Column1

外交記録公開の現状と課題

高橋 和宏


外交記録公開と外務省

(外交文書の公開は)民主主義の根本だろうと思うのでございます。やったことはやましいことではない、ちゃんとしたことをやっておるのだということを、歴史的な検証にたえるだけのことをやらないと申しわけないと思うのであります。一定の期間たちまして、関係国に対しましても支障がないという段階になりますと、洗いざらいこれを国民が自由に回覧できる、学者はこれを活用できるというようにすべきでないかと思うのであります。(カッコ内引用者)(衆議院外交委員会、昭和48年6月20日)

これは、戦後期の外交文書の公開について事務方に検討を命じたあとの、大平正芳外務大臣の国会答弁である。「密約」という十字架を背負っていた大平にとって、外交を歴史の検証の舞台に立たせる外交記録公開という仕組みを確立しておくことは、「密約」と「民主主義」とに整合をつける唯一の解だったのかもしれない。

いずれにせよ、外交文書の公開を「民主主義の根幹」とする大平の見方は「外交記録が国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るもの」と位置づける現在の「外交記録公開に関する規則」(外務省訓令、平成22年5月25日制定)にも通じる理念といってよいだろう。

実際、現在に至るまで外務省は文書の公開にもっとも積極的に取り組んできた官庁である。「真正なる史料を公開し、以て外交知識の一般的普及及向上を計ることの緊要なるを痛感」(注1)した外務省が1936年に刊行を開始した『大日本外交文書(日本外交文書)』は、日本政府による公文書の本格的な公開の嚆矢となるものであった。終戦後にはGHQに接収された外交記録がマイクロフィルム化されて市販されたことなどもあり、1958年、戦前期の外交文書を一括して秘密指定解除し、当初は外務省内の書庫で、1971年の外交史料館開館後は同館で、研究者等の閲覧に供されてきた。戦前期の日本外交に関する豊饒な研究が、これら外交文書に多くを依っていることは改めて論じるまでもないだろう。

戦後期の外交文書の公開についても、大平の指示をふまえて、細谷千博一橋大学教授や江藤淳氏ら有識者を交えての検討を行い、1975年12月には「原則として作成後30年を経た外交記録を、一部の例外を除いて秘を解除し公開するとの方針を決定」した(注2)。翌1976年5月には第1回外交記録公開として戦後期の外務省記録190冊が公開されている。

当時、学界では占領史に関する研究が盛んだったこともあり、1982年9月の第7回公開までは占領期間中の外交文書が集中的に公開対象とされた(第7回までに558ファイルが公開)。1985年3月の第8回外交記録公開からは講和後の案件が公開の対象となり、第1回公開から2008年12月の第21回公開までに約12,000ファイルの戦後期外務省記録が公開され、研究者らの手で歴史史料として活用されることとなった。


外交記録公開制度の刷新

どんな制度も、初動の推進力が失われ業務がルーティン化すると、徐々に制度疲労が目立つようになる。外交記録公開もその弊を免れず、いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会報告書(2010年3月公表)が、外交記録公開は回数を重ねるにつれ、公開の遅れや公開内容に対する不満が聞かれるようになっている、初期の意気込みが後退しているのではないか(注3)、と指摘したような停滞感が漂うようになっていた。

この公開の遅れと公開内容の二つの問題は、「量」と「質」を問うものと言い換えることもできるだろう。このうち「量」の問題については、第13回公開以降に採用された「一般案件」の大量公開(合計で約8,850ファイルが公開)や、2009年2月から2011年3月まで実施されていた「外務省移管ファイル件名目録(外交記録公開一般案件目録)」に基づく「要公開準備制度」によって問題改善が図られていた。「要公開準備制度」とは、作成後30年以上経過した外交文書を簡易的な審査で外交史料館に移管し、利用者からの請求を受けて、マスキングなどの公開準備を行って利用に供するという仕組みで、公文書管理法施行までに約12,500ファイルが外交史料館に移管された。また、現在では、「通常審査」という形で移管促進が図られている。いわゆる「密約」問題が議論され、政治のイニシアティブで外交記録公開の制度改革がスタートする以前から、外務省内部で「量」の問題に対する取り組みが重ねられてきたことは注目に値しよう。

他方で、「質」の問題を改善へと導いたのは、民主党への政権交代後の岡田克也外務大臣の指導力であった。それまでに公開されていた外交文書にも「質」の高い文書は多く含まれ、それを利用した研究も進展していたものの、安保改定や沖縄返還交渉など「密約絡み」の案件は学界・メディアからの強い要請にもかかわらず永らく公開を見送られてきた。政権交代以前にも沖縄返還関連文書を公開しようとする動きがあったようだが、ボトム・アップの作業では過去の国会答弁との整合性にも連動する機微な文書の公開は難しかったであろう。そうした「しがらみ」を裁断するために「政治主導」は不可欠であった。また、もっとも公開から遠いと思われた安保改定や沖縄返還交渉などの文書が公開されたことは、外務省内部で公開に対する「タブー感」を取り払うことにもつながったと考えられる。実際、北方領土問題など現在の外交交渉に関わる一部の文書を除けば、1970年代後半までの外交案件に関する文書は順次公開の対象となっており、かつての外交記録公開に対する批判の一つであった公開案件の恣意性はかなりの程度排除されている。

2010年5月には、「30年公開原則」を掲げた「外交記録公開に関する規則」が大臣訓令として定められ、文書公開への政務レベルの関与や、外部有識者を含めた「外交記録公開推進委員会」の設置が制度として担保された。こうして外交記録公開制度は、「量」と「質」の両面で利用者のニーズに応え得るものへとリニューアルされたのであるが、その持続可能な運用という課題が残されている。


今後の課題―持続可能な制度とするために―

外交記録公開制度の見直しが行われた翌2011年4月、公文書管理法が施行された。公文書等を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用できるもの」(第1条)と位置づける同法と外交記録公開とが同じ精神に基づいていることは論をまたない。公文書管理法及び同施行令によって、外交史料館は「国立公文書館等」と位置づけられ、外務省の特定歴史公文書等は外交史料館で管理(公開)されることが法的に定められた。このこと自体、歓迎すべきことである。

だが一方、法で定められた規定となったがゆえに、制度の柔軟性が失われるといった状況も考えられる。たとえば、非公開とすべき情報の取り扱いをめぐって、法制定以前の「緩やかな」基準では公開されていた情報が新しい法令上の規定に基づくと非公開事由に該当するといった可能性が生じている。公文書管理法によって各省庁横並びの基準を設けたのは必要な措置だが、そのことによって先行していた外務省の取り組みに足枷を課すことにもなりかねないのである。公文書管理法施行によって、非公開とされる文書が増えたといった事態が生じないよう、同法16条2項の「時の経過」の考え方や歴史資料として重要な公文書等の利用促進という法制定の趣旨に照らして、前向きな公開姿勢が維持されることを望みたい。

また、外交記録公開規則では、政務レベルや有識者を交えた外交記録公開推進委員会が文書公開の可否を審議することなどを定めている。こうした仕組みは制度運用の透明性を確保するという意味で必要なものであるが、それにかかる事務作業が増大することは避けられない。また、公文書管理法の下では、外交史料館に移管された文書で「要審査」とされているものはすべて利用請求権を行使して閲覧することになるが、そのための作業負担も大きい。今後、利用請求を受けて公開するファイル数が増えれば、それに正比例して審査に要する作業量はさら増加することになる。

要するに、外交記録公開を促進するためには、それだけマンパワーが必要である。外交記録公開規則制定にあたっては文書業務に携わるスタッフの大幅増員が掲げられたが、課題は業務遂行のコアになる専門的知識を有したスタッフの確保であろう。外務省には明治から連綿と続く「文書畑」の伝統がある。せっかく立ち上げた制度を持続的に運用していくためには、そうした過去の遺産を継承しつつ、公文書管理法やデジタル化といった新たな専門性を身に付けた人材を本省の文書部門と外交史料館の双方に配置することが急務である。

とりわけ必要だと思われるのは、利用者にとってのガイド役となる「外交アーキビスト」である。外務省の文書は戦前から1970年代まで、各局課で用済みとなった文書を文書担当部署が独自の編纂方式によりファイリングし、利用に供してきた(いわゆる「青ファイル」)。青ファイルは関係部署が作成・保有していた文書を案件ごとに体系的にまとめているため、分類番号やファイル名から必要な文書へと容易に辿ることができ、効率的な利活用が可能である。

ところが、1970年代半ば以降は文書量増大などの理由により青ファイルの編纂作業は行われないようになり、主管課室で使用していたファイルがそのままの形で外交史料館に移管されている(移管リストで「2013-0001」のように西暦から始まる管理番号が付されているもの)。青ファイルのように体系だった整理・分類のされていないこれらの未編纂ファイルは、現在の仕組みではファイル名からはどのような文書が含まれているかよく分からなかったり(注4)、同じようなタイトルのファイルがたくさんあるのに相互間の関連性が不明だったりする不具合が発生している。

こうしたファイルは、極端にいえば、ファイル名から「あてずっぽう」に利用請求し、「アタリ」か「ハズレ」かは、ファイルを開けてみるまで分からない。これでは、利用者にとっては無論のこと、審査する側にとっても能率的ではないだろう。利用者は自身の研究に必要な文書をできるだけ効率的に調査でき、また審査する側も利用者が必要とする文書の審査を集中的に行えるような関係性を構築する必要がある。公開審査にあたるスタッフに限りがある現状では尚更である。

こうした問題を解決するためには、利用請求を行う前に、利用者の研究内容を把握し、どのファイルを利用してもらえば一番良いのかを紹介できるようなレファレンス機能が重要になる。そのためには、外交記録の全体像を把握し、利用者が信頼して史料について尋ねることのできる「外交アーキビスト」が必要なのではないだろうか。外務省には、栗原健博士という偉大なアーキビストの先達がいる(注5)。そうした伝統を継承する人材の育成・確保が今改めて求められているように思う。外交記録公開制度において、利用者と外務省とは、単に利用を請求し、文書を公開するという機械的な関係性ではなく、双方の対話から制度の漸進的改善と効率的な運用が図られるような、有機的な協力関係を構築していくことができるはずである。

他方で、外交文書が洪水のように公開される現状は、利用者にとっても、従来の研究手法を見つめ直す良いタイミングなのではないだろうか。単に外交文書に記載されている情報を利用するというのではなく、その文書が誰のどのような意図で作成され、政策決定過程においてどのような意味を持ったのか、他の文書と関連性から浮かんでくる事実はないか、といった史料分析の基本にいま一度立ち返る必要があろう。また、1970年代以降の日本外交は国際経済問題を中心にイシュー領域が拡大深化していくが、それを描くのに外務省の文書ばかりが利用されると、あたかも外務省がすべての政策形成の中心にあったかのような歪な構図になりかねない。今後の外交史研究においては、そうした外務省中心史観に陥ることのないよう、関係省庁や政治家・政党などの文書も積極的に収集・活用し、立体的な歴史の再構築に心がけるべきであろう。


大平が語ったように、外交文書の公開は民主主義の根幹にかかわる問題である。そのための制度を機能的・持続的に運用していくことは民主主義国家にとって不可欠の要件といえよう。いわゆる「密約」調査後の制度刷新や公文書管理法施行という変革をへてバージョンアップした外交記録公開制度を持続可能なものとしていくためには、人的な面を含めた制度補強が不可欠である。同時に、利用者とアーキビストとの友好的・協力的な関係を基礎として、そこから多くの優れた外交史研究が産み出されていくという、外交記録公開の良き伝統が今後も受け継がれていくことを期待したい。


(注1) 外務省百年史編纂委員会編『外務省の百年 下』(原書房、1969年)、1303頁。

(注2) 記事資料「外交記録の公開について」(昭和50年12月25日)、外務省情報文化局『外務省公表集(昭和50年)』282-283頁。

(注3) 波多野澄雄「外交文書の管理と公開について」「いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会報告書」(2010年3月9日公表)99頁

(注4) 波多野澄雄『歴史としての日米安保』岩波書店、2010年、281頁。

(注5) 細谷千博「栗原健さんの思い出」『外交史料館報』第20号(2006年10月)、89-96頁。


2013年6月10日執筆 2014年7月30日加筆