菅江真澄映像
監督からのメッセージ
監督からのメッセージ
秋田、下北撮影報告 2002年1月
六か所村尾駮を行く真澄イメージ
同 能舞
あけましておめでとうございます。
昨年の12月は、秋田県八森町でハタハタ漁、年末から下北で正月行事を撮影しています。ハタハタ漁に関しては、真澄も図絵を交えて興味深く記述しています。産卵のため沿岸に押し寄せたハタハタを、一挙に掬い取るための漁具、ぶりこと呼ばれる卵をかき集める道具などが詳細に描かれています。 しかし、ハタハタは、しばらく前から乱獲がたたって、めっぽう漁獲が減ってしまいました。秋田県や漁協では、ぶりこ(卵)を禁漁にして稚魚を放流するなどの対策を講じた結果、最近少しずつハタハタが戻ってきたようです。漁期は1週間くらいですが、ピークは数日です。1ヶ月前から漁協に連絡をとり、ハタハタはいつやって来るかと待っていましたが、漁期が近づくと漁協の人達も緊迫してきて、取材に応じる余裕が無くなってきました。正確な情報が取れないので、とりあえず演出部のひとりが、ロケハンに出かけました。ようやく現場の様子が分かり、取材に応じてくださる漁民の方も見つかったので、撮影体制を整えて出発しましたが、ピークをわずかに逃してしまいました。今年のピークは、たった1日。その日、沿岸の海の色が変わるくらい大量のハタハタが押し寄せたそうです。ピークは外しましたが、それでもなんとか禁漁になる直前に現代のハタハタ漁の様子を捉えることができました。
下北には、暮れの30日に入りました。翌日、真澄も下北の旅で記録している”やらくさ”という習俗を見せていただきました。割り箸くらいの大きさに削った木片に、イワシのような小魚を挟んで戸窓の隙に鎖し込みます。邪霊を除ける心張り棒のはたらきがあるのだそうです。今ではほとんど廃れてしまって、”やらくさ”という名前も残っていないようです。下北の正月は、夏のお盆と同様に賑やかです。東通村では、各地区ごとに獅子舞の集団が門打ちしてまわります。夕刻から能舞が始まり深夜まで続きます。
真澄が丹念に記録した小正月行事も残っています。それは来月報告します。
下北、岩手、秋田撮影報告 2002年3月
東通村蒲野沢「田植え」一行
東通村大利「庭田植え」
1月、2月は、正月行事、小正月行事、旧暦の正月行事などをたずねて下北、岩手、秋田をまわりました。
下北では、主に東通村で撮影しました。真澄が見た行事がまだ残っていました。真澄はかせどり(かせぎどり)という名で書き残していますが、東通村砂子又では、子ども達の<苗取り>という行事として1月14日に行なわれています。翌15日には、婦人達の<田植え餅つき踊り>が行なわれます。いずれも村中をまわる門付けです。この二つの行事の形式は、二百年前に真澄が見たものと同じではありません。微妙に現代風にアレンジされているようです。
特に、<田植え餅つき踊り>は、鳴子を持ったリーダーを先頭に「田植えに参った…」と口上して回る<田植え>の部分は、真澄の時代と変わりませんが、<餅つき踊り>の部分は随分新しいようです。
それにしても、東通村は、子ども達が<苗取り>、婦人達が<田植え餅つき踊り>、青年たちが<能舞><獅子舞>と、それぞれの世代毎に芸能を伝えている、現代では珍しい村です。下北は、昨年も冷害で米が穫れませんでした。今でも、10年に1度は大冷害、3年に1度は不作になると言われる下北で、これほど稲作にまつわる行事が盛んなのがとても不思議です。
1月20日は、岩手県平泉町毛越寺の二十日夜祭を撮影しました。中世から伝わる<延年の舞>が、古式に則って行なわれています。毛越寺の僧侶が代々世襲で舞の形式を伝えているというだけに、真澄が書き残している内容とほとんど変わらずに行なわれていました。
真澄が捉えた二百年前の民俗は、現代の東北にまだら模様になって残存しているように感じます。あるものは完全に姿を隠し、あるものは形を変え、わずかではあるけれど真澄の時代そのままの姿を残すものもみられます。
2月、岩手県胆沢町で<農はだて>を撮影しました。真澄がここで見た<はだて>は、それぞれの家毎に、新年の仕事始めに縄をない、雪の上に苗に見たてたわら束を植えるというものでした。今では、町を挙げての観光行事として行なわれています。
胆沢町の真澄研究家の佐藤英夫さんが、私達のインタビューに答えて「真澄は天明5年の秋にやってきて、あしかけ4年この辺りに滞在した。津軽で飢渇の悲惨を見てきただけに、米の豊かな胆沢町でほっとしたのだろう」とおっしゃいました。三河出身の真澄にとって、飢渇の風土は、ことのほか厳しいものに感じられたに違いありません。しかし、真澄はここ岩手の滞在を終えると、足を北に向け、津軽半島を通過して一挙に蝦夷地へと向います。米のまったく穫れない蝦夷地への旅を開始したのです。私達も、真澄に誘われて、昨年4月から東北、北海道の各地をまわって来ましたが、ようやく、真澄の綿密な心配りの片鱗に触れたような気がします。
八郎潟の氷下漁 2002年4月
八郎湖漁協組合長の櫻庭長治郎さん
真澄に扮した伊藤惣一さんと
カメラマン重枝昭典
今年の東京は早々と桜が咲いて、4月1日には花吹雪です。季節感のずれた報告で申し訳ありませんが、2月秋田県八郎潟で、真澄が克明に記録した氷下漁について取材撮影してきました。氷下漁というのは、氷で閉ざされた湖面の下に生きている魚を、氷に穴をあけ曳き網で一網打尽に掬い上げるという勇壮な漁法です。真澄もとても興味を感じたようで、凍てつく八郎潟を何度も訪れ、何枚もの図絵にして残しています。
わたしたちが八郎潟を訪れたのは2月中旬でした。当然、八郎潟は一面氷で覆われているだろうと想像していましたが、まったく氷っていませんでした。地元の方に聞いても、このような年は珍しく、去年までは毎年氷っていたと言います。地球の温暖化が、今年急激に進んだという訳ではないと思いますが、わたしたちが真澄をテーマに撮影する年に限って、このような出来事に遭遇するというのも何かの因縁のような気がします。
ところで八郎潟という潟湖は、今はありません。正確に言えば八郎湖です。昭和39年に完成した八郎潟の干拓によって大潟村が誕生し、八郎潟の湖底が広大な農地として利用されるようになりました。八郎湖は干拓によって生まれた残存湖です。
八郎湖増殖漁業協同組合の組合長櫻庭長治郎さんにお会いしました。櫻庭さんは、干拓前の八郎潟で氷下漁を経験したことがあると懐かしそうに語ってくれました。20歳の頃4年ほどやったと言います。現在は、残存湖でワカサギなどを獲っていますが、氷下漁は県から許可が下りないので、干拓から40年間一度もやったことがないそうです。今でも氷下漁ができる場所があるそうです。やってみたいと櫻庭さんは言います。
真澄が残した氷下漁の図絵は、今では貴重な資料として八郎湖沿岸の天王町の資料館に展示されています。まさか、真澄が200年後の今日を予想していたとは思えませんが、ドキュメンタリーの基本を教えられるおもいです。
干拓前の八郎潟には、およそ3000人の漁師が暮らしていました。今、残存湖で漁をする人は300人余りです。広大な干拓地に農家として入植したのは589戸だそうです。干拓に夢をかけた時代も確かにあったわけですが、地球環境問題が深刻化し持続可能な生き方が求められる今日、櫻庭さんの夢がかなう日も、そう遠くないないように思えて仕方ありません。
「菅江真澄の旅」シリーズでは、真澄が風景を描いたゆかりの場所を、ナレーターをお願いしている役者の伊藤惣一さんに、真澄の支度をして歩いてもらっています。津軽では十三湖、岩手では盛岡の船橋(現明治橋)というように、真澄に扮した伊藤さんが現代の風景の中を歩くという設定です。秋田編は氷結した八郎湖、と考えたのですが、あいにく氷らなかったため、八郎湖沿岸の干拓された水田地帯で撮影しました。それにしても、この辺りの風雪の厳しさは尋常ではありませんでした。男鹿寒風山から八郎湖越しに吹き付ける雪は、水田に積もった雪も舞い上げて、厳しい地吹雪となって襲いかかります。伊藤さんには、下北に続いて寒いおもいをさせてしまいました。
東北芸工大の民俗映像 2002年5月
最初の撮影「カノ刈り」
カノカブを収穫する佐藤昭三さん
「菅江真澄の旅」シリーズの撮影は2月で一段落し、現在は新たに「人物編」の構成を書き始めています。また、「津軽編」「岩手編」「北海道編」「下北編」「秋田編」に真澄の図絵や文章をどのように取り込むかを検討しながら、各地域編の編集のための最終シナリオを作成しています。記録映画は、劇映画のようにシナリオを完成させてから撮影に入るのではなく、作品の骨組みになるハコ書き(構成)を作成しただけで撮影に入ることが多いので、クランクアップ後の編集が重要な作業になります。編集に入ると、撮影前にもっと深く考えておけば良かったといつも悔やむのですが、撮影と編集では、演出の生理が違うので、なかなか克服できません。撮影ではあれもこれも撮り逃すまいと最大限を目指し、編集では映像をぎりぎりまで削ぎ落として最小限の映像で最大限の表現力を目指します。撮影と編集の融合は、私にとって永遠の課題かも知れません。
今回の報告は真澄から少し離れて、東北芸術工科大学の学生と一緒に作った民俗映像について触れたいと思います。昨年新学期が始まった時、民俗学を教えている赤坂憲雄さんから頼まれて学生スタッフの映像製作を応援することになりました。
芸工大には映像コースがあって、映像を教える専門の先生がいらっしゃいます。この試みはそれとは別に、全学の学生が対象で、スタッフを構成し、東北の民俗をテーマにした記録映像を残すという目的で始まりました。正規の講座ではないので単位は取れません。それでも10名近い学生が応募してきました。映像コースの学生も2人いましたが、あとは歴史遺産、彫刻、陶芸、漆芸など様々です。
民俗映像のテーマは、赤坂さんが以前聞き書きをした山形県尾花沢市牛房野に伝わる「カノカブ」に決まりました。「カノカブ」は、焼畑で作るカブのことです。牛房野は戸数70余りの山村で、かつてはほとんどの家が焼畑でカノカブ(牛房野かぶ)を作っていましたが、今では佐藤昭三さんただ一人です。佐藤さんのカノカブ作りを撮らせてもらうことになりました。
学生たちの最初のロケは、「カノ刈り」の場面でした。ロケの前日、芸工大のキャンパスでカメラの操作の仕方、録音機の使い方、インタビューの仕方を練習しただけでもう本番です。ロケに臨んだ学生スタッフを見ていると、ぎこちない手つきとふらつく足取りでこの先どうなるのかという不安にもかられましたが、案ずるより生むが易し、というか学生の成長の早さには驚きました。2回、3回とロケを重ねるうちに、ぎこちなさが姿を消していきました。
ほぼ1年かけて撮影した作品が、このほど「牛房野のカノカブ」というタイトルで完成し、4月24日佐藤さんご夫妻にもお出で頂いて完成披露上映会が学内で行われました。この作品の編集には、正直に言って私たちプロの手がだいぶ入っています。そうしないと13年度中の完成に間に合わないということもありましたが、それなりに完成した民俗映像作品を作ってシリーズ化していこうという赤坂さんたちの意図も反映しています。
完成した作品を見て驚いたのは、私たちがどんなに手を入れても学生たちの作品になっているということです。佐藤さんと学生たちの会話が、あたかもお爺さんが孫に語りかけるような親しみを感じさせるのです。ドキュメンタリーは、被写体と撮影者との関係が映るのだ、ということがここでも生きていました。
学生たちの民俗映像の試みはまだ始まったばかりですが、今年も継続していく予定なので、何年か後には大きな財産として残されていくだろうという予感を覚えます。
詳細は、東北文化研究センターのHPをご覧下さい。
メインタイトルが決まった 2002年6月
真澄役の伊藤さんと撮影スタッフ
「菅江真澄の旅」(仮題)シリーズのタイトルが決まりました。
『みちの奥 見にまからん―菅江真澄の旅』です。そして、シリーズ6巻それぞれに1.『真澄の生涯』2.『青森・津軽編』3.『岩手編』4.『北海道編』5.『青森・下北編』6.『秋田編』のサブタイトルをつけることにしました。
「みちのおく みにまからん」という言葉は、真澄が天明5年秋田藩領湯沢付近に滞在中の日記「小野のふるさと」に書き残しています。真澄は、その前年に信州を発って越後、庄内を経由して秋田に入りましたが大雪に遭遇し、湯沢付近で年を越すことになりました。ところが雪が消えても、真澄はなかなか旅立とうとしませんでした。4月(旧暦)になって、ようやく津軽へ向けて発とうと意を決し、その時、真澄が書いた言葉です。
この言葉には、いくつかの意味が込められています。真澄が秋田に滞在している頃、東北地方の北部は大飢饉のさなかでした。天明3年の冷害を引き金に大飢饉に見舞われ、特に津軽地方は、翌4年にかけて10万人に及ぶ餓死者、病死者がでる惨状を呈していました。その情報は、当然真澄の耳にも入っていたと思われます。真澄が4月まで旅に出るのを待っていたのは、山菜などの食料が、潤沢に出回る時期を探っていたのではないかと考えられています。
また、真澄のその後の足取りをみると、「みちのおく」というのは単に津軽を指していたのではなく、「みちのおく」の背後にある蝦夷が島(北海道)を目指していたことが分かります。津軽に入った真澄は、弘前付近を数日で通過して、一気に青森までやってきます。青森では善知鳥神社にお参りして、蝦夷が島への島渡りの安全を占います。そこで「3年待て」とのご神託をいただき、島渡りを断念し、南部路へと南下することになりました。真澄は、岩手、宮城で3年過ごした後、善知鳥神社の占い通り津軽半島から蝦夷が島に島渡りします。この頃、真澄が一貫して追い求めていたのは、蝦夷が島でありアイヌ文化との接触でした。
現在「みちのく」という言葉は、東北地方全体を指して使われますが、もともとは「陸奥」を表す言葉で、 秋田、山形の古地名である「出羽」は含まれていなかったそうです。しかし、真澄の使った「みちのおく」には、そうした地域を表す言葉の意味を超えて、真澄が触れたいと願っている異文化の世界を表しているように思えてなりません。
このシリーズのタイトル「みちの奥 見にまからん」は、このような真澄のおもいに重ねて、「みちの奥」 と差別的な言葉で表された東北、北海道の、文化や風土の豊かさ、おもしろさを存分に味わい尽くしたい、という私たち作り手のおもいも込められています。
6月下旬には、三河、尾張、伊那の撮影を予定しています。これが、第1巻目『真澄の生涯』のための最後 のロケになります。今秋6本シリーズの一挙完成を目指して、撮影もいよいよ大詰めを迎えようとしています。
三河撮影報告 2002年7月
豊橋市高須で真澄の生家のお墓を探す
岡崎市伝馬町通(旧東海道)
真澄はここで青年期を過ごした
シリーズ第1作となる『真澄の生涯』の撮影のため、6月下旬、三河、尾張、伊那を廻って来ました。真澄が幼少年、青年期を過ごした三河の空気に初めて触れて、真澄の実在感を強く感じました。
真澄は故郷について具体的なことはいっさい書き残しませんでしたが、真澄の故郷と思われる風景を前にした時、文とスケッチで克明に描いた東北や北海道の風景を目にした時よりも真澄が実在感を伴って迫ってくるというのは不思議な感覚でした。おそらく、真澄が「みちの奥」の風景や民俗になぜこだわったのか、その初発の志が三河の風景の中に潜んでいるからに違いありません。
「菅江真澄」を名乗ったのは、50歳を過ぎて2度目の秋田滞在中であったと言います。それまで、白井秀雄、あるいは白井英二秀雄と名乗っていました。真澄自身が「学びの親」と呼んだ植田義方の御子孫は、代々、東三河の豊橋市高洲に暮していらっしゃいます。植田さんのお宅で、真澄が旅先から義方に贈った「ロシアの銀貨」や「日記の断片」を見せていただきました。ご近所には、白井姓のお宅がそこかしこにあります。真澄がふっと現れるのではないか、と錯覚しました。
和歌と国学の大家であった賀茂真淵と姻戚関係にあった植田義方は、真淵から国学を学んだと言います。真澄は、義方を通して国学や和歌を学んだのではないかと想像されます。
その後、真澄は西三河の塩問屋で岡崎きっての文化人であった国分伯機などと交わり、漢学、本草学への理解を深めていったと言われています。尾張は、尾張本草学という言葉があるくらい本草学に熱心なところでした。真澄は尾張駿河町にあった尾張藩薬草園にも出入りして、藩医浅井図南から教えを受けたのではないかと考えられています。
真澄の「みちの奥」の旅を支えた学問に、歌学、国学、本草学の三つが上げられます。歌と本草の知識は、旅先の宿泊と路銀を保証する大切なものでした。真澄は各地の知識人に支えられて旅を続けますが、必ずその土地で歌のやりとりをし、歌会さえ主宰しています。
本草の知識は相当深かったらしく、津軽では津軽藩薬事掛りを仰せつかった程です。おそらく、旅先で薬を調合してやったことは、数限りなくあったと思います。明治時代に東北、北海道を旅した英国婦人イザベラ・バードは、宿に泊ると、村人に取り囲まれ目や腹痛の薬などを求められたと書いています。江戸後期の旅人だった真澄が、得意とする薬事知識で大いに人助けをしただろうということは容易に想像できます。そのような交わりが、民衆の聞書きをする際に大きな助けになったことでしょう。
真澄は、晩年、漂泊の旅暮らしから定住型の暮らしに変わりました。単に年をとったから、というのではなく、秋田藩領内の地誌の作成のためでした。真澄の日記には、旅とともに視点を移しながら異なる風景や異なる文化に触れていくおもしろさがあります。一方、地誌は、村ごとの成り立ちや旧跡の由来、物語を綴っていくので、定まったところで観察をせざるを得ないのです。真澄に地誌の作成を促し助けたのが、秋田藩の国学者たちでした。そのころ秋田の国学者たちは、真澄の視野の広さと深い知識を高く評価し、郷土の地誌の作成を真澄に期待して、藩当局に地誌作成の許可を求めるなど積極的な働きをしたのです。
秋田の国学と言えば平田篤胤が有名で、後の尊皇攘夷などの思想的なバックボーンになっていきますが、真澄の国学には、排外主義的なところや、とりわけ天朝を尊ぶというような極端なところはありません。
真澄にとって歌学、国学、本草学という学問は、47年に及ぶ漂泊の人生を支えるためのものでした。個々の学問では、相当の力量を修めていたにもかかわらず、決してその道のオーソリティーを目指したりしませんでした。真澄の関心は、あくまでも、「ことなれるところ、ことなれるうつわ、ことなれるためし」(『粉本稿』序)に向って、言い換えれば、真澄を育んだ三河とは異なる文化に生きる人々に向かって、一直線に突き進んでいったように思います。
ただいま、編集中 2002年8月
歌会に参加してくださった皆さん
「菅江真澄の旅」シリーズの編集は、6月から本格的に始まり、7月末までに地域編の『岩手』『下北』『北海道』の第一次編集を終えました。引き続き『津軽』と『秋田』を編集中です。
作品の完成は、10月初めの予定です。逆算すると、9月の上旬までに人物編を含めて6本すべての編集を終了して、そのあと直ちにナレーションどりと音楽などのミキシング作業に入らないと間に合いません。
編集と並行して、7月20日から秋田ロケ(これが多分最終ロケ)を行い、古四王神社を訪ねました。この境内にある田村社で、真澄が晩年に兄弟のように親しく付き合った鎌田正家が神官をしていました。古四王神社で、真澄研究会有志の方々に歌会を催していただきました。真澄は、旅の最中に各地で歌を書いています。土地の知識人たちと交わると、必ず歌を交換しています。その時、真澄は単に歌を短冊に書くだけでなく、声を出してうたっています。真澄が信州で伝授された和歌秘伝書にも、唱う時の注意が細かに書かれています。しかし、真澄の本を読んでも、どのようにうたったのか見当がつきません。そこで真澄研究家で歌人の田口昌樹さんに、歌会をやってもらえないかと頼み込んだのです。田口さんは、男女3名ずつにお願いし、真澄の淡い恋歌を選んで歌会を準備してくださいました。この場面は人物編に収録する予定です。
11月には、東京紀伊國屋サザンシアターなどでお披露目上映が決まりました。詳細は後日お知らせいたします。
ただいま、編集中 その2 2002年9月
編集が続いています。『下北』『北海道』『津軽』『秋田』の画像編集がほぼ終わり、『岩手』もまもなく目途が立ちそうです。
9月下旬にナレーション録音と音声の仕上げを行う予定です。息つく暇がないスケジュールです。とは言え、誰から強制されたというのではなく、自分で決めたことなので、疲れたなどと音を上げるわけにはいきません。スタッフ、とりわけ編集の助手に付いている内藤、塩生両君のストレスは破裂寸前ではないかと想像されます。ゴールまでもう少しなので、がんばって欲しいと思います。
編集中には、様々な感想が湧き上がってきます。自分自身への反省は、数限りなくありますが、編集中は、毎日毎日真澄のことを考えているので、真澄がどんな生き方をしたのかということに関しても、いろいろ書きたいことが浮かびます。しかし、今はそれを書いている時間がないので、仕上げ作業が一段落したら、ご報告申し上げます。
真澄の日記を読むと、いっけん茫洋とした時間が流れているように感じますが、微細に見ていくと、実に深い精神性を感じます。
それについては、作品完成後に!
『菅江真澄の旅』シリーズ全6巻が完成! 2002年10月
10月上旬、『菅江真澄の旅』シリーズ全6巻が完成しました。長い仕事でした。一昨年の秋頃から企画を準備し、昨年四月に撮影開始、100日間のロケを経て本年6月から編集に入りました。編集に入ってからの時間のかかることといったら、想像以上の厳しさでした。8月中旬から作品が完成するまでおよそ2ヶ月間、一日の休みもなく、一日あたり14、5時間を編集に費やすという毎日が続きました。
完成した全6巻は、近く公開上映され、また図書館等へのビデオ販売が始まります。上映日程については別のページでお知らせ致します。是非、ご覧頂きたいと思います。
作品には、苦労が多ければおもしろくなる、という因果関係は存在しません。作品の良し悪しには、もっと冷徹な原理が働いています。結局は、観客の皆さんの評価です。どのように見ていただけるか、いま、一番不安な時であり、楽しみな時でもあります。
仕上げ作業では、撮影を担当したスタッフとは別な力、才能が加わります。音楽と効果音が、その最たるものですが、今回は、ナレーションが特に重要な働きをしています。ナレーターは、真澄の姿で映像の場面にも登場していただいている伊藤惣一さんです。伊藤さんは、舞台の役者としても実績を積んでいらっしゃいますが、ナレーターとしてドキュメンタリー映画やテレビなどでとても著名な方です。今回は、通常の解説の他に、真澄の文章を真澄の言葉のように語るという、二役を担っていただきました。真澄の文章は、擬古文といって、話し言葉ではありません。それを、音で聞いても分るように語るというのは、とても難しいことです。どうすれば良いのか、わたしにも分らないので、「語りの専門家である伊藤さんにお任せします」と言ったものですから、伊藤さんも大変困っていました。そこに、強力な専門家が現れました。国学院大学文学部講師の磯沼重治さんです。磯沼さんは、大学で菅江真澄の文章を専門に研究されています。磯沼さんはわたしの台本を隅々まで読んで修正して下さっただけでなく、ナレーション録音のすべてに立会い、言葉の読みやアクセント、どこで区切るかなど、微に入り細に入り、注文して下さいました。その際、読みの専門家である伊藤さんの信念との食い違いが生じた時など、わたしは演出家という立場を忘れて、ふたりの緊張したやりとりにスリリングなおもしろさを感じ、いささか興奮したものでした。
ナレーション録音は5日かかりました。すべての作業が終わった時、伊藤さんからも磯沼さんからも「楽しかった」と言われた時、とてもうれしく思いました。持てる力を最大限注ぎ込んだ時の、清々しさを感じたからです。このように気持ち良く仕事ができたのは、わたしにとっても久し振りのことでした。