1943年(昭和18年)北の方から二人の軍人、少佐と中尉が来た。
「何ができるのですか?」「軍の飛行機のユウドウロができるのです」・・・
所在地:群馬県高崎市(旧群馬町)
面積:160ヘクタール
建設開始:1943年5月
完成:1944年8月
サイパン島陥落後、日本全域が攻撃可能となった
ゲル状のガソリンが詰められたパイプをクラスター弾にまとめて投下、地上700mほどで散開し着火しながら広範囲に落下。さながら火の雨のようであったという
米軍は前橋をはじめ空襲予定地を詳細に調べ計画を作成
アメリカ公文書館 所蔵資料
空襲の効果を詳細に分析していた
アメリカ公文書館 所蔵資料
避難する人でいっぱいの道を戦車も逃げた
(イラスト 金田一夫)
公開当初、前橋、高崎の劇場に足を運んで下さったお客様の中には、映画に登場して戦争体験を証言して下さっ方々と同世代の方が多く見られました。出口付近にいる私が映画の監督だと分かると、「私はこんな体験をした」と話しかけてくる方が大勢いるのに驚きました。
映画を観終わると、物語の余韻にじっと浸りたくなる映画もありますが、これは自らの体験を語り出したくなる映画!なのかも知れません。それだけ戦争の時代の事柄が、後世の人たちに伝えきれていないという強い思いを感じました。と同時に、この映画で描いた戦争体験が、黙って聞くしかないというような強烈な出来事だった、というよりも、この時代を青少年期に過ごした人であれば、誰でも同じような経験をされていたということだったのかも知れません。
映画を観た二人の友人から、次の感想が送られてきました。
90歳を超える方々の証言に強いインパクトを感じました。また、資料映像の豊富なことにも驚かされました。アメリカのアーカイブのことを知らないわけではありませんが、前橋という一地方都市の当時の状況がきちんと記録され残されていることはやはり驚きでした。 現在の堕落しきった自民党政治も戦争中の軍部のデタラメさに直につながっているのが良くわかります。
――戸田桂太さん(元NHKカメラマン 武蔵大学名誉教授)
感動しました。涙が止まらなかった。
証言者の皆さんたちの生々しい「記憶」のすごさ。丁度感受性が芽生える年頃に目の当たりにした “戦争”だった。それだけに一層、鮮明に焼き付いている。以来73年、年齢的にも、もうぎりぎりだった。間に合った。よくぞ「記録」した。 当時5歳だったわたしは、証言者のみなさんたちの末席に連なります。疎開先だった炭鉱のある福島の峠道で、“機銃掃射”も体験しました。わたしを抱えて、母親が熊笹の茂みに転げ込んで助かった。 わたしを含めてそういう「記憶」を触発する力がこの作品には漲っている。
――桝井論平さん(元TBSアナウンサー)
7月4日
陸軍前橋飛行場跡地に立地するイオンシネマ高崎にて完成披露試写
映画製作に寄付協賛して下さった400名の皆さまにご覧いただいた
8月4〜17日
前橋シネマハウスにて2週上映 入場者1700名を超える
8月11〜24日
シネマテークたかさきにて2週上映 入場者1600名を超える
8月25日〜10月8日
前橋シネマハウスにて2か月を超えるロングランで総計2300名
東京日比谷、武蔵野市、名古屋、大阪などで上映
11月4〜17日
深谷シネマにて上映 入場者200名を超える
1月20日
高崎市(旧群馬町)ソシアスにてアンコール上映 入場者530名
2月3日
太田市藪塚本町文化ホールにて上映 入場者約400名