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リスク回避傾向が強いほど、将来的にうつ症状が現れやすい。Chen C et al., 2022. Journal of Psychiatric Research 154, 307-314
うつ病は単に気分的な障害ではなく、認知障害が伴う場合が多いです。特に、情動的刺激に対する情報処理に様々なバイアスがかかり、損失などの負の刺激への反応が増加し、報酬などの正の刺激への反応が低下することが示されています(Roiser JP et al., 2012. Neuropsychopharmacology; Chen C et al., 2015. Neuroscience & Biobehavioral Reviews 55, 247-67; LeMoult J & Gotlib IH 2019. Clinical Psychology Review; 萩原、陳、中川.2020.精神科 37(3), 291-296)。こういった情動認知障害はネガティブなスキーマと呼ばれる認知の歪みによって生じ、抑うつ気分の原因であることが提唱されています(Beck AT & Bredemeier K 2016. Clinical Psychological Science; Disner SG et al., 2011. Nature Reviews Neuroscience)。その神経基盤として、前帯状皮質と扁桃体などの過剰賦活やドーパミン報酬系の活動低下が挙げられます。また、抗うつ薬は気分を直接変えるのではなく、まずは情動認知障害を修正し、その結果としてネガティブなスキーマと抑うつ症状を改善するという説も提唱されています(Harmer CJ et al., 2017. Lancet Psychiatry)。
こういった情動認知障害を客観・系統的に評価するため、当研究室は報酬に基づいた意思決定と計算論的神経科学のアプローチから、強化学習やリスク回避などの五つの認知計算プロセスを定量化する「報酬に基づいた情動認知評価バッテリー」をうつ病患者を対象に作成してきました。上記の評価バッテリーの課題データを用いて、報酬に基づいた行動選択を説明する認知計算プロセスを変数として数理的モデルを用いて推定し(計算論モデリングという)、課題中に機能的磁気共鳴画像法(fMRI)などを用いて計測した脳活動変化に線形回帰を行うことで、認知プロセスを実行する純粋な神経基盤の同定につながります。現在、この評価バッテリーの診断・治療バイオマーカーとしての有用性や大うつ病、双極性障害、統合失調症の抑うつ状態鑑別診断への有用性などを検証するための臨床研究を行っています。また、上記のバッテリーによって評価した情動認知障害を改善できる抗うつ薬の識別やその他の介入法の開発に関する研究も行っています。さらに、当講座疫学研究グループがこの中のリスク回避課題を用いて、アルコール依存症入院患者の退院後の再飲酒を予測する研究を行っています(Sasaki J et al., 2020. Biological Psychiatry 87(9), S323-324)。この評価バッテリーを用いたうつ病患者寛解後の再燃・再発予測や公衆衛生上健常者のメンタルヘルス問題・うつ病の発症予測などへの展開も考えています(Chen C et al., 2022. Journal of Psychiatric Research 154, 307-314)。
個別の課題の妥当性や心理評価との関連性を検討する予備的研究の一部はすでに学会発表や論文化しています:
① 萩原助教のリスク選好・確率荷重についての解析では、うつ症状が高いほど、Prelec's one-parameter確率荷重関数が大きくなり、低い確率においてリスク回避傾向が高いことが示されました(Hagiwara K et al., 2022. Frontiers in Psychiatry 13, 810867)。なお、うつ症状とUtility sensitivityによるリスク選好との関連性や不安症状とリスク選好・確率荷重との関連性は見られませんでした。特筆すべき点として、当該論文では、うつ症状・不安症状の影響を区別するためには、多重線形回帰分析・主成分分析・症状の項目別相関解析の三つの手法を用いており、また確率荷重を推定するには、Prelec's one-parameter・Prelec's two-parameter・log2 base one-parameterの三つの関数を用いて検証しています。当該研究の関連解析は2020年日本精神神経学会第116回学術総会において優秀発表賞を受賞しています。さらに、2021年度自己開発コース学生の清水夏海さんがうつ症状によるリスク回避や確率荷重の変化を修復する介入法の候補として、ポジティブな自伝的記憶の想起に注目し、その有効性を検討しました(Shimizu N et al., 2022. Frontiers in Psychiatry 13, 930466)。2022年度自己開発コース学生の度会美濃さんがさらに金銭報酬を導入したうえ、ポジティブな自伝的記憶の想起による影響を検証しました(Watarai M et al., 2023. Cognitive, Affective, and Behavioral Neuroscience)。
② 大学院博士課程のLei Huijieさんが行った解析では、慢性的ストレスが意思決定に与える影響に性差があることが示され、この性差が女性がうつ病にかかりやすい認知計算的なメカニズムである可能性が示されました(Lei H et al., 2021. Scientific Reports 11, 8700)。
③ 2019年度自己開発コース学生の古庵伊吹くんが、2002年ノーベル経済学賞を受賞したDaniel Kahnemanが提唱した損失回避という現象に興味を持ち、うつ病患者の損失回避傾向が高いといった報告があることから、その介入を視野に入れて損失回避傾向と心理特徴の関連性を調べました(Koan I et al., 2021. Frontiers in Psychology 12, 641340)。
★我々が行ってきた計算論的精神医学研究についての記事が、日本心理学会機関紙『心理学ワールド』や日本生物学的精神医学会機関紙『日本生物学的精神医学会誌』に掲載されました。
これまでの知見を踏まえ、我々は運動が脳機能を向上させる神経生物学的機序において「身体と脳の相互作用」が中心的な役割を果たしていることを提唱し、成長因子や乳酸、抗炎症因子、ミトコンドリア生合成、神経伝達物質など五つのメカニズムから考えた運動処方の提案を試みました(Chen C & Nakagawa S. 2023. Ageing Research Reviews)。
心身に優しいライフスタイルには運動という要素が必要不可欠であることがこの20年ぐらいの研究で明らかとなりました(陳, 望月. 2020. 頭を良くしたければ体を鍛えなさい : 脳がよろこぶ運動のすすめ)。しかし、どういう運動をどれぐらい行ったらどれぐらいの効果があるのか、また運動による心身癒し効果のメカニズムは何か、については未だに不明確なところが多いです(Chen C et al., 2016. Psychoneuroendocrinology 69, 1-9; Chen C et al., 2017. Frontiers in Neuroendocrinology 44, 83-102)。当研究室はこれらの課題を研究テーマの一つとしています。この中で、OTや臨床心理士などの先生方の協力をいただきながら、うつ病と双極性障害患者を対象とした運動療法の有効性を検証する臨床研究を行っています(Sakai Y et al., 2021. Frontiers in Behavioral Neuroscience 15, 787688)。その他の運動研究は主に医学部3年の自己開発コース学生が担当し健常者を対象に行っています。
① 2019年度自己開発コース学生の中川拓海くんらが健常者を対象に行った疫学調査では、普段の運動、特に中高強度の運動量が多いほど、心理健康度やワーキングメモリーが高いことが分かりました(Nakagawa T et al., 2020. International Journal of Environmental Research and Public Health 17(2), 614)。
② 2020年度自己開発コース学生の阿賀康平くんと稲村優聡くんらが実施したランダム化比較試験では、フクダ電子のエアロバイクに内蔵された体力テストプログラムを用いた15分間の一過性運動によって、気分や認知柔軟性を表す拡散的思考能力が向上することが示されました(Aga K et al., 2021. Brain Sciences 11(5), 546)。また、当該研究の基礎値データを用いた追加解析では、普段の高強度運動量が多いほど、拡散的思考の流暢性と柔軟性が高い一方、ウォーキングが多いほど、拡散的思考の斬新性が高いことが分かりました(Chen C et al., 2021. Brain Sciences 11(8), 1046)。さらに、2021年度自己開発コース学生の松本花林さんが実施したランダム化クロスオーバー比較試験では、エレベーターによる昇降と比べ、日常的な運動である階段昇降(4階→1階→4階)が拡散的思考の斬新性を61%向上させることが示されました(Matsumoto K et al., 2022. Frontiers in Behavioral Neuroscience 15, 834097)。2022年度自己開発コース学生の川嶋千尋さんは、さらに2階分、5階分、および8階分の階段を上ることによる影響を調べました(Kawashima C et al., 2024. Scientific Reports 14, 176)。エレベーターを利用した場合と比較して、2階分の階段を上ることで収束的思考力が向上することが明らかになりました。また、拡散的思考力も向上する傾向が見られました。
★これまで当研究室で行ってきた「運動と創造力」の研究が、英紙ガーディアン(The Guardian)の記事に紹介されました。
③ 2022年度自己開発コース学生の古賀 孝弥さんが、コロナ禍で子育て中の親2960人を対象とした全国調査データを用いた解析では、親子で運動する頻度が多いほど、家族関係や幸福度が高く孤独感が低いことがわかりました(Koga T et al., 2023. Journal of Affective Disorders)。
④ 介入研究における気分変化を厳密に評価するため、「陳-萩原気分調査」(Chen-HAgiwara Mood Test, CHAMT) を開発しました(Chen C et al., 2024. Asian Journal of Psychiatry 93, 103941)。
写真:NIRS実験の風景
一般向けの発信がきっかけで、自然療法による認知・気分向上効果に興味を持ち、その神経基盤に関する総説(Chen C & Nakagawa S. 2018. Challenges 9(2), 41)やbook chapter(Chen C & Nakagawa S. 2019. In Kotte D et al., International Handbook of Forest Therapy. Cambridge Scholars Publishing; pp 12-31)を執筆しました。fMRIの騒音が大きく自然由来の刺激によるonlineリラックス効果を調べるのが不適切ということで、当該分野における神経科学的な研究には主に2-チャンネル近赤外線スペクトロスコピー(NIRS)が用いられています。これまで2-チャンネルNIRSを用いた研究が多く実施され、自然由来の刺激による介入が前頭前野の賦活を低下・リラックスさせることで認知・気分向上効果を有することが提唱されています。しかし、2-チャンネルNIRSは前頭前野における詳細な脳部位の特定ができないという限界があります。
そのため、2020年度自己開発コース学生の山下陸大くんらが自然の画像鑑賞による気分向上効果を確認したうえ、当科が所有する52-チャンネルNIRSを用いて感情処理に関わる眼窩前頭皮質と背外側前頭前野二つの関心領域の賦活を検討しました(Yamashita R et al., 2021. International Journal of Environmental Research and Public Health 18(10), 5500)。なお、当該研究は、千葉大学 環境健康フィールド科学センター 自然セラピープロジェクト 宮崎良文教授と池井晴美特任助教の助言を受け、2018年度自己開発コース学生の中川恵里花さんと高尾晃世さんによって確立したプロトコールに基づいて行いました。
大学院博士課程の水本智大先生を中心に、うつ病や不安障害の患者を対象に自然とのふれあいによる気分向上効果を検証しました(Mizumoto T et al., 2024. Journal of Affective Disorders 356, 257-266)。その結果、抑うつ障害群と不安障害群ともに自然画像の視覚刺激による気分向上効果を認めました。しかし、NIRSによる前頭部酸素化ヘモグロビン濃度は、抑うつ障害群では自然画像の視覚刺激で上昇した一方、不安障害群では低下が見られました。
計算論的神経科学は理論主導(theory-driven or model-driven)とデータ駆動(data-driven)の二つの研究手法があります。理論主導のアプローチは、例えば強化学習やプロスペクト理論、ゲーム理論などのモデルを用いて、分子・細胞、神経回路、行動など様々なレベルで捉える脳機能の説明を試みます。一方、データ駆動のアプローチは、特定の仮説を設けることなく、データから潜むパターンを見つけ出すことを目指します。
当研究室では二つの手法による研究を同時に行っています。理論主導のアプローチについて、上記「テーマ1 うつ病における情動認知障害」の強化学習、リスク回避、損失回避などの研究を行っています。
データ駆動のアプローチについては、機械学習を用いたうつ病と自殺念慮の早期予測研究などを行っています。 また、機械学習や潜在クラス分析(Latent class analysis)などの手法を用いたうつ病・不安障害の層別化解析を行っています。博士課程3年のLei Huijieさんが潜在クラス分析を用いて、健常者におけるうつ・不安症状の共存パターンを分類しました(Lei H, et al., 2022. Frontiers in Psychiatry 13, 808918)。母子保健の関連研究として、クラスタリングを用いて、母子ボンディング障害評価尺度Mother-to-Infant Bonding Scale (MIBS) のカットオフ値を決定しました(Chen et al 2024. Asian Journal of Psychiatry 91, 103874)。さらに、Restricted cubic spline logistic regressionを用いて、産後の母親が感じる孤独感が半年後のうつ症状のリスクを増加させることを報告しました(Chen et al 2024. Archives of Women's Mental Health, 27(3), 447-457)。
コロナ禍における「孤育て」(孤立した子育て)は社会的な問題としてクローズアップされ、マスコミでも多く取り上げられています。2021年7月-8月の4回目の緊急事態宣言中に得た調査データをもとに、自殺念慮の罹患率とリスク因子について解析しました(Chen C, et al 2023 Psychiatry and Clinical Neurosciences, 77(5), 300-301)。家族からの心理的サポートが不足し、コロナ禍において孤独を強く感じる母親は、妊娠中や出産後の自殺念慮のリスクが高まることが明らかになりました。
出産後の母親を対象にした別の解析では、産後うつの有無が自殺念慮の罹患率に大きな影響を与えることが確認されました(Chen C, et al 2023. Journal of Affective Disorders 340, 427-434)。産後うつの症状を持つ母親の自殺念慮(あらゆる頻度)の罹患率は51.8%であり、持たない母親の場合は3.3%でした。しかし、自殺念慮の頻度を「はい、かなりしばしばそうだった」といった、自殺行動との関連性が高いものに限定すると、産後うつの症状を持つ母親の罹患率は9%、持たない母親の場合は0%でした。
このように、うつ症状がない場合、自殺念慮の罹患率は低いことから、妊娠、出産、育児のストレスが高い母親に対し、エジンバラ産後うつ病質問票(EPDS)の10項目目質問(「自分自身を傷つけるという考えが浮かんできた」)の実施の意義が疑問視されています。特に、この質問項目の使用が、元々ストレスが高い母親の気分をさらに悪化させることや、自分自身を傷つけるリスクを高めてしまう可能性があることを指摘しました(Chen C, et al 2023. Journal of Psychiatric Research 165, 70-76)。周産期の自殺念慮は確かに重要な課題ですが、全ての女性を対象にスクリーニングを行うのではなく、周産期うつ病を持つ高リスクな個人に限定してスクリーニングを行うべきだと提言しました。
さらに、母親自身の幼少期のストレス経験が多いと、産後うつと自殺念慮のリスクが上がるだけではなく、子どもへの虐待行動が増え、子どもの神経心理的発達問題が生じやすいなど、世代を超えた影響が確認されています(Chen C, et al 2023. Psychiatry and Clinical Neurosciences, doi: 10.1111/pcn.13581)。