当神社に所蔵されている文化財の一部をご紹介いたします。
江戸時代の文化を伝える貴重なものが多くございます。
見学をご希望の方は019-672-2767(宮司本務社)までご連絡ください。
俳諧之発句額(文化9年)
盛岡藩の俳聖といわれた小野素郷が書いたものです。
表に「奉納 俳諧之発句」とあり、次いで33句が記されています。
句は「松の花咲や社頭の朝日影 音左」で始まり、
4番目に「千秋や恋や宮居の松柏」と
素郷の句が書かれています。
末尾には「文化壬申九月吉日社中拝上 小野永二通昭拝書」とあり、この文化壬申年は文化9(1812)年に当たります。この年の7月に小野素郷は大國神社境内恵比寿社の別当に任じられているので、その2ヶ月後の9月に早速、小野社中が発句を掲額したことになります。さすが「南部利敬公常に曰く、北上川の船橋と小野素郷とは国の飾りなり」との誉れ高き小野素郷です。同年に素郷が書し三谷市郎平ェが奉納したものもあります。
酒造図(時代不詳)
酒造の5工程である「米あらい」「麹づくり」「モトおろし」「エソ・中・大領(おおわけ)」「もろみ拌・袋入れ・フネ積み・すまし」を、上下二段で表現しています。
本歌としたのは、宝暦13(1763)年に浪華(大阪)で初刊行された『日本山海名産図絵』の「摂州伊丹酒造」と同じであることから、それ以後に制作されたものと考えられます。
銘文に「津志田 熊谷久仁吉寄進 昭和十二年」とあり、熊谷氏が仙台から持ち帰り奉納したものであるそうです。
酒造の工程それぞれが緻密な絵巻風に生き生きと描かれており、この種の生業図絵馬としては出色のものであります。
ちなみに、令和6(2024)年に『伝統的酒造り』がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
初日の海と亀図(文化8年)
金色燦然と彩られた雲。
その下に今まさに海上に昇ろうとする初日。
その下を、島に当たって砕ける白い波頭が隠しています。
波頭が砕ける岩頭には5匹の亀が戯れています。
中央に描かれている岩頭と亀は彫物で貼りつけ、蒔絵の技法で処理。それを取り巻く波濤は様式化された描法です。
右側に朱で「文化八辛未年 亀屋内 {若者他妓女の連名}」が記されており、年頭にあたって亀屋の発展と息災を祈願して奉納されたものであると考えられます。
競馬図(文化7年)
「競馬図」として本格的に描かれたものであります。
馬は馬面をつけ、騎り手は競馬装束に豪華華麗に身を飾る。
人馬一体となって駈ける勢いの描写には無駄がなく、力強さが漲り、しかも瀟洒(しょうしゃ)で垢抜けしています。
表に「奉納 梅仙」、
裏に「文化七歳七月吉日 外川氏」と銘文があります。
大國神社は文化7年3月28日に竣工し、4月の9、10、11日の三日間、初めて祭礼を行っているため、その後ほどなく奉納されたものです。
競馬(くらべうま)は、主として祭礼の余興として行われるものでありました。中でも著名なものに加茂競馬があり、年中行事の一つになっています。また、馬術は武術の一つとして、剣術・柔術とともに重視されてきたものであり、武家の行事としても競馬図が多く描かれております。
義経と静図(文化7年)
着色の絵を板に貼りつけたものであります。
紙に描いたものだけに細部の表現に至るまで丁寧であり、浮世絵風に描かれています。
これには「文化七庚午年七月十二日 清水氏」と銘文があります。
義経の膝に泣き崩れる静…。この絵を奉納した清水氏の願いはどの様なものであったのでしょうか。
牡丹図(文化10年)
構図的には多くの画人が描くものと同じでありますが、岩の表現に狩野派の皴法を取りながらも絵の具を厚く塗り、蒔絵の感じに仕上げています。
「奉納 文化十歳六月廿九日 伊勢屋 ます」と銘文があります。伊勢屋は津志田にあった揚屋であり、「ます」はそこの抱え遊女であります。
花鳥図(文化7年)
梅樹を左方より右に屈曲させて力強く描き、左右に配した枝には咲き誇る梅花。梅樹の根元は竹の葉で抑え、幹の中ほどには尾長鳥を幹に直交させて画面に変化と緊張感を持たせています。
花鳥風月に心を寄せた江戸時代の画人が好んで描いた画題であります。
これには「奉納 文化七歳十一月吉日 宮古鍬ヶ崎 関川屋於ゑつ、亀屋内逢染」と銘文があります。津志田に遊郭が設けられ大國神社が創建された当初に遊女が奉納したものの一つであります。遊郭設置時、宮古鍬ヶ崎から数人の遊女たちが津志田に移ってきていますが、その中の一人でしょう。
鷹と旭日図
太く力強い松の樹幹を逆「く」の字に、中央には白鷹を大きく描きます。鷹の目は鋭く緊迫した姿態を見事に表現しています。
隈取の様に流れる雲状に蒔かれた金粉が効果的で、巧みな筆法に気品を添えています。
これには「奉納 渋氏秀純」と記されいますが年紀はありません。狩野林泉と互角の絵師の作と見られるものであります。
七福神図(文化8年)
この絵馬には「文化八辛未歳閏二月吉日 村谷氏」の銘文があり、大國神社が創建された翌年に奉納されたものであることがわかります。
構図や表現などは、狩野派の絵師が得意とする雲形を上部に配し、金沃懸地に七福神を描いたものです。
七福神がそれぞれにくつろいだ姿態で描かれている点も、狩野派の絵師がよく描いているものであります。
この絵は狩野林泉(2代目)が描いたものであり、練達した描法の優品です。2代目林泉は四郎次といい、佐助と称しました。藩人狩野派の一家で石川が本姓でありますが、狩野を名乗ることを許されています。明治9(1876)年7月、81歳で没し、長松院に葬られています。
大黒天、恵比寿(蛭子)、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の7神仏からなる『七福神』は、インド・中国に発生した神仏を日本の風土に合わせ、七難即滅・七福即生の祈願の対象として信仰されてきたもので、庶民の生活に最も親しまれているものであります。
三宝珠図(文化9年)
この図柄の絵馬はよく奉納されています。
宝珠は如意宝珠といわれるように、梵語で「一切の願いが意の如く叶う霊妙不可思議な珠」を意味し、庶民の所願成就をかなえてくれる仏の徳(恩恵)の象徴であると考えられていたからです。
これには「御宝前 文化九申歳夏四月九日 願主 玉屋伊八、三本柳村小右ェ門 市助、御蒔絵師 三船工 保富 敬白」と銘文があります。津志田遊郭の玉屋の主人が、津志田の発展、無病息災を祈願して奉納したものでありましょう。
宝珠は漆で肉厚に描いて金箔置きしたもので、諸悪諸病を焼き尽くすという火炎も流れるように規則正しく蒔絵されている豪華な絵まであります。
盛岡藩お抱え蒔絵師である三船保富が製作したもので、藩主 利敬公が勧請した当神社ならではのものです。
旭日、岩礁鷹図
中央やや右より下方に岩礁を描き、その周囲は高く盛り上がる波。岩礁に当たって砕ける波頭を力強い筆致で描きます。
岩礁には鋭い爪でしっかりと岩礁をつかみ、獲物を狙って飛び上がろうとする鷹が雄渾に描かれています。
その右手に松樹。上部やや右から左方斜めに伸びる松の枝。その上方に旭日を描いています。
白を主体に黒・緑・赤の彩色が鮮やかです。
これには「奉納 玉屋内きわ事まつ」と銘文があります。
玉屋は『たけたからくり』に「文化七庚午年、桃の花町揚屋の風景」なる一文があり、それによると「鶴屋・亀屋・玉屋は最初なり。それより追々」云々とあり、津志田に遊郭が設けられた当初からの揚屋であったことがわかります。
「きわ事 まつ」は玉屋の遊女でありました。
俗名は「きわ」、遊女名を「まつ」といった遊女により奉納されたものであります。
旭日・鷹・松と縁起物を描いたこの絵馬に、何を祈願したのでありましょうか。
※写真資料ならびに文献資料が揃い次第、他の文化財も順次追記してまいります。
ご期待ください。
最終加筆日:令和7年10月20日