると信じています。
当プロジェクトの活動を一言で要約すれば、科学的に死を克服する方法として、実用的クライオニクス技術の普及を目指すというものです。我々は、これまでクライオニクス事業の実現に向けた様々な基礎的研究を進め、またインターネットを通じた啓発活動に従事してきました。特にここ10年間で、実現への可能性を高める新しいクライオプロテクタントの開発準備や、一般生体組織のバイオスタシスを可能にするモデル研究などについて進めて参りました。しかしながら、クライオニクス技術は確かに日々進歩してきていますが、残念なことに、今もって完成の域には到達していません。もちろんここ数年で、不老不死への社会的な認知が一段と深まり、世界の突出したミリオネアたちがこの分野に巨額の研究資金を提供したり、メジャーと称する研究機関が老化を防ぐ科学研究に着手しつつあることは隔世の感があります。しかし、それでもなお、就中、不老不死の科学技術を目指す研究者はどこかアウトサイダー的だと捉えられており、正統なサイエンスの対象として扱う若手研究者の数はまだ少ないままです。
実用的クライオニクス技術を完成させていくためには、一般社会からこれまで以上に広い認知と、純粋科学としてのクライオニクス技術に対する理解を必要としています。こうした背景があってこそ、様々な研究基盤が連鎖的に形成されていき、有為な若手研究者がこの分野に参入できるのではないかと考えます。これからのクライオニクス技術は、従来型のクライオプロテクタントを利用した組織凍結を超え、自然のメカニズムであるバイオスタシスを利用した新しい方向にも向かっていくでしょう。新しいクライオニクス技術の可能性を開拓していくためにも、当プロジェクトへのご理解とご賛同を改めてお願いする次第です。
清永怜信
クライオニクスは死後間もない遺体を長期間凍結保存することを可能にするテクノロジーで、組織としてはまだ生きた状態にあり、拙著「クライオニクス論」のなかでは、生体凍結保存技術と訳されていました。よく混同される類似技術の中には、見かけ上、生前の姿のまま遺体を保存するエバーミング技術や、細胞を変性固定させてしまうプラスティネーションのような加工技術がありますが、これらとは目的が全く異なります。クライオニクスの基本コンセプトは、死後の生体組織を破壊することなく、ありのままに保存することにあり、あくまで将来の治療快癒を想定しているという点にあります。
つまり、現時点において、たとえ死因となったものを取り除けなくても、その解決を未来の科学技術力に託すことで、復活できるかも知れない可能性を温存しているのです。クライオニクスは、私たちの生の時間を物理的に停止させ、寿命をはるかに超えた未来へと延長させる時間銀行の役割を果たすとも考えられます。もちろん、解決の手段が未来の人類に託されるという時点で、少なからぬ曖昧さを残します。しかし、死後の復活は約束されていないかも知れませんが、少なくとも生体構造が破壊されずに保存される限り、未来の復活への希望が現実に残ります。実はここが一番大事な部分であり、死という捉え方を科学技術によって変革していくこと、これこそが脱・DNAプロジェクトの目的なのです。
ー「クライオニクス論」より一部改変
クライオニクスのコンセプトは、意外に古くから提唱されており、トランスヒューマニズムの思想家として知られるアメリカ人、エッチンガーが1962年に著した出版物によって、初めて公になりました。実に今から半世紀以上も前に、クライオニクスという概念自体は知られていたことになります。しかも、話はここで終わりません。その後、非常に熱心な活動家らが中心となって、クライオニクスを施す幾つかの事業団体が実際に設立されたのです。はっきりと物事を主張し、それを行動に移す、いかにもアメリカらしい動きです。これらの事業団体は、現在も活動を続けているものがあり、チェンバレンらによって設立されたアルコー延命財団と、エッチンガー自らが設立したクライオニクス研究所の2つが特に有名です。また、これらの事業団体と連携した複数の本格的な研究支援組織も設立されています。さらに、アメリカ以外の国でも、ロシアのクリオルス、中国の銀豊生命科学院のような事業化の動きが既にあります。日本の現状は、まだこれらの既存組織と協賛した活動団体の設立が見られる程度ですが、脱・DNAプロジェクトは、日本最初の本格的なクライオニクス事業を目指しつつ活動を続けています。
ー「クライオニクス論」より一部改変
クライオニクスは、複雑な生体構造を長期に亘って凍結保存を行い、さらに解凍して元に戻すという高度な技術的ベンチマークをクリアする必要があり、現代科学の先端分野の中でも最も挑戦的な領域の一つです。一般に、生体組織を凍結する時は何らかの凍害防御剤を加えますが、そもそも組織の内部はさまざまな溶質分子が溶け込んだ溶液状態です。このような生体組織を凍結する場合の課題は、溶液中に含まれる大量の水から形成される氷晶をどのように対処するかという問題にほぼ尽くされます。
組織などに含まれる水の凍結は、細胞外で起こるか細胞内で起こるかによって、生体が受ける影響には大きな違いがあり、細胞内凍結は、多くの場合、細胞の死を意味します。例えば、越冬する昆虫の表面は凍結しているように見えても、細胞内は凍ってはいないわけです。また、冷却速度も大きな影響力を持ち、ゆっくり凍結させれば細胞内外の溶液濃度の均衡を保ったまま凍結(平衡凍結)しますが、急速凍結させれば細胞内外の溶液濃度差の不均衡のまま凍結(非平衡凍結)することになります。ただし、どちらの手法が好都合かは凍結させる対象によって異なってきます。
問題となる氷晶形成は、氷核となる微細な粒子に水分子が結合し、凍結温度に応じて結晶が成長していくことによって起こります。氷点よりかなり低い温度帯(摂氏マイナス40度付近)では、氷核がたくさん作られますが、氷晶の成長はあまり進まないので、細かく小さな結晶となります。一方、氷点に近い比較的高い温度帯(摂氏マイナス5度付近)では、少ない氷核に水分子が次々と結合していくため、結晶が大きく成長する傾向があります。このようにして形成される氷晶が、細胞を物理的に傷つけてしまうのです。
また、細胞外でのみ凍結が起こる場合、氷と水の蒸気圧差から細胞内の水が細胞外へ移動する凍結脱水が引き起こされ、細胞内の溶液濃度が高まっていきます。続いて、細胞内でも凍結が始まれば、水分子が先に凍結を始め、溶質分子が取り残されるため、ますます溶液濃度は高まり、化学的な浸透圧差を作り出すことになります。このような状況が、細胞にとってしばしば致命的な結果になることは想像に難くないでしょう。以上から、凍結によって細胞や組織が障害を受ける主な要因としては、凍結による水分子の氷晶化による物理的破壊と、氷晶から取り残された溶液の凍結濃縮による破壊の2つが主に考えられるわけです。
ー「クライオニクス論」より一部改変
安定的な長期にわたる冷凍保存に耐えるためには、極低温(摂氏マイナス130以下)、できれば液体窒素による摂氏マイナス196度で保存することが望ましいとされますが、極低温での長期凍結に伴う組織の損傷は、非常に難しい技術的な問題を含んでいます。凍結した構造は思いのほか、物理的な衝撃に弱いのです。これは単純なことのようですが、いったん凍結された細胞組織にクラッキングと呼ばれるひび割れが生じた場合、例えば、脳組織中のシナプス分断を含む既存の神経回路の破壊が起こり得るため、非常に深刻な問題だと言わざるを得ません。もちろん、長い凍結期間中は絶えず液体窒素の供給が必要ですし、冷凍保存を維持するために、莫大なエネルギーの安定確保も保証する必要があります。
ちなみに、凍結障害は解凍時に現れると言われますが、極低温から解凍する際の再結晶化問題を除き、その主な要因は凍結を行った時点で作られ、どのように凍結させるかで勝負はほぼ決まっています。こうした諸問題に対して、アメリカの物理学者ドレクスラーは、1986年に『創造する機械』という本の中で、凍結障害の修復もナノテクノロジーによって可能になるだろうと唱えていますが、残念ながら、このような分子機械はごく初歩的なものを除いて、すぐには実現できそうもありません。このような八方塞がり的な状況を打開するためには、何かブレイクスルーとなるような根本的に異なったアプローチで問題を解決していく努力が不可欠となるでしょう。そこで、当プロジェクトでは、地球上の非常に劣悪な条件でも生存可能な極限環境生物と呼ばれる一群の生物がもつ自然の仕組みに注目することにしたのです。
ー「クライオニクス論」より一部改変
従来知られているクライオニクス技術は、最新の手法とされる急速ガラス化法を含めても、必ず凍結ステップが含まれています。即ち、生体組織をなるべくそのままの状態で凍結保存するという考え方が主流なわけですが、この方法は、凍結時に不可避に発生する氷結晶を防ぐために、生体組織に有害なクライオプロテクタントを使う必要があります。また非晶質な凍結保存を目指す急速ガラス化法においても、対象の容量限界が存在するほか、生体組織を凍結期間中、極低温を維持し続ける必要があるだけでなく、クラッキングなどの物理的な損傷ともたえず向き合わなければなりません。こうしたジレンマの存在は、現時点におけるクライオニクスの大きなリスクファクターであると言えます。
より実用的クライオニクス技術を完成させていくためには、いかに無害な形で氷晶発生を抑えるかという点が何より重要となります。この問題を解決していくためには、従来型のクライオプロテクタントを利用した組織凍結技術を改良することが、成否を決めるとても重要な取り組みとなります。また、脱・DNAプロジェクトでは、エネルギー・フリーな保存原理であるバイオスタシスの考え方に沿った研究も行っています。ここでスタシスとは、停止状態という意味であり、文字通り生物の生理代謝機能が止まった状態のことを指します。自然界にはこのような驚くべき生体組織の保存メカニズムが存在しており、今後はこうした天然の知恵を取り入れた研究の流れが主流となっていくかも知れません。
清永怜信