column 5

日米「核密約」の成立はいつか?

-ジョンソン大統領図書館公開文書からの一考察―

高橋和宏


はじめに

核持ち込みに関するいわゆる「密約」問題が、民主党政権下での一連の調査によって政治の磁場から解放されたことは、外交史研究にとって歓迎すべきことであろう。有識者委員会の報告書公表以降、密約の有無を政府が容認するかどうかという争点は薄れ、どの時点で、どのような合意が日米間で成立したのかという歴史解釈をめぐる論争が繰り広げられている。有識者委員会が示した安保改定時に暗黙の合意が出来つつあったとの見解に、「密約」問題に最も深く関与した外務官僚の一人である栗山尚一が異を唱えるなど、論争に決着はついていない。

この点に関して、最近ジョンソン大統領図書館で関連資料が新たに公開された。まだ未公開文書が残されており、これらによっても全体像が明らかになったわけではないが、議論の材料になると思われるので、紹介したい。


「密約」とは

まず、簡単に核持ち込みに関する「密約」の内容を概観しておこう。1960年の安保改定の際、第6条が定める米軍による施設・区域(基地)の使用に関して交換公文が日米間で交わされた(「岸・ハーター交換公文」)。これは、日本領域にある米軍が日本の意思に反して一方的に行動することのないように米国が日本に事前に協議すること(事前協議制度)を定めたもので、「装備における重要な変更」として核(核弾頭)の持ち込みもその対象とされている。

この事前協議制度の運用のために作成されたと考えられるのが、安保改定時に藤山愛一郎外相とマッカーサー大使との間でイニシャルされた「討議の記録(“Record of Discussion”)」(1960年1月6日付)と呼ばれる非公表文書である。同文書二項では事前協議制度の具体的運用を(a)から(d)まで定めているが、このうち、(a)「核兵器の持ち込み(introduction)が装備における重要な変更に当たること」、および(c)「米軍機の飛来(entry)や米海軍艦艇の日本領海・港湾への進入(entry)に関する現行の手続きに影響を与えないこと」の2点が、核持ち込み「密約」の根拠として指摘されてきた。(a)は核搭載艦船の一時的立ち寄り(transit)を排除していないと解釈でき、(c)は事前協議制導入前と変わらずに、核を搭載した米軍機や米軍艦艇が自由に日本に飛来・侵入することができると解釈できるからである。

この問題をめぐっては3つの焦点がある。第1は、1960年の時点で「討議の記録」が事前協議制度の例外を規定するものという了解が日米両国間に存在したのか、ということである。次に、1963年4月にライシャワー大使が大平正芳外相に、二項(a)の「introduction」には「transit」は含まれないとの解釈の確認を求めたとき、日本側がどう回答したのか、そして、この会談によって日米間で明確な了解が成立したのかどうかである。最後の論点は、1968年1月にジョンソン大使が日本側に二項(c)の米側解釈を日本に伝えてきたとき、日米間でどのような「合意」が形成されたのかである。

日米交渉の実相

今回ジョンソン大統領図書館から公開された文書は、68年1月のジョンソン大使から外務省幹部への解釈確認の前後に作成されたものである。以下、文書の内容に従って当時の動きを補足してみよう。

日本側へのアプローチに先立ち、バンディ国務次官補は旧知のライシャワーと会談し、改めて当時の様子を確かめている。しかしその内容は、大平との会談で「米国の現在の解釈に完全に沿うことで十分な相互理解に達した」とした、かつてのライシャワーの報告内容とは若干トーンが異なるものだった。

ライシャワーによれば、大平は池田に会談内容を伝達したと思われ、ライシャワーが池田にこの話題をふったとき、池田は「ウィンク」して問題を認識していると示唆したという。ライシャワーの感触では、池田から佐藤栄作、大平から椎名悦三郎へ、それぞれ後任者へと引き継がれたと思うが、確証はないし、それを確かめる機会もなかった。

つまり、ライシャワーとしても、大平から池田への事情伝達があったかどうかは「ウィンク」以上の確証はなく、また池田政権から佐藤政権へ引き継がれたかどうかも希望的観測以上の情報を持っていなかったのである。それでもライシャワーは、1960年の時点で岸と藤山は明確に事情を理解していたと断言したが、米政府内ではその点についても自信が揺らいでいた。

ライシャワーの発言について知らされた在京米国大使館では、1960年に岸・藤山と完全な理解に達したという前提すら不確かなものかもしれないとの判断が広がっていた。1963年の大平・ライシャワー会談の内容や、マッカーサー大使に1960年当時の状況を照会した結果(後述)からみても、はたして岸・藤山が米側の解釈を理解していたのか必ずしも明確ではなかったからである。岸政権から池田政権への「討議の記録」の解釈引き継ぎ以前に、米側解釈が岸政権に正確に伝達されたのかですら怪しくなっていた。

この点を確認するため、1968年1月24日、ライシャワー時代から長く大使館に勤務してきたオズボーン公使が大平と会談した。大平はライシャワーとの会談は認めたものの、日本政府が安保条約改定交渉のときに米国政府の解釈を受け入れたのかという点については不明瞭で、少し時間がほしいと回答を留保した。史料から確認できる限りでは、その後も大平が米側に対して直接回答することはなかったようである。

ただし、大平は牛場信彦外務次官にオズボーンとの会談について伝えた。それを受けて、すでに知られているとおり、1968年1月26日の硫黄島・小笠原視察帰路のヘリコプター機上で、ジョンソン大使と牛場や東郷文彦北米局長との会談が持たれた。ジョンソン大使は、大平・ライシャワー会談や1964年12月29日の佐藤とライシャワーの会談内容を説明したうえで、佐藤・ライシャワー会談以降、日本側から何ら話がないので、米国としては日本政府が米国の解釈を認めていると考えていることを伝えた。

これを受けて作成されたのが、いわゆる「東郷メモ」(北米局長「装備の重要な変更に関する事前協議の件」1968年1月27日)である。ここで外務省として、「本件は日米双方にとりそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我方も深追いせず今日に至ったものである。差当り、・・・現在の立場を続けるの他なし」との方針を確認した。

同文書が三木武夫外相の閲読を得た直後の1月31日、牛場はジョンソン大使と会談する。牛場は大平と佐藤の反応について次のように語った。

1963年の大平・ライシャワー会談後、外務省内ではライシャワーの立場に反論する文書が作成された(安全保障課「核兵器の持ち込みに関する事前協議の件」1963年4月13日)。だが、同文書の内容を大平が了承したのかどうかは決裁欄からは確認できない。また、佐藤はこの問題を認識しているとの「印象」を持っているが、いずれにしても、ここ数日で国会はヤマ場を越えるので、できるだけ早く佐藤と大平に話す予定である(実際に佐藤が「東郷メモ」を閲読したのは2月5日)。

そのうえで牛場は、米側が明確に自国の解釈を説明してから長い時間が経過したにも関わらず日本政府がそれに反論しなかったことに鑑みれば、米国の立場を受け入れざるを得ないと感じていること、ただし、国会答弁を方向転換するのには時間がかかるので、その間の国会での発言をあまり気にしないでほしいことを伝えた。

それに続けて、牛場は、物事を「テーブルの外」に置いておくことが特に有効であると感じているとサラリと述べた。つまり、「東郷メモ」に示した方針について、牛場は米側に了解を求めたのである。この提案に対してジョンソン大使は、牛場ないし大平から何も言われなければ、自分はこれ以上のイニシアティブをとるつもりはないと確約した。このとき、ジョンソンは事実上、牛場の提案を受け入れたといえよう。

「暗黙の合意」はいつ成立したのか

以上が今回の公開文書から明らかになった経緯である。これら新史料を加えてみたとき、上に述べた3つの論点について、それぞれどのような解釈が可能だろうか。

まず、安保改定時点で藤山・岸とマッカーサーと間で明確な合意があったかどうかである。栗山は独自調査の結論として米政府内にもそういった文書は存在しないと証言しているが、実際に1968年時点でも、米政府内ではこの点について明確な情報を持っていなかった。

1963年の大平・ライシャワー会談にあわせて発出された、上述のマッカーサー大使に対する安保改定時の交渉についての照会と回答を伝える電報はケネディ大統領図書館が保管しているが(筆者が確認した時点(2014年)では未公開)、上に紹介した文書の記述からみて、マッカーサーも岸・藤山らと明確な合意に達したとは判断していなかったようである。この点からすると、岸や藤山が核搭載艦船の一時寄港の問題をどう認識していたのかは別として、1960年の時点で「討議の記録」に関する解釈の合意が日米間にあったとは言い難い。米側が岸や藤山といった当事者にあえて直接確認を求めなかったのは、合意の不存在が露見するのを避ける意図もあったのではないだろうか。いずれにしても、この点を曖昧にしたままで、米側は1963年の大平・ライシャワー会談を日米合意の原点として、日本側を追及していくのである。

その大平・ライシャワー会談について、ライシャワーは大平との間で完全な了解に達したと本国に報告していた。だが、オズボーンとの会談が示すように、すくなくとも68年の時点で大平は、ライシャワーにそう答えたとは考えていなかった。また、大平から安川壮を経由して米側の解釈を知らされた外務省も、米側解釈に疑問を呈する文書を作成している。つまり、63年4月の時点では、大平も外務省もライシャワーから示された「討議の記録」の米側解釈を了承していなかったのである。

ではなぜ、大平も外務省もライシャワーに明確に反論しなかったのか。前述の外務省(安全保障課)が作成した文書(「核兵器の持ち込みに関する事前協議の件」)には大平の決裁がないが、外務省の解釈は大平に伝えられたと考えるのが自然であろう(大平の決裁箇所には、大平の秘書官と思われる決裁と「了」とも読めるサインがある)。また、ライシャワーとの会談後、その内容を大平が池田に報告したことも間違いないだろう。つまり、大平は米側解釈に疑問を抱いていたが、そのことを池田に報告した際に、あえて反論しないようにと指示されたのではないだろうか。池田の「ウィンク」は、そのことを示唆しているようにも考えられる。

最後に、日米間での「暗黙の合意」の成立時期である。牛場とジョンソンとの会談では、「東郷メモ」の互いに深追いせず現在の立場を続けるとの方針について、牛場が物事を「テーブルの外」に置くという言葉で提案し、ジョンソンが日本側から話が出ないならば、これ以上特段のイニシアティブは取らない、との回答している。「東郷メモ」の方針は、この68年1月31日の牛場・ジョンソン会談をもって、日米間の「暗黙の合意」として成立したということができよう。

それは、佐藤が施政方針演説で「非核三原則」を含む核政策を表明した翌日のことであった。


2017年9月1日執筆

【2018年3月8日追記】本文中の「大平の秘書官と思われる決裁」の「秘書官」とは菊地清明で、決裁も菊地によるものである。