菅江真澄映像
監督からのメッセージ
監督からのメッセージ
天明飢饉の供養塔
いごく穴
9月は、津軽を中心に撮影しました。当初撮影の出発日を、12、3日頃に設定していましたが、台風15号が近づいてきたので、急遽11日に東京を発ちました。台風に追われるようにして東北自動車道を北上して、その日の夜、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町に入りました。幸い台風の直撃から免れ、収穫期のりんごは無事でした。実は、真澄が初めて津軽に入った時(天明5年旧暦8月)、深浦から鯵ヶ沢に至る海辺で嵐に遭遇しています。真澄は、帆掛け船が遭難する様子や、雨風に打たれて倒伏した稲の被害について書いています。そこで「今年も飢饉になりそうだ」と嘆く村びとに出会っています。この後真澄が初めて目にする、飢饉の惨状を予感させる場面です。真澄は、鯵ヶ沢から森田村に入ると、村なかの路傍の草むらで、消えかかった雪のように白骨が積み重なっている様子を目の当たりにします。2年前の冷害をきっかけに、津軽では10万人くらいの人々が餓死、疫病死したといいます。
わたしたちは、天明の大飢饉が現代にどのように伝わっているのか、探しました。今年も、青森県の太平洋側では冷害気味の気候でした。でも、津軽の稲作は奥羽山脈と日本海の暖流に守られてまずまずの出来のようです。近年冷害を経験しなくなった津軽では、飢饉は過去の事という風潮があることも事実です。そのなかで、たとえば金木町の保食神宮の境内に、天明の飢饉で行き倒れの人々を埋めたという<いごく穴>が町の有志の手によって保存されていたり、弘前市のお寺には餓死供養の石碑と共に、飢饉の時に炊き出しに使った栗の木の皿が伝わっていました。
真澄は、下北や岩手の県北では稲をほとんど見ることができず、粟畑や稗田ばかりであると書いています。 津軽は下北と比べれば幾分暖かいとはいえ、当時の稲作技術で稲だけに頼るのは危険だったと思われます。 ところが津軽藩は、真澄が旅する100年前に大々的な新田開発を行っています。その結果、米の石高は5倍以上にはね上がり、耕地の9割を水田が占めことになりました。津軽藩は米を主力産業にして、江戸、上方と取り引きする経済を選択したのです。天明3年秋の冷害の時、津軽藩は前年の米を売り払っていたたために備蓄米が払底し、翌年から大量の餓死者を生んでしまったようです。
それにしても、津軽の新田開発の労苦は並み大抵ではありませんでした。岩木川沿いの湿田では、最近まで胸まで漬かりながら田植えしたといいます。飢饉の時、そうした新田の村人が全滅し、人の住まない荒れ地に変わってしまいました。そこに、再び各地から人を呼び込んで稲作を再建し、そうした繰り返しを経て、現代の穀倉地帯に変貌したといいます。津軽の広々とした田園風景の背後には、文字通り稲作の血の滲む歴史が横たわっています。
津軽編は飢饉だけの話ではありませんが、実りの季節に旅した事もあって、飢饉のことだけで終止してしまいました。ほかにも、十三湖の安東氏、岩木山の鬼伝説、三内と亀が岡の縄文、真澄の薬草採集なども撮影しましたが、別の機会に報告します。
昭和30年代の根子のマタギ
戸鳥内
10月の撮影で、ようやく秋田県に入りました。秋田は、真澄がもっとも長く滞在し最期を迎えた場所です。46年に及ぶ旅暮らしのうち、秋田には29年滞在しました。次いで長いのが津軽、それでも約7年です。岩手、北海道、下北はそれぞれ4年くらいです。なぜ、これほど秋田が気に入ったのでしょう。人情が厚かったからではないかと言う方もいらっしゃいます。私はロケで東北各地を回りました。どこでも良い出会いがあり、秋田がとりわけて暮らしやすいとは思いませんでした。真澄が秋田に長く滞在したのは、思索の経緯や年齢と関係しているように思われます。
真澄が最初に秋田に入ったのは31歳の時。その時は1年足らずで津軽に向かいました。再び秋田に入ったのは48歳、それから76歳で亡くなるまで秋田県内に留まりました。秋田ではしばらくの間、若い時と同じように漂泊の旅を続けていましたが、それも58歳までで、それ以降、久保田城下(現秋田市)に定住します。
真澄は、その代表的な著作が「菅江真澄遊覧記」としてまとめられているので、紀行作家のようにみられがちです。しかし、58歳以降、秋田藩領内の地誌編纂に意欲を燃やします。日記と地誌では、文体ががらりと変わります。真澄の著作のうち、口語訳されているのは日記文がほとんどで、地誌は原文のままということもあって、これまで研究があまりなされてきませんでした。また、日記文の方が真澄の思索が自由に羽ばたいていて読みやすく、地誌は公的な文書という制約もあり、一見不自由で真澄の面白さが失われたように見えます。しかし、そうした見方では、真澄が大きく変容したことに気づかないでしまいます。真澄は、久保田城下に定住してから、秋田藩校明徳館の蔵書を自由に借りられる立場になったようです。おそらく、それまでの漂泊の人生で見聞きした事柄を大きな体系の中に位置付けようとしたのが、地誌編纂という大事業だったように思います。言ってみれば、この時、紀行作家から民俗学者への変容がなされたのではないでしょうか。
秋田ロケの中心は、阿仁、山本でした。秋田県北の大河、米代川の南北に広がる山間地です。ここには、日本を代表する銅山、銀山、鉛山などがありました。今はほとんど閉山されてしまいましたが、真澄が旅した頃は、まだ盛んに掘っていました。阿仁銅山の近辺にはマタギの集落があり、真澄も訪ねたのです。今でもマタギは健在です。根子集落では、公民館にマタギの写真や、かつての衣装、道具などが保存されておりました。この近くには、アイヌ語の地名が多いと真澄は書いています。戸鳥内、笑内(おかしない)、比立内…さらに、この辺りから津軽の三内と同じ紋様の土器が見つかる、とも書いています。比立内で長くマタギを続けてきた松橋さんを訪ねると、近くの田んぼに連れて行ってくれました。田の土手をスコップで掘り返すと、出てくる出てくる、土器のかけらが…紋様を見ると、三内というより、亀ヶ岡に近いものでした。そう言えば、真澄は、三内と亀ヶ岡の土器の紋様をはっきり区別して書いています。現在の考古学では、三内を縄文前期、中期、亀ヶ岡を縄文晩期としています。考古学という学問が無かった時代に、真澄の観察眼は、その違いをはっきり区別していたのです。このことを見つけたのは、秋田県立博物館館長で考古学者の富樫さんです。
鉱山やマタギなどの山の暮らしが盛んだった阿仁、山本には、縄文遺跡が無数にあって、さらにアイヌ語地名が残存している。北東北に展開された縄文以来の基層文化が、透けて見えるように思います。