菅江真澄映像
監督からのメッセージ
監督からのメッセージ
今年は、私が小川プロから独立して10年、アムールを設立して7年になります。皆様のお力添えのおかげで、「小さな羽音」(92年)から「縄文映画シリーズ」(94~98年)へと順調に映画製作を続けることができました。
私の仕事も2000年で一区切りがつき、新たなテーマを掲げて新年を迎えることができました。これからは東北文化研究センターの赤坂憲雄さん達が提唱する民俗、歴史、考古を結んだ新たな知の枠組みである「東北学」と軌道を合わせて、「映像東北学」とでも名付けられるような映像を生み出していきたいと考えています。
むら社会を根強く残していると思われていた東北も、90年代にその共同体の骨格を大きく崩壊させてきているようです。そのような状況でも継続し、次代に伝えていく共同的なものは何か?そして、喪ったものは?手をこまねいているのではなく、民俗のなかにカメラを投入し、できる限り内側からの記録を残したいと思います。
具体的な企画が決まり次第、随時掲載してお知らせします。
本年もよろしくお願い申し上げます。
真澄の墓(秋田市)
「菅江真澄」をテーマにしたドキュメンタリーの企画が、ほぼ固まった。近く製作母体との契約を行ない、正式に発表できる見通しだ。この企画は、昨年の夏頃から東北文化研究センターの赤坂憲雄さんと共同で準備を進めてきた。今春から1年がかりの撮影に入りたいと考えている。
菅江真澄は、江戸時代後期に46年に亘って東北、北海道の旅に生きた人だった。真澄はその旅の記録を膨大な紀行文と地誌、図絵にのこした。最期は、秋田県で客死した。出身は三河(現豊橋)と書かれているが、生まれ在所や父母の名は不明である。旅先の名所旧蹟、故事来歴、民俗行事、ふつうの人々の暮らし振りや信仰など克明な記録を残しているのに、自身の出自はいっこうに明らかにしてない。神官の出ではないか、とか、医療や医薬に詳しかった、などと言われているが、どんな職業だったのかはっきりしない。いつも頭巾をかぶっていたので、「じょっかぶり(常被り)」とあだ名されていた。頭巾で刀傷を隠していたのではないか、さらには刃傷事件で故郷を出たのだろう、と想像する人もいた。謎の多い人物であった。
真澄の記録をみると、200年前の東北、北海道のふつうの人々の暮らしがほうふつとする。そこには、つい最近まで行なわれていた行事や、使われていた民具、田畑の生産様式などが描かれていて、東北日本の文化を考える上で貴重な資料である。近年、東北日本はとみにその景観を変容させている。歴史の名残りをとどめている景観を、完全に喪失してしまう前に映像に記録しておきたいと思う。景観というのは、人間の外側にある風景を言うのではなく、人間と自然との関係によって形成された風景を指している。
真澄の記録には、稗田、粟畑、マタギのような山の民、遊女、巫女、門付け芸人、漁民などが随所に登場する。ここには、柳田国男の民俗学によって語られた稲作民による「ひとつの日本」から、はみ出した世界が豊かに広がっている。<真澄>を読み解くには、赤坂さんの提起した「東北学~いくつもの日本へ~」という知の枠組みが本領を発揮するはずだ。
真澄の生きた時代、北海道は蝦夷が島と呼ばれアイヌの人々が生活していた。蝦夷が島を支配した松前藩は、島への出入りを厳しく制限し、内地と北海道の自由な往来は閉ざされていた。それでも真澄の北方への強い関心は封じられることなく、数年に亘って蝦夷地に滞在しアイヌの生活を記録した。南下するロシアの動向も記録している。北方では多様な民族、文化の交流が活発だ。私達にある「北の果て、辺境」という偏ったイメージを打ち消さねばならない。
企画の内容については、今後の展開に応じて報告していきたい
干拓された八郎潟(男鹿半島が見える)
シナリオの第一稿が出来たくらいで、いちいち報告するのも、ちょっと気がひけますが、通常の作業の何倍もかかったので、ようやく一息ついた思いなのです。
真澄の著作は、46年間の日記や図絵、地誌などがあり、膨大です。この冬は、ほとんど真澄の著作を読むことで明け暮れましたが、すべてに目を通すことなど、とてもできません。それでも、一般に読みやすく翻訳編集された東洋文庫「菅江真澄遊覧記」(内田武志・宮本常一編訳)全5巻だけは、丹念に読んだつもりです。第一稿ができて、私自身がようやく作品の全貌が見えてきたかな、といった段階です。
今回の企画は、紀伊國屋書店からライブラリー向けビデオとして発売される予定ですが、全5巻プラス別卷1という内容です。真澄が歩いた地域を五つに分け、津軽編、下北編、岩手編、北海道編、秋田編、それに別卷の人物編で構成しようと考えています。
今月中には、東北文化研究センターの赤坂憲雄さんとシナリオを検討し、第二稿を作ります。赤坂さんとの共同脚本なのです。前回のメッセージにも書いたように、「東北学」という知の枠組みから菅江真澄を見ていくと大きな発見があります。第一稿を書き上げたところで、私が最も驚いたのは、真澄が秋田県の八郎潟で書いた日記「氷魚の村君」に出てくる‘氷下漁’の記述です。現在の八郎潟は、干拓されて、農地になってますが、かつては湖でした。冬には結氷するので、氷の下にいるマスやボラ、カレイ、チカなどを網で引き上げる氷下漁が盛んに行われていました。真澄は、漁の仕組みを文と図絵で詳細に書き留めています。氷にあける穴の大きさ、深さ、位置、穴をあける道具の形、大きさ、網を入れる順序、引き上げる手順、漁師の数、配置、そして漁師の支度、装備に至るまで、実にこと細かに書いています。その細かさが尋常ではなく、何かに憑かれたように描いている、という印象なのです。学問でも、表現でもそうですが、狂気を感じさせるくらいまで 追い込んで表わされたものは、おもしろいものが多いと思います。真澄にも、それを感じます。では、いったいなぜ、真澄はそこまで氷下漁にこだわったのか、それを読み解くのが私たちの仕事だと思っています。
『菅江真澄』は、全5巻プラス別巻1のシリーズになりますと3月にお知らせしましたが、それをおよそ1年間の撮影で製作するのは、並み大抵ではありません。製作予算を考えると、何年も時間をかける余裕はないのです。しかし、真澄が46年という長い時間をかけて丹念に見つめた世界を、1年で総括するというのも、無謀です。ですから、真澄自身の著作と、その後の研究書を読み込んで、さらに現代の各地の研究者の力をお借りして、真澄の世界に迫ろうと思います。それほど、真澄が残した仕事は膨大です。
わたしも、ドキュメンタリーの世界に入って34年になります。そのうち24年間は小川プロに所属して、三里塚や山形の農民と交わってきました。その後独立してからも、わたしの映画の舞台は青森など東北が中心で、東北の人々と長いおつき合いが続いています。真澄の著作を読むと、わたしが東北の農村で体験したドキュメンタリーの時間を思い起こします。わたしが三里塚や東北の農民に関心を持ったのは、空港の建設や東京への集団就職、出稼ぎなどによって、農民が農地から追いやられていくことへの疑問、そして同情から出発したように思います。でも、ここまで時間が経過すると、その時噴出していた矛盾が影を潜め、ある部分は物語のように語られたり、あるいは記憶の彼方に忘れられようとしていることも数多くあります。これまで、わたしたちが記録してきた事柄は、それを作った当時と情況が変質してしまっているので、その頃にあった情況に対する力を失い、記録としての価値だけが残っている、というような気がします。
先日、赤坂憲雄さんから、こんな話をお聞きしました。「真澄が描いている八竜湖の氷下漁は、当時の漁民にとっては当たり前のことだから、あれ程克明な図絵をのこしてもあまり関心を持たれなかったと思う。真澄の記録は、干拓によって八郎潟と氷下漁を失った今、燦然と光を放っている。記録というのは、長い時を経て価値が出てくるのかもしれない」
そういえば、小川プロで山形の村にいた時、戦後もしばらくやっていた牛馬耕の写真を探したことがありました。ところが、村にはそういう写真はまったくありませんでした。東京の出版社がもっている資料写真で探すしかなかったのです。村にあるのは、結婚式や、出征の時の記念写真ばかりで、牛馬耕のような労働の姿を撮ったものなど一枚もありません。やはり、当時は当たり前すぎて記録に残すという意志など働かなかったのです。
だから、当たり前でふつう見過ごしてしまうことを記録するのが、ドキュメンタリーの神髄なのかもしれません。その意味で、真澄は優れたドキュメンタリストだったと言えるでしょう。
5月から、『菅江真澄』の撮影を開始する予定です。それに備えて、4月16日から2週間、岩手、津軽、下北、秋田の順にロケハンにでかけます。
高村さんと粟畑
前回お知らせしたように、4月16日から27日まで岩手、下北、津軽、秋田をぐるっとまわって、ロケハンしてきました。ロケハンというのは、シナリオに描かれた場面が現実の風景の中でどのように撮影できるのかを確かめる作業ですが、シナリオが完全にはまだできあがっていないので、シナリオのための調査(シナハン)も兼ねた旅になりました。
東北3県を一度にまわったのは初めてです。これまでは、定点観測のようにして映像制作する事が多く、各地を比べて見るということをあまりしてきませんでした。今回の旅を通して、ひとくちに東北といってもずいぶん風景が異なっているのだなあ、と改めて驚きました。
風景の違いについては真澄も書いています。岩手県の北部(安代町、浄法寺町、二戸市、一戸町、岩手町など)は、山畑で粟、稗ばかりを作って、稲田は一枚も無く、漆の梢が茂っていると書き残しています。県南部(北上市、胆沢町、水沢市、前沢町、平泉町など)では、稲田が広がり、雨が降っても大勢の早乙女が田植えに忙しく、家にいるのは養蚕にたずさわる女たちだけだという記述があります。現在では早乙女が田に入ることも無いし、養蚕もなくなっていますが、県南にはどこまでも稲田が広がっていて、真澄の時代とあまり変わっていないようです。県北では、谷あいに水田、山の斜面は畑でその奥は山林というように整然と区画され、真澄の時に粟、稗ばかりであったという風景とは大きく違っていました。漆は、道端や山畑などところどころで見かけました。粟、稗の風景は見られないのかと探していると、二戸市で粟、稗、きびなどの雑穀を昔風の有機農法で栽培している農家の方と出会いました。
「北岩手古代雑穀」の代表の高村さんが、山裾で栽培している雑穀の畑を見せてくれました。高村さんたちは、寒冷な風土に適した雑穀こそ、北岩手農民の宝であると言います。雑穀は栄養価のバランスが良く、抗アレルギー性の食物として再評価されているのだそうです。雑穀という言葉にも象徴されているいるように、粟、稗は、米と比べて一段低いものと考えられてきました。近世の税が米の石高で計られた、ということとも深く関係してるのでしょうが、粟、稗は貧しさの象徴でもあったと言います。さらに古代に遡ると、米を作るヤマトによって征服されたエミシは、雑穀を作り、食べていた。だから雑穀は、被征服民エミシのアイデンティティ-を取り戻すことでもある、と高村さんは考えています。
真澄も、粟、稗の風景に着目して、丹念に記述しています。日本列島にある異文化として意識していたのだと思います。
今回は、岩手の風景だけで字数が埋まってしまいました。下北、津軽、秋田については、追って報告いたします。
真澄が下北にはじめて上陸した奥戸(オコッペ)の浦
北岩手から下北に足を延ばしました。岩手では桜が満開だったのに、青森県に入るとまだ蕾でした。下北の気候は北岩手よりも一層寒冷なようです。
『菅江真澄の旅』ビデオの共同企画者である赤坂憲雄さんが、以前東北に入って最初に旅したのは下北でした。その時、下北の風景に荒寥とした印象を持ったと言います。後に、ある人から「稲田がないからだろう」と指摘され、はっとしたと書いています。
真澄もその著作のなかで、下北の水田は‘稗田ばかりなり’と書いています。真澄の時代には、寒冷な下北では稲を作ることができませんでした。今でも下北で稲を作っているのはごく僅かです。と言っても、今は稗田はありません。粟畑もありません。
下北には陸奥湾に面した田名部通り、太平洋に面した東通り、津軽海峡に面した北通りなどがあって、それぞれに風土の特性があるので、ひとことで下北の風景の印象を語るのは正しくないとは思いますが、他の地方と比べて、確かに荒地が目に付きます。それは原野ではなく、いったん人の手が入った後で荒れた土地なのです。
しかし、真澄の記録をみると、200年前の下北は活気に溢れていました。真澄は、下北の庶民が食べている稗飯、稗しとぎ、稗餅、稗酒などの記述に加えて、海上交通で栄えた港町や、人と情報が集まる聖地恐山、青森ヒバをさかんに切出す樵たちの情景を生き生きと描いています。これほど活気のあった下北の光景は、いまどこにいってしまったのでしょう。海上交通の衰退がその要因のひとつではあるでしょう。
下北には国策の施設が数多くあります。なかでも代表的なのが、2箇所で建設されている原発です。地域を豊かにするための方策として致し方ないのかも知れませんが、一方、電力需要が低下するなかで、首都圏から遠い原発の非効率が問題視され、東通原発の建設が再検討されるという報道があります。下北の人々が、また国策に振り回されるのではないか、という危惧を禁じ得ません。
下北の風土を考える時、キーワードは‘海’だと思います。かつて下北の人々は、アイヌと同じように津軽海峡をしょっぱい川と呼んで、海を隔てた北海道と自由に行き来しました。縄文時代には、下北と道南は共通の文化圏を形成していたことさえあったのです。陸路で見れば、下北は本州の最果てですが、海路では、能登や若狭など近畿圏と蝦夷地を結ぶ交通の要衝でした。その文化交流のなかから育まれた祭りや芸能、民俗行事などが、今の下北に引き継がれています。真澄は、そうした民俗のひとつひとつを丁寧に観察し、絵と文で記録しています。
真澄の著作を読み解きながら、下北の原風景を蘇えらせたいと思います。
山内番楽(秋田県五城目町)
5月16日から20日まで、岩手県前沢町、胆沢町と、秋田県五城目町で撮影しました。前回までのロケハン報告では、津軽と秋田が欠けていましたが、今回の報告で秋田の分を兼ねたいと思います。津軽については、いずれ撮影報告のなかで触れることにします。
前沢町と胆沢町で撮影したのは、田植えの風景です。連休から好天が続いたため、この地方の田植えはほとんど終りかけていました。それでも、北上川沿いの広々した水田では、機械で植えた後の補植の真っ最中で、それらしい風景をとることができました。田に出ているのは、男も女も老人ばかりです。真澄が見た早乙女の田植え風景は、今いずこです。
現代の機械田植えの様子を撮りたいと探し回っていると、胆沢町から衣川村に抜ける山沿いの田んぼで、一家総出で田植えをしているところに出会いました。今では本当に少なくなってしまった専業農家の田植えの様子を撮らせて貰いました。
真澄は、このあたりに2~3年間滞在して各地を見て回りました。宿を提供し、友人を紹介し、一緒に遊びまわったのが前沢の鈴木常雄、胆沢の村上良知という肝入り(庄屋)です。鈴木家では、後継ぎの方に話を聞かせていただきました。常雄さんの肖像画をはじめ、真澄の手紙などの記録が、きちんと保存されていました。
秋田県五城目町では、山内番楽を撮影しました。5月19日五城目祭りの前夜祭で番楽競演が行われ、そのなかで山内番楽が演じられました。真澄が見た時は、7月のお盆でしたが、今はやっていません。山内地区だけで番楽を演じるのが困難になってきて、30数年前から他地区との競演という形に変わったのだそうです。
真澄は、山内番楽の面を12枚描いています。その面が今も保存されていると聞いて、保存会会長さん宅を訪ねました。会長さんに、村人が真澄のことをどのように見ていたのか、尋ねてみました。会長さんは、「乞食みたいだけど、乞食よりも程度の良い人がやってきて、番楽面をスケッチしていった」と聞いていて、現在、秋田県では真澄がえらい学者であったように言われているけれど、そのようには伝わっていなかったそうです。真澄が生きた時代、漂泊の旅人である真澄が、定住の村人からどのように見られていたのか、その一端に触れ、ますます真澄のすごさを感じた次第です。番楽が無形民俗文化財と指定された時、真澄の記録が大きな力になったことはいうまでもありません。ここに、定住と漂泊の文化の拮抗が見て取れると思います。
真澄が到着した松前の浜(後ろに見えるのは松前城)
アイヌのメノコ
6月13日から10日間、北海道を巡ってきました。この旅で、初めてアイヌ文化に触れました。東北に長く暮らしてきたので、アイヌ語地名や博物館に陳列されたアイヌの衣服、民具などには馴染んでいたのですが、アイヌの人々と話したり、その暮らしに接することはありませんでした。アイヌと和人との抗争、差別などの話を聞いているので、多少緊張しながらアイヌコタンを訪ねました。訪ねたのは、平取町二風谷です。
真澄が北海道(当時の呼称は蝦夷地、あるいは蝦夷ヶ島)に入ったのは、今から213年前の天明8年(1788)のことでした。当時、蝦夷地は松前藩の支配下にあって、通常の旅人は島に渡ることができませんでした。蝦夷地に入ることができるのは、商人や漁師などに限られていました。このような時代に、真澄は歌人として藩当局に特別なコネクションを作り、私人として4年間に亘って道南を旅することができたのです。
真澄が最も関心を持っていたのが、アイヌの暮らしです。真澄の時代には、江戸などで旅行ブームがおこり紀行物の出版が盛んでしたが、蝦夷地に関する本はほとんどありませんでした。真澄は、アイヌの暮らしを丹念に叙述するだけでなく、詳細な図絵を残しています。この頃、アイヌの歴史上最後の大規模な抵抗闘争となったクナシリ、メナシの戦いや、ロシア使節の来訪などが相次ぎ、江戸幕府が蝦夷地の情報収集に乗り出そうとしていました。真澄の蝦夷地訪問の直後から、幕府の命を受けたアイヌの民俗調査が相次ぎます。つまり、真澄の蝦夷地紀行は、模範にするテキストがなく、しかも私人という立場で書いた画期的なアイヌの民俗調査だったのです。
真澄の文章と図絵からは、アイヌに対する一片の差別も感じさせません。アイヌに対して敬愛を込めて書いています。真澄の差別のないアイヌ観は、真澄自身の傑出した個性によるものなのでしょうか。たしかに、真澄の個性はとても重要で、赤坂さんは真澄の出自に関わるのではないかと考えられているようですが、それについては、後日触れたいと思います。今回、わたしがアイヌの地を歩いてみて感じたことは、アイヌと和人の関係は一筆書きで割り切れるものではないということです。アイヌと和人の抗争は激しく、その対立はいまだに癒されておりません。しかし、真澄のような差別のない目でアイヌを見ていたのは真澄一人ではなかったように思います。
上ノ国町で、勝山館跡の遺跡を見てきました。勝山館は、15世紀中頃に大規模な戦いを指揮したコシャマイン親子を殺傷し、後の松前藩の蝦夷地支配の基礎を築いたと言われる武田信弘の館だったと想定されています。ここから、最近、和人墓に混じってアイヌ墓が見つかりました。和人の鉄製の武器や生活用品に加えて、アイヌの骨角器の矢じりや生活用品、信仰の道具も出てきます。アイヌを敵対視し舘を作ったのならば、なぜ、館内にアイヌ人が暮らしていたのでしょう。武田信弘は若狭の武士の出であると言われているのですが、それは粉飾で、下北の豪族ではなかったかとも言われています。いずれにしても武田は、十三湊を支配した安東の流れをくんでいて、安東は、北東北を治めた安倍氏の流れ、すなわちかつて大和王権からエミシと呼ばれた血筋を継承していると考えられます。近年の考古学では、エミシの時代まで溯ればアイヌも同じ血脈に合流しているという見方が有力です。勝山舘の発掘は、これまでのアイヌと和人の抗争という一面的な見方を再考させるきっかけになるように思いました。
とはいえ、真澄が歩いた時には道南の各地にあったアイヌコタンは、現在は跡形もなく消滅しており、明治以降の和人支配の過酷さは、想像して余りあります。今回の旅で、唯一、アイヌコタンの気配を感じさせたのが二風谷です。7月下旬に再訪して、真澄の見たアイヌ文化をカメラに収めたいと思っています。
恐 山
南茅部町の昆布漁
いよいよ撮影が本格化してきました。7月は、およそ2週間毎日撮影が続きました。月末までロケが続いたため、今月の報告の掲載が遅れてしまいました。
下北では、恐山の例大祭を撮影しました。真澄は、恐山に五回も登っています。地蔵会(例大祭のこと)も見ていて、昼は荒々しい溶岩大地に卒塔婆を立て、亡き魂を呼んで泣き叫ぶ人々、夜になると宿坊に泊まり込んでさらに賑やかに亡き霊を弔う様子が描かれいます。現在の例大祭の様子を撮りたいと、事前に円通寺の許可をもらって撮影に入りました。ところが地獄めぐりのような戸外の撮影は自由でしたが、宿坊には入れません。以前撮影者と参拝者の間でトラブルがあったので、宿坊など寺施設の内部での撮影は断っている、と言うのです。被写体のプライバシーに無頓着なメデイアに問題があることは言うまでもありませんが、堂内の撮影を一律に禁止するというやり方も安易に過ぎると思います。その結果、真澄が描いた地蔵会の夜の様子の現代版は撮影できませんでした。
例大祭では、イタコの仏降ろしを待つ人々が長蛇の列を作ります。真澄の時代には恐山にイタコはいなかったので、<恐山とイタコ>というイメージは近年になって作られたもののようです。真澄がイタコと遭遇したのは主に秋田藩領で、意外にも津軽や下北でのイタコの記述は少ないのです。イタコの語りの調子には個性があって、念仏を唱えるような調子の人、唄うように語る人、普段の言葉で仏になりきったように語る人などがいます。わたしたちも列に入って、2時間近く待ってようやく撮影することができました。
恐山には、硫黄温泉が湧いています。真澄が恐山に注目したのは、温泉に漬かりながら周辺各地の情報を聞くことができる面白さにあったように思います。ロシア使節ラクスマンの小舟が下北半島の岩屋に着いたという話を、その翌日に恐山でキャッチしています。揺れ動く北方の様子が伝わってきます。
例大祭をあとにして、大間からフェリーで函館に渡りました。名産真昆布の産地、南茅部町で昆布漁が解禁になったので、その様子を撮ることが第1の目的です。真澄は、200年前の昆布漁の様子を克明に記しています。漁具の形、大きさ、使い方まで図絵に描いています。現代の昆布漁も、基本は変わりません。水深10メートルくらいの海底に繁茂している昆布を巻き付けて引き上げるという手仕事です。ベテランの漁師は、良い漁場をいち早く見つけ、手早く昆布を引上げていきます。およそ3時間という制限時間のなかで、小舟は昆布で満載になります。この昆布漁でむかしと変わったのは、船の動力がガソリンエンジンになったこと、かつて砂浜に昆布を並べて天日で干していたのが、燃料を使って強制乾燥をさせることくらいでしょうか。いや、忘れてならないことがあります。真澄が見た昆布漁はアイヌと和人が入り交じっていたのに、現代は、アイヌの姿がないことです。いえ、もっと正確に言えば、アイヌの末裔の人達が昆布漁をしているのかも知れません。しかし、それを詮索することは人権問題に触れることになるかも知れない、と聞きました。そこには、アイヌ民族への迫害の歴史が横たわっています。
翌日平取町二風谷に向かいました。ここには、アイヌ文化を次世代に伝えようと積極的に活動しているアイヌの人々が大勢います。代表の萱野茂さんにお骨折りをいただいて、真澄が虻田町で見た鶴の舞いなどを再現していただきました。
8月は、岩手県で原体剣舞の撮影を予定しています。下北も再度訪ねるつもりです。
水沢市のアテルイの郷公園
達谷の岩谷堂
8月はお盆をはさんで10日余り、岩手県と青森県の下北で撮影をしてきました。お盆の頃の東北は、各地で祭りなどが盛んに行われ、真澄も盆の行事を各地で記録しています。同様に真澄の記録が多いのが正月です。
東北では、盆と正月に先祖の霊が帰ってくるので親戚が集まって賑やかに過ごします。そういう気ぜわしいさなかにカメラを持ち込むのは、少々気が引けます。真澄は、故郷を遠く離れて、どんな気持ちで盆や正月を迎えたのでしょう。真澄ほど他人の土地の正月行事を経験し、かつ記録した人はいないと思います。今、多くの地域で正月行事が廃れかけているので、真澄の記録は貴重な資料価値を持っています。真澄は、自身の祖先供養に目をつむることで、他人の土地の供養の行事を書き留めることができました。真澄の記録の背後には、そういう壮絶なところが潜んでいます。
岩手では、原体剣舞を撮影することができました。 宮沢賢治が『原体剣舞連』のなかで、むかし達谷の悪路王 まっくらくらの二里の洞 わたるは夢と黒夜神 首は刻まれ漬けられ と書いているので、おどろおどろしい程に勇壮な剣舞を想像して行くと、明るい華麗な踊りなのに驚きました。踊手が子供達で、男も女もまじっているので、いっそう明るい感じがするのかも知れません。念仏踊りですから新盆を迎えた家の庭で踊るのですが、亡くなった霊も、孫達の活発な踊りに目を細めているのではないかと思えるようでした。
平泉にある達谷の岩谷堂も撮影しました。このお堂は、東北を<平定>した坂上田村麿(征東将軍)を祀っています。巨大な岩石に自然にできた洞があり、そこを拠点に悪路王が悪行の限りを尽くしていたという伝説があります。その悪路王を成敗したのが田村麿です。田村麿はその洞に悪霊を封じ込めるため、毘沙門堂を建てたと伝えられています。これまで田村麿は東北の英雄としてあがめられ、達谷の岩谷堂のような田村麿を祀った神社仏閣が、東北各地にあります。ところが、最近様子が変わりました。隣の水沢市を中心に、東北の真の英雄はアテルイであると主張し、アテルイの郷を標榜するようになったのです。アテルイは、胆沢地方に勢力をもった蝦夷の首長です。紀古佐美を大将とする数万の朝廷軍と、数千のゲリラ軍で戦い打破りました。その後アテルイは、再び派遣された田村麿の朝廷軍に敗れ、近畿に連行され殺されてしまいました。以来、アテルイの名は忘れられ、悪路王の伝説になったと考えられます。そのアテルイが1200年振りに復活したのです。アテルイを顕彰する立場に立てば、田村麿は侵略軍の手先ということになり、田村麿を東北の英雄と考えて来た人々の間では強い反発が起きています。東北に暮らす人々は、まつろわぬ蝦夷の子孫であるという思いと、西から稲を携えてやってきた移民の子孫であるという二重の思いの中で揺れています。