第119代光格天皇治世の文化7(庚午)年(西暦1810年)、第10代盛岡藩主・南部 利敬(としたか)公により、津志田町の総鎮守社として創建されました。
(本殿の『大國大明神』額は、利敬公の書と伝わっています。)
祀職に任ぜられたのは神祇道において当時最も重要地位を占めていた植村近江であり、文化10年に京都の吉田家より神道裁許状を受けています。
境内には桃桜が植えられ、池や藤棚がつくられました。
当時の祭礼日は4月の9日・10日・11日の三日間であり、高く仮屋が設けられ、長唄・常盤津節で踊りに興じ、参詣・見物の人々が大いに集まったといわれています。
歴史書『竹田加良久里』には、御創建の年に初めて催された祭礼の盛況ぶりについて以下の様に記されています。
「神前の道具飾附五色縮緬の段幕風に靡き奉燈の光り清く明らかなり。金鈴の音澄み渡り、千早振八乙女供御を備て神慮をすずしめ、神主幣帛を捧て七福円満の祝言を敬白す。鳥居の二柱には金額を掛け、朱の玉垣あたりを払ひ、社内の東には泉水に舞台を築き、いとしづかなる男女の芸者入替り、二挺三味線ちりからと囃子たづれば、怜人来つて舞の袖をひるがへす有りさまは、神代のむかし岩戸の前にあまの鈿女の尊(アメノウズメノミコト)のわざおぎ(俳優)もやとあやまたれ。西のおもては御駒太夫の芸尽し、南は長き仮屋をしつらい鍬が崎より引揚の遊女振袖のいろをあらそい、幾同音に弾たつる三味線は参詣のこころをなぐさめ、北には吹矢のすいのふ打のぞぎ、からくり辻囃歌さいもんよみ売占やさん丁半のさいの目に角たてて、運をかりその他もろもろの商人はまづ本家京都烏丸の枇杷葉湯に暑をしのぎ三王坂の氷り水にのんと(喉)をうるほす。ところてんの曲突に皿をあらい、平二のそばに空腹をわすれ、まきせんべいは茶見世のあや御ひいき瀬川ずし(寿司)とうふ(豆腐)のおでん、名物そばの団餅は余国に稀なる振ひなり。」
利敬公は文事に造詣が深く、俳人・小野 素郷(そきょう)を、境内に勧請された恵比寿社の別当(神主)として迎えました。
利敬公をはじめとする多くの文人が素郷を訪ねて集まったといい、当時の津志田は文芸の中心地でありました。
桃の木が多く植えられたことから、当神社は『桃の宮』とも呼ばれていたそうです。
明治期の歴史家・新渡戸仙岳は、中国の桃源郷『武陵桃源』に対して津志田を『杜陵桃源』と称しています(この故事にちなんで、当神社の御朱印には桃色の「杜陵桃源」スタンプを押しています)。
『桃町』と呼ばれた津志田町には、藩命により城下から私娼が移され、遊郭がつくられました。
遊郭は昼夜を問わず繁盛し、酒・小間物・ろうそく・油・肴・青物などの店も立ち並び、隆盛をみました。
当神社には、遊女や楼主の納めた諸願成就祈願の絵画献額(絵馬)や、境内恵比寿社別当であり奥州俳諧四天王のひとりであった小野素郷筆の『俳諧之発句』などが奉納されています。
この内、絵画献額12枚および俳句献額3面が、遊郭で賑わった当時の面影を残す貴重な歴史資料として、昭和48年7月20日に指定有形文化財に登録されました。
絵画献額のほとんどは板画に極彩色を豊かに描かれており、当時の雰囲気をよく伝えています。
また、境内には祭具、手水鉢、石灯籠などの貴重な史料も数多く残っており、華美を尽した当時のさまが偲ばれます。
この点、決して他社の追随を許しません。
さらに、吉田松陰遊歴の地でもあります。
この後、遊郭が無くなってからは、修験大法院により祭祀が継続されたと伝えられています。
近代には村社に列格し、昭和58年4月26日に岩手県神社庁から三級社と認定されました。
時代を経て移りゆく津志田を200年以上に渡って見守り続けてきた神社です。
※御由緒については調査中です。
新しいことが判明した場合、随時加筆いたします。
【主要参考文献】
・『津志田遊郭志』
(新渡戸仙岳、昭和年間)
・『岩手県神社名鑑』
(岩手縣神社廳、昭和63年)
・『津志田・津軽町聞き書』
(藤沢巳好氏、昭和52年)
・『竹田加良久里』
(持仏堂主人、文政6年)
・最終加筆日:令和8年2月3日
・旧由緒文:由緒文(旧版)