column 7

外交記録公開はどのように進んだか

-体験的外交史研究から見る-

白鳥 潤一郎


この10年ほどの間に、戦後日本外交史研究は大きく進展した。かつては史料の少なさを嘆くことが常であり、2000年代初頭まで、主として英米両国の文書に依拠して研究が進められたことは周知の通りである。こうした状況は過去のものとなり、自国の史料に基づいて外交を描き出すことが可能となった。新しい研究が続々と登場し、日本外交の新たな見取り図が提示されつつある。

研究の進展を可能にしたのは、外交記録公開制度の刷新である。日米安保関係など依然として遅れが目立つ政策領域はあるものの、外交史料館への移管については「30年ルール」がほぼ達成されている。筆者は現在、主要国首脳会議について研究を進めているが、公開の進度はイギリスとほぼ同等であり、さらに充実度ではイギリスを上回る部分もある(アメリカは新たな文書の公開が近年停滞気味である)。外交問題が多様化する中で重要性を増す他省庁の文書の利用という課題は残されているが、利用可能な外交文書がこれだけ増えていることはもっと知られてほしい。

とはいえ、目まぐるしい制度の変容とその実態が広く理解されているわけではない。この小論では、筆者の研究生活と重ね合わせながら、外交記録公開の変遷と現状を紹介したい。


選択的文書公開時代の研究生活

筆者が大学院に進学したのは2006年4月のことだが、研究書や論文を読み漁っていたこの時期、次々と注目すべき研究が発表されていたのは対東南アジア外交であった。

戦後期を対象とする外交記録公開は1976年5月に開始された。当初は占領期が中心であり、講和後の案件は第8回(85年3月)から対象となった。この制度の下で、2008年12月までに約1万2000冊が公開された。しかし、これは外務省の自主的な取り組みであり、徐々に公開の遅れが目立つようになっていた。1970年代以降の文書はほとんど含まれず、内容面でも政治的に注目が集まるような案件が含まれることはあまりなかった。例外的に、重要な文書が多数公開されたのが、対東南アジア外交の分野であった。

これらの文書に加えて、重要な意味を持ったのは2001年4月に施行された情報公開法である。他省庁とは比較にならないほどに進んでいたとはいえ、従来の制度はあくまで外務省が選択的に文書を公開する仕組みであった。情報公開法はこのような状況を根本的に変えた。慎重な公開審査を経る必要はあるものの、省庁が保有する全文書にアクセスすることが理論上は可能になったのである。

冷戦終結後、アジアでも地域主義が盛り上がりを見せていたこともあり、対東南アジア外交について多くの研究が蓄積され、日米関係を中心に語られてきた日本外交がより立体的なものとして捉えられるようになった。

研究テーマの選び方はさまざまであろう。筆者の場合は、漠然とした意識のままに進学したこともあり、修士論文のテーマを決めるまでは紆余曲折があったが、突破口となったのは、政策研究大学院大学を中心に進められていた外交官のオーラル・ヒストリーと回顧録であった。そして、それらと並行して幅広く史料を読み進めたことがその後につながった。

当時は史料面において、戦後日本外交史研究は端境期と言えた。情報公開法を使えることはわかっていたものの、テーマが決まらない状況で闇雲に請求を繰り返しても仕方がない。そこでまず手にしたのは、諸外国の公刊文書集と、民間のナショナル・セキュリティ・アーカイブが、アメリカの情報自由法に基づいて取得した日米関係に関する文書集であった。およそ10年前まで、諸外国の文書をまず読むことが研究の第一歩だったことの証左であろう。

その後、「第一次石油危機と日本外交――国際経済秩序変動期における先進国間協調の模索」に修士論文の題目を定め、情報公開請求を行うことにしたのだが、その前に当時の一般的な状況を見ておきたい。

研究で参照されていた情報公開文書の多くは、文書の特定が容易な会談録や、大使会議や 主要国との政策企画協議の議事録が中心であった。会談録は相手によって発言のニュアンスが変わり得る。また、大使会議などは個人資格の自由発言を旨とするからこそ比較的早くから公開が進んだのだろう。政府内の多様な見方や特定の政策課題に関する「空気」の変遷は読み取れるが、研究に用いる際には慎重な史料批判が求められるものである。

さて、上記の文書群に加えて、ひとまず修士論文に関する主要な国際会議を対象に開示請求をしたのだが、ここでは運に恵まれた。当時の外交記録公開制度の対象となっていたのは文書課の整理を経たファイルだったが、情報公開の対象は現用文書である点に留意する必要がある。こうした点は後に認識することになるのだが、この時は偶然にも整理がよく行き届いたファイルに対象文書の多くが要領よくまとめられていたことから、研究を順調に進めることができた。内部で作成された調書や会議の対処方針、議事要録や代表所感などを整理された形で手にできたのはまことに幸運であった。この偶然がなければ日本の文書を主史料に論文はまとめられなかった。

テーマによっては外交記録公開文書も使うものの、70年代以降を対象とするなら、まず諸外国の公刊文書を押さえ、日本側は情報公開文書やインタビューを主に用いるというのが研究の標準的な進め方であった。もちろん外国の公文書館所蔵文書も使われていたが、かつてとは異なり、自国の文書を主史料に「外国から見た日本」ではなく、日本政府内部の政策決定過程に踏み込んだ研究が増えつつあった。筆者の修士論文もその流れに乗ったものであった。


外交記録公開の刷新と「密約」調査

修士論文は2008年1月に草稿をまとめた。その後、主要な会議や会談だけでなく行政文書ファイル管理簿を活用して追加的にファイル単位で情報公開請求を行うとともに、関係者へのインタビューを重ねて改稿を進めた。

この間、外交記録公開は大きく変わることになった。民主党政権下で進められた、いわゆる「密約」問題に関する調査は大いに注目を集めた。この問題は選挙戦中から話題となっていたが、政権交代直後、09年9月に岡田克也外務大臣(当時)の指示によって省内に調査チームが設けられ、さらに同年11月には有識者委員会が発足し、調査・検討が進められた。安保改定や沖縄返還などは「密約」の存在が囁かれており、学界・メディアからの強い要請にもかかわらず文書は公開されてこなかった。ここに政治主導でメスが入れられたのである。

翌10年3月に、調査結果をまとめた報告書が関連文書とともに公開された。有識者委員会の指摘を受け、同年5月には、30年公開原則を掲げた「外交記録公開に関する規則」が定められ、大臣政務官や有識者を含めて外交記録公開推進委員会が設置されることになった。さらに6月には外交文書の欠落問題に関する調査報告もまとめられた。それまで公開の見込みがないと思われていた安保改定や沖縄返還の関連文書が公開されたことは、外交記録公開の質を高めることにつながった。

時期は前後するが、「密約」調査の少し前から、外交記録公開制度は刷新が図られていた。09年2月に外務省移管ファイル件名目録に基づく要公開準備制度が開始されたのである。従来の制度からの変化は大きく2つあった。1つは移管と公開の分離である。旧制度は数年に1回の公開であり、対象の文書も何が出てくるのかもわからず、また文書数も徐々に目減りしていた。新制度では、まず外交史料館に移管された文書のアナウンスがあり、利用申込を受けて公開準備を行って利用に供するという仕組みに改められた。アナウンスも数ヵ月ごとと頻繁になった。遅い場合でも申込後1ヵ月を待たずに閲覧可能になるなど、審査期間は比較的短かったと記憶している。もう1つは現物での利用が原則となったことである。旧制度では、マイクロフィルムリーダーないしパソコンでの利用が基本であった。個人差は当然あるだろうが、やはり紙での閲覧は効率がいい。

この新制度に基づいて、11年3月までに約1万2500冊が移管された。これだけでも、旧制度化の33年間で公開された以上の冊数である。戦後日本外交研究をめぐる環境は大きく変わりつつあった。

公文書管理法施行と外交記録公開の現状

現在につながる体制は2011年4月の公文書管理法施行によって整った。公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用できるもの」と定めた同法の施行に伴い、外交史料館は「国立公文書館等」とされ、外務省の保有する「特定歴史公文書等」は外交史料館で管理・公開されることになった。外務省の自主的な取り組みであった外交記録公開に法的な裏付けが与えられた形である。

要公開準備制度とほぼ同様、2ヵ月に1回のペースで外交史料館へ移管されたファイルのアナウンスがあり、利用請求後の公開審査を経て供される。また、1度審査が行われたものは誰でも外交史料館で閲覧することができる。公文書管理法施行以前のものも合わせれば、新制度下で4万冊強のファイルが移管されている。

個人的には、同法施行に際して外交史料館でもカメラによる複写が可能となったことが大きかった。それまでも複写は可能だったが、料金が割高で大学院生時代の筆者にはとても手が出なかった。これでアメリカやイギリスの公文書館と同様の、集中的な調査への道がここに開かれた。

ところで、筆者が博士論文(「戦後日本における資源外交の形成1967~1974年」)を提出したのは2012年12月だが、外交史料館所蔵文書の利用は限定的であり、中心は情報公開文書であった。この段階ではまだ研究対象の関連文書の移管が進んでいなかったこともあるが、公開審査の長期化と厳格化という問題ゆえである。

それまで1ヵ月を超えることがなかった審査期間は徐々に延び、請求の仕方にもよるが、研究に必要な大量のファイルの利用には1年近くかかるのが通例となってしまった。また、外務省独自の基準で行われていた公開が他省庁と横並びの制度に基づく形になり、非公開とすべき情報の取り扱いは厳格化された。たとえば政府高官以外の情報提供者や企業関係の情報の大半が黒塗りにされてしまった。

執筆期間が限られる修士論文であれば致命的だが、博士課程やポスドク(博士研究員)であればある程度時間にも余裕がある。ここでも運に恵まれたのであろう。審査の厳格化については、研究で取り上げる外交課題の中心が国際機関関係だったことからそれほど深刻な影響はなかった。最低限必要な文書は情報公開請求で取得しており、追加的な調査は単著刊行まで先延ばしにすることにした。

15年8月に刊行した拙著『「経済大国」日本の外交――エネルギー資源外交の形成 1967~1974年』(千倉書房)では、外交史料館所蔵文書を主史料に外交史研究としては比較的新しい時代の日本外交を描くことができた。ファイル単位の請求でもどうしても欠落がある情報公開文書とは異なり、現場で使われていた生の文書(この時代の文書には今は「私的メモ」とされるような雑多なものが、調書や公電に挟まれるように多数含まれている)を包括的に利用したことで、政官関係の機微を含む重層的な政策決定過程の分析が可能となった。


「開かれた外交史料」は守られるか

このようにふり返ると、この10年間で外交記録公開をめぐる状況が大きく変わったことがわかる。とりわけ公文書管理法が施行されるまでの変化は実に大きい。その後は新たな制度が定着し、課題は残しつつも運用が改善に向かいつつあるといったところだろうか。16年11月からは移管したファイルの概要も併せて公表されるようになった。黒塗りについても若干見直されているようである。

こうした中で心配なのが国立公文書館新館建設問題である。今年3月に「新たな国立公文書館の施設等に関する調査検討報告書」が公表された。老朽化し、スペースにも問題を抱える公文書館新館建設は喫緊の課題であり、また公文書管理法施行をふまえ、展示機能の充実を図ることも基本的に望ましいことだろう。

しかし報告書には、新たな施設の整備を契機として検討すべき課題として「類似の機関が所蔵する文書に関しては、デジタルによるネットワーク化を図るとともに、可能な範囲で国立公文書館に集約する方向で検討されるべき」と記載されている。この「類似の機関」には、外交史料館が含まれている。

ワンストップでの利用は利用者にとって望ましいと思われるかもしれないが、外交史料館は遠隔地にあるわけでもないし、これまでの蓄積と経験が官民双方にある。国立公文書館が独立行政法人であることも見逃せない。政府機関である外務省が責任を持って「特定歴史公文書等」の移管・公開を実施する現在の体制を後退させる必要はない。国立公文書館の体制が根本から見直され、英米型の強力な権限を持つ形であれば確かに魅力的ではあるが、文書の性質の違いもあり、独仏両国をはじめ外交史料館が別置されている国は決して少数ではない。『日本外交文書』の編纂も戦後期に入る中で、外交文書の管理・編纂・公開を一体で進める体制が失われる事態は避けるべきである。

この10年間で外交記録公開制度は質量ともに充実が図られた。求められるのは国立公文書館への統合といった大きな制度の変更ではなく、審査期間の短縮化、審査体制や基準の見直しといった地道な運用の改善であり、予算・人員面での手当てを含めた取り組みであろう。


『外交』Vol.45(Sep./Oct. 2017)より転載