Briefing Paper 1

核不拡散条約(NPT)の形成と日本


武田 悠(広島市立大学)


核不拡散を主目的とした新たな条約というNPTに向けた取り組みは、アイルランドなどヨーロッパの小国が1950年代末から国連総会に提出していた決議案に端を発する。その後始まった米ソ交渉は、保障措置や米欧間の核共有をめぐる協議などの問題により停滞していたが、米欧間の核協議のあり方が変わり、フランスに続いて中国も1964年に核実験に成功して危機感も高まったことで、1965年以降進展を見せ始めた。

これを受け、日本はまず米国に対し働きかけを開始する。その際の申し入れ事項を整理したのが、1966年12月16日付「核拡散防止条約に関するわが方見解の申し入れについて(案)」である(史料1)。具体的には、核問題に関する国際政治についての見解の他、中仏など全ての核保有国が加盟すること、核軍縮の努力を明確にすること、非核保有国の安全保障のため適正な措置をとること、日米安全保障条約を損なわないため核持ち込みを認める権利を害さないこと、同じ趣旨で核兵器に関して核保有国と協議する権利を害さないこと、有効期間を限定し再検討の機会も設けること、国際的な保障措置を整備すること等の要望を挙げており、その後の日本の主張がこの時点でほぼ揃っていることがわかる。なお、一連の要望のうち、特に日米安保条約の機能を害さないためとされた核持ち込みと核協議の確保は、日本がNPTに参加する上で不可欠の条件とされた。

一方日本国内では、中国の核実験の後、これ以上の核拡散を阻止するNPTについての米ソ交渉が進む中、独自の核を持つことで中国の脅威に対抗すべきではないかという議論が活発となった。1966年12月、外務省の軍縮室はこうした主張に対する反論をまとめている(史料2)。その反論は、米国が対中抑止力の確保に努力するであろうこと、いま核武装の道を選べば米国の核抑止力に対する不信感を表明することになり、自ら日米安保条約の有効性を低下させることになりかねないこと、既に非核を政策の基本としていること等から、NPTで核の製造や取得を禁止されても安全保障上実害があるとは言えないというものである。また核の製造は既に部分的核実験禁止条約(PTBT)で地下核実験以外を禁じられて制約を受けており、外国から取得するとしても米国以外に候補はないため、米国が主導してNPTが成立した時点で、日本の参加に関係なく日本が核兵器を持つ途が事実上閉ざされると分析している。ただし、将来政策を変更する必要が生じることも否定できないため、NPTの有効期間を限定することは是非必要だという分析もカッコつきで付された。いずれにせよ、問題は事前協議つきで可能となる核の持ち込みや将来必要となりうる核兵器をめぐる協議が禁止されないかどうかである。米国やNATOがこの種の活動の禁止に反対してきたことを考えれば、NPTによる核兵器の製造や取得の禁止が日本の安全保障に影響を与える可能性は低いというのがこの調書の結論であった。

1967年8月には、米ソが同一の条約案を18ヵ国軍縮委員会(ENDC)に提出した。この際に日本のジュネーブ代表部は、非核兵器国の安全保障をめぐる米ソの食い違いを報告している。すなわち米国は条約では処理できないとしたのに対し、ソ連は領域内に核兵器が存在しない国への核兵器の使用禁止を謳ったコスイギン(Alexei Kosygin)首相の声明を条約に取り入れるべきだと主張したと紹介し、この問題の解決のため米ソが意見交換を続けるという了解のもとに条約案を提出したと述べたという(史料3)。

また米ソの条約案で保障措置を定める第3条が空白となっていたことは、外務省で日本の主張を反映させるチャンスと捉えられた。8月26日付の対処方針案では、NPT加盟のインセンティブを弱めないよう非締約国への原子力関連の物質・施設・設備の移転を禁止すること、均衡を失わないよう核保有国を含めた全ての締約国が保障措置を受諾すること等、従来から日本が主張してきた点が挙げられている(史料4)。

協議の主な場であるENDCのメンバーとなれなかった日本は、こうした主張を条約に反映させるため、各国に申し入れを行った。9月9日に本省から発出されたソ連に対する申し入れの指示では、条約において核軍縮の意図を明確にすること、核保有国も保障措置を受諾すること、保障措置が経済的・技術的発展を阻害しない方法で行われる旨を明確にすること、条約のレビューを行う「再審議会議」を定期的に開催すること等が要点となっている(史料5)。

また米国との二国間協議も開催され、1967年5月には、三木武夫外務大臣とフォスター(William C. Foster)ACDA長官の会談が行われている(史料6)。この会談で米国側は日本の要望について、5年毎のレビュー会議は多数国の要請があった時にすべきである、平和利用は他国からの多くの要請があったため第三条に新たに規定を設ける予定である、等と説明した。なおフォスターは米国も欧州原子力共同体(ユーラトム)の保障措置が真に国際的な保障措置だとは考えておらず、この点でソ連の反対はもっともだと述べた他、ENDCへの日本の参加についてはソ連の反対があり、個人的にも会議の能率が低下するような拡大には賛成できないが、西側から日本、非同盟からユーゴ、東側から1ヵ国という形で限定するなら米国としても支持できる、とも述べている。

三木・フォスター会談では、NPTの技術的側面についても協議するため、日米間で専門家協議を開催することも決定された。この日米専門家協議には、外務省の国連局、科学技術庁(科技庁)の原子力局、通商産業省(通産省)の原子力発電課の他、原子力研究所や日本原子力発電(原電)、東芝等の関係企業、そして向坊隆東京大学教授ら学界関係者の参加が予定された(史料7)。この専門家協議において日本側は、NPTに基本的に賛成の態度をとりつつも、将来の態度を拘束する発言はせず、ウランの供給やプルトニウム利用の自由が確保される必要がある、という方針をとった(史料8)。

協議は1967年11月、外務省で2日間に渡って開催された(史料9)。外務省から服部五郎国連局長、矢田部厚彦科学課長、沢井昭之軍縮室長、科技庁から村田浩原子力局長と関係課長、原電から嵯峨根遼吉副社長が参加した他、通産省、原子力産業会議(原産会議)、動燃、中部電力等の関係者が参加した。100ページ近い議事録からは、NPTにおける保障措置については継続的に改善したい米国側とこの機会に全面的に再検討したい日本側の食い違いや、NPTにおける核爆発装置の定義の違い等を見ることができる。また保障措置については小委員会が設けられたが、同様に日米の意見は食い違っていた。日本の産業界には現行のIAEA保障措置に対して産業秘密が必ずしも守られないという不満があったが、米国側は施設の運転を阻害することはないと見ていた。弾力的な保障措置の運用でも、これが国によって査察の範囲を変えることにつながりうるため不公平だとする日本側と、弾力的だからこそ問題ないという米国側の意見は対立した。

また日独間でも、三木・ブラント(Willy Brandt)外相の会談で同様の協議について合意がなされた後、西独からシュニッペンケッター(Swidbeer Schnippenkötter)大使が来日し政府間で意見交換を行う、専門家が来日し査察など平和利用の問題について意見交換を行うなどの提案があり、日米間と同様に協議が行われた。日本側はこれらの提案に前向きとは言えなかった。政府レベルでの協議が既にジュネーブで行われているため大使来日に実質的な意味が乏しく、日米専門家協議の日程もまだ決まっていなかったためである。しかし西独の申し出を断るほどではないとして、日本は協議に応じることとなった(史料10)。

協議は1968年4月、外務省で3日間に渡って開催された(史料11)。参加した組織はほぼ同一であるが、科技庁原子力局長が参加した日米協議とは異なり、参加者は矢田部厚彦科学課長ら課長級と企業、学界の関係者にとどまり、西独からはラーミッシュ(Rolf Ramish)外務省軍縮課長の他、カールスルーエ研究所の関係者らが出席した。議事録からは、全ての非核保有国に義務付けられるNPTの下での保障措置のありかたやIAEAとの交渉の方法が主な議題となり、潜水艦用原子炉の是非など、NPTで禁止される対象の曖昧さなどで両国が問題意識を共有していたことがわかる。ただし細部では意見の異なる問題もあり、例えばユーラトムの保障措置については、日本側がIAEA保障措置との間に差があると見ていたのに対し、西独側はこれを否定している。また平和的核爆発についても、西独側は今後の発展が見通せないとして核爆発装置の定義は一切すべきでないとしたが、日本側は定義がないと核兵器国の裁量に委ねられるとして懸念していた。

日本が保障措置について懸念を表明した背景には、日本の産業界の意向があった。例えば原産会議は、NPTに関する交渉が進む中、日本国内で建設されつつある原発への影響等を見越して特別委員会を設置し、検討と意見表明を開始している。委員会は関係企業から構成され、外務省、通産省、科技庁もオブザーバーとして参加していた(史料12)。特に査察問題については小委員会が設置され、技術的な検討を重ねた。その結果、査察に伴って施設の運転が阻害される可能性が数多く指摘され、平和利用を阻害しないような、平等な、査察員個人に左右されないような査察が必要だという結論が提出された(史料13)。

その後、1968年7月にNPTは署名開始に至り、日本もこれに署名するかが問題となった。日本国内では意見が割れ、外務省内でも反対論があった。特に反対論者として知られていたのが、外務事務次官時代からNPTに反対し、1967年からは駐米大使を務めていた下田武三である。1969年7月10日に本省に寄せた意見具申でも、新たに発足した米ニクソン(Richard Nixon)政権にNPTへの熱意が見られないこと、NPT加盟に慎重な姿勢がバーゲニングチップになること、NPTの枠外に居続ければ日本や西ドイツが潜在的核保有能力を武器に核軍縮を要求することも可能であること等を主張している(史料14)。

ただ、NPT発効後は署名と批准を同時に行う必要もあったため、外務省はその後署名に向けて動き、軍縮室がNPTにいかに日本の主張が反映されたかをとりまとめた。1969年10月のこの文書は、核軍縮に向けた核兵器国の努力を規定した第6条、国連憲章に違反するような形での核兵器の使用や威嚇を慎むとの前文第12項、平和利用を阻害しないとした前文と第4条等に日本の主張が反映された他、手続き面では5年ごとのレビュー会議を求める日本やスウェーデン等の主張が採用されたとまとめている(史料15)。この中にはメキシコや西独など、むしろ他国が主導して米ソに求めた項目もあったが、軍縮課はこれらを日本の働きかけの成果としてまとめている。その後、批准の際には改めて慎重な検討を行うことを条件に自民党内の同意が得られ、日本は1970年3月の条約発効直前に署名した。

署名の際、日本は特に関心を持つ問題として軍縮、非核兵器国の安全保障、原子力平和利用の実質的な平等性の3つを挙げた。その後、日本の批准の動きは停滞したものの、国連局が1973年5月にまとめた「核兵器不拡散条約(NPT)批准問題に対するわが国の態度について」に付された文書が示すように、3つの問題については1970年代前半の時点で既に進展が見られていた(史料16)。まず軍縮については、海底軍縮条約が成立し、戦略兵器制限条約(SALT)に関する米ソ交渉も進展していた。非核兵器国の安全保障については、米ソデタントが進展し、フランスはNPTの趣旨に反した行動はとらないと宣言し、中国も以前から核兵器の先制不使用を宣言していたため、安全保障環境が改善された。原子力の平和利用についても、INFCIRC/153の定めるNPT下の新たな保障措置のモデルに沿った形で、ユーラトムとIAEAが保障措置協定を締結した。加えてカッコ付きながら、日本のNPT批准についても、日米の信頼を高め、米国の核抑止力のクレディビリティを高めると記されている。

ただ、日本国内は依然として賛否両論であった。批准に向けた動きが始まる半年前の1974年8月、国連局は国内の議論をまとめている。ここでは国際関係の安定、日本核武装の疑惑の払拭などの理由を挙げる批准賛成論に対し、米ソの優越的地位が固定化する、核武装のフリーハンドを失うといった広く議論されていた反対論の他、対米従属が恒久化されるという共産党の議論、保障措置で産業機密が漏洩する、NPTに入らない場合でも核燃料の供給に心配はないといった東京工業大学の野沢豊吉教授の反対論が列挙されている(史料17)。また前年には、NPTをめぐる国会論議がまとめられている。ポイントは非核兵器国の安全保障、核軍縮、原子力平和利用というその後も争点となる3つの課題であり、既にこの時点で議論は出尽くしていたことがわかる(史料18)。

反対はありつつも、1974年12月に発足した三木内閣は、首相である三木の強い意思でNPT批准を表明した。宮澤喜一外相もこれを支持し、外務省も本格的な準備に入った。その後、NPT批准を擁護するために用いられた論理は、1975年1月に作成された部内参考用の文書にほぼ全て示されている(史料19)。この文書は前述の1974年の国連局の文書と同じく、署名時の声明が挙げた問題がそれぞれ改善されたという認識に立って、不平等条約と言われるが核軍縮を目指していること、核武装の自由を奪われると言ってもそもそも日本の核武装が現実的でないことを指摘し、米国からの濃縮ウラン供給のためにも、またインド核実験などで核不拡散が一層求められ、実際に他国の批准が進んでいる国際情勢を考えても、早期批准が必要であると述べている。

三木の決断で本格化したNPT批准であるが、外務省は保障措置協定締結のためのIAEAとの予備交渉で、既に批准に向けた国際的な圧力を受けていた。この年2月、IAEAとの予備交渉が実質的に妥結した際にも、今井隆吉参与はこうした圧力があったと伝えている。今井によれば、IAEAのフィッシャー(David Fischer)交渉団長は、ここまで日本側の要求に応じたのに日本が批准できなかった場合、大変なしこりが残ると述べた。また米国のポーター(Dwight J. Porter)大使も、IAEAは保障措置部の筋論を抑えるのにかなりの無理をしており、また米国議会でも日本の批准が延期されれば厳しい反応が出るだろうと述べたという(史料20)。

これに対し、国内のNPT批准反対運動はなお活発であった。批准に向けた自民党内での審議が本格化した2月には、右翼団体が抗議のため外務省を訪問している。その際のやりとりは非公開となっているが、手交された「警告書」は査察の不平等性、米ソの核軍拡などを挙げて外務省を批判している(史料21)。

自民党内では青嵐会が特に強く反対した。そのため外務省もしばしば根回しを行っており、国連局の野田英二郎参事官、江藤之久科学課長、数原孝憲軍縮室長らが説明に赴いている(史料22)。ただ、中尾栄一を除くとNPT反対論一色の青嵐会ではあったが、その理由は非核三原則の制約が強い等、NPTには直接関係のないものも多かった。そのためか、外務省側の説明も日米間の信頼関係や核燃料の確保といった一般論にとどまっている。

青嵐会の外にもNPTに対する不満は残っていた。例えば中曽根康弘幹事長は、1974年11月のキッシンジャー(Henry Kissinger)来日時に非核兵器国の安全保障について対応を求め、返事をするという回答を得たが、その後回答はなかったという。やや時期が下るが、1975年4月に大河原良雄官房長が松野頼三政調会長、中曽根幹事長、椎名悦三郎副総裁と個別に協議した際にも、この問題が課題として挙げられている(史料23)。

国内、特に自民党内の不満は無視できないため、外務省は説得の材料となるような外交努力を検討した。国連局内で検討された2月4日付「NPT批准とわが国の安全保障(わが国としていかなる具体的外交努力をなしうるか)」は、「Time Limit 5日中作成(午後)」と書き込まれており、検討途上の文書ではあるが、批准に向けた動きが本格化しはじめた時期にどのような方策が議論されていたのかを垣間見ることができる(史料24)。検討された方策のうち、米中ソへの個別の申し入れは適切ではないとされた。中国はNPTに反対している、ソ連は日ソ友好条約締結や日米安保条約解消を駆け引きの材料に持ち出しかねない、といった理由が指摘されている。また米国への申し入れは特に詳細に検討され、既に米国との安全保障体制の重要性が確認されており必要ない、重要性の確認と引き換えに米国の圧力で批准したと受け取られる恐れがあるといった理由が列挙されている。一方で国連での安保理決議255の再確認は現実的でないため、再検討会議で非核兵器国の安全保障を主張する必要がある、とされた。この他に核兵器の不使用や非核兵器地帯構想も挙げられたが、ヨーロッパの安全保障上米国が問題としているという難点が指摘されており、再検討会議が国内へのアピール上も重要であったことがわかる。

実際、翌5月に開催されたNPT再検討会議は日本に成果をもたらした。直前の4月の訪米に向けて作成された宮澤外相の発言要領は再検討会議について、NPTへのより広汎な参加のため非核兵器国の安全保障を重視している、米国の抑止力により核のバランスを維持すべきという建前を維持しつつ、非同盟諸国の急進的な動きを抑え、全参加国が合意しうる決議に向けて日米事務レベルで協議したい、と述べている(史料25)。こうした非核兵器国の安全保障に関する議論が実際に会議でなされたことで、外務省は自民党内のNPTに対する不満に対処する材料を得ることになった。

また国連局が否定的だった米国との協議、具体的には上述の4月の宮澤外相訪米も重要な意味を持った。訪米後、宮澤は自民党の北澤直吉外交調査会長、有田喜一安全保障調査会長、伊藤宗一郎科学技術部会長を訪問し、合同部会で訪米結果を説明すること、その後に党としてのNPT批准の最終的な取扱いを決めることが決定された(史料26)。なおこの際、大河原官房長は再検討会議前の国会提出が望ましいとしている。

ここでの報告によれば、宮澤はキッシンジャーとの会談で、ワーディングまで明確にしてメモを見ながら発言したという。1975年2月の時点で米国への申し入れに問題ありとされていたように、日米安全保障関係の再確認を求めるのは、かえって逆効果になる恐れがあったためと思われる。これに有田は、宮澤訪米での日米安保条約についての話し合いを踏まえ、夏に予定されていた三木訪米で共同声明を出し、党をおさめるということで総理も了承済みと述べており、対米協議がいかに重視されていたかがわかる。

また有田は、我々の間では非核二原則論が強いがいたずらに国内を刺激することは好ましくないため三原則でも仕方ない、ただし、核を持ち込ませずの原則の解釈は陸上に留める原点に戻るべき、日本の安全保障は国内の体制強化にかかっており、この点で現在の国防会議にはあまり意味がない等とも述べている。青嵐会と同様、NPT批准による制約に対処するため、非核三原則といった現行の制約や安全保障政策を問題視する声が党内で強かったことが伺えよう。有田は選挙で数人しか集まらなかった合同部会で部会長、会長への一任をとりつけたことへの不満もあるとも述べており、まだ党内の反発は強かった。

最終的にNPTは4月25日に国会に提出された。しかしこうした自民党内の反発ゆえ、1975年の通常国会ではNPTは継続審議となったが、翌1976年、NPTの審議は再開された。その審議に向けて、塩崎潤政務次官、大川美雄国連局長は自民党の参議院議員を往訪している(史料27)。増原惠吉は参議院での自然成立を政府党首脳が考えていることに反発し、野沢教授ら専門家の意見を聞いても、NPTの下で日本自身も査察を行う自主査察に実体があるのかといった疑問が残っているとした。だが、既にこうした論点は議論しつくされていた。ロッキード事件に国会の注意が向く中、条約は4月に衆議院、5月に参議院を通過し、6月に日本はNPTを批准するに至ったのであった。


※本ブリーフィング・ペーパー及び関連文書集は、科学研究費基盤(A)プロジェクト「核不拡散体制の成立と安全保障政策の再定義」(課題番号:17H00972)の成果の一環である。